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 第3話 Memories

 雨月山。
 ゆっくりと、風がたなびく。
 僅かに翳った月にまとわりつく黒い雲。
 その明かりの下に、三人が対峙していた。
「ひと思いに楽にしてあげるから」
 一瞬で爪が伸び、それはめきめきと音を立てて硬質化していく。
 表情は全くない能面のような顔で、彼女を中心にして風が巻き起こる。
「殺せるもんなら殺してみやがれっ」
 妹の言葉に逆上し、地面を蹴る。
 それに合わせて、彼女の姉は滑るように円を描いて回り込もうとする。
 はためく妹の衣服。
 やがて彼女の笑みが――口元が切れ上がる。

  ざうっ

「っっ!」
 アズエルは慌てて両手を交差させて自分の爪を伸ばした。
 だが、完全に硬質化する前に幾つかが寸断されてしまう。
 唯一残った人差し指の爪だけでその衝撃を受け止めたせいで、人差し指が嫌な音を立てた。
「吻っ」
 裂帛の気合いが耳を叩く。
 素早く切り返して彼女は大きく後ろへと飛び退いた。
 彼女が今までいた空間を鋭い物が走る。
 はらり、と彼女の目の前を自分の髪の成れの果てが舞い、その向こう側に黒い人影が見える。
 額から角を生やした、原住民――こっちの言葉ではサムライと言ったはずだ――がいた。
「貴様」
 ガラスが割れるような音を立てて彼女の爪が地面に落ちる。
 代わりに、再び一瞬にして一尺もの長さに爪が伸びる。
「今度は刻んでやるよ、なますにね」
 向かうサムライは刃の向こう側で鬼相を浮かべる。
 その表情や異国の出で立ちは雄のエルクゥよりも勇猛に感じられた。
 畏れの気配が彼の周囲に立ち上っている。
 いや…
「できるものならやってみるがいい」
 それは彼のエルクゥとしての『素質』だった。
 身の丈は六尺もないのに、彼が今構えるカタナは身長を遙かに超える七尺はある。
 青眼に構えられたその構えと威圧感は、一分の隙も感じられない。

  めきぃ

 筋肉が麻縄を絞るような音を立てる。

 「甘い」

 轟音。
 切っ先に向けて絞り込まれたカタナは、六間を一瞬にして0にした。
 だが、人間にとっての神速の突きはアズエルの読む所だった。
 狙い過たずアズエルの眉間に迫る切っ先を、彼女は僅か頭の角度をずらすだけでかわした。
 自分の鼻の真上を通り過ぎるカタナの油の匂いと脂の臭いを感じながら、サムライの背中を狙って爪を振り抜いた。
 が。
 サムライはほとんど直角に飛び退いて、抱きしめるようなアズエルの一撃をかわしていた。
「へぇ、やるねぇ」
 先程の轟音はその時の質量の変化が引き起こした物だ。
 見れば、サムライの体躯が先程よりも大きくなっている。
――『成長』もできるんだ
 雄のエルクゥは筋肉の比重を変えることができる。
 普段『材料』の形で体内に蓄えている筋肉を、一度に再構成して筋肉に変えることができるのだ。
 『命の炎』と呼ばれるそれが彼らの糧であり、また力の源なのである。
 彼らは、『命の炎』を再構成する事を『成長』と呼ぶのだ。
 くぐもった嗤い声。
 サムライは嬉しそうに含み笑いを続ける。
「愉しいぞ」
 さらに、切り込む。

  剣戟

  残像

 サムライは苦々しく呼気を吐き、カタナを頭の上で構えたまま動けなくなる。
 カタナには、五本の爪がぎりぎりと押さえつけられている。
 今度は大上段から一気に切り込んだのに、それに合わせて彼女が跳躍してかわしたのだ。
 剣戟の音はアズエルがカタナを軸に右手の爪で身体を回転させたため。
 振り上げた彼女の左手の爪を、サムライはなんとか構えた爪で防いだのだ。
 だが、その体勢のまま完全に背後に回られていた。
――くぅ
 エルクゥと言う種族は異常に腕力がある事を彼は知っている。
 身をもって体験しているから。
 それでも、今真後ろにいる彼女程のものは初めてだ。
 片手を、彼の両腕で押し返せないのだ。

  ぱきぃ

 彼の耳に聞き覚えのある音が響いた。
 カタナからではない。
「ホント、やるじゃないか」
 その声がすぐ耳元で囁く。
 右の脇から女の腕が伸びてくる。
 その指には、先程までの爪はない。
「意外に、ねぇ」
 手は彼の左頬をゆっくりと撫で回し、そのまま首筋へと移る。
 その間も決して押さえつける腕は緩んでいない。
「くっ…」
 屈辱だった。
「あんた、結構いい男だな」

 エディフェルを中心にして大きく円を描くリズエル。
 直線的なアズエルの動きと違い、リズムも淀みもない緩急のある動き。
 それに対して、彼女は一切動けない…いや、動かない。
 目を閉じて、彼女の動きを感じている。
 姉の一人がジローエモンと交戦している間に、この姉を殺さなければならない。
 さもなければ。
――…それでも、良いのかも知れない
 ここで死ぬのも良いのかも知れない。
 姉達を殺して、果たして平和が来るのだろうか。
 ジローエモンと一緒にいられるのだろうか。
 「掟」に従い姉達が来たなら、この先まだ刺客が来るに違いない。
 それでは自分の行動は無駄になる。
 結局…殺し合いになるのなら。
 話し合いと共存を、彼らが選択できないのであれば。
 この、『ニンゲン』達を愛することができないのであれば、排除されるべきは――

  剣戟

 彼女は完全に目を閉じたまま、姉の一撃を片手で弾く。
 よく見れば姉の動きと彼女の動きに違いがある事が判るだろう。
 姉は一尺ない程の長さの爪で素早く一撃を加えるのに対し、彼女は二尺近い長さの爪を巧みに操っている。
 最小限の無駄のない動きで。
 姉は隙さえあれば執拗に。
 流水のような弛まぬ動きを見せ、恐ろしい早さで連撃を加える。
 それを妹は緩やかに舞うように弾く。
――流石は…
 体力の消耗は姉の方が激しい。
 だが、僅かなミスが命取りになる彼女の動きよりは安全である。

 やがて時間が、彼女たちの体力よりも先に全てを解決させた。
 絹を裂くような声が響き、僅かな間の静寂がその場を支配した。

 アズエルはサムライの首筋に自分の唇を当てようとして、身体を硬直させた。
 サムライはその隙にカタナを滑らせるようにして爪から逃れる。
「エディフェルっっ」
 そして二人は同時に彼女の名を叫んだ。
 僅かに一撃ですんだ。
 狙いを過たず彼女の腹部から心の臓まで爪が大きく切り裂いていた。
 仁王立ちするように姉は爪を大きく月に向けて振り上げた格好のまま、止まっていた。
 荒い息が目で見えるように。
 彼女は大きく息を吐いて右手を降ろした。
 その足下に彼女の妹はゆっくりと力無く崩れていった。

 アズエルは絶叫した。
 サムライも、その様子に気がついたのか怪訝な顔をしている。
「エディフェルっっっっっ!」
 その時、気づいた。
 つい先刻まで自分の目の前で殺気を放っていた彼女と、今エディフェルを殺した彼女との違いに。
 今までの『鬼』との違いを、彼は感じ取っていた。
「退くわよ」
 だが、エディフェルの側には近づけなかった。
 アズエルが近づくよりも早く、リズエルは彼女との間合いを縮める。
 アズエルの肩をリズエルが掴む。
 彼女は慌てて地面を踏みしめて身体の動きを止め、目を吊り上げて怒鳴る。
「離せっ」
 何の感情もない冷たい声。
「良いから、退くわよ」
 ぞくり。
 背筋を走る緊張感。
 冷徹な声が耳元で聞こえて、彼女はさぁっと血の気が引いた。
 アズエルですら身体の芯まで感覚を失うほど凍てつく気配。
 彼女の顔から険が消えた。
 彼女の姉の瞳はまだ敵を見つめる怜悧な光を湛えていたからだ。
 まだ『狩猟者』状態は決して失われていない。
 間違いなく――殺される。
 右肩を掴んでいる彼女の指が肩に食い込んでくるのが判る。
「あ、姉貴…」
 それでも弱々しく抵抗して、彼女が呟くと、リズエルの目から光が消えた。
 やがて普段の目の色に戻っていく。
「これ以上は長居できないから」
 その時、急に後悔した。
 理解して、後悔した。
――何で…何で掟なんかあるんだ
 さっきの侍が、妹を抱き上げて慟哭している。
――恨む…んだろうな
 凝り。
 胸の奥を抉るような暗闇。
 それが。
 何もない空間が。
 光すら喰らう冥い闇が。
 幽かに、彼女の脳裏に過ぎった。
――エディフェル…
 大きく地面を蹴って下がるリズエルに引きずられながら。
 自分の妹を抱きしめて叫ぶサムライを見つめる。
――嫉妬?
 奴はあたしから妹を奪った。妹はたぶらかされて、姉に殺されなければならなかった。
――…あんたは、本当に幸せだったの?
 口から血をこぼしながら笑みを浮かべるエディフェルを見て、彼女は疑問を投げかけた。
 返事など期待せず。
 元々、その答えよりも自分が問いを発した理由が、諦めだったから。
――どうしてこんなところで掟を…あたしは掟に従わなければならなかったんだ
 もし彼女が来ていなければ、もしかするとリズエルは退けられたかも知れない。
 しかし、彼女はそれを望んでいなかったような気もする。
 身をもって可能性を示したというのに。
 それが狩猟者として決して相容れないものだと判っていたはずなのに。

――せめて最期ぐらい一緒にしてあげましょう

 歯ぎしりして背を向け、二人は並んで地面を蹴った。

 何故。
 アズエルは呟いたが、後ろに流れていく風に飲み込まれてかき消される。
――あの娘は新しい可能性に踏み込もうとしていたんだよ
 反論する気はなかった。
 妹を殺めた姉を責める気もなかった。
 右手で自分の服を握りしめて歯を食いしばる。
――…滅びるかも知れないんだよ
「姉貴」
 ヨークに向かって駆けながら、彼女は呟いた。
「もう、何が正しいのか判らなくなってきた」
「いいのよ、それで。…まだ貴方は子供だから、これからおいおい判ってくるから」
「あたしらはっ」
 耐えきれなくなったように、彼女は立ち止まって叫んだ。
 それに気がついて脚を止めたリズエルは、頭だけを彼女の方に向ける。
「あたしらだって子供を作るじゃないかっ」
 行為、として。
 子供――血筋に対する親近感や繋がりは感じられる。
「なんでっ…なんであたしらはっ…こんなに…こんなことしか…」
 リズエルは冷ややかな目で彼女を見つめている。
 その目は、決して自分の妹に向ける視線ではない。
「…そう、アズエル。…貴方も、エディフェルと同じなのね」

  しゃん

 聞き慣れた空気を割く音。
 リズエルは両の爪を再び大きく伸ばしていた。
「だったら、今ここで貴方を殺さなければならない」
「あ、あね」
 ぎり、と彼女は歯ぎしりして腰を低くためる。
 唖然と驚いた表情から、ゆっくりと怒気に色づいていく。
――判ってくれると思っていたのに
 今のリズエルからは一切の信号が感じられない。
 戦闘するために一切の信号を遮断して、自分の思考を漏らさないようにしているためだ。
「――私達エルクゥは、狩りを続けていかなければならない」
 ゆらりと彼女の姿が揺らぐ。
 両手をだらんと下げた格好でゆっくり近づいてくる。
「――エルクゥを支えてきたのは私達ではなく、狩りの快感」
 彼女を中心に甲高い音が聞こえる。
 いや、空気が共振して震え始めているのだ。
 彼女が『信号』としてではなく、自分の内側に向けて『力』として『命の炎』を燃やし始めたのだ。
「――それを否定することは――存在の否定」
「姉貴っっ」
 アズエルは叫んだ。
 だが、声はもう彼女には届かない。
「私は皇族――彼らの達の長として、このシステムに抱く疑念はつみ取らなければならない」
 彼女の表情がいかに冷徹でも。
 どれだけ彼女の目から光を失っても。
 彼女が――泣いていることに気がついていても。
「貴方で、最後なのよ…本当に」

 もしそこでリズエルが足を止めなければ、二人とも助かったかも知れない。
 アズエルが泣かなければ、人類は絶滅していたかも知れない。
 しかし二人が選んだ道は、彼らに受け入れられる物ではなかった。
 最後に見たのは、自分の姉がずたずたに引き裂かれている隣にいた鬼だった。
 その鬼が嫌らしい笑みを浮かべて…


 気がつくと、夕日が差し込んでいた。
――このままでは、又繰り返してしまう
 何の感慨もなく、彼女はそれを見つめている。
――私が、ほんの僅かな勇気をだすことができれば
 風は凪ぎ、水面に完全な平面を作り出し、赤く染まった空を映し込んでいる。
 それに映る、彼女の影。
 それはぴくりとも動く気配はない。まるでそのまま一枚の絵になったかのように。
――…姉さんを、傷つけるようなことはなかったのに
 水面を反射する光が彼女を照らしている。
 深く彼女の顔に陰影を作り出し、水面の揺らぎが彼女の顔をなでる。
「…ふむ、こんな所にいたか」
 少女は弾けるように顔をあげ、やがて怪訝そうな表情を浮かべる。
 そしてまるでばね仕掛けの人形のように素早く立ち上がり、声の主から離れる。
 少女はその男を見た記憶がある。
 どこかで会ったような気がする。
「なんだ、どうした連れない奴だ」
 知っているはずだ。
 そうだ、この男は刑事だ。何度か家に押し掛けていたのを知っている。
「柏木梓だな?」
 びくっと彼女は怯えたように震える。
「どうした、返事もできないか?」
 ゆっくりと男は両腕を広げる。足下の石が擦れる音がする。
 それはまるで――そう、地獄の釜の蓋が石を擦りながら開いていくかのようで。
 彼の体重が増加していくのに耐えきれずに軋み、哭いている。
「あの時にはまだ『俺』は完全に解放されていなかったからか?」
 語り続ける男の口元から僅かに牙が覗く。
 めきめきという麻縄を捻るような音。
 それが男の筋肉のたてる音だとすると、それは人間を遙かに上回る筋力がなせる技だろう。
「…手こずらせたな」
「貴方は、大きな勘違いをしている」
 静寂というべき落ち着いた表情。
 まるで今の水面のような、冷たくて――そして憐れみを湛えた表情。
 少女は、僅かに腰を落として両手を下に下げている。
「あの時の『良心』を、貴方は忘れようとしている」
 ゆらり、と彼女は身体を僅かに揺らせると腰を静かに落とす。
 戦い慣れした構え。
 冷静で、何事にも動じようとしない瞳。
「貴方は、『解放された理由』について忘れようとしている。
 自らの檻から抜け出した事にして、全て理由を付けようとしている。
 それは…本来貴方の望んでいた事じゃないはずです」
 じゃき、と一際大きな音をたてて彼は脚を止めた。
「娘」
「何故なら貴方からは『迷い』が感じられます。
 …どうしようもなくなって暴走している『惑い』が」
 柳川は眉を顰める。
「…そうか。そうだな、どおりで妙に手慣れていると思ったぞ」
 合点のいったという表情を浮かべると、柳川は再び一歩踏み込んだ。
「お前は『楓』だな。最初に始末したはずの」
 男の気配がどんどん増加していく。
 抑えきれなくなった分だけ、男の姿が変化していく。
 口が裂け、肌に罅が入る。
「御陰でよけいな邪魔が入ってしまった」
 まるで冗談のように、彼の手は岩肌のように変化し、大きく爪が伸びた。
「お前を始末しても、邪魔なのはもうあの千鶴という女だけですまなくなっただろう」
 『楓』――梓の口が僅かに歪む。
「やってみなさい。…次郎衛門の片割れに過ぎないあなたには不可能です」

  ごぅう

 『楓』を中心にして風が渦を巻いた。
 彼女の着るTシャツがはためき、髪が踊る。
「試して…やろう」
 その言葉と同時に、男の着るスーツが弾けてその下から鬼が姿を現した。

  ぐるるるるるうぅぅぅぅぅ…

 一匹の鬼は雄叫びをあげて少女と対峙する。
 対峙する少女は――無表情。
 鬼は彼女に対して一歩踏み込んだ。
 その一歩は酷くのろまな一歩だったが、それで充分だった。
 次の神速の一撃が彼女に充分届く。

  ひゅごっ

  背中

 柳川の視界右上方。

  ぱきぃ

 彼の左腕が完全に伸びきった時、だがそこには楓の姿はなく、大きく頭が揺らいだだけだった。
 梓の細身の身体を握り潰せそうな巨大な拳を、身体を捻って跳躍しながらかわした。
 そして時計回りに身体を回転させ、着地と同時に右の裏拳を柳川に叩き込んだのだ。
 鬼の身体が揺らぐ。
 右手を返して、まるで蠅でも追い払うような格好で楓を狙う。

 小さな悲鳴。

 鬼の反応が思ったよりも早かったせいだろう。
 間合いを開けようと地面を蹴ったのが災いして、宙に浮いたところを捕まれてしまう。
 逆さまに持ち上げられた彼女は、そのまま、大きく背景が歪むのを感じた。
 急速にかかる慣性に内臓が捻られるよう。
 そして鬼は、彼女を放した。

  ごぉん

 堅い鉄の水門。
 それが、凄まじい音がして大きくへこむ。
 それでも少女の身体が大きく一度跳ねる。
 一瞬意識が遠のき、胃を逆流して血の塊が口から吐き出される。
 自分の体勢を確認する暇もない。
 もう一度身体が水門に触れた時、頭の中が真っ白になった。
 水門の縁にしたたかに頭を打ち付けてしまったのだ。
 彼女はぐったりと転がり、そのまま水面に向かって落下していった。

  どくん

「っ!!」
 今心臓を掴まれたような嫌な感じがした。
 それが凄く危険な予感であることに気がつくには、さほど時間を要しない。
「耕一さん、今のは」
 千鶴も身体を浮かしている。
「水門の方ですよね」
 まだ初音が帰って来るまでには時間がある。
「千鶴さん、自分が行って来ます。…もしかすると初音ちゃんも危ない」
 こくん、と彼女は頷く。
「分かりました」
 耕一はジャケットを羽織って家を飛び出した。
 水門には何度も行ったことがある。
 子供の頃梓と釣りに行ったのも、水門の側だった。
 鬼に覚醒めたのも。
――まさか
 水門に続く山道。
 彼は息の続く限り全力でそこを駆け抜けていく。
 その時強く冷たい気配が『動いた』のが見えた。
 目に見える程強い気配。
――梓か?
 違う。
 それは恐ろしい速度で水門から接近してくる。

  ざぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

 草をかき分ける音が唐突に消える。
 と、黒い塊が宙に舞う。
――鬼っ
 それが何かの獣であるはずはない。
 まして人間のはずはない。
 耕一は腹の下を引きずられるような、自由落下した時の感覚に襲われる。

  ずん

 それが、彼の目の前に降り立つ。
 まるで通せんぼでもするように、大きく腕を広げた格好で。

  ぐるぅぅぅぅぅぁぁぁぁぁぁぁぁ…

「柳川っ」
 再び風になって目の前から消え失せる鬼。
 飛びかかった耕一は大きく蹈鞴を踏むことになり、歯ぎしりをして鬼の姿を追う。
 だが、振り向いた彼の目には既に彼の姿が米粒のように小さくなっていくのが見えた。
――しまったっ
 今からでは普通に追いかけても間に合わない。
「畜生間に合えっっっ!」
 柳川が今跳んでいった方向には柏木の屋敷がある。
 千鶴と、もしかすると帰ってきた初音がいる。
 いくら千鶴でも、今の鬼を倒すのは無理だろう。

  ぉおおおっっっ

 雄叫びをあげて耕一は地面を蹴った。
 既にぎりぎりにまで鬼の力を引き出した彼は山道を転がり降りるように走る。
 跳躍するよりも地面を低く走る方が早いはずだ。
 果たして、鬼の背中が柏木の屋敷へ消えるのを彼は見た。
――あの位置なら
 確か、日本庭園のような大きな庭の方だ。
 玄関から回っていたら間に合わない。

  悲鳴

――くそっ
 耕一は全力でその場から跳躍した。

 予感がした。
 だから、千鶴は耕一が飛び出していくのを止めなかった。
 果たしてその予感は正しかった。
「ただいまー」
 何も知らない初音が三和土をあがる音が聞こえた。
 そのまま居間に顔を出して、彼女はにっこり笑いながらもう一度挨拶した。
「お帰り、初音。いいこと、良く聞きなさい」
 いつになく真剣な彼女の顔に、初音は怯えたような表情を浮かべる。
「う、うん」
「今すぐ部屋に戻って、部屋の中で動かないで。じっと隠れていて」
 逡巡するように彼女はじっと千鶴を見ていたが、すぐに頷く。
「良い娘ね」
 頭を撫でてやると千鶴は立ち上がって耕一が消えた方向を見つめた。
 その方向には――雨月山がある。
「…お姉ちゃん」
 初音は自分の部屋に向かう前に、一度振り向いて千鶴の方を見た。
 千鶴は彼女の声を聞いても、決して視線を逸らそうとしなかった。
「がんばってね」
 それだけ言うととてとてと自分の部屋に走っていった。
――勘の強い娘
 彼女がどこまで知っているのか。
 実際、場の空気を読むのは彼女が一番得意なことだ。
 もしかすると、全て知っているのかも知れない。
――不憫な娘

  ざわざわざわ

 全身が粟立つように震えが来る。
 この感じは間違いない。
 千鶴が僅か目を閉じたほんのその一瞬。
 初音の悲鳴が響いた。
「わ、わ…わた、私」
 廊下で彼女は震えていた。
 脚に力が入らなくなり、その場に崩れてしまう。
 彼女の視線の先に、黒い姿があった。
 長い髪。
 角。
 牙。
 どれをとっても御伽噺にでてくるような鬼。
 それが僅かに身じろぎして、僅かに燐光を放つ目が彼女を見据える。

  ぶぉん

 その鬼を横切るように。
 何かが凄まじい勢いで襲いかかっていた。
「初音ちゃん!」
 ほとんど同時に軽い音を立てて耕一が庭に現れた。
 壁を跳び越えて来たのだが、初音は突然姿を現したようにしか見えなかった。
「っ…!」
 彼女の声は声にならなかった。
 恐怖のあまり身体が言う事を聞かない。
 ただ、僅かに耕一の姿に安心した表情を浮かべた。
「良かった、まだ大丈夫だね」

  ぐぅおおおおおお

 だが、耕一は彼女には近寄れなかった。
 彼女との間に、千鶴と鬼が対峙しているからだ。
 もう千鶴は完全に自らの鬼を解放している。
 彼女が対峙する正面に、例の鬼がいる。
 二人とも、ぴくりとも動かない。
 耕一の存在が、均衡を作らせたのだろう。
 千鶴が踏み込む。
 黒い疾風が吹き、鬼の姿が消える。
「逃すかっ」
 蹈鞴を踏んで必殺の一撃を外した千鶴の死角に回り込もうとする奴に、耕一が飛びかかる。

  がし

 耕一の拳は鬼に届かなかった。
 代わりに間近に鬼の顔を見た。
 それにはまだまだ若い顔立ちをした男の面影はない。
 恐ろしく切れ長の目の中に、紅い血の色をした虹彩が見える。
 それが僅かに呼吸するように大きくなる。
 血の味。
 口の中を、急速にふくれあがる圧力。
 彼の目の前で、ばっとその目が黒ずんだ赤い色で彩られる。
 まるで紅い血の涙を流したかのように。

 飛びかかった耕一の拳をカウンターでいなし、代わりに鋭い爪を鳩尾に突き立てた。
 耕一はその一撃で胃を貫かれ血の塊を吐き出し、鬼はそれを頭からかぶった。
 だが、鬼にはそれ以上の凶行は不可能だった。
 千鶴が機敏に鬼の右肩を狙って斬りかかっていたのだ。
 さすがにそれを避ける事はできず、鬼は大きくよろめくように後ろへと跳ねた。
 血の飛沫が宙に紅く線を引く。
「耕一さんっ」
 僅かに気が逸れた瞬間。

  血飛沫

 白兵戦――鬼の闘いではこう呼ぶ方が相応しい――での勝敗は、ほんの一秒に満たない僅かな時間で決まる。
 それは拳が走って命中するまでの時間であったり、僅かな瞬きの時間だったりする。
 千鶴が耕一に顔を向けたほんの僅かな時間は、鬼が踏み込み直して斬りかかるのに十分すぎる時間だった。
 千鶴の死角から襲いかかった鬼の爪は、千鶴の左肩を大きく切り裂いていた。
 それは彼女にとってかなりの痛打になった。
 それでも鬼は容赦ない。
 さらに右手を振り上げて襲いかかろうとする。
「ふっ」

  剣戟

 大きく息を吐き出してそれをなんとか左腕で弾いてかわす。
 跳ねるように、彼女の身体が鬼の蹴りを受けて飛んだ。
 それが、見えた。
――千鶴さん
 耕一が急な失血のために飛んでいた意識を取り戻した時には、既に鬼の目は耕一から逸れていた。
 彼を助けようとした千鶴は、今目の前で力尽きた。
 止めることができなかった。
 全身に力が漲っても、もう遅いのだ。
――いや、まだ遅くない
 今ここで止めなければ、初音が殺される。
 間違いなくこの鬼は、『鬼』全てを排除してしまうつもりだ。
 しかし何故?
 どうして?
 あの若い刑事――叔父に当たる男は、何故そこまでして自分の血を絶やそうとするのだ?
 生命の法則に逆らってまで?

  ぐるぅ…るぅううううううう!

 鬼が二人庭の軒先で睨み合いを続けていた。
 どちらが先に手を出したともつかなかった。
 人の姿をした人を越えた…非人。
 この世の生命体の中でももっとも生命力が強く、命を狩る事が糧を得る生命。
 食物連鎖のピラミッドには当てはまらない、彼ら全てを滅ぼす為に存在する、滅ぶべき種族。
 その破滅性が彼らを『生命』として破綻させていた。
 両手を付き合わせて力比べの体勢をとる。
 額がくっつきそうになるぐらいまで二人とも押し合い、唸る。
――ジローエモン
 ぎりぎりと耕一は歯ぎしりした。
 早く決着をつけなければ、千鶴さんが危ない。
 それに、梓は…

  めきぃ

 骨が軋む音。
 間違いなくどちらかの拳は砕けかけている。
 だが、どちらも譲らない。
 両足が地面を削り、既に踝まで土がめくれあがっている。

  ぐぅうううううあああああああああっっっっっっっ!!!

 ぱきぃん、と骨が完全に折れる音が耕一の中で響いた。
 折れた。
 耕一の掌は、指の付け根よりも手首側で外側を向いて折れ曲がっていた。
 折れた骨が掌の肉を破り、出血は腕を伝う。
 叫びながら耕一は柳川の鳩尾に鋭い蹴りを入れる。
 鬼は雄叫びをあげながら間合いを大きく開けた、が、耕一の右手は既に使い物にならなくなっていた。
――勝てない
――タノシイカ?
 柳川の――いや、柳川だった鬼はにいいっと笑みを浮かべる。
――ドウシタ、折角ノ機会ダ、オ前モ充分愉シメ…モウ二度トナインダ
 そして疾駆してくる奴の右腕を左の腕で止める。
――くっ
 奴の右腕に弾かれてまわるように左脚に全体重をかける。
 流れるようにその力を利用して右脚が走る。
 狙い過たず脇腹を襲うそれを、僅かに身体を動かして脇に抱え込む。

  ぶぅん

 耕一の鬼と化した身体が空中で大きく捻られる。
 柳川は左腕で巻き込むように、右腕は真横に振り抜くようにして掴んだ膝を回転させた。
 そして耕一は地響きを立てて地面に這い蹲ってしまう。
 一瞬が、一撃が、ほんの僅かに違っていただけで結果は変わっていただろう。

  ごきり

 さらに目の前が真っ白へと変わる。
 背中に恐ろしい重さが加わった。左肩胛骨が踏み砕かれたかも知れない。
 耕一は両腕を叩きつけるようにして無理矢理身体を地面から引き剥がす。
 鬼が僅かに脚を浮かせた瞬間を狙い、身体を反転させて一気に立ち上がる。
 影と陰が重なる。
 耕一は大きく左腕を振り、鬼の首を捕まえる。
 そして、自分の右手首を掴む。
 右掌底は鬼の顎に。

  めりめりめり

 全力で首を締め付け、身体を捻って地面を蹴る。
 耕一の全体重が首の後ろにのしかかり、前のめりに引きずられる。
 既に耕一の身体は、背中が地面と平行になっていた。
 鬼に、彼の体重を支えるほどの力はない。
 そのまま――耕一は鬼の胸を地面に叩きつけた。

  ばき

 首は後ろ向きに90度を超えてしまう。
 支えていた掌底がきちんと鬼の顎を押し上げていた。
 今の音は、恐らく絶えきれなかった首の骨の折れる音だろう。
 いかに鬼とはいえ、今ので絶命しただろう。
――待て、まだ命の炎が散るのを見ていないぞ
 耳を切り裂く音。
 五月蠅い羽虫のような音を立てて、彼の視界を何かが横切った。

  剣戟

 気配と共に、爪は耕一の目の前で止まった。
 それが柳川の爪だと言うことに気がついた時には、恐らく頭を切り裂かれていただろう。
 何が起こっているのか、何が起こったのか理解するまで時間がかかった。
 先程の音は、耳の側に突き立てられた刃が引き起こした物らしい。
 それがが鬼の爪であると判った時、彼の視界に彼女が立っていた。
 左の爪だけを伸ばした梓が。
 右手が自分の物ではないどろりとしたもので汚れるのも、彼は気にならなかった。。
「間に合っ…た」
 彼女が最初に漏らした言葉を、彼は唖然として見つめていた。
 彼女は濡れた髪の毛を額に張り付けさせて、肩で呼吸していた。
「梓…」
 馬鹿みたいにぼーっとして耕一は梓を見つめた。
 ぽたぽたと彼女から滴る水が、耕一の身体に冷たい感触を与える。
 その時ぱっと紅い命の焔が見えて、彼は安堵を覚えて鬼の首を放して立ち上がった。
――もう終わったんだ
 振り向いて見ると、鬼の背中に折れた爪が三本突き刺さっていた。
 狙いを過たず心臓を貫いていた。

 こうして、もう一人の鬼は死んだ。

「梓」
 簡単な応急処置と止血を行って、耕一は初音の呼んだタクシーに乗っていた。
 耕一と千鶴が後ろに乗り、梓が助手席に座っている。
 千鶴は失血のためか昏睡してしまっており、結局目覚めなかった。
「よかったよ、無事で」
 シートの向こう側の梓の頭が僅かに動くが、耕一の方を振り向こうとはしない。
 返事を待っても、こない。
「…それから、ありがとう」
 タクシーの中はその後、沈黙だけが流れた。
 病院での言い訳は簡単だった。
 今新聞をにぎわせている『獣に襲われた』事にしてしまえばいい。
 最も、獣に襲われた生存者は彼らが初めてだろうが。
 隆山で有数の病院――ここに楓も入院している――の外科医が騒ぐだろうと思っていたが、そうでもなかった。
「全身打撲、肩胛骨と右手の複雑骨折…酷いね」
 彼が治療に関する事でぼそりと呟いたのはその一言だけだった。
 病室を出ると、先に治療を終えた梓が待っていた。
 全くの無言で二人は廊下を歩く。
「…千鶴さんは?」
「意識が戻るまで入院…大事はないって」
 そう言うと、梓は耕一に肩を預けるように寄ってくる。
「後で話があるから」
 耕一がそれに気づくと、だが彼女はすぐに身体を離した。
 それから屋敷に戻るまで彼女は一言もしゃべらなかった。

 発作。
 それはいつもの発作と変わらなかった。

 だがその日は妙によく眠れた気がした。
 全くと言っていい程、気が楽だった。
 体も軽い。
 これなら、まだ耐えられるだろう。
 不思議な気分だった。
 今までのような重苦しい雰囲気もなければ、ぞろりと這い出してくる気配もない。
 久々に明るい朝だと、思った。
 いつものように401号室に入る。
「お早う、貴之」
 何となく、挨拶も軽かった。
 でも、それも出勤すると拭われることになった。
 いつものように挨拶して席に着くと、長瀬警部が一枚の書類をもって待ちかまえていた。
「お早う柳川。悪いが、一課向きの仕事が来た」
 捜査一課。通常、ここはそれ程実働しない。
 隆山のような田舎ではそれ程兇悪な事件が発生しにくいからだが…
「殺人ですか?」
 旅行客がらみの殺人は意外に多い。
「そうだ。犯人は見つかっていない」
 初めは事故で調べていたのが、良く調べてみると殺人事件であることが発覚し、こちらに来たという。
 別段、不思議なことではない。生活安全課で扱っていた事故が、実は殺人でしたと言う場合など、たまにある。
「珍しいですね。通り魔ですか?」
 長瀬から書類を受け取って目を通しながら一瞬睨むように一点を凝視する。
 長瀬が笑う。
「被害者は、柏木楓…全く呪われた家系だよ」
 目眩がして、柳川は書類を机の上に置いた。
 楓は死んではいない。意識不明の重体だそうだ。
――失血によるショック状態…か?
 彼女の容態は良くないらしいが、一命は取り留めたそうだ。
 だがちくりと嫌な予感が横切った。
――何故…柏木?
「凶器は鋭利な刃物。骨まで切れるような鋭いものなら隠すのは難しいがな」
「日本刀の話ですか?」
 ははは、と長瀬は笑うが、柳川は笑う気になれなかった。
 堅い表情を浮かべる柳川に困った顔をして相変わらず文句を言う長瀬。
 それを聞きながら、彼は心臓の音がやけに五月蠅く首筋を叩くのを感じていた。

  ココチヨイ

 血の薫りを乗せた意識が、冥い中で柳川に囁きかける。

  ジローエモン…

 それは満足げなため息だった。
 そして初めてそれを理解した。
 軽い気分。
 それは当然といえば当然なのかも知れなかった。
――僅かな隙をついて奴は…俺の目を盗んで殺していたんだ
 その日から、柳川の苦闘が再び始まった。

 初めての鬼の覚醒は、酒と薬による理性の崩壊が原因だった。
 全ての意識的なたががはずれて、底に眠る本性が姿を現したのだ。
 あれを悪い夢だと思いたかった。
 壁の血を洗い流した事と、奴の死体を実際に寸刻みにして骨まで焼いたのは事実だ。
 ほんの僅かな証拠すら残らないよう、完全に消却した。
 この時程自分が殺人事件の捜査に関わって良かったと思った事はなかった。
 そして、奴もその事を熟知していた。
 異常に賢い奴だった。
 警官である柳川祐也の身分を自由に扱い、彼の性格と立場を大きく利用しようとしている。
 それは奴にとって枷であり檻に違いないが、『擬態』の能力と言う物は獲物に近づくために重要な要素だ。
 これが強い鬼は、狩りに『出る』必要はない。
 獲物の中で生活する事ができるからだ。
 お菓子の家に住むヘンゼルとグレーテルのような物だ。
――一体何が望みだ
 俺は俺に問う。
――望み?馬鹿な、俺は何も望んじゃいない。俺は生きるために行動しているだけだ
――殺すことが、お前は生きる糧だというのか?
――当然だ。獲物を狩り、命の炎を喰らう事が俺の――生存本能だ
 奴は嬉しそうに言った。
 いや。
 それを自分の本性と思うべきなのだろうか。
 柳川はそれを大きく否定した。
 そんなはずはない。
 そんなはずはない。

 やがて…檻の隙間から覗いていた狩猟者は、その檻を抜け出る手段を画策し始めた。

「休暇?」
 柳川は体調不良を理由に長期の休暇を提出した。

 そいつ――柳川の中の『狩猟者』は執拗に彼の中で主導権を取ろうとしてきた。
 今までそうならなかったのがあまりにも不思議だ。

 提出された書類を見て長瀬はいぶかしがるような目を向ける。
「…詳しくは書類を見てください。しばらく入院します」
 書類には『精神的なものによる自律神経失調』とある。
 療養のために一時的に仕事を休まなければならない旨が記載されてある。
 書類的には何の落ち度もない。
「柳川、お前…」
 明らかに心配した表情を見せた長瀬に、窶れた笑みを浮かべてみせる。
「大丈夫です、ちょっと体調を崩しただけですから」
 嘘だ。
 でも、真実を話しても信じてくれるはずがない。
 真実を話した途端、彼はお払い箱になり――鬼はあっという間にこの署の生き物を狩り尽くすだろう。
 その日、結局そのまま自宅へ帰る。
 バッグに数日分の着替えを用意して詰め込み、途中で銀行によって金をおろす。
 そして、彼は隆山中を駆け回った。
――『鬼』…か
 ある時気がついたその理由。
 耕平――柏木耕平が自分の母親を捨てざるを得なかった理由。
 何とかして堕胎させようとした理由。
 妾として飼われていた母親は早くして亡くなった。
 だが、柏木耕平という名を頼りに彼は柏木家を調べていた。
 やがて、彼は隆山に転勤になり、自らの中にいる狩猟者に気がついたのだ。
 毎晩のように訪れる痛みに堪えながら、鬼の軌跡を辿る。
 柏木家を調べてみると非常に不思議なことが判った。
 妙に男子の早死にが多いのだ。
 今回調べている柏木グループ前社長の死についても同じだ。
 たまたまこれが他殺の疑いがあると踏んで捜査を始めたのがきっかけだった。
 辿ってみると、これまでにも何度も奇妙な死に方をしているのだ。
 過去の話だけははっきりしないが、腹違いの兄弟に当たる賢治にしても不自然な死に方をしているのだ。
 辿れるだけ辿った過去に、この辺の地方豪族だった『柏木』という名の一族がいた。
 この辺の戦で名をあげたわけでもないのに、大きな土地を持った豪族だった。
 それが――『鬼』と呼ばれた男、次郎衛門だった。
 次郎衛門の伝説はいくつもある。
 それこそ人間業ではないいくつもの武術や妖術は数え切れなかったが、彼の興味を引いたのは『雨月山伝説』だった。

 初めのうちは非常に骨が折れる作業だった。
 世の中に流布されている鬼伝説の中でもかなり異質だったからかも知れない。
 鬼、という物は通常想像されるのは『雄』だろう。
 だが隆山にある伝説では鬼の娘、それも魔性の美しさを持った女性が登場する。
 次郎衛門の恋物語も妙に生々しい。
 いや、これは柳川が自分の中に『狩猟者』を飼っているからかも知れない。
 車を回しながら、彼は時計を覗き込んだ。
 午後3時を回っている。
――次郎衛門が…その鬼の妻を娶ったと言うことは
 それは、その家系が鬼であることを意味する。
 もし事実なら、柳川自身鬼であると言うことを肯定する事になる。
 柏木に潜む鬼伝説。
 柳川は両者の符合するある場所へ急いでいた。
 それが、『雨月山』と呼ばれた山にある神社だった。
 神社に近づくたびに心臓が掴まれるような冷たい衝動が感じられた。
 ハンドルを握る手が滑るような、そんな感じだ。
 彼は車を適当に止めると、この辺では珍しくもない山道へと足を踏み入れた。
 肌寒い。
 確かに季節はもう秋だが、それだけではない。
 びりびりと体の中を暴れ回るような葛藤。
 鬼の血が騒ぐ感触が柳川を襲っていた。
 住職は、その日偶然にもそこにいなかった。だから、その御陰で死体を片づける必要はなかった。
 何故か無性に何か壊したくなる――無意識に潜む殺意。
 その日。
 抑えきれなくなった殺意は。
 彼という理性の檻を破り。
 …狩猟者を解き放った。

「…鬼の証拠を片っ端から消して回る。さもなければ俺が困るからな」

――鬼を
 いじめというのはどこにでもある。
 自分と違うモノを、否定しようとする感覚。
 ある集団として存在しようとする人間の本能。
 そして、異質なモノを排除しようとする…人間の持つ最も汚い『欲望』。
 柳川は、彼はその渦中から逃れられることはなかった。
 父親がいない。
 エリートだ。
 人と人の間で生きるには、彼はあまりにも未熟すぎた。
――排除するんだ
 奴もそれには賛成していた。
 鬼の証拠を消せば、それだけやりやすくなるから。
 それだけ敵が減るから。
 しかし…
 柳川は思っていた。
 全て消え去ってしまえばいいのに。
 鬼なんか、この世に存在してはいけないんだから。
 もしかすると彼は、次郎衛門を憎んだ鬼の生まれ変わりなのかも知れない。
 柏木家の血は鬼の血筋。
 次郎衛門という先祖から脈々と受け継がれる詛いの血である事は既に調べてある。
 今までに、まともな死に方をした男子は少なすぎたからだ。
 もしかすると、次郎衛門が鬼を皆殺しにしたからじゃないか?
 鬼の『詛い』によって血筋は滅びるように仕組まれてるんじゃないか?

 俺は狩猟者だ。獲物を狩り、生命を奪い去ることが俺の存在理由だ。
 俺はこの命が尽きるまで、人間を刈り続けなければならない
 だが…
 その前に憎い奴の血筋を絶たねばならない。
 次郎衛門の、裏切り者の血筋を。

 人間であった頃の名残としか、もう言えないのかも知れない。
 殺意が自分の物なのかどうか判らなくなり。
 初めて自分の意識で行う殺人に興奮し。
 目の前で肉片に変わっていく貴之に、良心は全て完全に崩壊した。

 柏木家の屋敷の居間。
 こちこちと古めかしい柱時計が時を刻む中、ちゃぶ台を挟んで二人座っていた。
 初音は自分の部屋に戻って眠っている。
「大分、待たせたな」
 病院から戻っても梓は一言も喋ろうとしなかった。
 夕飯を終え、風呂も片づけて初音が部屋に戻ってしばらくして、彼女は耕一を呼んだのだ。
 僅かに伏せた目は落ち込んでいるというよりも、全くの別人のようだった。
「…耕一さん」
 心臓が締め付けられる。
 首の後ろが痙攣するように、震える。
 笑うことができなかった。
 硬直して――緊張して動けなくなった。
「じょ、冗談…よせよ」
 妙に喉が乾いていた。
 声がしわがれていないのが不思議なぐらい、口の中もぱさぱさする。
 ごくりと喉が鳴る。
 だが、明らかに今の彼女は梓ではない。
「信じてもらえないのは判ります。…たちの悪い冗談か、さもなければ梓姉さんの思いこみか」
 梓――楓は、ちゃぶ台に手を乗せる。
「人一倍優しいから、姉さんは私の言葉を何の疑いもなく聞き入れていたから」
 耕一は心臓ががんがん鳴って、言葉を紡ぐことができない。
――何を言ってるんだ?一体…
 彼女の言葉を理解するのも難しかった。
 不可解で、なのにそれを疑おうとしない自分を感じながら彼女の言葉を聞いていた。
「『私』になりきっているのかも知れません」
 もう一度喉が鳴った。
 彼女の視線と沈黙に、耕一はゆっくりと口を開く。」
「楓…ちゃん、なのか?」
 やがて真剣な面もちで彼女は頷いた。

 二月前まで事件は遡る。
 耕一が隆山を離れた次の日。
「何故!」
 楓の口調がいつになく激しい。
 彼女の前には、困った表情を浮かべた千鶴がいた。
 楓のベッドの上にはバッグが置いていて、彼女ももういつでも出られるような格好をしている。
「いいから落ち着きなさい、楓。あなたはまだ高校生なのよ」
 諭すような千鶴の口調にも楓は一切怯まなかった。
「関係ありません。私は私。今から耕一さんのところへ行きます」
「何でそう言うことを言うの。楓、貴方…」
 千鶴が眉を寄せるのを、楓はそれでも頑固な表情を浮かべたまま言う。
「千鶴姉さん…私、凄く不安なんです。多分…今耕一さんのところにいかなければ二度と会えないような気がするんです」
 千鶴は彼女をいきなり抱きしめる。
 別に嫌がる訳でもなく、逃げるわけでもなく、彼女はされるがままになる。
「何を言っているの。もしかして、また何か夢でも見たの?」
 抱きしめられたまま首をふるふると横に振る。
「…予感がするんです。冥い…嫌な予感です」
 千鶴は彼女を落ち着かせた後、居間にいた梓に彼女の気を紛らわせるように頼んだ。
 そして商店街に買い物に出た二人を、それは襲ったのだ。
 梓と並んで歩いていた。
「馬鹿だな、千鶴姉から聞いたぞ。一人で東京に行こうとしてたって?」
 そもそも回りくどいやり方のできない梓はいきなりそう言った。
 断っておくと、千鶴は何も言っていない。
 偶然立ち聞きしてしまったのだ。
「梓姉さん」
「何か不安でもあるのか?」
 この時梓は苛々していた。
 顔では笑っていても気が気で仕方なかった。
「…もしかしたら、私達殺されるかも知れない」
 彼女の根拠のない不安も一笑に伏すつもりだった。
 たとえ楓の吸い込まれるような黒い瞳が真剣な色を湛えていても。
「何だって?」
 そう言うわけには行かなかった。
 意外な答えに彼女は僅かに眉を歪めた。
 そして、その言葉の意味を彼女は十分想像できた。
「それは…鬼の話か」
 こくり。
 しばらく無言が続く。
「はっきりとは判らないんです。ただざわざわと胸騒ぎがする」
 そう言って彼女は自分の胸に手を当てる。
「誰かがいつも監視してるみたいに」
「馬鹿、大丈夫。何があっても一緒にいればいいんじゃない?」
 梓は楓の肩をぽんぽんと叩いて、彼女ににっこり笑いかける。
「そんなに怖がる必要はないよ、きっと」
 きっと寂しいんだろう。
 梓はそれだけだと思っていた。
 その日の、昼までは。

 楓はその瞬間、背筋に悪寒が走るのを理解した。
 すぐ側に急に『殺意』の塊が姿を現して、虫の報せが当たったことに気がついた。
 だが、それはもう遅すぎた。
 目の前にいる人物を見て。
 姿を現した『鬼』の顔を見て、楓は相手の強さを思い知らされた。
 完全に――鬼の気配を絶つ事ができる恐ろしい相手を。

 そして、彼女はほんの一振りの爪で身体を切り裂かれてしまう。
 彼女は全身の力が抜けて、足下から訪れる闇に包まれた。

「…こういう形になるとは思いませんでした。ただ、私はぐるぐると同じ夢を見続けていただけでした」
 それが何故か梓に影響を与え、梓の中で彼女の意識が目覚めた。
 梓の暴走の原因は分からないが、少なくとも楓が関わっているようだ。
「それは『あの夢』だった、って事なんだ」
 こくりと頷く。
 大きな違和感を感じても、その仕草や喋り方は楓とそう変わらない。
 ただ、外見が梓なだけだ。
 彼女は微笑みを浮かべる。
「梓姉さんは意外と感受性が高いんですよ、きっと」
 彼女はこっちに来てから、ずっと水門に座っていたという。
 あの水門。
 あそこにいると何故か落ち着く、彼女はそう言った。
「伝説の雨月山って、水門のある山なのかもな」
「今から…いきませんか?」
 瞳が揺れる。
 梓の向こう側にいる楓が、黒い髪を揺らしている。
 断るつもりも、断れる勇気もなかった。
「…行こう」
 耕一は頷いて、彼女を見ながら立ち上がった。
 無言で、聞くことができずに。
 今梓がどうなっているのか。
 これから楓はどうなるのか。
 それを聞いてしまうと、この一瞬ですら消え去ってしまうような気がして。
 僅かに明かりの差し込む廊下を二人で並んで歩く。
 空には満月のような十六夜の月が昇ろうとしている。
 三和土をくぐるとその蒼い光が降り注いでくる。
 水門へと続く山道は広く、月の光を遮る木々が揺れている。
 ひんやりした空気が流れている。
 二人は無言で水門へと向かう。
 楓から誘ったのに、彼女は何も言わない。
 気になって、彼女の顔を横目で見る。
――梓
 まだ信じていないのだろうか。
 耕一は自分で自問する。
「…耕一さん?」
 視線に気がついたのか、彼女は小首を傾げるように耕一の方を向いた。
「以前に、こうやって二人だけで歩いた事あったような気がしないか?」
 こんな満月の夜に。
 まばらな前髪の影を覗くように彼女の目が笑みを浮かべる。
 良く注意してみなければ表情の変化が判らない程僅かな笑み。
「子供の頃の話ですね。梓姉さんが耕一さんを独り占めした次の日の事です」
 あの時、梓が女だという事を耕一は知らなかった。
 気がついても今まで結局変わらない態度を続けていたのは確かだが。
 耕一が考え込むような素振りを見せたので、彼女は目を細めて顔を前に向けた。
「あの時は私がお願いしたはずです。姉さんばっかり狡いからって」
 ほんの僅かな罪悪感とともに。
 それが初音に対するのと同時に、自分に対する嫌悪感にもなった。
 もちろん、子供の頃ではそこまで思いつくはずもないが。
「…そうだったっけ」
「そうです。夜中、みんなが寝静まってから」
 思わず耕一の顔に笑みが浮かぶ。
 今考えるととんでもない事をしたんだと思う。
 あの頃どれだけ純粋だったか、どれだけ素直だったのかを痛感させられる。
「まだ梓姉さんの事、弟みたいに思ってますか?」
 さらさらという水の流れる音。
 一際強くなる風に、一瞬目を閉じてしまう。
 そこは何度か訪れた事のある水門の河原だった。
 耕一は無言で楓の方を振り向いた。
 無言の非難。
「姉さんの事、嫌いですか」
 蒼みがかった光が冷たく透き通った空気を抜けてくる。
 彼女は一歩下がって耕一の方を向いている。
「…俺にどういう風に答えて欲しいんだ」
 長い沈黙の後、耕一は悔しがるように吐き捨て、うつむいて自分の足下を見つめる。
「それとも…」
 顔を上げた耕一は彼女を睨み付けていた。
 それは怒りでもなく憎しみでもなく純粋な表情だった。
 言いたくない言葉を無理矢理絞り出すようにしばらく沈黙する。
「居座るつもりなのか」
 木々の葉擦れの音が響く。
 まるで周囲に何か巨大な生物がいて、彼らが喧騒を生み出しているかのように。
 梓の短い髪が大きく靡いて、彼女の顔に複雑な陰影を刻み込む。
 月明かり、彼女の口が開く。
「あり…がとう」
 耕一からは一切の怒気は感じられなかった。
 戸惑いと、混乱。
 それが彼から感じられた。
 だから、だからこんなに悔しくて、嬉しいんだ。
 僅かに口を動かして、彼女は言葉を一度飲み込む。
 もしそれを口にしてしまえば、全て意味がなくなる。
 そう思って。
「本当は怒鳴って欲しかったんです」
 彼女がうつむいている顔を上げた時、前髪が揺れて光が弾けた。
 今更どれだけの綺麗事を並べ立てても何にもならない。
 梓姉さんと、耕一さんを困らせるだけだ。
「きっと…」
 笑っていた。
 手の届きそうな距離で、彼女は笑みを浮かべていた。
 そう、浮かべていた。
 再びうつむいて影になった表情は、もう耕一には判らない。
「…楓ちゃん?」
 耕一は金縛りにあったように動けない。
 耳を触る音は川のせせらぎか風の立てる音。
「こん…な、時って、こんなちからなんかいらないっ…て」
 時々言葉を紡ぎながらしゃくり上げる。
――駄目だ
 ここで彼女を引き留めてはいけない。
 だから突き放さなければならない。
「馬鹿、泣くな」
 頭でそれが判っていても、もう一つの声がする。
 彼女をそのまま放っておける程、彼は冷徹にはなりきれなかった。
 これが最後ならいいじゃないか。
 たとえ梓には迷惑になっても。
 もしかすると、梓の…芝居かも知れないじゃないか。
 一歩近づいて手を伸ばす。
 気がついた彼女が逃げようとするのを無理に引き寄せ、右腕で頭を抱え込むように抱きしめる。
 梓は背の高い方だが、ちょうど彼女の頬が耕一の首筋に当たる。
「偶然に感謝しよう」
 いつの間にか月は天頂に達し、明るい光を投げかけていた。
 辺りは青ざめて冷たく、凍てつく空気が木々を揺らす。
 ひとしきり彼女はそのまま泣き続けた。
「今のお前が誰でも構わない。楓ちゃんだと思いこんでいる梓でも」
 それじゃあたしが馬鹿じゃないか。
 そんな言葉が耕一の頭の中をよぎった。
――ふっ
 くしゃっと彼女の頭を乱暴になでて、耕一は続ける。
「楓ちゃんでも。今そこにお前がいて、望んでくれるならそれで俺はいい」
 僅かに身じろぎする彼女を、それでも動かないように強く抱きしめる。
 今顔を見られると恥ずかしいからだ。
「心配しなくてもいいよ、楓ちゃん」

 11月23日、月曜日。
 楓は、柏木の屋敷に引き取られることになった。
 千鶴の強い要望があったからだ。
「せめて、最後まで面倒を見てやりたいんです」
 千鶴は寂しそうな笑みを浮かべていた。

 柳川の一件は、決して浅くない傷を残していった。
 決して回復は遅くはなかったものの、千鶴の胸には大きな痕が残った。
 肉体的には何ら異常がなかった初音も、あの日以来夜になると部屋の隅で震えている。
 以前以上に暗闇を怖がるようになったと千鶴は言っていた。
 最初に殺されかけた楓も、もう本当に人形のようにただ座っているだけだ。
 時折何かに気がついたようにふと顔をあげるが、別に声が聞こえているわけではない。
 自動人形のように、何のしるしもなく再び彼女は項垂れる。
 そして――梓。

 耕一は梓と駅前を歩いていた。
 本当は見送りたいんですけれど、といいながら千鶴は出勤していった。
 初音は楓と一緒に留守番をすると言って、三和土までで別れた。
 そして、最後まで残ったのが梓だったと言う訳だ。
 決して暖かくない風に吹かれて梓の短い髪が揺れる。
 その様を見て、颯爽と走る彼女の姿を想像してしまう。
「どうした耕一。みんな無事だったんだからもっと嬉しそうな顔をしろよ」
 彼女は、この二日間の記憶のほとんどを失っていた。
 原因は――楓だと耕一は思っている。
 東京に来た時から既に梓ではなかったのだ。
 隆山に戻ってきて、『楓』として意識が統合されてしまったせいだろう、彼女と共に記憶も消え去ってしまった。
――もう楓ちゃんとは話せないんだな
 それは当然の事だったのに、ほんの少しの間でももう一度話せたんだ。
 その事を感謝しなければ。
 彼は思い直して口元を歪めてみせる。
「そうだな」
 一日分の着替えの入ったバックを背負い直して、彼は梓の肩をぽん、と叩いた。
「お前の御陰で、みんな助かったんだし」
「え?あたし?」
 目をまん丸くして驚く梓。
 そう。
 梓が耕一にすがろうとしなければ、今頃東京に耕一だけを残して全員死んでいただろう。
 あの叔父の手によって。
 それが誰の意志であったかなど、関係ない。
 結果、救われたのだ。
 耕一はそう思った。
 だが、梓は言葉の意味がよく判らなかったらしく怪訝そうな顔を見せている。
 僅かな違和感と、そこに本当に何もないことに気がついて息が詰まった。
 判っているのに。
 判っていたのに、それでも空虚な気分になる。
 そこにいる彼女が、昨晩の『楓』を思い出させるから。
「なんだ、褒めてやってるんだから嬉しそうな顔しろよ」
 笑いながら、彼は顔が引きつっていないか気になった。
 梓は、本当に何も知らないんだから。
 それが偶然だったことすら。
「ばーか、全然身に覚えのないことで褒められたって嬉しくなんかあるはずねーだろーが」
――駄目だ
 耕一は鼻で笑いながら背を向ける。
――どうしても…割り切ることなんでできない
 これ以上彼女の顔を見ていると耐えられなくなりそうで、彼は駅の入り口を見つめた。
「ちぇ、折角褒めてやってるのになんか損したなぁ」
 大げさに肩をすくめてみせると、梓はふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
――耕一
 一呼吸。
 刹那、彼女は言葉を失っていた。
 彼女は目を細めて一歩耕一の背中に近づく。
「んだったらさ、褒めるついでに言うことを聞いてくれる?」
 にっこりと笑みを浮かべて、彼女は一歩耕一の背に近づく。
 耕一はできる限り落ち着くように大きく呼吸する。
 梓の体温がすぐ側まで来ているのが判る。
「聞くだけならな」
 めんどくさそうに答えて、彼は振り向いた。
「っ」
 一瞬どきっとした。
――こんな表情もできるんだ
 意外にも神妙な顔をした彼女に、彼は混乱していた。何が起こったのかと思った。
 そして、続く言葉が妙に気になって、彼は動けなくなった。
 彼女はやがてにんまりと笑みを浮かべて、面白そうに耕一を見つめる。
「…また、新宿に連れて行ってくれる?」
 似合わない程嬉しそうな笑みを浮かべて。
――…こいつ…
 耕一は苦笑して背中に背負った荷を足下に降ろした。
「覚えてない、なんて嘘だったんだな」
「嘘はついてないけど」
 そう言って、梓は恥ずかしそうに視線を逸らせる。
「全部忘れてる事にしたかった…んだけど」
 ぼそぼそ、とだんだん声が小さくなる。
「…」
 困ったような顔でちらちらと耕一の顔を見ている。
「馬鹿」
 耕一は両肩を抱き寄せる。
「こ、こらっ」
 抵抗できないうちに強引に口を重ねる。
 梓ならこの近距離でも間違いなく一撃で気絶させられるだけの一撃を加えられただろう。
 でも、彼女は何もしなかった。
 僅かに顔を離して。
「そのうちまた呼んでやるか」
 それ以上言葉を続ける事はできなかった。
 梓の強烈な右フックが耕一のこめかみを貫いていた。
「ひひ、人前でっっっ!」
 顔を真っ赤にした梓の足下で、意識を失った耕一が倒れていた。
 結局もう一日大学を休むことになったのは、蛇足である。

「やっぱり彼女、いたんだぁ」
 一月後のクリスマスの日。
 楓を含めて全員がまた都合も確認せずに押し掛けて(下宿にではない)来た。
 何をどう説明しても言うことを聞かない梓が『ついてくる』と言い出して、結果。
「え?」
 にやり笑いする由美子に、梓は顔を真っ赤にして由美子と耕一を見る。
――だから言っただろ
「う、うわああああっっっっ」
 そう言う目で見つめられて涙目で逃げ出すまでにはそう時間がかからなかった。
「押し掛け女房だけどな」
 由美子に笑いながら、結局否定せずに梓を追いかけて行った。
「押し掛け女房?…ふーん、柏木君モテモテじゃない」
 そして彼女はにやりと笑った。
「…押し掛けおっけーなんだ」
 彼女の言葉の真意は、定かではない。


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