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りみっとぶれいかーず!――Road to the Circuit――

Case:1 隆山 〜乃野坂峠〜 第8話:浩之


ドライビングテクニックってのは、走らないと身に付かないが、身に付いてなければ事故に繋がる。


 テールランプが見えた、と思った時、彼女は自然とギアを一段上げていた。
――あんまり飛ばして、煽るのもよくない
 まだ自動車学校を出て一年という初心者の時期というのは、交通マナーを覚えている物だ。
 もっともマナーある大人が今みたいに峠をぶっ飛ばして走ることはないのだろうが。
 ともかく、梓は一瞬ブレーキを入れて、ギアを上げてアクセルを抜いた。
 乃野坂峠ぐらい急な傾斜であれば、トップギアであれば停止する事なく走ることもできる。
 それでなくても先行する車はゆっくりと迫ってきている。
 四速のまま、彼女はブレーキに足を乗せて、車間が詰まってくるのを感じていた。
 それが、突然弾けるようにして車が加速を開始した。
――あ、危ない
 百七十馬力強に加えて一トンしかない車重。
 フロントエンジンフロントドライブであっても、一度逆ハンドルを入れてタックインさせてやる事で『慣性ドリフト』状態に持っていける。
 無論――相当の腕と道幅があれば、の話だが。
 コーナー手前でブレーキランプが点灯する。
 同時に響く、激しく軋むタイヤの声。
 梓の目の前で、ミラージュがオーバーステア状態に陥った。
 轍で跳ねて、ただでさえ荷重の抜けていたリアがトラクションを失ったんだろう。
――まずい
 梓は自分の速度を考えながら一旦シフトを2速まで落とす。
 金切り声をあげるエンジンを無視するように一気にブレーキング。
――判ってる、大丈夫
 即座にステアは切らない。
 目の前でテールをすっ飛ばしたミラージュのリアタイヤが軋みをあげて地面を捉える瞬間。
 今度はトルクステアでコーナー外側へと引きずられるように走り始める。
 完全に姿勢制御を失ったミラージュが立ち直るまでにどこへ飛び出すか判らない上、安全な場所が有るとは思えない。
 自分の車を制御し切れるかどうか――完全に制動できるかどうかが鍵だ。
 よたよたとコーナー外側にふくらんだミラージュは、既にその時には完全に失速していた。
 ガードレールに接触しても跳ね返ってくるほどの速度ではない。
 対向車線に出れば抜けられる――今ここで停められる程、速度が遅い訳でもない。
――対向車は
 この東京方面から隆山へ向かうブラインドが連続するコーナーでは、先が見渡せない。
 夜中だからヘッドライトで判るだろうものが、すぐそこに接近するまでライトの光すら届かないのだ。
 一瞬の判断。
 梓はミラージュのすぐ側を抜けていくラインを選んで、ステアを入れた。
 その瞬間。
 コーナー出口が、白い光に照らされた。
「っっ!」
 今度こそまずい。
 ミラージュを避けた梓は、そのままブレーキをかけてガードレールと接触するラインに素早く切り替える。
 ぎりぎりコーナーを抜けるか、曲がりきれずに突き刺さるかどちらかだ。
 考える暇もなく明るい光が接近してくる。
 ハンドルを両手で握りしめる。
 ブレーキを入れたまま、ステアを切っていく。
 ぎりぎりと非難するようなタイヤの音と、のんびりと回頭していくシビックがセンターラインを戻って自分の車線に入った時。
 彼女の顔を、対向車のヘッドライトが照らした。
「――――ふう」
 梓がブレーキでタイヤをロックさせなかったのが幸いして、対向車が抜けるだけのスペースはあったようだった。
 ぎりぎり1速にシフトできるか否かのまま、何とかコーナーを抜けて。
 あの緊張する時間が、僅か数秒にも満たない事に、やっと気づいた。
 極度に緊張した時間を経て、梓は大きく息を吐いた。
 既に速度は40km/hを切ったまま、とろとろと夜の峠を下り始めていた。

「どうもすみませんでした」
 降りきったところにある休憩所に車を止めて、冷や汗を拭いながらジュースを飲んで休んでいる彼女の側に、見覚えのない車が止まった。
 ポルシェのようなデザインだが、小柄で、それにリアの形状がポルシェらしくなかった。
 その車から一人の青年が降りて、いきなり頭を下げたのだ。
「え、えっと」
 見覚えもないし、勿論彼女は彼のことを知らない。
「ごめんなさい、いきなり謝られても」
 そう丁寧に彼女が言うと、青年は困った顔のまま、頭を上げた。
 こうして見てみると、多分年はあまり変わらない。
 同い年か、年下――幼い顔立ちをしている。
 彼は難しい顔のまま、まるで何かに困っているように言葉に詰まりながら言う。
「いやあの……先刻の、ミラージュの話なんです。彼、私の先輩で」
 合点はいった。
 でも疑問も残る。
「…その、先輩は?」
「あ、いえ……ちょっと、直接……その」
 歯切れが悪い。
 確かに先刻の事故は大したことはなかった。
 自分も危うく正面衝突しそうになったが、実際にはぶつからなかったのだから。
「あの人は怪我はなかった?」
「ええ。車がぶつからなかった御陰で」
 少しだけ、祐介は顔色を明るくした。
 それで梓も息を吐くように微笑みを浮かべる。
 誰も怪我をしなかった。
 誰も、何も失わなかったのだから、今回は良いだろう。
 梓がそう思って彼に声をかけようとした時、僅かにこもった低音が休憩所に響いた。
 ヘッドライトがまるで誰かを捜すように中を舐めると、ゆっくりと近づいてくる。
――シビックっ
 青年は顔色を変えた。
 今進入してきた車は、月明かりの下でもはっきりと判る、綺麗な白い色をした現行型シビックだった。
 それは何の躊躇いもなく、梓のシビックの向こう側に車を停めると勢いよく降りた。
「やっぱり」
 そして彼は、ため息混じりに梓のシビックを眺めて、視線をそのままフェンダーに座る梓に向ける。
「先刻すれ違ったのは俺だよ。えっと……足立さんの知り合いってのは、お前のこと?」
 何かに疲れたような、草臥れた表情で言う。
 梓は僅かに眉をつり上げて、フェンダーから降りて彼の方に向き直る。
「柏木梓。何だよ、いきなり」
 彼の態度に腹を立てたのか、梓は声のトーンをあげた。
 ため息をついて後頭部をかきながら、彼は視線を逸らせる。
「元気だな…別に喧嘩を売りに来た訳じゃないけど、危ない運転をしてたのはそっちだぞ」
 正当な彼の言葉に、梓は一気に顔を赤らめる。
「な、な」
「俺は藤田浩之。足立さんの知り合いで、ホンダでテストドライバーをしている」
 そしてぽんぽんとEGのフェンダーを撫でるように叩いて口元に笑みを浮かべる。
「お前の乗ってるこれの、元オーナーだよ」 

 

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解説


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