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 第2話 Sin


「…そう…なんですか…」
 千鶴は急に力が抜けたように両肩を落とした。
「ええ、恐らく」

 病院。
 隆山でも有数の病院で、その治療施設は恐らく日本で指折りのものだ。
 だが病院の施設がどれだけ良くても、同じ事。
「まだ脳波に変化は見られるんですが」
 永遠の昏睡に引き込まれたまま、楓は目覚めようとしない。
「多分、回復の見込みはありません。植物人間と呼ばれる状態です」
 医師は診断した。絶望と言う名の病名を。
 千鶴はいつものように礼を言って、立ち上がった。
 病室を後にして、ざわざわと心の中でざわめく物に胸の前の上着を握りしめる。
 回復しないと告げられた瞬間には逆に肩の荷が下りた気がした。
 大事な妹だというのに。
 なら、この『不安』は?
 彼女の部屋を出た途端に感じたこの言いしれぬ不安は?
 不安の正体がはっきりしない事に彼女は苛つきを覚える。
「お帰りなさい」
 結局家事のできない千鶴の代わりに初音が食事を作っている。
「只今」
 この娘が最後の妹になるのかしら。
 そんな、嫌な思いが沸き上がって、慌ててそれをうち消した。
――しっかりしなきゃ
 初音の頭を撫でて、彼女は家に上がった。

「いっただっきまーす」
 明るく響き渡る声。
「…いただきます」
 代わりに対称的なのが耕一の声。
 見れば耕一の顔が若干歪んでいるようにも見える。
 実は、頬が少し腫れているのだ。
 こぶもできている。
「なんだ耕一、元気ないぞ!病人かよお前は」
――誰のせいだと思っている。
 だが口にはしなかった。
 スーパーから帰って来る際に二発。下宿で四発。
 合計七発(駅から帰り際鳩尾に一発)ばかばか殴られれば、そりゃ病人にもなるわ。
 等の本人はにこにこしながら食事をしている。
 耕一は彼女の様子を見ながらため息をつく。
――軽度の躁鬱病かな、これは
 下手な事は言わないことにしよう。
 これ以上殴られれば、ただでさえ良くない頭が悪化してしまう。
 どっちにせよにこにこしているのなら、それでいいだろう。
 耕一は梓の作った夕食を食べながらそう思った。

 食事も終わり、後かたづけを梓がやっているうちに、耕一はテレビを付けた。
 無機質で無意味な番組が流れている。
 かちゃかちゃという梓が皿を洗う音の方が気になって仕方がない。

  るるるるる  るるるるる がちゃ

「はい柏木です」
『耕一さんですか』
 気がついたら電話を手にしていた。そんなつもりはなかったのに。
 千鶴は電話の向こうにいる耕一の姿が見えるようだった。
「あの、楓の事でちょっと」
 本当に言ってしまっていいの?
 千鶴は言葉を紡いでから後悔をする。
『梓、じゃなくてですか?』
 彼の側に梓がいないのだろうか。それ程憚る風でもなく彼は応えた。
「ええ。今日、楓の回復はまず無理だと」
『…楓ちゃんが』
 ああ。
 やっぱり。
 白くなるほど受話器を握る手に力を込める。
「それで相談したくて」
 自分の声が驚く程普通だったのが驚きだった。
 こんなにも自分の声が平坦な物に聞こえるとは、思ってもいなかった。

 名前を呼ばれたような気がして、ひょいっと台所から顔を見せる梓。
 台所からテレビが見える。
 そのすぐ側に電話が置いてあり、耕一は電話のある辺りで背中を見せている。
――電話か…
 と思ってから自分の事かと耳を澄ませる。
「はい…ええ、でも千鶴さん」
 梓は慌てて顔を引っこめると、洗い物を続ける。
 聞いていない振りをしながら、耕一の真剣な声だけがまるで耳元で囁かれているように続く。
――あたしの事?
 耕一の側のテレビの音が邪魔だ。
 聞き取りにくい。
 それを無視して彼ではなく受話器の方に意識を集中する。
『楓を引き取るか、このまま治療を受けるか』
 その内容が何を指しているか、彼女は十分良く知っている。
 心の中で、何かが妙にざわめく。
 それが妙な不安になって彼女に覆い被さるように感じられた。
 思わず皿が滑って手の中から落ちそうになる。
 気がつくと感覚は元に戻っていた。もう受話器からの音も聞こえない。
 集中が途切れたからだろう。
「…もう少しよく考えた方がいいけど。…又電話するよ。…うん、急いで結論を出さなくていいんだったら」
 電話もちょうど終わったらしい。彼女は改めて集中することを止めた。
 梓は水道を止めて、食器の水を軽くふき取ってから並べる。
 耕一の背中越しに、どうでも良いバラエティ番組が見える。
 耕一が振り向いた。
 梓は手を拭きながら彼の側まで行く。
「電話?」
「んん、ああ。千鶴さんから」
 何故か梓は、今の梓は千鶴と同じ思考過程を踏んで悔しそうな表情を浮かべた。

――耕一は、楓を選んだんだ

 耕一はそれに気がついたように顔を上げたが、その時には既に普段の表情に戻っていた。
「…何の、話?」
 何事もなかったように切り出し、彼女はあえて平静を装う。
 あくまで、電話は聞いていなかった事にする。
 聞こえなかったことにしておく。
 じゃなければ、確かめられないから。
「安心しろよ、お前の事じゃない」
 そんなことが聞きたくて言ってる訳じゃない。
 でも、梓は小さく苦笑する。
「良かった。それで何の話なんだよ」

「それで、又隆山に帰るのか?」
 楓の回復の見込みがない話。
 これ以上治療しても無駄でも続けるつもりなのか、もう治療を止めて引き取るのか。
 耕一は千鶴に聞かされたままに話を聞かせた。
 だが、妙な違和感を感じていた。
 卓の側で横向きに並んで座っている二人。
 目の前のテレビは無意味にちかちかと明滅し、騒音をまき散らしている。
 二人ともその存在が気にならないらしく、電源を切ろうともしない。
「…そうなんだ」
 もう少し、何か反応があっても良さそうな物だ。
 彼女が原因で落ち込んでいたというのに。
「楓ちゃん、もう二度と起きないかも知れないんだぞ」
 耕一はむっと眉を寄せる。
 自分の妹の死の報告に、何故平気な顔をしているんだ。
「…多分、そうなると思ってたから今更ショックでもないよ」
 梓は表情を固めたまま答える。
 能面のような表情。
「と、思う」
 梓はそう言うと首を僅かに傾げ、すました目で耕一を見つめる。
 人形のような視線。
 氷のように冷たい表情。
 いや…きっとこれは先入観から来る物だ。
「もしかしてすぐにでも泣き出してしまうかも知れない」
 淡々と彼女は話し続ける。
「だってまだ…夢の中にいるみたいなんだよ、耕一」
 妙だ。
 先刻から感じていた違和感の正体に気がついた。
 梓の、妙に生気のない表情だ。
 自分は死んだような表情をしているのに、濁った何も見えない目をしているのに。
――妙に覇気がある。
「どうしたんだ」
 耕一は梓に近づいて彼女の顔を覗き込むようにする。
 梓は眉一つ動かさない。
「…判らない」
「おいあず…」
 両腕が耕一の頭に伸びる。
 絡め取るようにしっかりと頭を抱いてしまう。
 そして、梓は耕一の口を無理矢理こじ開けていた。

  ダレ…ナノ?

 自分が今どういう状況におかれているのか理解するのに数秒の時間を必要とした。
 梓が腕の拘束を解いてゆっくり離れる。
「あず…」
 その時、梓がらしくない笑みを浮かべた。
 口元を吊り上げて、嫌らしく笑う。
 背筋の寒くなるような冥い笑み。
「今凄く嫌だろ。あたしも自己嫌悪になりそうだよ」
 どう答えて良いのか判らず、耕一は深刻な表情で梓を見つめている。
「…ごめん」
 彼女はそのまま目を背けて腕をほどいた。
「梓」
「ごめん…今自分が何をしたいのか判らない。どうして…こんな…」
 顔を伏せて両手を畳につく。
 突然の出来事に、耕一もどうしていいのか分からずに立ちすくんでいる。
「こんなにも」

  めり

 奇妙な音が聞こえた。
 うずくまる彼女はゆっくりと顔を上げる。
「…駄目…もう」

  めりめり

 急激に気温が下がったような気がした。
 と、同時に気配の色が濃く――息苦しい程に――満ちる。
 完全に顔を上げた梓の顔には、先程よりも鋭く堅い表情が浮かび、目は黄金色に輝いていた。
「…殺してやる」
 ゆらぁ、とまるで水の中で揺らめく水草のように立ち上がる。
「あ…梓?」
 無駄のない体重の移動が、まるで滑るように錯覚させる。
――くる
 ほとんど本能的に耕一は真後ろへ跳ぶ。

  ぴ

 何かが顔の前ではねた。
 だが、梓の姿がさらに急に接近してくる。
 弾けた血の雫が僅かに空中で制止する。
 それが糸を引くと同時に、彼女は右肩を前に半身にした格好で耕一の懐へ飛びこんでくる。
――この狭い部屋では不利だ
 ボディブローを神速のブロックで受け止め、その勢いを利用して自ら玄関へと身体を跳ばす。
 耕一は転がるように玄関のドアに手を伸ばし、梓が間合いを開かせまいと接近する。

  かち

 鍵が開く音。
 だが、直後に鳩尾に重い感触を覚える。
 梓が懐にいた。
 肩が鳩尾に沈んでいる。

 ドアが勢いよく音を立てて開き、耕一の身体はまるでボールのように宙を舞う。
――く
 耕一の部屋は小さなアパートの二階だ。
 彼の身体は玄関を抜け、そのまま手すりの向こう側に向けて飛ぶ。
 左脚に激痛。
 もう少し体が下にあれば――呼吸は止まったかも知れないが――落ちる事はなかっただろう。
 そのぐらいの位置で、彼の体は半回転して地面に向かう。
 このままでは頭から落ちてしまう。
 大きく胸を反らせて、勢いのまま体をさらに回転させる。
 脚を、胸に引きつけるようにして空中で一回転する。

  ずん

 そんな音が響いた。
 瞬時に鬼の力を引き出した彼は、落下の勢いを何とかそれで吸収する。
 全身にけだるさのようなものが残るが、梓に殺されるよりもいい。
「梓っっっ」
 叫んで顔を上げた耕一の目に、影が映った。
 彼の頭上をまたぐようにして飛び降りる梓。
 振り向いた彼の目の前に、影の如く降り立つ。
「…」
 殺気を振りまいて耕一を見下ろす梓の姿は、以前の彼女とは違った。
 冷たい表情が耕一に向けられている。
 その無機質な顔は、獲物に対する捕食者の――嘲笑。
「死ね」
 今までに聞いた事のないような低い冥い声。
 油断できない。
 本気だ、そう思った瞬間、梓は再び間合いを詰めていた。
 体を捻るようにして勢いをつけて左腕を振りかぶる。
――避けられない
 耕一は一気に踏み込んで梓の頸もとを狙って肩をぶつけていく。
 嫌な感触がした。
 腐った倒木を踏み抜いたような音。
 同時に視界が横にぶれる。
「ぅあぁあああっ」
 叫び声。
 理解できないまま、耕一は一歩下がった。

 思わぬ耕一の行動に、梓は弾かれるように下がった。
 梓が体全身を鞭のように振るったそのままの勢いで、踏み込んだ耕一の肩に鎖骨をぶつけたのだ。
 結果振り抜けず左腕を耕一の背中に叩きつけ、体を引き剥がすように右拳で耕一のこめかみを打ち抜いた。
 だが、彼の肩から離れた梓の鎖骨は激痛と熱を持ち、左腕が思うように動かなくなっていた。
 耕一が顔を上げると、梓は自分の左肩を押さえて耕一を睨み付けていた。
「コロシてやル」
 声がかすれている。
「梓」
「っ!」
 ずきずきと痛む頭を抱えて、耕一は梓に声をかける。
「貴様」
 痛みだけではないのだろう。梓の表情が歪んでいる。
 一歩近づくと、梓は身じろぎするように退く。

 あたしの妹は裏切ったんだ。
 だから、姉さんが殺した。
 違う。
 彼奴に妹は誑かされたんだ。だから殺されなければならなかった。
 あたしはこのサムライが…憎い。
 仲間を次々に殺していったこいつが憎い。
 妹は、本当は死ななくても良かった。
 なのに…

「梓」
 向かいの塀に背中をぶつけてもまだ逃げるように下がり続ける。
 相変わらず睨み付けて、強気な表情を浮かべている。
「近寄るな!」
「梓!」
 彼女はびくっと体を震わせて動きを止めた。
 じっと耕一の表情を見つめている。
 耕一も、それ以上近づかずに彼女を見つめている。
 つうと首筋を流れた血が、彼のシャツに滲む。
――完全に暴走している訳でもないよ…な
 柏木家の女も、鬼の血を引いている。
 といっても、その殺意の衝動は男に比べると少なく、暴走する事はない。
 ただ、梓の場合、状況がかなり特殊だ。
――楓ちゃんが垂れ流している信号に影響されてるから
 楓の記憶の影響を受けているのだろう。
 たとえば、耕一と梓が入れ替わった時のように。
「…梓」
 僅かに彼女の表情が揺らぐ。
「五月蠅イ」
 耕一はふと気がついて彼女を睨み付ける。
「逃げる気か」
 梓の表情が大きく歪んだ。
――やっぱり
 彼女は逃避している。
 自分から逃げようとしている。
 耕一はゆっくり一歩踏み出した。
「!!」
 途端梓は表情を変えて大きく跳躍する。
 それも、真後ろの塀に脚をかけてさらに大きく後ろへと跳躍したのだ。
「梓っ」
 地面を蹴ったが、間に合わなかった。
 梓の姿はすぐに影になり、次々に住宅の屋根を蹴って闇の中へと消えていった。

 11月22日、日曜日。
 梓はいなくなった。
 次の日の朝、耕一はすぐに千鶴に電話連絡した。
 受話器を握りしめる手の感覚も判らない。
 自分が何を言っているのか理解できない。
 言葉を紡いでいる自分が認識できない。

 俺は――何を言っているんだ?

 耕一は躊躇せず、ただ淡々と話を続ける。
「それで、何故か暴走した梓は、自分の目の前から飛んで逃げたんです」
 事実だった。
 だが、それを伝えるのは不自然な感情が邪魔だった。
――わざと逃がしたんじゃないのか
――追いかければ追いついたんじゃないのか
 そんな、自分に対する不信感。
 そう思われるんじゃないかという疑心暗鬼。
 そんなはずなど、ないのに。
 電話の向こう側はしばらくの沈黙の後、こう答えた。
『「あの娘」はまだ子供です』
 千鶴の声が、耕一の耳ではどう聞こえているのか。
 千鶴にそれを知るすべはなかったが、そう言うしかなかった。
『誰かが止めてやらなければ、誰かが止められなければ…』
 ごくり。
 耕一はつばを飲み込んだ。
 だったらどうなるというのだ?
 何があるんだ?
 彼女は子供?梓のことか?
 早く続きを…何を言うんだ!
 聞いてはいけない気がした。
 聞く責任を感じていた。
 だが、受話器は震えなかった。
 やがて沈黙の意味に気がついて、耕一は声を絞り出した。
「殺さ…なければならない?」
『いえ。…それに、もう一つ問題があるんです』

 
 楓がいなくなる。
 梓はその時、奇妙な感覚に襲われた。

――誰が殺したの?
 その言葉はどこからともなく聞こえてきた。
 妙に覚めた心が、逆に自分が自分でないような気にさせる。
――ダレガコロシタノ?
 あの…娘を。
 あの娘を、誰が、殺してしまったんだ。
 あたしの妹を。
 間抜けな答えを返したあたしを、耕一が睨み付けている。
 そりゃ、そうだろうな。
――ダレナノ?
 全身の力が抜けていくのが分かる。
 逆に、何かが自分の中に満ちていくのが分かる。
――アナタハダレ?
 どす黒い何か。
 それは明らかに出口を求めている。

「楓ちゃん、起きないかも知れないんだぞ」

 わかってるよそんなこと。
  あの娘は…姉に殺された。
 耕一は、楓を選んだんだ。
  妹は決して屈しなかった。
 だから、なんだろ?耕一。
  居なくなって、良かった。

――何故なら、彼女は、ウラギリモノダ

 人形のように言葉を、意味のない言葉の羅列を吐き出しながら。
 梓は近づいてくる耕一の心配そうな顔を。

『奪え』

 中から沸き上がる声に、梓は逆らう事はできなかった。

『殺せ』

 自分という物が、分からなくなっていく。

「ごめん…今自分が何をしたいのか判らない。どうして…こんな…」
 こんなことに。
『望んでいたんだろう』
「こんなにも」
『こいつが憎いことに気がつかなかったなんて』
「…駄目…もう」
『ガマンガデキナイ』

 夢の中で彼女は、返り血にまみれてサムライと対峙していた。

 やがて彼女は目の前にいる『ジローエモン』を始末しようと襲いかかった。
 結果は惨憺たる者だった。
 手傷を負わせるどころか、逆に骨まで折られてしまう。
 じんじんと熱を持って左肩が痛む。
 右手で左肩を押さえて、目の前の男を睨み付ける。
 この――憎い男を。
 妹を奪ったこの男を。
――まて
 男が何か叫んだ。
「貴様」
 その時、その声に彼女は反応した。
――…違う?
「近寄るな」
――いや、違わない。この男は私から妹を奪ったんだ
 もう一度男が叫ぶ。
 身体が震えた。
 その時に心に響いたのは――罪悪感。
「五月蠅イ!」
――違うこの人は…
――五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅い五月蠅いっっっっっっ

  「逃げる気か」


 身体が大きく震えた。
 まるで、身体と自分の意志が別物であるかのように。
――…別?
 彼女は動揺している。
 逃げるか、と言われて動揺している。
――動揺しているのは…誰?
 混乱した彼女は、目の前の男から逃れるべく地面を蹴った。
 これ以上の混乱から逃れるために。


  ひゅごうぅ

 風が叩きつける音がする。
 風が耳を叩く音だ。
 きっとそうだ。
 何故…
 こんな所にいるんだ?
 こうして…空を舞っているんだ?
 あたしは何をしてたんだ?

  闇の中

 いつもよりも体が軽い。
 いつもよりも身体が動く。
 何故?

  記憶がささやく

 一体何をしてるの?

  本当にそれは…自分の記憶なのだろうか?

 判らない。
 分からない。
 解らない。
 何も…わからない。
 あたしは…だれ?

  気がつけば血の臭い

 いま、どこに向かってるの?
 ここはどこ?
 いま…いつなの?

  炎の壁に囲まれて

 あたシハ…

  底は死屍累々とした闘いの場

 あたしノ名前ハ…

  だれだったのか…

「姉貴!」
 皇族の中でも口が悪いことで有名な皇女が叫んだ。
 本来なら言葉という文化が生まれるはずのなかった、彼らが『口に出して』声を発するのは何故か。
 意外に簡単な理由がある。
 大きく組織化した彼らには、『建前』が必要になってしまったからだ。
 個人でただ『狩り』を行うだけなら、数人で狩るだけなら言葉など必要ない。
 今でも、少数の単位で貪る時には言葉を交わすことはない。
 男女でも同じ事だ。
 「彼ら」だけの世界なら、未だに言葉は交わされない。
 ただ、皇族や一部の特権階級あたりになるとこれが変わってくる。
 『文化』を盾にとって、何かしらゲームする時、言葉巧みに、そして流す信号は別の思惑を。
 恋愛でも、それは同じ事が言えた。
「行くのか」
 びりびりと怒りの波長が、この皇女から発せられている。
 それは痛いほど、長女である彼女にも解っていた。
 今から、何をするのかを知っているのだから。
 わざわざ『狩り』の最中に戦闘用の儀礼服など用意しない。
 わざわざ、死に装束を準備したりしない。
 これは戦争ではなく…ただの日常の一こまなのだから。
「ええ。これは…掟なのよ」
 決して曇ることのない美しい黒い瞳。
 吸い込まれるようなその美しさを、同族も同性も同様に讃える。
 思わず握りつぶしてしまいたいほど、美しいと。
 その大きな瞳が揺れる。
「彼女は、裏切ったのよ」
 悔しそうな表情が、沈痛な面持ちが、やがて鋭い刃となる。
 向かい合わせている彼女も、切れ長の目をさらに吊り上げる。
「誰にも殺させてはいけない。私が殺らなければならない」
「姉貴」
 彼女は姉の顔が歪んでいる理由に、思わず声をかけた。
 だが、それは彼女に笑みを浮かばせるだけに過ぎなかった。
 止めることはできない。
「アズエル、あなたは優しい娘。姉妹の中で一番不器用で、それでも一番可愛い娘」
 長女の動きが止まる。
 次女――アズエルは思わず身構える。
「でも、まだあなたも子供なのよ」

  ぶぅん

 そんな音が耳元をかすめた。
「だから、あなたはまだ子供だって言うのよ」
 諭すような姉の声。
 彼女の腕が視界の隅で震えている。
 動けなかった。
 彼女が打ち込む事だけは理解できたのに。
 理解できても、反応できるほども遅くなかった。
 恐ろしく、速い速度で姉の拳は妹の顔をかすめていた。
 思い出したように紅い筋が頬を走り、やがてゆっくりそれがはっきりする。
 耐えられなくなり、やがてそれはつうと流れておとがいを伝う。
「『彼奴』…」
「よりもよ。だけど、だからあなたには行かせられない」
 すっと引き戻された姉の手は、既に大きく爪を伸ばした状態だった。
 彼女はぎりっと音を立てて歯ぎしりする。
「姉貴、あたしだって彼奴の姉だ!掟に従うんだったらあたしも行く。行ったって構わないはずだ」
「アズエル…」
 いつの間にか彼女の目に涙がたまっていた。
 力強く叫びながら、結果彼女は泣き叫んでいた。
「どうしてだよ、行くしかないんだろ?だったら…行ったって、構わないじゃないか」
――やっぱり…優しい娘
 伸びた爪を振り落とすと、それは金属的な音を立てて床を転がった。
 そして、その手を今度は自分の妹の頬に当てる。
 僅かな痛みに彼女は顔をしかめても、姉はそのまま頬の血と涙を拭ってやる。
「…判ったわ。一緒についてきなさい」
――自分だけで…いいのに
 こくり、と小さく頷くだけの彼女を解放して、背を向ける。
 ここから――ヨークから出るために。

 エルクゥと呼ばれる種族がある。
 星から星へ渡る『星船』ヨークを生み出す程の技術を持ちながら、凶暴な欲望を抱える宇宙の蝗の様な存在。
 彼らは、狩りを――生命体の命を刈り取る事で自らの命を永らえる種族。
 同族においてもそれは同じ事が言える。
 そのため、彼らの文明の発展は、非常に得意な物になった。
 コンピュータのような電子機器は発達を許さず、『放って置いても育つ』物でなければならなかった。
 食事を摂るよりも獲物を狩る方が手早いため、食文化も産まれなかった。
 だがその代わり、戦争と言うもっとも無粋で野蛮な物も産まれなかった。
 何故なら、最も簡単な原理が彼らには働いていたから。
 それは――弱肉強食。
 皇族と呼ばれるエルクゥは彼らの中でももっとも強く、恐ろしい存在だった。
 彼らを決して敬う事はなく、ただその力故に逆らう事ができなかっただけだ。
 さらに彼らには、様々な特殊な能力が備わっていた。
 宇宙船を操縦できるのは、皇族だけだったのだ。
 彼らがある星で『狩り』を終えた時、しかし、宇宙船の操作を誤ってしまった。
 翼をもがれたそれは、地球へと降下した。
 もう二度と、浮上する見込みはなかった。
「構いやしない、獲物を狩るのは我々の生きる術だ。違うか?」
 ダリエリ率いる強行派。
「しかし、母なる星真なるレザムへ帰れない今、むしろここで生活する方が得策だ」
 そして、皇族が支持するのは穏健派の二つに意見が大きく分かれた。
 だが、彼らにとって生活とは。
 狩りこそ生命活動、生きている証なのだ。
 この星にすむ者達は明らかに自分たちよりも『力が弱い』。
 それは彼らそれは言うまでもない。
 エルクゥにとって獲物を意味するのだ。
 獲物と一緒に住むなどという真似はできないのだろう。
 一部の実力者や強行派の中でも怖い物知らずがヨークから抜け出して『狩り』を行い始めた。
 やがて、ヨークの付近にまで原住民が出没するようになった。
 ひ弱な身体に、ひ弱な武器を携えて。

『雨月山に鬼が出る』

 やがて、本格的に『鬼』と連呼しながら奴らは襲って来た。
 本当に貧弱な姿で。
 彼らは一撫でで肉は削げ骨は砕け、僅かに姿を現しただけで悲鳴を上げた。
 そのくせ命の炎だけは美しく、狩り甲斐のある活きの良い獲物達だった。
 だから、穏健派の意見がひっくり返るまでには時間がかからなかった。
――皇女を除いて。

 ふわっと彼女たちの目の前が広く開けた。
 ヨークという宇宙船は便利な物で、それが簡単で単純だが意識を持っている。
 これにアクセスすることで、宇宙船を操作することができるのだ。
 だが、航行するのと操作するのとでは大きな差がある。
 それは細かな操作の複雑さと繊細さだ。
 こうやって扉を開けるのは僅かな手間と手段と命令で充分だ。
 だがこの宇宙船を飛ばすにはあらゆる命令と操作を覚え、瞬時に判断しなければならない。
 一度に複数の命令を別の系統に流すことだってある。
 だから、元々基本的に能力の高い皇族、それも信号の操作に長ける女性でなければならない。
 現在はそれを彼女達の末の妹が引き受けていた。
――リネットを殺す事はないでしょうし…
 それが、姉リズエルの出した結論だった。
 掟だからといって、自分の妹を殺せるはずがない。
 『殺さなければならない』と『殺すことができる』には明確に差がある。
 それでも従わなければならない。
 皇族だから。
 さくっと草を踏みつける音を聞いて、肌に触れる空気が冷たくて、彼女は目を閉じた。
「姉貴」
 後ろから声がした。
 自分の妹の声だ。
「…いた」
「ええ」
 判る。
 全く力の制御を知らない産まれたばかりの『エルクゥ』の強い信号を。
 自分の妹に良く似た激しいそれを。
――できれば幸せにしてあげたかった
 その影に隠れるようにして見え隠れする、妹の信号。
 大きすぎる目印のせいで隠れているのも何の役にも立っていない。
「行きましょう」
 二人のエルクゥが地面を蹴った。
 月の光差す山道を、獣を越える素早さでありながら、人間の姿を保っている。
 妹の場所は、一つ山を越えた場所だ。
 正確に位置をトレスしながら走る。
 こんな時狩猟者の血が妬ましい。
 何故こんなに簡単に発見できるの?
 何故こんなに簡単に判るの?
 何故…こんなにも簡単にあなたの居場所に行くことができるの?
 全く動かない自分の妹を感じながら、彼女は吐き捨てた。
 後ろから追走する彼女の妹は、それも感じていないようだった。
 ただひたすらに地面を蹴り、妹の元へと走る。
 ただそれだけの存在のように、ひた走る。
 本当は気が気でならない。
 早くついたらついたで困るはず。
 それでも、脚を動かす事しか今の彼女には思いつかない。
――逢いたい
 何故かその想いの方が強い。
 会ったら…即殺さなければならないはずなのに。
 会いたい。
 その想いの方が彼女を後押ししている。
 結局、姉が妹を殺す事をためらう以上に。
 彼女がその責任を全て負う事以上に。
 命を賭してまで男を助けた彼女に、何とかして会いたい。
 そして、その理由を聞きたい。
 それが彼女の本心だった。
 自分では気づいていないかも知れない。
――何故殺されてもいいと思ったの?
 その質問ができるはずもないのに。
 それでも――やがてその時間が近づく。
 二人が全力で走り抜ければ、30分とかかるまい。
 気がつけば奴の小屋の側まで来ていたと、言えるかも知れない。
 そう、それが現実。
 願い事が叶う日など、もうないのだから。
「エディフェル」
 大声で叫ぶしか、なかった。
「エディフェル――!」
 果たしてエディフェルはそこにいた。
 既に戦闘態勢を整えて。
 両手の爪を大きく伸ばして。
「私はここよ、姉さん」


 夜が明けて、警官は大騒ぎをしていた。
「公園で男四人が殺されたって」
 緊急に呼び出しを受けた柳川は、不機嫌そうな顔つきで現場に現れた。
「遅いぞ、柳川」
 彼の姿を見て長瀬が叫ぶ。
 柳川は一言二言謝りながら彼の側まで来る。
「殺しですか。最近物騒ですね」
「ああ。…だが、どうもそうではない臭いんだ、この殺られ方は」
 彼は手短に状況を把握させるよう、書類を投げるように渡す。
 柳川は受け取ってばっと目を通す。
 書類と言っても手書きに写真を貼り付けただけの物だ。
「…長瀬さん」
 彼はあきれた顔を長瀬に見せる。
「ホシは、どうやら日本刀を持っているらしい」
 柳川はため息をつくようにして肩をすくめ、首を横に数回振る。
「馬鹿馬鹿しい。そんな訳ないでしょうが」
 死体の損傷はそれ程激しくはない。
 写真を見る限り、完全に両断されている死体が一つ。
 頭を凄まじい力で叩きつぶされているのが三つ。
 どれも即死の様を呈している。
「まるで熊にでも襲われたみたいですね」
 だが、それが熊に襲われたわけではないのは承知の上である。
「ああ。…だが、熊の毛もこの近辺では見つかっていないし、そもそも熊がうろうろしていれば発見されてしかるべきだろう」
 いちいちもっとも。
 これが本当に猛獣の仕業ならばね。
 柳川は興味深そうに書類を眺めながら、周囲を見回す。
「…それで、記者クラブにはなんと」
「『野獣、隆山の街を襲う』とでも伝えておけ」
 記者クラブとは、警察内部にある新聞記者に対する情報公開の場の事である。
 主に、誘拐事件等一般に表沙汰にしたくない捜査をする場合等、彼らと協力するためにある。
 だが時と場合によっては『隠れ蓑』にする事もある。
 こんな場合、むしろ後者の率が高い。
「いい加減ですね」
「じゃぁどうするつもりだ?柳川」
 長瀬が妙にかりかりと柳川に突っかかってくる。
 柳川は僅かに眉を顰める。
――だめだな
 そしてゆっくり舌なめずりをする。
「すみません。ただ…そうですね。猛獣の仕業でなければ…」
 言葉を探るようにして彼は目を空に向けて考えるような仕草を見せる。
「鬼、ですか」

 丁度その頃。
 警察署に駆け込む若者の姿があった。
 彼らは――どこにでもいるような若いチンピラ風の――「殺される、助けてくれ」と叫んでいた。
 どうもただごとではないという雰囲気を悟った警官がよくよく話を聞いても、ちぐはぐな答えしか聞けなかった。
 曰く――獣に襲われた。
 曰く――気の狂った女に襲われた。
 曰く――変な奴に絡まれた。
 調書らしい物を作ってその場は取り繕ったが、大したことではないと彼はそれを処分した。
 どうせいつもの喧嘩だろう、と。

 空は奇妙に青かった。
 空々しい空。
 だから――こんなにも空しいの?
 水門の側に腰をかける少女は力無くうなだれて水面を見つめていた。
 何故自分がそうしているのかも、いつからそこにいるのかも。
 判らない。
 いや…考えたくない。
 どうして自分がこうしているのかが理解できなくて、彼女は混乱していた。
 そもそも、何故自分がこんなに混乱しているのかを、彼女は理解していない。
 何故…
 全てを解くための鍵は、その質問は風景に溶けていく。
「なーにしてんの?」
 …また、来たの。
 彼女は声を聞いてはらわたが煮えくりかえるような感覚を覚える。
 昨晩から、妙に自分の周りに人間が集まってくる。
 一人は適当に追い払った。
 一人は『力』を見せつけてやった。
 できる限り音便に済ませたくて。
 さもなければ、まず間違いなく殺してしまう。
「かーのじょ」
 …五月蠅い。
――今度こそ殺してしまう
 ぴくり、と右手の指が動く。
 瞬間、青年の姿は彼女の側から消えた。
 多分青年も何が起きたのか判らなかっただろう。
 自分の顎が砕けていることすら、因果関係をつなぐことはできないだろう。
 立ち上がりながら大きく振り抜いた裏拳は青年を20mも弾き飛ばした。
 少女は、何事もなかったかのように再び水門の上に腰を下ろした。
 まるでそこに、何か大切な物でもあるかのように。


 『雨月山の鬼、現る』
 馬鹿馬鹿しいタイトルが、某スポーツ紙に載っていたので思わず耕一は購入した。
 電車の中でそれを広げながら、彼は千鶴からの電話を思い出していた。

「問題?」
 耕一が聞くと、妙に焦った口調で彼女は続けた。
『鬼が…殺人事件を起こしています』
 スポーツ紙にはほとんど何も書いていなかった。
 そりゃそうだろう。テレビのニュースですら今朝初めて流したというのに。
 このスポーツ紙の記者は、偶然『狩り場』の惨状を目撃したのだそうだ。
 恐らく新聞ではこれが一番早い情報だろう。
――馬鹿馬鹿しい、スポーツ新聞らしい記事でよかった
 まず最初に感じたのはそれだった。
 実際に鬼を知っている人間など、いないはずだ。
 警察でさえ。
 正式な警察の発表は『猛獣らしきもの』と断定を避けた表現をしている。
 話を聞いてもぴんとこなかった。
――梓?
 妙な胸騒ぎがした。
 千鶴の慌てぶりから、彼女もそれを疑っているのだろうと容易に想像できる。
 隆山温泉に向かう特急は冷たい日差しを弾きながら、ビニールハウスの骨組みが乱立する畑を抜ける。
――もうすぐ隆山…か
 何事もなければいい。
 彼は手元のスポーツ紙をぐしゃと握りしめて、シートに深々と身体を埋めた。
 千鶴は今日仕事を休んで、屋敷で自分を待っているという。
 連休には旅館の仕事が詰まっているというのに。
――梓、お前…
 空を覆う雲のせいか、非常に寒い。
 いつ雪が降ってもおかしくない、そんな雲行きだ。
「あ、すみません、病院に向かってもらえますか?」
 彼は一つ思いついて、行き先を変更した。
 腕時計を見ると午後三時。まだ時間はある。
――楓ちゃんの様子を見てこよう
 何となくそこに答えがあるような気がした。
 楓の入院している病院には何度も通ったから、嫌と言う程道のりも病院の構造も判っている。
 どの部屋にいて、どんな治療を受けていたのかも。
 彼女の家族だと受付で言い、彼は楓の病室にふみこんだ。
「楓ちゃん」
 白い病室。ただひたすらに白いシーツにくるまれて、彼女は眠り続けている。
 耕一は返事がないことを知っていても、入る時には必ず彼女の名前を呼んだ。
「久しぶり」
 そして、彼女の側に行く。
 まだ生命維持装置は必要ないらしく、彼女の身体をモニターする機械が僅かに並んでいるだけ。
 点滴が痛々しい。
 思わず手を伸ばして、彼女の頬に触れる。
 冷たい。
 まだ人の温かさを持っているのに、彼女の身体は冷え切っている。
「楓ちゃん」
 もし信号を出してるんだったら、話しかけてよ。

  ぽ  ぽぽ

 シーツにゆっくり染みが広がっていく。
 耕一は立ちつくして、彼女の顔に触れたまま項垂れていた。

 応えはなかった。
 数分程彼女の側に立ちつくし、彼は千鶴の待つ屋敷へと向かった。
 タクシーの中ではラジオがニュースをたれ流していた。
 無機質な事実だけを述べる声が、耕一の耳に突き刺さる。

  『殺人事件の続報です。先程通報があり、昨晩より怪しい人影を見かけたという…』

 タクシーの運転手はちらと耕一の方を見たが、彼は何も言わなかった。
 ラジオは、大した情報を流していなかった。
「わざわざすみません」
 三和土にまで顔を出した千鶴はスーツを着ていた。
 やはり仕事中に時間を合わせて来てくれたのだろうか。
 耕一はそう思って頭を下げる。
「いや、千鶴さんこそ。それに…これは自分たちにとって重大な話ですから」
 彼女は表情を強ばらせるように、真面目な顔をして僅かに頷く。
「はい。…ともかく中へどうぞ」
 このお屋敷は隆山でも有名な屋敷である。隆山で『柏木のお屋敷』といえばタクシーで連れて行って貰えるのだ。
 古くは曾祖父まで遡る程古い物らしい。
 非常に手入れが行き届いているために、これだけ古いと逆に丈夫なのである。
 十分に水分が抜けて、柔軟性が増した木材は耐震性にも優れる。
 そんな武家屋敷のような廊下を歩きながら、耕一は感じた。
 ここは、二人ではあまりに広すぎると。
 広すぎて――寂しいと。
 二人で居間に入ると、一度千鶴は台所に向かいお茶を煎れてくる。
「もう事件はご存じですよね」
 お茶を入れた湯飲みを彼の前に置き、千鶴はちゃぶ台の向こう側に座る。
「…はい。…あれは本当に『鬼』の仕業なんですか?」
 どう見ても人間業ではないが、かといって鬼の仕業とするには証拠がない。
 千鶴は沈痛な面もちで頷く。
「間違いありません。現に、強い『鬼』の気配がこの町にあります」
 耕一さん以外の、と一言付け加える。
 その気配は突然隆山に現れた。
――…少なくとも、梓じゃないはずだな
 梓なら昨晩から『鬼』の気配をまき散らしているはずだからだ。
 熱い茶を一口含んで、耕一は難しい顔をする。
「そんなに気配って分かるものなんですか?」
 耕一にはよく判らない事だった。
「私の場合は若干です。意識を信号に変える話はご存じですよね」
 その信号をたぐる事で居場所を探るというのだ。
 逆に言えば、信号を完全に制御できるのであれば、その気配を隠す事ができる。
 これができるのは相当の力がなければならない。
「じゃぁ楓ちゃんは」
「ええ…『まだ確かに生きています』。でも、それだけです」
 彼女の信号が流れているということだ。
 真剣な表情を曇らせるとそこで一度言葉を切った。
 沈黙が続きそうになって、耕一は無理に言葉を継ぐ。
「梓、どれだけ鬼について知ってるんですか」
「あの娘は特別です、耕一さん」
 僅かに笑みを浮かべて、彼女は両手で湯飲みを取り上げる。
「一番鬼の力が弱い娘なんです。せいぜい力が人並み以上になる程度で」
 楓と梓は、言うなら表と裏だという。
 梓は信号化の能力が乏しく、楓は信号化の能力以外はあまり顕著ではない。
 個人差があるとはいえ、その能力も歳とともに増大するものらしい。
 耕一や千鶴、彼らの父親のように。
 男性の場合それが際限なく大きくなるものなのだ。
 そして、耐えきれなくなって…死を選ぶ。
 それを防ぐ手段はどれだけ自分について知っているか。
 『鬼』の自我をどれだけ自分の意志にできるかにかかっている。
「だからまだ『子供』なんです」
 柔らかい笑み。
 きっと本当に母親のような感情で、彼女は笑みを浮かべているのだろう。
 耕一にはそれが泣き顔のように思えた。
 彼女の笑みが優しければ優しいほど、痛々しく感じられた。

  がららららら

 耕一が何か言おうとした時、玄関から声が聞こえた。
「ごめんください」
 聞き慣れた声。あの顔の長い刑事だろう。
 千鶴が立ち上がろうとしたのを耕一が手で制して、軽く首を振った。
「それどころじゃないって、追い返しますから」
 千鶴が断るよりも早く彼は玄関に向かう。
 険しい顔つきで玄関に姿を現した耕一を迎えたのは、しかし若い刑事だった。
 彼一人だけしか来ていなかった。
「どうも」
 彼は不貞不貞しい態度で一礼すると紺色のジャケットから一応手帳を出して、自分の写真を見せる。
「今度は何ですか」
 この調子だと毎日来ているのだろうか。
 そう思うと耕一は苛立たしくなって吐き捨てるように言った。
「いや、実はお聞きしたいことがあるんですよ」

  どくん

 その時、耕一は気がついた。彼がいつの間にか口元に冷笑を浮かべていた事に。
 心臓が締め付けられるような感覚を覚えたと思うと、居間の方で千鶴が動く気配があった。
「『鬼』の件でね」
 雰囲気が一変していた。
 若い刑事から冷気が放射されている。
――こいつが
 耕一は歯ぎしりして彼を睨み付けた。
――もう一人の『鬼』か
 こうやって悠々と姿を現したと言うことは、何か理由があるのだろうか。
 蛇ににらまれるように指先まで動く事ができなくなる。
「…何故」
「俺の名前は柳川祐也。…耕一?だったよな。俺はお前の叔父にあたる」
 にっと笑みを浮かべた彼の口から牙が覗く。
「爺さんの隠し子…だ」
 彼は目をつうと細めると嘗めるように耕一を見つめる。
「何しに来たんだ」
 威圧的な彼の気配に押されたまま、耕一は何とかそれだけの言葉を絞り出す。
「邪魔者を排除に」
 彼は嬉しそうに笑うと、しかし一歩後ろに下がる。
「…鬼の証拠を片っ端から消して回る。さもなければ俺が困るからな」
 すっと先刻までの威圧感が失せ、血の気が戻ってくる。
 若い刑事は懐から手帳を出して開く。
「あんな風に派手にやられちゃ、困るんだよ。公園での無差別殺人」
 手帳に書き留めた事件の概要を見ながら、彼は続ける。
「何か心当たりはないか?」
 つい、と手帳から顔を上げて僅かに上目で耕一を見る。
「死亡推定時刻は、昨晩の二時過ぎというところだが」
「お帰り下さい」
 力強い声。
 耕一はその声で呪縛から逃れたように、声の方を振り向いた。
 そこには千鶴が凛とした表情で立っていた。
「お答えすべき事はありません」
「…分かりました。では今日のところはこれで引き上げよう」
 柳川はぱたんと音を立てて手帳を畳むと、それを懐に入れながら背を向ける。
「あぁ、そうだ」
 そして、思い出したように振り向く。
「邪魔なら、容赦なく狩るぞ」
 そしてあの笑みを浮かべ、もう一度繰り返した。
「邪魔なら、な」
 がらがらと音を立てて玄関を閉め、彼は立ち去った。
 柳川が門をくぐるまでの間、二人とも動くことができなかった。
「耕一さん」
 千鶴の声に、耕一は振り向いた。
 全身の筋肉が悲鳴を上げている。
「大丈夫ですよ千鶴さん、梓は…梓がやったんじゃない」
「違います」
 千鶴はゆっくりと首を横に振る。
「あの人から、血の臭いがしたんです」
「血?」
「…あの人なら、言葉通り簡単に人間を殺すでしょう」
 両手を胸の前で合わせて、彼女はぎゅっと握りしめる。
「早く梓を見つけないと」


第3話 予告

「ひと思いに楽にしてあげるから」
 彼女の中で繰り広げられる過去の出来事。
 『夢』は心を叩いても、それが彼女を安心させることはない。
 気がつくと、夕日が差し込んでいた。
「それは誤算などではありません」
 何故そこまでして自分の血を絶やそうとするのだ?

「間に合っ…た」
 襲いかかる鬼、迎え撃つ鬼。
 過去の戒めは彼らを詛い殺そうと企み続ける。

    「んだったらさ、褒めるついでに言うことを聞いてくれる?」

 Sweet Child O' Mine 第3話
 
   当然だ。獲物を狩り、命の炎を喰らう事が俺の――生存本能だ


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