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りみっとぶれいかーず!――Road to the Circuit――

Case:1 隆山 〜乃野坂峠〜 第6話:拓也(上)


サーキットに通じていない公道はない。車の走れる場所は全て、サーキットだ


 『車』は決してただの移動手段ではない。
 もしそれがただの移動手段として開発されたので有れば、この世にはモータースポーツなる競技が存在するのはおかしい事になる。
 それは、コンピュータがそろばんの代わりとして作られたのではない事と同じ。
 こう言い換えるべきだ――『車』は、走るために創られたものである、と。
 まるで抜き身の刃がただ物を切るために鋭く尖らせられるのと同じように、車は走るためだけに最適化される。
 たとえばたまたま走る事で物を運んだり、目的地がある。実はそんなものかも知れない。
 刃が、髭を剃るためだったり果物を切る為だったしても、その本質は変わらないのと同じ。
 ただ切るためだけに鋭く、薄く研ぎ澄まされる。切れなくなれば捨てられる。
 そう言う意味ではモータースポーツというものは、そのものの本質に最も近い使われ方だと言えるだろうか。
 『車は走ればよい』のではなく『走らなければならない』。
――この世で最もつまらないのは、自分の言う事を聞かない車だろう
 赤いミラージュを駆りながら、拓也は思う。
 ハンドルを切る。追随して曲がる、ではない。
 車が曲がるのは彼の意志であり、ハンドルはそれに追随していくのだ。
 通常そういう『切り角』に同じステアリングを『ニュートラルステア』と呼ぶのだが、彼は違う。
 車が曲がる、車が走る、しかも思い通りに――
 車が駆り立てる。
 甲高く咆吼するエンジンに惹かれる。
 だからただ踏み込む。
 速く、速く、もっともっと速く!
 意識が加速し、エンジンは回転数を上げ、サスペンションが大きく沈み込んでロールを起こし、ヨーモーメントに引きずられる。
 その全てが、彼の意識にある『車』の一挙動一挙動と同じでなければならない。
 アンダーステアも、オーバーステアも彼にとっては『そんな車は存在してはいけない』のだ。
 ほとんど狂信とも言うべき、車への信頼。
 否、車への脅迫といわなければならない。
 無理矢理力でその全てを押さえつけ、いかにして従わせるか――それをいつも考えているようにも見える。
「月島先輩、どこか危うげですよね」
 瑞穂は彼のアタックを眺めながら呟く。
 本日三回目のタイムトライアル。今は沙織がゴール地点にいる。
 瑞穂と祐介は東京方面下りの昼間近くにある安全地帯で佇んで写真を撮っていた。
 時々自分たちの走る姿を写真に納めているのだ。
「張り切って走ってるのは確かですけど」
 彼は沙織の話していた白いシルビアを仕留めるんだと、一人息巻いてここで待ち伏せしているのだ。
 弾け出していく彼のミラージュは、ボディが大きく軋みを立てているようにも感じる程激しく峠を駆け下りていく。
「まあ、ね」
 祐介は珍しく普通の私服で佇む瑞穂の相づちを打つ。
 彼女は祐介のため息混じりの答えに首を傾げ、横目で彼を見つめる。
「今のままでも、以前も、やっぱり月島さんは月島さんだから。今の方がいいのか、以前が良いのかは分からないけど」
 声色に諦めが混じり、祐介は視線に応えて貌を向ける。
「どちらも同じかも知れませんよ」
 瑞穂は笑いかけて応え、もう一度真っ暗な峠を見下ろした。
 その時、きりきりとタイヤが軋む音が届いた。
――!
 まだ遠いが、聞き慣れない甲高い音に二人は思わず顔を見合わせる。
 立て続けに聞こえるそれは、慣れたリズムで段々近づいてくる。
「ちょっと、あれって」
 瑞穂の叫ぶような声に、祐介は頷く。
 Sタイヤみたいなハイグリップタイヤを多用するサーキットでは決して聞く事のないタイヤの音。
 普通であれば聞く事のない、そう、事故を起こした時にしか聞く事のないコンフォートタイヤのスキール音。
 それが、まるでレースでもしているかのように鳴きながら迫ってくる。

  きりりり ぎりっ

 鳴くと同時に低くこもった排気音が響き、二人の前に黄色いライトの帯が現れる。
 まるで地面を舐めるように流れたそれの源が、思わぬ音を蹴立てながら二人の前を通過していく。
――!
 コーナー侵入時にタイヤがロックしたように金切り声を上げる。
 明らかに限界に突入しているだろうに、その車体は何事もないかのようにコーナーを抜けていく。
「――」
 祐介の声も、声になっていなかった。
 耳に届いたのは限界を超えたタイヤの音だったのだが、遅れて、ぎりぎりのグリップを発揮する悲鳴が残響した。
 急制動に合わせて抜いたブレーキに、グリップが戻っていくように車体がコーナーを巻き込んでいったらしい。
 そして何よりその車は。
「……シビック……だ」
 前輪駆動特有の挙動を示していた。
「写真撮れました?祐介さん」
 祐介は頷いた。でも、きちんと撮れている自信はない。
 驚いたあまりというのと、今垣間見えたドライバーの姿に意識を完全に奪われてしまったからだ。
――女…の、子?
 まるで少年のように短く刈り込んだ髪、鬼気迫る表情は中性的で判別できなかった。
 もしかするとフラッシュの映り込みかも知れないが、髪飾りのような物が見えたから、女の子かも知れない。
 もちろん、沙織も女の子には違いないが、比べる対象があまりに違う。
 第一走り方が違う。彼女は徹底的な走り方をしない。
 常に安全なマージンをもって走っている。
 でも先刻の彼女は違う。
 どう見てもノーマルのシビックで、しかも限界ぎりぎりのラインで車をコントロールしているように見えた。
 そんなぎりぎりの縁に有りながら彼女は笑っていた――鬼気迫る表情なのに、笑みに彼は感じた。
 もちろんそれだけ速度もぎりぎり、今車体が描いたラインも、ベストとは言えないが速度を保つには限界のラインだ。
 タイヤにかかる負担がどれだけの物か、想像もつかないが。
 ふと祐介の脳裏に苦々しい思いが遮った。
――ノーマル……か
 月島拓也の乗るミラージュは、一部社外品を利用しているが基本的な部分は一切手を入れない「完全ノーマル仕様」だ。
 社外品に交換することは決して悪くない事だとしても、拓也はそれをしなかった。
 但しエンジンは吸排気すら弄っていないノーマルに対し、徹底的に削り軽量化したボディ、剛性パーツとブッシュを固めた足回りとブレーキ。
 公道で走るのに充分過ぎるチューニングである。
 彼の場合それが一つの哲学のようにまでなっている。
 祐介と沙織と拓也、そしてエスティマに乗る藍原瑞穂で構成される『雫』は、ただ走るのが好きなだけのチームのつもりだ。
 レーサーじゃないんだから。しかし拓也はその物言いが一番嫌いらしい。
『公道はサーキットだ。立派なレギュレーションがあるだろう?『車検』というものが』
 だから必ずそう答えて、鋭く真剣な視線を向ける。
――それだけで、充分楽しいじゃないか。……でも、あなたは違うんですよね
 月島拓也のその眼差しと、今走り去った少女の視線が何故か共通しているように感じて、僅かに彼は唇を噛んだ。

 

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解説


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