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りみっとぶれいかーず!――Road to the Circuit――

Case:1 隆山 〜乃野坂峠〜 第4話:梓


走っているだけで良い。それだけで全てが忘れられるから。


 自己嫌悪。

 柏木の『力』、血の呪い。
 最近ではそれが、暴走気味に操作不能に陥る。
 そもそも女性では男性のようにその力を操作出来ない程強烈なものではない。
――しかし本当にそうだろうか
 たとえば楓。
 彼女は、本当にその力を制御していると言えるだろうか。
 彼女は『楓』なのだろうか。

 梓は時間が余ったので、屋敷の縁側に出て日本庭園のような庭を見つめる。
 元々この屋敷はこの辺の豪族の屋敷だったのを改築した明治初期の建物。
 ことん、と規則正しく甲高い音を立てるししおどしが、逆に波紋のように静寂を作り出していく。
 ため息をついて彼女はそのまま座り込んだ。
 もう夏らしいむっとした感触のある空気に思わず空を見上げた。
 どんよりと雲が空を覆っている。
――雨が、降るかな?
 梓はため息をついた。
 一度ずれるようにして自分の中にいる『モノ』を感じた時。
 自分の意志とは、自分の感情とは全く別なモノであるとそれを認識してしまった時。
 まるで拒絶反応を起こすようにして理性の下に支配下にあったそれは、分離してしまった。
 それ以来、時々抑えきれないように感情を支配する。
 放っておいても問題はないと思っても、『モノ』の感情なのか自分の感情なのかが完全に近い形で分離してしまっている。
 それはまるで自分の中に別の人間が入り込んだような、としか表現が出来ない。
――どうしてかな
 『モノ』――いや、『彼女』は、『梓』だったのだし今までそうあろうとした。
 原因は何だったのかと思いを巡らせる。
 はっきりとは判らないが、ソレは既に受験の際には起きていたはずだった。
 弁当が、まずい。
 受験会場で昼休み、自分の席で開いた弁当が何故か口に合わなかった。
 鮭の切り身は味がしない。卵焼きは味付けがばらばら、試しにしょうゆをかけると苦い味に変わる。
 ご飯に至ってはぱさぱさの砂を噛んでいるような嫌な気分になって、半分も食べられずに彼女は蓋をした。
 その日の夜、残りを食べてみたが全くそんな事はなかった。
 未だにその『唐突な変化』は訪れる。
 『彼女』は世界に対して牙を向こうとする。
 その理由は梓には判らない。
 『彼女』は『柏木の力』に同調して顕れる。
 多分、だからと梓は思う。
 『彼女』は梓ではなく『柏木の力そのもの』なのだと。

 そんなものに怯えなければならない自分に嫌気がさすのに、ソレが今までは自分だったんだという矛盾も孕む。

「父さんも伯父さんも、こんな感じだったのかな」
 ため息をつくと、耕一の顔が脳裏に浮かんだ。
 子供の頃の話。
 自分の靴を取りに、目の前で川に飛び込んだ無謀な少年。
 血が煙のように彼の姿をかき消して、溺れていく様を見つめて泣いた記憶。
――でも
 びりびりと全身の皮膚が粟立つように、静電気を浴びたように痺れる。
 『彼女』はその記憶が脳裏に蘇るたびに身を震わせる。
 それは恐れではなく、むしろ『歓喜』に近い。
 一気に全身を駆けめぐり、血管という血管、全ての神経網が突然敏感になったように震える。
 皮膚の上を流れる空気のゆらぎすら捉ええられるような錯覚。
「くっそーっ」
 梓は叫んで立ち上がると、どたどたと玄関へ向かう。
 三和土を抜けて、門を回って塀の裏側へ向かう。
 そこには広い目の空き地に、簡単な屋根を用意した車庫があった。
 この土地は元々は畑として使われていたらしい、庭の一部だ。
 庭園を造る際省かれてしまう実用性を補う意味もあったのだろうが、今畑として使っていないので空き地になっていた。
 そこでプレハブの車庫として利用する事にしたのだ。
 ヘッドライトを彼女に向けた格好でシビックは佇んでいた。
 こうやって正面から見ればのっぺりした印象は否めない。
 グリルもなく、細長いヘッドライト、そして適度に光を反射するブロンズ調のフロントガラス。
 梓は足も止めずにドアを開けると、身体を滑り込ませる。
 シビックのコクピットはかなり狭い。
 足を投げ出して座るような低いシートポジションで、膝の上にハンドルがある。
 慣れないと乗り込むのにちょっと苦労する。
 EGシビックに限っては、扉のノブも独特で、縦に引き上げるタイプではなく横に開くタイプである。
 これはその当時のデザイン重視のモデルだから――いや、この車に限ってはそれはない。
 一トン前後の異常に軽いボディに百七十馬力というオーバースペックのエンジンをつんだ前輪駆動車なのだ。
 この重量ではこのぐらい高出力なエンジンは充分『じゃじゃ馬』になるというのに、そのもののフィーリングは決して悪くはない。
 足回りもきちんと調整されているファミリーカーのハイエンドであり、スポーツカーではないからだ。
 とは言えホンダのラインナップの中では、NSXを除けば最もスポーツカーに近い市販車だった。
 初心者である梓が乗りこなせるのもそのしっかり作り込んだ足回りによるものだ。
 イグニッションを捻ると殆ど同時、スタータの音が聞こえた瞬間に跳ね上がるエンジン音。
 メカニカルノイズがコクピットを揺らす。
 梓は無言で一速にシフトをたたき込み、滑らかに車を発進させた。
 砂利が噛み込むがりがりと言う音と、それがフェンダー内側に当たる音。
 それが過ぎると、彼女はウインカーを上げて慣れた手つきでハンドルを回した。

 目指すは――乃野坂峠。

 こうやって自分の意志で車を従えている間だけは、『彼女』が顔を出す事はない。
 昼間から走るのは実は初めてだ。
 だが感情をこれ以上高ぶらせてなんかいられない。
 だから、目を覚ますために。
 もう一度目を閉じるために。
 速度制限を気にしながら、彼女は昼の峠に差しかかった。
 乃野坂は基本的には地元の人間以外はあまり通らない。道路も昔は狭いものだった。
 鶴来屋から帰宅する際に、ここを近道として利用できるからという理由だけで通っていたようなものだ。
 だがここは雪のために真冬の交通は規制される。
 まだ一度も経験していないが、アスファルトが濡れている時よりも黒く、艶やかに凍り付く事がある。
 俗にブラックバーンと呼ばれる最も恐ろしいアイスバーンだ。
 雪はむしろ走りやすい方だ。凍ってしまってはまともに走行する事などできない。
 国道を右折して、緩い登りに差し掛かる。
 一息に三速までシフトアップして、気持ちアクセルを踏み込む。
 突然膨らむようなトルクに、坂道だろうが関係なしに力強く車体が加速を開始する。
 そのまま四速、五速へ。
――風が止まる
 ゆったりと車が等速で走行を始めると同時に、彼女は空間が止まったような錯覚を覚える。
 それまでサスペンションが加速のために軋んでいたのに、突如その力が解放された。
 完全な等速運動中では荷重は停止状態と変わらなくなる。
 ただし、そんな状態は簡単には実現しない。
 通常は車体は『加速』状態か『減速』状態のどちらかでしかない。
 僅かな差ではある――急激に加減速をしない限り、バネが撓む量は荷重によって縮む方が多いからだ。
 まるで、ゲームか映像のように流れる道路。
 緩やかにハンドルを切り、うねる幾つものワインディングを抜ける。
 その間に研ぎ澄まされていく感覚を、鋭く絞り込んで――彼女は口元を僅かに歪めた。
 同時にクラッチを踏み込み、まるで切り替わる音を立てるようにエンジンが金切り声を上げながら――一度に、二速へ。

『クラッチを踏んでギアを抜いたら、一度クラッチを繋いで煽ってから減速するんだよ』

 タコメータは荷重を失ったギアを、一気にレッドまで引き上げるエンジンの憤りをリニアに示し。
 一息にクラッチを切って繋ぎ直すと、スムーズとは言えない程激しくタイヤが軋む。
 一瞬空転して鳴いたタイヤが――今度は車体を軋ませて弾いた。
 それまで静止していた風が、梓の周囲で突如暴風となって吹き荒れる。
「ははっ」
 更に鋭く。
 まるで自分の周囲の時間が突然遅くなっていくように、感覚が加速する。
 皮膚の毛穴全てが開き、空気が粒状になって流れるような異常な感覚。
 迫ってくるガードレールすら、むしろ先刻よりも遅く感じる。
 丁寧にブレーキを入れると教習通りにハンドルを切る。
 車体は激しくロールを起こし、ガードレールに向けて車体が下がる。
 ノーマルタイヤが抗議を繰り返し、車体は不安定に揺らぎながら道路の脇を強引に蹴立てる。
 そんなどうしようもなく激しい状況で、梓は笑みを浮かべたまま、車はそれでも四輪全てをグリップさせてコーナーを抜けていった。

 

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解説


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