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Sweet Child o'mine

※注意※
 この作品は痕の後日談であり、『楓ちゃんED→柳川ED』の流れを汲むSSです。
 楓ちゃんファン非推奨作品であります。
 怒らないでね。


 彼女の微笑みは子供の頃の思い出を蘇らせる

 あの頃は全てが

 青空のように新鮮で

 彼女の顔を見ると、特別な場所へと連れて行ってくれるんだ

             〜 Guns'n Roses  ‘Sweet Child o'mine’〜

 第1話 What do you want?

 境目。
 彼はまだ境目にいた。
 それが事実なのかどうかも、彼にとってはもうどうでも良い。
 今。
 今がどういう状態なのか。
 今、彼は今までにない開放感の中に立っていた。
 全てが滅びるかのように。
 だがそれは解放とは思えない。
 今もまだ、彼は拘束されているような焦りがあった。
 しかしもはや、もう彼には『どちらなのか』判らなかった。
 押し殺したせいで。
 あまりにその時間が長すぎたせいで。
 充分に麻痺した感情では、それが不快なのかどうかも理解できないでいる。
 自分の中の蟠っていたモノ。
 今自身が感じているモノ。
 滴る血の臭いと生臭いモノの中で。
 それは感情ではない。
 …本能。
 殺人者の本能は、殺すことが生き甲斐なのだろうか。
 狩りを続けるためには、何が必要なのだろうか。
 恨み?憎しみ?

 人間では、ないのであれば。


 東京近郊。
 平和ボケした日本人達が、日常を闊歩し続ける事を許容できる街。
 不法滞在の外国人も、それを狙う台湾マフィアも、そしてそれらに狙われる日本人も。

 東京まで30分程の距離にある二流大学。
 そのとある教場。
 もうすぐ始まるゼミを待つ学生達が既に集まっている。
 盛況とは言い難いものの、単位を取らなければならないと言うほどせっぱ詰まっていない学生が集まっている。
 その中にあって、それ程目立たない雰囲気の彼女。
 まん丸い眼鏡を僅かに揺らしながら、周囲のことなど気にせずに一生懸命何かをやっている。
 かりかりとペンを走らせる音が中空に消えていく。
「よ、元気にしてたか」
 彼女の肩を叩いて、隣に青年が座った。
「こ、耕一君?!」
 にっと笑みを浮かべるいかにも好青年という感じの彼が、柏木耕一だった。
 一応現役で大学生になり、それなりの成績で落第もせずに大学二年生にまでなった。
 人の良さと誰にでも優しい彼は、少なくともゼミの中では中心人物になりがちだった。
 だが、この教場ではそう言うことはない。
 必修の一般教養――全ての学部の学生がここで学ばなければならない――のゼミだからだ。
 彼女、小出由美子と会ったのもこのゼミが初めてだった。
 耕一はあの事件以来口数が少なくなり、大学の友人も彼の変化に――敏感な人間は特に――気が付いていた。
 小出由美子もその一人である。
 だが、最近は声をかけづらいものがあった。
――父方の田舎にいた恋人が事故で植物人間になったらしい
 そんな他愛もない噂のせいで、声をかけづらくなってしまったのだ。
 結局耕一はそれから1週間以上ゼミを休んで、留年が確定していた。

「じゃ、帰るよ」
 結局耕一は夏休みぎりぎりまで隆山に滞在していた。
 もう地元の高校は学校が始まっているが、今日は土曜日である。
 幸い全員見送りに来るという話だった。
――本当に色んな事があった
 次郎衛門と言う名の侍。
 自分の中の鬼。
 そして…楓との事。
「耕一さん」
 帰る直前に彼女の部屋に寄ると、すぐに彼女は駆け寄ってきた。
「はは、どうした」
 ちょうど背丈が耕一の顎までしかない彼女は、非常に抱きしめやすい位置にいる。
 彼女は心配そうな紺色の目を耕一に向けている。
「また来るよ。それに、電話だって通じてるんだし」
 僅かに、楓の表情が翳る。
「…はい」
「どうしたんだよ」
 しばらく無言。
 耕一は彼女が何かを言いたそうにしていることに気がついて、口を挟まなかった。
 代わりに手を伸ばして頭を抱いてやる。
 小さな悲鳴のような声を漏らして、僅かに身じろぎする。
「嫌な…予感がするんです」
 呟くように彼女は言い、僅かに身体が震える。
「分からないんですけど、もう会えないような気がするんです」
「馬鹿、何言ってるんだ」
 ぐしぐしと彼女の頭を乱暴になでると、耕一は彼女の肩を掴んで真正面から顔を見つめる。
「東京に帰るだけだ。心配することなんかないだろ?それに…」
 一瞬言いよどむように彼は口ごもって、僅かに上目に見つめる楓の表情を見やる。
 不思議そうな雰囲気を漂わせた瞳の上で自分の顔が揺れる。
「卒業したら東京の大学に来ればいい。駄目なら俺が連れて行ってやる」
 楓は僅かに目を伏せるように、頬を赤らめた。

 だがそれが本当に最後になった。
 次に彼女が耕一の前に姿を見せた時、もう瞳を見ることはできなかった。
 たったの二日も経っていない。
 耕一は梓に案内を受けて、彼女の入院する病院に向かった。
 軋みすら立てずに扉は開いた。
 小さなベッドに彼女は横たわっていた。
「!」
 耕一は胸を締め付けるような痛みを覚えて歯を食いしばる。
 楓は眠っている。点滴が繋がれたままベッドに横になっている。
 白い肌がますます病的に白くなり、まるで作り物がそこに横たえられているかのようだ。
「楓…ちゃん」

 突然の電話に彼は驚いた。
 楓は買い物の最中通り魔に襲われてしまったのだという。

――通り魔に殺られたって、相手は人間なんだろう?
――千鶴さんにやられた時の方がひどかったじゃないか!
――俺をかばったあの時だって!
「耕一」
 梓は真後ろにいる。
 彼女が真後ろから耕一の両肩を掴むように叩いた。
 痛い程叩かれたが、耕一は振り返れなかった。
「…楓はまだ生きているんだ。呼吸だってしてるし、心臓も動いてる」
 彼女の手がそのまま服を掴み、力を込めて握りしめられる。
 肩の皮を引きずられているようだった。
「でも、ダメなんだ。目が覚めないんだ」
 梓の拳が両肩の上で震えている。
 多分泣いているんだろう。だから、彼女は背中に隠れるようにしてるんだ。
 耕一はゆっくりと目を閉じて、右手を梓の拳に当てる。
「何があったのか、詳しく教えてくれないか?」
 拳が離れるまで数分の時間が必要だった。
 まるでそれが躊躇しているかのように彼は感じた。
 楓が通り魔に襲われたのは、彼女が買い物に出ている時の事だった。
「一緒に買い物に出てたんだ。あたしがちょっと離れた隙に、悲鳴が上がって…」
 駆けつけた時には、もう血まみれの彼女が地面に倒れていたらしい。
「あたし、もう…何が何だか分からなくて」
 犯人の目星はついていないという。
 彼女が襲われたのは大通りに面した場所で、実際にそんな凶行を行う事は難しいはずだ。
「手当も間に合わなかった…脳に血液が回らなくなって5分しか持たないって聞いた事ある?」
 しゃべっている間中、梓は拳を握りしめていた。
 口調も、今までに聞いた事がないぐらい弱々しかった。
 それだけ立て続けに身内を亡くした事が堪えているのだろう。
 ここまで弱気になった梓を見たのは初めてだった。

 入院している間付き添いの人間がいないからということで、彼もしばらく滞在していた。
『あまり長期間は…』
 長女である千鶴が半ば無理矢理に耕一に帰宅させた。
 もしそれがなければ恐らく…耕一には帰る気はなかっただろう。

 ゼミに顔を出すのはかれこれ3週間ぶりぐらいだろうか。
「どうしたんだよ、そんなに驚かなくてもいいじゃないか」
 僅かに肩をすくめるようにして、彼は由美子の隣に腰掛けた。
「ええ、ううん、ごめんね。ちょこっと考え事してたから」
 そう言って由美子は僅かに笑みを見せて眼鏡に指を当てた。
「でも久しぶりね。休み明け以来だもんね…ああ、そうだ」
 由美子は何かを思いついたように目を机に走らせて、一枚紙をつまみ上げる。
「じゃーん」
「え…」

 『クリスマスコンパ開催のお知らせ』

 彼女が見せた紙にはそう書かれている。
「先刻はこれを作ってたのよ。…ちょっと大規模にやろうと思ってね」
 大学のイベント用掲示板には似たようなお知らせがいくつもある。
 大抵の場合は友人同士の飲み会になってしまうのだが。
「日程は来月。クリスマスにやろうと思ってるんだけどさ、時期が時期だから」
 通常、クリスマスには休みになっていることの方が多い。
 どうせ休みの直前というのがお決まりのパターンだが、どちらにせよ早い目の告知の方がいいだろう。
「へぇ…こんなものよく考えたな」
 耕一は綺麗に書き込まれた紙を受け取って眺める。
「だめよこれは。原版だから。それで、参加する?」
 由美子さんは小首を傾げて少し上目に耕一を見る。
「いいよ。幹事は?」
「あたし。んじゃ、参加ってことで」
 ペンでメモしながら彼女は言う。
「んで、もし彼女が居るんだったら遠慮せず連れてきてね。じゃないと盛り上がらないでしょ?」
「…って、普通そう言うことは御法度だろ」
「へへへ。いーからいーから」
 それから授業が始まるまでの短い間、彼女としばらく話を続けた。

 やがてバイトを終えて、暗い下宿に――今では彼の自宅と言うべきかも知れない――帰って来ると、彼は留守電のスイッチを入れた。
 楓の一件があって以来、彼は常に留守電を取るようにしている。
 いつでも、隆山からの連絡を記録できるように。
 だったら携帯を持てばいいじゃないかというかも知れない(大学の友人にも言われた)。
 それがめんどくさいからだ。
 理由は分かる。でも、携帯だと何故か自分が縛り付けられるような気がしてならなかった。
『一件目』
 電子音の後、聞き慣れた声が聞こえた。
『ああ、耕一?えーと…11月21日からの休み、行くから』
「はぁ?」
 相手は録音だというのに、聞き慣れた声に思わず聞き返した。
 時刻を確認する。今日の昼過ぎ。どうやら昼休みか何かを利用したのだろう。
 と、妙に落ち着いてカレンダーを見る。
 11月21日。土曜日だぞ?土日明けの勤労感謝の日はともかく。
 いや待てよ、でもあいつは高校生じゃ…
 はたと気づく。法改正により、高校生は第二第四土曜日は休みになっている。
――…今日は20だぞ、おい
 いきなり来ることを決めたんじゃないだろうな。
 耕一は自分が向こうへ行く際の時間を計算して指折って数える。
 朝の九時に出て、二時過ぎにつくから…
 …来る。
 奴なら、今日中に来かねない。
 だがもう夜中だぞ?まさか…
 以前この下宿の場所を勘づかれたことがあった。別にやましい事をしていたわけではないが。
 耕一はため息を付いて、取りあえず掃除をすることにした。

 次女、柏木 梓。なにより彼女はがさつで、いいところなど料理の腕ぐらいしかない。
 人並み以上に美少女といえるその容姿が徒になり、彼女の一挙一動が逆に皮肉にも見える。
 ショートカットの似合うボーイッシュな美少女。
 髪の短い男勝りながさつな女。
 ものは言いようだろう。
 ただ、耕一には心配なこともあった。先回帰った際の彼女の雰囲気だった。
 いつも何かしら突っかかってくる彼女が、非常におとなしかったのだ。
 奇妙なほどに。
 あの落ち込みようでは耕一も変に勘ぐるようになるというものだった。
「うぅ」
 11月になってだいぶ寒くなってきた。夜中の9時ともなれば、部屋の中でも十分指先が動かなくなる。
 それでも暖房器具のないこの部屋では唸って震えるしかない。
――電話、してみるか
 彼は短縮ダイヤルを入れて、隆山の柏木の屋敷に電話をしてみることにした。
 数回の発信音の後、がちゃりという音が聞こえた。
『はい柏木です』
 初音ちゃんだ。
 まだ起きてたのか、という疑問はともかくとして彼は聞いた。
「ああ、耕一です。あのさ、実は聞きたいことがあって…」
 電話の向こうが騒々しい。初音ちゃんも電話口で驚いたかどうかして、千鶴さんを呼んでいる。
「…あの?初音ちゃん?」
 返事はなく、代わりにかちゃかちゃという受話器を取る音が聞こえた。
『耕一さんですか?』
 千鶴さんだ。
「は、はい。何かあったんですか?」
『梓が急にいなくなったんです』
 ぴん、と来た。
 梓の伝言から想像するに、これは家出か。
「急に?千鶴さん、実は自分の留守電に梓の声でこっちに来るって…」
 千鶴さんの硬直する気配が、受話器を通して感じられる。
「梓、何も言わなかったんですか?」
 というより、あいつ一人でここまで来る気か?
 お金とか、どうしたんだ。
『…ええ、一言も言わずに…』
「それって、いつ頃ですか?」
 一瞬ひやりとした予感に、彼は聞いた。
『少なくとも夕食を作ってからですから…』
 思わず胸をなで下ろした。
 梓なしでは千鶴が料理を作る障害はないのだから。
『6時頃ではないでしょうか』
 なに?
 うまくいけば終電に間に合う時間帯だな。
 思わず走る戦慄に、全身が粟立つ。
 鬼に睨まれた時よりも恐ろしい予感だった。
『…耕一さん?』
 急に黙り込んだ彼を訝しがった声が、彼を現実に引き戻した。
「分かりました、もしかすると今日中に顔を出すかも知れませんから、連絡入れます」
『そうして下さい』

 無意味な映像が流れる。
 いい加減、こんな夜中までテレビを見て無為に過ごしたのは久々だった。
 それもこれも、梓が来るかも知れないから、起きている必要があったからだ。
 時計が12時を指そうかという頃。
 流石にもう瞼が重くなってきて、どうでもいいやと思い始めて腰を上げた。

  こんこん

 不意に扉が音を立てた。
 そして、もう一度。

  こん…こん

 今度は若干遠慮がちに扉が鳴った。
「…」
 不機嫌そうな半眼で彼は扉を見つめた。
 木でできたこのぼろい下宿の扉には、窓もお飾りのような物しかついていない。
 それも飾りガラスで、電気を付けていても透ける事のない奴だ。
 要するに外に誰がいるのか、中にいるのが誰か分からないのだ。
 そぉっと近づいて、気配を消して扉に身体を押し当てる。
 せめてもの報いに一つここは脅かしてやろう。
 耕一は全身の感覚を鋭く尖らせて、扉の向こうの気配に意識を集中する。
 押し当てた耳に、梓の気配が伝わってくる。

  かちゃり

 細かな金属音。一度回ったノブが元に戻って金具を叩く音だ。
 扉に触れた手が、躊躇うように引き戻された。
 まるで心臓を捕まれたような嫌な予感が彼の脳裏を横切る。
――やばい…
 そう思いながらも否定する自分がいる。
 夜中の都心で梓がそこまで馬鹿な事をするようには思えない。
 一応いいとこの御嬢様で通っているはずだ。
 しかし耕一の頭の片隅には、扉を蹴破るという案がすごく魅力的にも思えた。
 代わりに聞こえてきたのは躊躇うようにうろうろする足音。
 小刻みに床を叩く音がしばらくすると止む。

 何の音も聞こえない静かな世界。
 耳を押し当てた木の冷たさに、耳たぶの感触が奪われていく。
 ほんの一瞬でもものすごく長い時間の様に感じられ、そしてその静けさはあまりにも重かった。
――…少し可愛そうになってきたな…
 鬼の聴力を使えば衣擦れの音も聞こえるはず。
 なのに、目の前の梓は何も音を立てずにそこにじっと立っているのだ。
――待て、梓じゃないかも知れない
 立ち去ろうともしないので耕一は訝しがって身体を起こした。
 もしかすると、ただの酔っぱらいか何かかも知れない。
「…はい?」
 以外に大きな音を立てて扉が開いた
 顔を出した時、妙な物が目に入ったような気がした。
 いや、そこに梓はいた。確かに梓だ見間違うはずもないが…
――どうしたんだ?
 電話で聞いた声とは裏腹に、彼女は妙におとなしかった。
 梓の顔をした偽物と言えば、それを素直に信じてしまいそうなぐらい、目の前の女性から覇気が感じられなかった。
 セイカクハンテンタケを食べた梓はちょうどこんな感じだった。
 梓の趣味にしては落ち着いた黒のコートと、皮の手袋。
 ちょっと考えればそれがかなりの値段のはる物だと気が付きそうだが、ただの大学生には分からない。
 星明かりだけが頼りの明るさの中に彼女が完全に沈んでしまっている。
「こ、こんばんわ」
 彼女はぎこちなく挨拶してぺこりと頭を下げた。
 違和感。
 梓とは違う違和感をその中に感じる。
「…こんな夜中にわざわざ来る程の事か?」
 耕一は彼女を睨むような表情のまま、一歩外に出た。
 返事を待つが、梓は僅かに目を伏せたまま応えない。
 ますます耕一はいたたまれなくなる。
「中に入れよ。こんな寒い中立ってないでさ」
 無言で頷いて、彼女は耕一の側を抜けて下宿に入った。
 この間の一件以来彼女の様子はおかしかったが、まさかこうしてわざわざここまで来るとは。
 耕一は扉に鍵をかけると、梓の背中を追った。
 取りあえず鳴りっぱなしのテレビを消すと、まず千鶴さんに電話を入れて梓が来たことを伝えておいた。
 どうやら、向こうでもある程度『来ること』を予想していたらしい。やはり彼女は起きていた。
――様子が変なのは、千鶴さんにもわからないか…
 電話を切ると部屋に戻って、まだ突っ立っていた梓を取りあえず座らせる。
「何にもないけど…って、別に遠慮する事はないしな」
 ちゃぶ台にお茶をおいて、向かい側に自分も座る。
「…さてと。何でわざわざ、こんな夜中になるのを知っててここまできたんだ?」
 戸惑ったような表情を浮かべてちゃぶ台の上を視線を巡らせて、そしてうつむいてしまう。
 伏せ目のまま、彼女は動かない。
「…」
「…ごめん」
 耕一が口を開こうとすると、梓が小声で言った。消え入りそうな声だ。
 うつむいた彼女の目が卓の上の一点を見つめたまま動かず、ふるふると睫が揺れる。
「あたし…ここにくるべきじゃなかった」
 前髪がちらちらと彼女の表情を隠し、彼女をどこか遠くへとぼかしてしまう。
 あまりに非現実だからだろうか。
 耕一は喉の乾きを覚えて大きく息を吐いた。
「…どうしたのか、理由ぐらい教えてくれよ。まあ、明日から休みだから落ち着いてから話せば」
 普段の美少女顔も、急にくたびれてしまっていた。
 それをきっと引き締めるようにして、彼女は耕一に顔を向けた。
「夢を見るようになったんだ」
 彼女はどこか疲れた表情を浮かべながら、目だけは取り憑かれたように輝いている。
「…夢?」
 耕一には一つだけ心当たりがあった。
 鬼。
 柏木家の血に流れる呪われた宿命。
 彼が覚醒したのも、夢の御陰だった。
「うん。…いつの時代のどこの話か分からないんだけど、妙な夢なんだ」

 真っ暗な夢の中で、大きな満月だけが輝いている。
 少し離れた所に、小柄な、見たこともない装束を着た女性が立っている。

「…知っている人物のようで、どうしても思い出せない」

 その女性は哀しそうな目つきをしていた。
 彼女の向く方には、こちらには一目で時代を感じさせる男が立っていた。
 髷こそまともに結っていない物の、侍の出で立ちだった。

 梓はそれをじっと見つめているのだ。
「それを見ているといても立ってもいられなくなるのに、何もできないんだ」
 彼女にその記憶があるはずはない。
 あそこには――あの河原にはエディフェルと次郎衛門の他誰もいないはずだ。
 耕一は眉を顰める。
「いつ頃からそれは」
「…耕一が帰る、数日前ぐらいから。それが、初めは一週間に数回程度だったのが最近では毎晩」
 そして、彼女は両拳を震える程握りしめる。
「初めは側で見ているだけだったんだ」
 夢に変化はなかった。だが無性に危険な匂いがした。
 それは異常な焦燥と、殺意。
 押さえきれなくなる気持ちと、力。
「最近、気を抜くとどこでもその夢を見るようになった。
 夢を見ている間は、まるで自分が自分でないような気がするんだ。
 そして…昨日なんか」
 不意に彼女は言葉を紡ぐのを止めた。
 気まずい沈黙に包まれた時、梓はいきなり笑い出した。
 妙に乾いた、軽い笑い。
「止めろよ耕一、こんな嘘臭い話」
 いつものように冗談で笑い飛ばそうとして、顔が引きつっている。
 目だけは怯えた光を湛えて、笑っていなかった。
「…嘘だって言ってくれよ」
 それは何故か非常に自虐的な様に見えた。
「梓」
 夢を見る原因は恐らく楓だ。
 耕一は楓が思考を信号に変える能力に長けている事を、十分に思い知らされている。
「嘘じゃ、ないんだろ」
「…耕一…」
 思惑とは裏腹に真剣な表情を返されて梓は口を堅く閉じる。
 きっ、と睨み付ける表情も結局は恐怖の裏返し。
 今自分に起こっている何かが判らない事への恐怖。
 非現実的な事に目を背けるための――すがりたい気持ち。
「良い方に考えろとは、俺には言えないが」
 楓が何らかの信号を発している。
 と言うことはまだ楓は死んでいないと言うことになるが、梓にとってはそれが逆効果になっているようだ。
 梓は良くも悪くも思いこみの激しい所があり、勝手に自分の中に沈んでしまう事がある。
 激情に流されやすいとも言うが、今回はそれを制しようとしていた。『姉』として。
 彼女にも鬼の力がある。
 それが、楓の影響で暴走しようとしているのだろうか?
「鬼の――柏木のちからについては知ってるんだろ?」
 一瞬目を丸くした。
「…耕一…」
 耕一は表情を変えず、ただ彼女を見つめた。
 まだ梓は耕一が覚醒したことを知らなかったのだ。
 戸惑うように目を泳がせて、僅かに上目遣いに耕一の前で視線を止める。
 頷く。
 僅かに表情をゆるめる彼女を見て、耕一は胸をなで下ろした気分になった。
「心配するな。何かあってもここなら大丈夫だ」
 梓の表情も彼の言葉に応えて微笑む。
「千鶴さんには俺から伝える。ほんの三日の休みだけど、ゆっくりしていけよ。
 お前がそんな元気のない顔をしてたらみんなも嫌だろう」
「…ありがとう」
 殊勝にも礼を言い、彼女は顔を伏せた。

 取りあえず寝ることにしたが、梓には悪いが布団がない。
 何せ狭い大学生の一人暮らし、一人分の布団があるだけでもましというものだ。
 まして、そんなところに女の子など『普通は』住めるはずはないのだが。
「俺の布団で良ければ、貸すから」
 以前に彼女が――その時は千鶴さんを除く姉妹で来たが――来た時には季節は夏。
 それにあの時は千鶴さんがつてを使って近くの宿を取って、そこに泊まっていたのだ。
 一度どんちゃん騒ぎをした日は、一人ここに倒れていたが。
 今は11月も末、冬真っ盛りという時期だ。しかも暖房器具と呼べる物はない。
 まさか雑魚寝という訳にもいかない。梓も女の子だ。
 かといって、同衾する程子供ではない。
「…耕一は、どうすんのさ」
 当然の質問だろう。
 彼女はコートを脱ごうとしない。
 別に他意があるわけではなく、それだけ部屋が寒いと言うことだ。
 ちなみに、耕一は上下ウィンドブレーカを『部屋の中で』着込んでいる。
 貧乏大学生の冬など、凍てつく部屋が当然なのである。
 唯一の暖房器具である布団を差し出せば凍り付いてしまうかも知れない。
「…どうするっつーたって…」
 少し恨みを込めた視線を梓に向けるが、今の彼女を虐める程、人間ができていない訳ではない。
 そんな事ができるのは鬼だ。
 いや、正真正銘間違いなく鬼だけど。
「ねぇ。お前がそんなこと気にするなよ。ここは俺ん家だし、俺は俺の寝場所を作るさ」
 少し強気に、悔し紛れに吐き捨てる。
 言いながらちゃぶ台を端に寄せて立てかけると、押入を開いて布団を取り出した。
「きちんと新品を干してクリーニングだってしてんだ。匂いも染みも付いてないぞ」
 煎餅にもなってない。
 さすがに羽毛布団などという高い物ではないのだが。
「それに同じ部屋に寝る訳にいかないだろ」
 彼女が何か言おうとするのを、耕一は遮って言う。
「今のお前には俺が側にいるのは逆効果だ。…どっちにとってもあんまり良いことじゃない」
 誰彼構わず頼りそうな、握りつぶせそうなぐらい弱々しい彼女。
 でもその一瞬の安息を求めるだけなら、これ以上関わらない方が良い。
「…自分の問題なんだろ」
 諭すような声に、梓はもう一度ゆっくり頷いた。
「…うん…」
 実際痛々しくてこのまま放っておくのはどうかと思える程、参っている様子だった。
 が、それにつけ込むようでは男じゃない。
 実は梓には言った物の、むしろ自分の方が危ない事は自覚できているようだった。

 11月21日、土曜日。

「う…」
 妙な寝苦しさに彼は目を醒ました。
 見覚えのない天井が目に入って、一瞬記憶の混乱が生じる。
――そうだ、結局俺は隣で寝たんだっけ…
 普段と違う風景に、彼は戸惑いながら体を起こした。
 ウィンドブレーカの上にマウンテンパーカーを羽織ってソックスを履いて、上にジャンパーをかけて寝たのだ。
 寝苦しい事この上ない。
 しかも普段から物置のような状態にしているために背中や脚やら、あちこちの筋肉が痛い。
 寝不足にならなかったのが不思議なぐらいである。
――でもなぁ…あいつと同じ所で寝られるかよ。他の連中ならともかく、梓の奴は…

  ぶんぶん

 思わずとんでもないことを考えそうになり、耕一は気を静めるために頭を振った。
 取りあえず着替えをして、顔を洗いに行く。
 ほとんどお湯を沸かす以外に使われていないガスコンロの音、何かが煮える匂い。
 耕一は眉を顰めて曇りガラスの障子を開く。
「あ、おはよ。台所借りてるから」
 明るい顔を浮かべて彼女は振り向いた。
 どこから用意したのかエプロンをつけて。
 何故か――いや、判っちゃいるが――台所は妙に綺麗に片付けられてるし。
「あ…ああ、あ…」
「材料とか包丁とか調味料はあんまりなかったからそれなりだけどさ」
 耕一はそれ以上は声も出せず絶句している。。
 恐らく一人暮らしの台所と言えば、洗い物が積み重ねられて汚らしい物だろう。
 耕一の場合、ゴキブリが住処を求めて逃げるほどの有様だったはずなのだが、今やそれが人並みにまで回復している。
――どうなってるんだ?
 梓の料理をする背中を見ながら、彼は唖然とするしかなかった。
「…どうしたの?」
「いやどうしたって…」
 馬鹿みたいにあんぐり口を開けていた彼は、それを強引に手で閉じると顔をぱちんと叩く。
「ありがとう」
 取りあえず礼を言うことにした。
 それからしばらくして。
「お待たせ」
 彼女は朝食を卓の上に並べた。
 何故か目の前に並んだのは、御飯(炊飯器もないぞ)、豆腐とワカメのみそ汁、鮭の切り身。
「…みそやら豆腐やら、うちになかったろ」
 たしか、冷蔵庫にはつまみ(出来合いの物)とビールぐらししか無かったはず
 梓はあはは、と笑って鼻の頭をかいた。
「少し、うちから持ってきたんだよ」
 じとーっと半眼で梓を睨むと、冷や汗を垂らしながら愛想笑いを浮かべている。
 食料を持参するなど信じられる物か。
「…米は」
「お鍋で。炊き方知ってるから」
 試しに口に含む。
 むぐむぐ…
 にしては焦げもないし、やたらふっくらしてるし。
――電子レンジはないしなぁ
 どうせ帰るつもり無くて、その辺のコンビニあたりで食材を買ってきたに違いない。
 冷蔵庫を調べるまでもなく、こういうところはきっちりしている。
「…ま、いいだろう」
 抜け目のない奴だ。
 どうせ家出確信犯なのだ。問いつめたところでどうしようもないだろう。
 今はその話に触れるべきではない。
「いただきまーす」
 それに、いい匂いにつられる方が早かった。
 大体いつもパンだけとか生卵だけとか、良くて弁当の冷たい残りぐらいなものだ。こんな豪勢な朝飯は久々だ。
 自分の分を口に運びながら、耕一は梓の様子を見た。
 血の気の抜けていた昨夜に比べてずっと生気が戻ってきている。
 気のせいか頬も緩んでいる。
「梓、落ち着いたか?」
 彼女は顔を上げてにっと笑って言う。
「うん、こっちに来たらあの夢も見なかったし」
 耕一は胸の奥で警鐘が鳴り響くのを感じながらも、それを顔には出さなかった。

 『こっちに来たら』。

 やはりそれは楓のせいなのだろうか?
 楓が生きている証拠ではあるが、初音のように感受性の高い敏感な娘にも影響を与えるのではないだろうか?
 千鶴は鬼の事を良く知っているし、充分に力を使いこなせる。心配はないだろう。
――…生きているのは嬉しいんだけど
 もしかするとそれによって梓のように思い悩んだりするかも知れない。
――千鶴さんなら…どうするだろう?やっぱり俺のところに来るのだろうか…
 それに、何も知らない初音も。
 耕一は朝食を食べながら、嫌な予感が脳裏を横切るのを抑えることができなかった。

「さてと」
 梓が洗い物をしているうちに耕一はさっさと着替えてしまう。
 黒いジーンズに濃い紺色のシャツ。あとは皮のジャケットを羽織るだけ。
――うーん
 実は、土曜の午前中に補習の講義を貰っていたのだが…
「なー耕一、今日暇ある?」
 こんな風に壁越しに聞かれたら、どう答えるだろうか。
 急にアポも取らずに来た癖に、とは思うものの、断るつもりはない。
「どうせそれをあてにして来たんだろ?全く…」
 えへへ、という照れ隠しのような笑い声が聞こえた。
 それでもわざわざ隆山から出てきたのに、こんな下宿に一人放って大学なんぞ行けない。
 いや、連れて行く気にもならないが…
――いいや、どうせ留年だし
 来年取り直せばいいや。
「暇だよ。東京でも案内して欲しいのか?」
 暇、と言った途端に梓の顔が台所から覗いた。
 考えてみれば、洗い物をしている場所から一歩も踏み込めば顔が見える位置なのである。
 何せ、狭い下宿なのだから。
「うん…耕一さえよければだけど」
 気乗りしないような返事を返しながらも嬉しそうなのが耕一には分かる。
――ま、これだけ余裕があるなら大丈夫だろう
 昨晩はそれどころじゃなかった。
 幽鬼のような力のない彼女は絶対に梓ではなかった。
 こんなことで少しでも元気になってくれるのならば、安い物だろう。
 幸い今日はいい天気だ。秋晴れというのだろう、抜けるような澄んだ青い空が目にまぶしい。
 片づけも終わって、二人は下宿を出た。
「昨晩はどっちから来たんだ?」
「タクシーつかって、すぐそこのスーパーに来たんだ」
「だったら、駅の方向は判るか?」
 近場を少し案内しながら、駅の方へ向かう。
 耕一の下宿は駅から歩くとかなりの距離になるが、それでも30分もかからない。
 少し気を紛らわせるのにもちょうど良いだろう。
「へぇ、耕一って、こんな所にすんでたんだ」
 梓はほんの少しだけ嬉しそうに笑い、耕一の方を見た。
「いいところじゃないか」
「全然。隆山に比べりゃ大したことのない街だよ」
 確かに物はある。
 便利さもここではたたき売りされている。
 薬ですら――それが犯罪だとしても――手軽に手に入れることができる。
「俺はそう思う」
 話す彼の横顔をじっと見つめる梓。
 梓は今まで隆山で生活してきて、東京のような都会にはある種の憧れを持っている。
 でも、自分が生活している隆山に誇りのような物を感じている。
 梓は耕一の言葉を飲み込むように聞いて、にやにやと笑みを浮かべた。
「…ふーん」
「何だよ」
「いや、何でもないよ」
 梓はくすくすと笑うと耕一の肩を思いっきりはたいた。

 電車に乗り、東京へ向かう。
 言うまでもないが大学とは違う方向へ。
 普段から誰にでも付き合いのある耕一でも、公認の彼女はいないことになっている。
 そんなところへ梓を連れて行ったりしたら絶対に噂に昇る。
 そうでなくとも隆山の『恋人』の噂が流れているのだ(本人は知らないのだが)。
 と言うわけで大学には行かず、耕一は取りあえず山手線を自由に回れる切符を二枚買った。
 周囲の景色は既に冬色一色に染まり、行き交う人々のも暖かそうな服を着込んでいる。
 襟を立てた黒いコートに、黄色いカチューシャを頭に巻いた梓もそれなりに似合っている。
 普段活動的なだけにこういう格好は似合わないと思っていたのだが、逆によく似合う。
 付け加えて言うと、こうして見ても決しておとなしそうには見えないのだが。
――うーむ…
 耕一はというと、最近新調した皮ジャンにジーンズというラフな格好。
 無論買った月は飯抜き1週間だったから、手入れはまめに行って、滅多に着ることはない。
 カビなど生やしたりしたらあの苦しみに意味を見いだせなくなってしまう。
「そう言えば、東京は初めてになるかな」
 初めての場合どこに行きたいという時『話にしか聞かない場所を見たい』というのが主になる。
 梓は以前耕一の下宿を訪ねた時は、千鶴の仕事の関係で東京まで脚を伸ばせなかったはずだ。
「一度、修学旅行で来たよ。去年の話だから」
 耕一は肩すかしを喰らったように生返事を返す。
「…その時いけなかった所、行ってもいいかな」
 遠慮がちに彼女は付け加える。
「そりゃ、いいよ」
 そっちの方が助かる。
 修学旅行としては基本的なコースだったらしい。首都圏を一周して、ディズニーランドを見ての二泊三日。
 関東近辺としては非常に標準的なのだが、このせいで地方県民は千葉県のディズニーランドが東京都内にあるように思うらしい。
 名前も東京ディズニーランドだから紛らわしい事この上ない。
 そして、梓が選んだのは新宿東口。
 俗称を『アルタ前』。テレビやゲームでも新宿と言えば大抵ここを指して言う。
「耕一、今馬鹿にしただろ」
 梓はむくれたような顔をしたまましばらく恥ずかしそうにしていた。
「いや、来たことのない奴ならごく普通だよ。別に馬鹿にしてないよ」
 しかし、耕一の表情は若干笑っていたようだ。
 即座に首根っこふん捕まえられて殴られたのは言うまでもない。

 新宿。
 相変わらず人混みでごった返したここはあまりに人が多すぎる。
 隆山のような閑散とした田舎に住んでいると、これが日常であるというのは嘘のように思える。
「ごみごみしてるね」
 梓は端的な感想を述べた。
 それまで映像の向こう側でしかなかった世界が目の前に広がっている。
 半ば憧れだったもの。
 でも、それが目の前に現れると急に色褪せてしまう。
「あんまりいい場所じゃないよ、ここ」
 耕一もそう思う。
 祭りの時の隆山でもここまで人が密集することはない。
「特に何があるわけでもないのにな」
 アルタ前を横切って行こうにも、むっとした人の流れに呑まれそうになる。
「ほら、梓こっちだって」
 放っておいても大丈夫かと思っていた梓が、以外に不器用に人の流れに逆らっている。
 業を煮やして、耕一は梓の腕を掴んで引き寄せる。
「全く、何のろのろしてるんだよ」
「五月蠅い、そんなに引っ張ったら痛いだろっ」
 顔を真っ赤にして思いっきり頭を小突く。
「痛っ、お前が悪いんだろ、全く」
 無理矢理腕をふりほどいて彼女は耕一から一歩離れる。
「フン」
 思いっきり顔を背けて嫌そうにする彼女に、耕一はため息をついた。
 新宿駅東口からコマ劇場に向かう通りを歩くと大抵の娯楽はある。
 カラオケもこの辺なら安い物だ。
「ゲーム…は、やらないか」
「うん、知らない」
 耕一の問いにあっさりと答える。
 元々活動派の彼女の事だ、こういう場所での遊び方も知らないかも知れない。
「んー、だったらどうしようか」
 元々あまり真っ当な遊びとも言えないだろうし。
 昔から釣りやら山登りやらに明け暮れてた梓にとっては目新しいかも知れないが…
「耕一、何か買い物できる所ないかな」
 目だけを彼女に向けて、耕一は応えた。
――買い物、ねぇ
 この辺なら駅のビルが一番まともなはずだ。
 思わずあれやこれや変な店を思い浮かべて慌ててその考えをうち消す。
――そうだ、確か百貨店があったよな
 しかも、結構高い店だ。
「言っとくが、俺は金がないからな」
 万が一に備えて釘を差しておく。が、梓は不敵な笑みを浮かべる。
「ばーか、そんなこと百も承知だよ」
 そのまま横から首に腕を回して耕一のこめかみを拳でぐりぐりする。
「貧乏学生の癖にっ、下手な気をまわすんじゃ、ねーっての」
「こらっ、やめろっ」
 けらけら笑う梓をふりほどいてむすっとする耕一。
 梓は笑うのを止めずに耕一を見ている。
「…なんだよ」
 耕一はむっとした表情で梓を睨み付ける。
「いや。そんなこと気にするなんて思わなかったから」
「…悪いか?」
「怒った?そんなに怖い顔しなくてもいいじゃないか。それより早くいこーよ、ほらぁ」
 耕一の腕を取って、彼女は妙に嬉しそうに言った。
 その様子は物をねだる子供のようだった。

 百貨店。女性服飾雑貨。
 珍しくはしゃぐ梓に引きずられるように見て回る。
「こんなの似合うかな…」
 おい、似合ったとしても買えねーって。桁が二つぐらい違うぞ。
「次、次!」
「あー、店員さーん!」
「だから 頼むから大声で呼ぶのやめれって」
「なんだ耕一、なに疲れた顔してるんだよ」
 全く聞く耳を持たない。
「こーいうの似合うだろ?」
「耕一だったらどういうのが良いと思う?」
 ううむ。
 あちこち引きずられながら耕一は頭をかいた。
 梓も一応は女の子ってことだ。
 ここまではしゃぐとは思ってもいなかったが。
――しかしこれで少しは気が晴れるだろう
「おーい、こーいちー!」
 だから大声で呼ぶのはやめれっていうのに…

 それから約2時間後。
 耕一は気分的に最早最低である。
「何だよ。男の癖にあっさりへばりやがって」
 注文したコーヒーが来る間に早速梓が愚痴る。
――誰のせいだと思っている誰の…
 買い物に夢中になっている梓を引き留め、珈琲屋で休憩を取ることにした。
 結局耕一は無理矢理梓を引っ張ってここへ来た。
 ここは通りに面した屋外に机を並べているのが売りであり、人もそれなりに入っている。
 首都圏では珍しくない喫茶店である。
 びっ、と人差し指を彼女の鼻先に突きつける。
「梓!」
 梓は身体を仰け反らせるようにしてそれから逃れる。
 寄り目になって彼の人差し指から、耕一に目を向ける。
「な…なんだよ」
「あれじゃ田舎者丸出しだぞ」
 梓の頬がかあっと赤くなる。
 できる限り調子を抑えるようにして、彼は続ける。
「頼むから大声で呼ぶのだけはやめてくれ」
 何か言いたげな顔で口をむぐむぐさせているが、やがて彼女はそのままこくんと頷いた。
 やがてコーヒーが届く。ちなみに、梓は紅茶を頼んだ。
 何故か、無意味に高尚な雰囲気がする。
「耕一、次日暮里あたりに行こうよ。あの辺でスポーツ用品売ってる店があるだろ?」
 雰囲気ぶち壊し。
「…どうでも良いが…詳しいな、お前」
「いいからいいから」
 ころころと笑う梓を見ていると何故か、何もかも馬鹿らしく感じてしまった。
 ため息をついて安心すると、彼は彼女に合わせて笑った。

 耕一はそのまま完全に主導権を取られたまま買い物を続けたのだが、何も買わなかった。
 買えなかったのではなく、そうやって店を回るのが楽しかったからだ。
 本当に買いたい物もあったかもしれないが…ウィンドショッピングと言う奴だ。
 決してひやかしと言っては行けない。一応は男女で見て回ったのだ。
 日が暮れそうな時間になって、上野にある公園についた。
 傾いた日差しが木々の間から零れて、冷たい風は道路の上を走っていく。
 手ぶらで歩きながら、大きく深呼吸する。
「都心のすぐそこって所にも、こういう場所があるんだ」
 梓の言葉に、耕一は笑う。
「多分逆だと、俺は思うけどな」
 耕一は都会の真ん中にあるこの緑を、どうしても隆山の田舎の風景に重ね合わせて比べてしまう。
 どうしても『自然』に感じられないこの一角と、雄大な自然を思わせる『雨月山』とを。
「え?」
 梓は不思議そうな顔で彼を見返した。
「人も物も集中したごみごみした所だろ?隆山と比べて」
 耕一は、何故かこの緑も灰色のコンクリートと冷たい金属の臭いが染みついた幻影の様に思えた。
 大きな偽りのための幻。
「多分人間ってのはそんなものだけで生きていけない事を知ってるんだよ」
 だから逆に都会にはこんな緑があるはずなのだ。
 他の地方都市には、大きな公園も必要ない。
 ほんの少し脚を伸ばせば、そこに緑はあるのだ。
 耕一の言葉に僅かに微笑みを返して、梓は再び木々に眼を移した。
「…そうかも知れない」
 さあっと風がふき、木々がざわめいた。 
 夕暮れの景色の中、木枯らしに梓の髪がなびき、彼女の表情に陰りがさす。
――!
 一瞬、ほんの一瞬その横顔が、楓と重なる。
 いや、その姿は楓ではなくその前世――エディフェルの姿だ。
――まさか…
 梓と楓、初音と千鶴の顔がよく似ているのは、恐らくそれぞれ父親、母親譲りだからだろう。
 姉妹、それも梓と楓の顔立ちは千鶴や初音より良く似ている。
 今はそのきつめの吊り目が重なるだけなのだとしても。
「耕一」
 何の気なしに気軽にかけられた声。
 まだ彼女は背中を見せたまま。
 耕一はふと顔を上げるようにして彼女を見る。
 ほんの僅か、すぐ手を伸ばせば届く位置に彼女はいる。
「あたしさ、このままこっちに住んでもいいかな」
 周囲の時間が凍り付く。
 いや、凍り付いたのは耕一の中の時間だけだ。

  どくん

 先刻の錯覚のせいで、耕一は全身が震えるのが分かった。
 やけに長い沈黙が過ぎて、梓は大きくため息をついて振り向いた。
「なんだよ、冗談なのに」
 その間、耕一は何も言えなかった。
 もし冗談だと言って振り返ってくれなかったら。
――本当に冗談なのかよ、梓…
 軽く殴られながら曖昧に受け答えして、彼は梓を見つめた。



第2話 予告


 『楓を引き取るか、このまま治療を受けるか』
 絶望的な報せに動揺する耕一。

「もしかしてすぐにでも泣き出してしまうかも知れない」
 淡々と彼女は話し続ける。
「だってまだ…夢の中にいるみたいなんだよ、耕一」

 暴走する梓。そして、過去の記憶。
 同時に隆山で猟奇的な殺人事件が起きる。

    「私はここよ、姉さん」

 Sweet Child O' Mine 第2話

   邪魔なら、容赦なく狩るぞ


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