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りみっとぶれいかーず!――Road to the Circuit――

Case:1 隆山 〜乃野坂峠〜 第1話:祐介


意味があるから走る訳じゃない。そこに、価値があるからだ。

 雨月山という山は、今では存在しない。
 だから、伝承だけを読んでいるとその山がどこにあって、どんな山なのか――それを知る事はできない。
 江戸時代末期まで、その山は霊山として霊験あらたかな寺があったと言われている。
 だが、それがどの寺であったのかも詳しくは伝えられていない。
 多分知る者はいない。
 だが、『雨月山の鬼』というと――今度は途端に知名度が上がる。
 銘酒次郎右衛門大吟醸は日本酒六選にも選ばれ、その酒の銘柄と共に元になった伝承も流布されたからだ。
 だが、その伝承が実話であったと言う事は、あまり知られていない。
 そして知る必要もない。

 そんな地理的には有名な温泉街の外れ、隆山温泉郷と東京を結ぶ国道と並行して走る一本の道。
 その道が通る場所に隆山温泉を見下ろす高い山がある。その名を乃野宇(ののう)山という。
 標高千メートル程の比較的高い山で、高速で直接乗り入れられない隆山に取っては数少ない道路が走る。
 だが、冬の積雪で有名な隆山に入るにはむしろ国道の方が使い勝手が良く、しかも山道であるために地元の人間が利用するのがせいぜいである。
 しかも通常、十一月から四月までは通行が禁止されている。
 冬季、他県から隆山温泉に来るにはJRを利用した方が良い。
 もっともそのJRですら、積雪のために定刻をはずれて走る事もままあるが。

  きりりりり ふぅぉん

 だが最近、この道が急ににぎわい始めた。
 何故なら、傾斜、配置、道幅、そして何より田舎で車が少ない事に目をつけた連中がいたからだ。
 まだここには、警察の手も入っていない。
「ったく、甘いなぁ」
 隆山温泉は観光地である。有り体に言って仕事のない寂れた街だ
 こんなところにわざわざ就職する人間は、まずもっていない。
「タイム、先刻より二秒も遅れてるよ」
 だからここは静かなままのはずだった。
 つい最近ある雑誌に載って――載せたのは恐らく出身者――有名になる前まで。
 今や月末の土日には何台もの車が集まる峠に変わってしまっていた。
「えー、ゆーくんいつもはそんな事言わないじゃないの」
 派手にテールを振ってスピンターンを決めると、アイドリングさせながら極低速で青年に近づく少女。
 眉をハの字にして徹底的に非難する表情を浮かべている彼女に、青年は苦笑したまま言う。
「いつもいつもって、今回は仕方ないでしょ。データが必要なんだし」
 青年は片手にPDAを持ち、せわしなくキーを叩きながら奥を指さす。
 そこには何台も車が停められていた。
 トヨタのエスティマを除けば、全て今すぐにでもレースを始めそうな面々だった。
 少し古いが彼女の乗るユーノスロードスター、ミラージュアスティ、そしてこれは――まず、見る事はないだろう――トミーカイラのZZ。
 その隣にはRX―7が二台づつ二世代並んでいる。
 ちょっとしたスポーツタイプ車の展示会のような様相である。
「ちぇ。あたし、あんまり速度出して走りたくないんだけどな」
 少し口をとがらせて、ため息をつくようにして両腕を突っ張り、ハンドルで自分の体重を支えながら背を逸らせる。
「沙織さん、言いたい事は、判るんだけど」
 ぶーっと子供のようにむくれて、沙織はぷいっと顔を横に向ける。
「全然判ってない!ゆーくん最近なんだか意地悪だもん」
 ゆーくん――長瀬祐介は苦笑して顔をミラージュに向ける。
 三菱が作り上げた最強と言われる百七十五馬力を叩き出す千六百CCのMIVECエンジンを搭載する。
 リッター109.5馬力であり、106.5馬力のホンダVTECエンジンを越える自然吸気エンジンである。
 ハッチバックのサイボーグというモデルと、クーペタイプのこのアスティがある。
 赤いそれから、一人の男が降りてくる。
「どうだった」
 糸目に痩身長躯のやたらと神経質そうな男。
 彼の名前は月島拓也――チーム『雫』でまとめ役を担う男だ。
 だからといって特別速いという訳ではなく、彼が創始し、彼の暴走を抑えるべくチーム化したようなものだった。
 最も一番の押さえの切り札である彼の妹は車に乗らない為にチームには入っていない。
「二秒ロスですね。沙織さんの運転だと、どうしてもテールの流れる量が多すぎるから」
「何よぉ。そんなに飛ばしたら危ないんだから」
 拓也は大きく、大げさにため息をついた。
 この上なく退屈そうに。
「仕方ないね…祐介、一度でも走ったか?」
「今日は一度。どうせ、さしたる峠でもありませんから」
 乃野坂峠。
 山道にしては広く作った道路に、きちんとしたガードレールを引いた意外と走りやすい峠。
 低速コーナーが極端な勾配と共に現れる中盤は非常に難しいが、他は、大したコーナーもなく非常に素直な作りをしている。
 そして何より、避難所や登坂車線を多く持つために非常に安心して走る事ができるのだ。
 それもそのはず――この峠では大きな事件が二つ起きていた。
 柏木家前々会長、前会長がこの峠で事故死――一件は自殺だったが――しているのだ。
 それ以来大改修が行われて見通しも良く非常に広く固められた道は、しかし利用者が少なく風雪にさらされていたのだった。
「……じゃあ、最後のタイムアタックにしよう。藍原くん!」
 はーい、と元気な声がエスティマの方向から聞こえる。
 同時にエスティマがエンジンを唸らせて動き始める。
 車体左、運転席の窓が開き、眼鏡をかけた利発そうな少女が顔を出す。
「じゃあ私はゴールで待ってます。最初は、誰が行きますか?」
 藍原瑞穂は拓也が右手を挙げるのを確認してから、駐車場を出て登り始めた。
 彼女がこの『雫』で走る車の簡単なメンテナンスを行っている。
 メインに、ということで、普段車に乗らない時にも人を運ぶために車を出すことがある。
 『カートだったらそのまま積めるんですけど…』と悔しそうに言っているが、さすがに車を載せるのは無理だ。
 このエスティマは後部座席の一部は部品と工具でいっぱいになっている。
 二人分のベッドを確保できるので長距離移動の際に活躍する。
「じゃあ月島さん、先刻の順番で行きましょう」
「ああ、予定通り五分おきだ」
 ミラージュに戻る拓也を見送り、沙織に視線を戻す。
 沙織は無言でにこにこと頷き、携帯電話のアンテナを伸ばしてアドレスを開く。
「よーし、じゃあすたーといくよー♪」
 沙織が駆け出すのを見てから、祐介は自分のZZに向かう。
 ある意味では非常に不自然な車だ。これは一般向けに販売などされていない。
 さらに言えば、インジェクションを使っていない高回転型エンジンを搭載した、歴としたレーシングカーだ。
 街乗りには向かない、だが電子制御全てを排するにはもってこいの、いわば『無駄を一切排した』車だった。
 だから彼は強引に手に入れた。
 油圧式パワステ、機械式に替えられる部品は全て変更して、その隅々までまるで――そう、律動する鉄と油だけで構成されている。
 せいぜい点火装置に電流が流れているだけという代物だ。
 祐介は身体をコクピットに滑り込ませて、音もなくミラージュの後につく。
「ごー、よーん、さーん」
 沙織は携帯に叫びながら、右手を高く高く、思いっきり伸ばす。
 嬉しそうに笑って。
「にー、いーち、ごー!」

  ふぉん

 一瞬エグゾーストが唸り、直後激しいスキールと煙を蹴立ててミラージュが飛び出していく。
 祐介の見た時計の秒時で――ジャスト、二十三時十四分。
 沙織が嬉しそうに自分の車に戻っていくのを眺めて、彼はカウントダウンを始めた。
――さて
 サイクルを合わせるようにとととと言う軽いエグゾーストを立てるエンジンに耳を傾ける。
 エンジンそのものが立てるメカニカルノイズ。
 エアクリーナーが立てる吸気音。
 エグゾーストノイズと、車体の振動――全てが、まるで生命の鼓動のように。
――残り、10…9…
 数回アクセルを踏み込む。
 アクセルのタイミングに合わせて、綺麗にエンジンが吹け上がる。
 電子装置を使わないキャブレター方式ではかぶる事があるが、そのダイレクトな感触はインジェクションでは味わう事は難しい。
――3、2、1、GO!
 そして彼は、回転数を一気に引き上げてからクラッチを繋いだ。
 きりっと一度激しい音を立てた後、即座に彼の車は飛び出した。

      ―――――――――――――――――――――――
解説


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