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りみっとぶれいかーず!――Road to the Circuit――

モノローグ:梓


あたしには、もう何も残されていない。

 あの事件は酷いものだった。
 かおりは、一月以上学校を休んで、あれ以来もう彼女の笑う顔を見た事がない。
 あたしに対してすら――もう笑えないのかも知れない。

 そして千鶴姉の様子も変わった。良くなったのかも知れない。
 以前のようにふさぎ込む事はなくなったようだし――無意味に脳天気な部分も増えた気がする。
 ただ一つだけ言えるのは、その時、あたしはまた間違いを犯したのかと思い知らされた事。
 最近は何も考えられない。
 『てのとどくところにあるもの』というのが『てをのばしてはならないもの』に変わった時に多分。

 あたしは思考をやめた。

 成績――だから急に今まで得意だったはずの科目にも手がつけられなくて、明らかに落ち始めた。
 せめて大学に行かなければならない。
 大学に行かないと、ここから出る事も出来ない。

 何故ここからでたいのか?とあたしは自分に自分で問うた。

 多分それは自分の為と、柏木の家族の為だと、思う。
 でもそれ以降、なおさらあたしは自分の首を絞めているように成績は落ちた。
 結局、年が明けてあいつが来るまでに変わったのはたった一つ。

 あたしが車を乗り回すようになっていたということだけだった。


Case:0 隆山 〜承前〜


「梓が免許?」
 それは秋口を迎えようとしていた時の事だった。
 連続猟奇殺人と婦女暴行監禁事件がある一人の大学生を中心に収束したかのように事が終わり、いつの間にか人々の話題にも上らなくなってしまった頃。
 千鶴との事、鶴来屋の引継等の話があるために耕一は再び隆山は柏木家の屋敷へと訪れていた。
 ほんの僅かで、そして大きな境目になった夏のあの日。
 それは柏木家を大きく揺るがしてしまっていた。
 からんと夏の名残のように、コップの中の氷が音を立て、耕一の視線の端で水面を揺らす。
 ちゃぶ台を挟んで女の子が座っている。
 彼女は夏の終わりに会った時とさして変わらない格好をしていた。
「そう。なんだよ耕一、その…馬鹿にしたような目は」
 柏木 梓、次女の彼女は耕一とは昔から気の合う友人か兄弟と変わらない存在だった。
 未だにジーンズにTシャツという格好で、耕一の前で片膝を立てて座り込んでいる。
 だが彼女はもうこの時期になれば大学進学の為の勉強で大変なはずだ。
 耕一は思わず口元を歪めて笑っていた。
「大学に入る前に、免許は欲しいじゃねーか」
「っておまえ、勉強は大丈夫なのかよ。受験落ちてりゃ世話ないぞ」
 確かに。
 梓は自信ありげな表情で頷いて、肩をすくめる。
「でも大学に行くぐらいで、別に免許はいらねーぞ」
 第一、こんな大事な時期にそんな事を考えている余裕があるくらい成績はいいんだろうか。
 聞こうとして、やめた。
「そりゃ、そうだろうけどさ」
「それで?どこの大学に行くつもりだ?」
 梓が言ったのは――確かに有名だが一流と言う程難しいところでもない。
 耕一も他人の事は言えないが、一応なりとも現役で大学二年生を名乗っている限り、梓には強気に出てもいいだろう。
「ふーん。実力相応って奴か」
「馬鹿にするな。自分だってどうせ二流どころの三流大学生だろうが」
 とは反論する者の、耕一が大学生であり現役で受かったのも事実だ。
 どうしてもその反論も弱い者になってしまう。
 耕一は、だから彼女の言葉が拗ねているだけのようにも聞こえて、思わず笑ってしまう。
「吼えない吼えない。…でもまあ、持っていて損はないけどね、金もかかるし、車には乗っていないとすぐ腕が落ちるよ」
 第一、梓には家事全般という特技があるのに、何故今更、と言う気もする。
「そうなのか?うーん…」
 そう言って梓は腕を組んで悩み始めてしまった。
「第一、梓みたいにがさつで、運転なんてできるのかよ」
 ぴきっと音を立てそうな勢いで、梓の顔が引きつる。
 ぎりぎりとバネ仕掛けの人形のように、吊り上げた目を彼に向ける。
「何?何だって?あ、た、し、が、なんだって?」
 予想していたので、膝を折り込んでいつでも立てるように構えていたのに、梓の方が速い。
 梓は正座を崩したような座り方で、絶対速いはずがなかったのに。
――耕一が片膝をついた時にはもう耕一の上に覆い被さろうとしていた。
 結局耕一は逃げる事も出来なくて、鼻先が触れ合う位まで彼女の顔が近づいて来るのを見送るだけだった。
 たらりと冷や汗が流れるのが判る。
「いやー、がさつなんて言ってないぞ、がさつなんて」
「二度も言うなっ」
 ぶうん、と空を切る音が同時に響いて、梓の顔が勢いよく流れて――床を叩く自分の頭。
 鈍い音がした。
 全力で、そのまま大きく振り抜いた梓の右拳が、綺麗に耕一の左のこめかみを撃ち抜いたのだ。
「いててて…」
 一気に白くなった視界に、耳の中がきーんという音を立てている。
 まるで記憶が飛んだみたいだ。
 床から身体を引きはがして、軽く頭を振る。
「いいか耕一、一度言った言葉忘れるなよ。あたしは車の運転ができない、って言ったんだからな」
 梓はそんな耕一にとどめが刺せるような状態で、腰に両手を当てて彼を見下ろしていた。
――こいつ、スカートだったら絶対に中覗いてやるのに
 あんまり苛々したせいで少し理性もおかしくなっていたようだ。
 そう思ってから慌てて訂正する。
――いや、だからいつもズボンなんだなこいつは
 ストンピングするために、じゃあないだろう…いや、違う事を祈るが。
 仁王立ちで身体を起こした耕一を見下ろしながら、梓は大きく鼻を鳴らした。
「免許をとったら、真っ先に助手席に乗せてやる。楽しみにしてろよ」
 くるっと背を向けて、どすどす足音をたてながら梓は去っていった。
――……ふうん
 彼女はまだ歴とした高校生、そうそう簡単にとれるはずはない。
 それに隆山の冬は雪が激しく、早くても春先になるだろう。
「吠え面かくのはどっちかな」
 ため息のような笑みを浮かべて、彼も立ち上がった。


 涼しい空気を肌に感じながら、星の輝く夜空を見上げる。
 空には半月を過ぎたばかりの月が漂っている。
 ちりちりと、焼けて熱い空気がボンネット周囲から湯気のように立ちこめているが、決して気にならない。
 季節は、既に初夏を過ぎ本格的に夏を迎えようと言う時期。
 春先であればまだ凍結の畏れのある乃野坂峠も、さすがにもう凍ることはないが、夜中の空気は冷たい。
 だから暖かいコーヒーがおいしく感じられる。
 彼女はもう一度ため息をついた。
――夏だなぁ
 半年前。
 実際にはまだ5ヶ月とちょっとだが、その時点で既に彼女は決していた。
 自分の行き先を。
 もっと前――センター試験を受ける時点で既に決まっていたのかも知れない。
 免許は無事手に入れたが、大学への切符は手に入らなかった。
 もう思い出したくもないが嫌でも耕一を思い出す。
 確かに良い大学に行っているとは言えないが、やはりそれでも大学生には違いない。
 梓は缶コーヒーで両手を暖めるようにして、自分の太股の上にそれをのせた。
 考えなくても、今年もまた耕一は来る。季節も巡る。
 多分大学三年に進学しているはずだ。
 もう梓にとって、大学は特別な理由でも何でもなくなっていた。
 少し離れた位置でタイヤが軋みを上げるきりきりという甲高い音が響き、彼女は肩をすくめる。
――馬鹿…だよね、きっと
 結局、一年前のあの鬼の事件を境目にして全てが変わってしまった。
 もっと正確には、耕一がここに来る事件があった時から柏木家が変わってしまったのだ。
 喩え表に見えてこなくても、そうだと実感できる。

『へぇ、結婚?……耕一と?!』

 千鶴の言葉に一瞬目を丸くして、肩をすくめて呆れた表情を浮かべた。
 本当に呆れた貌だったかどうかなんてもう自信はないが。
 日吉かおりは二月以上入院して、今二度目の高校二年生をやっているはずだ。
 はず、というのはここ数ヶ月は一度も会えなかったからだ。
――会えなかったんじゃない、会わなかったんだ
 頭に浮かんだ言葉を慌てて自分の意志でかき消す。
 会おうと思えば、自分の卒業した高校に遊びに行けば済む話だ。
 それをしなかった――それに、今、彼女との接点が一切ないのも、事実ではあるが。
 他人の事を構っている余裕がなくなった状態の人間というのは、哀れだ。
 梓は今でもそう思っている。
 成績の維持も難しくなり、志望を変更しても受かるレベルには到達できず、結局『今年は』という言い訳で装飾して諦めた。
 以来予備校にも通わず、ただの浪人として過ごしている。
 それを考えると、先に免許を取っておいて良かったと思っている。
 それだけは今も思う。
 でも、もし、逆に。

 逆に、今免許を持っていなかったら、こんな状態にはなっていないはずだった。

 思いながら、自分の座っている場所を振り向いて確かめる。
 ホンダシビック、『スポーツシビック』と呼ばれるタイプの車を。
 この車に出会ったのは本当に偶然で、たまたま鶴来屋で千鶴のサポートとして活躍してくれている足立が手を回した物だ。
 昨年丁度フルモデルチェンジして新型が走っているが、この近辺ではあまり見かけない。
 むしろ逆に、一つ古い型のシビックが結構出回っている。
 免許取り立てで、特別何の知識もなかった彼女にも、この奇妙な形をした車は興味をそそられる物があった。
 3ドアハッチバック――外観はセダンのトランクルームを切り取ったような姿をしている。
 セダンタイプもあるのに、何故――とりあえず、梓にとっては最初の車、『車には乗っていないとすぐ腕が落ちるよ』と言う耕一の言葉に従った結果だ。
 走行距離は既に二万キロを超えた。
 大分車にある癖も覚えた。
 メンテナンスも、実際に覚えなければならない事は覚えた。
 でもそれは必然として彼女の記憶として経験に刻み込んでいくように。
 いつの間にか生活の一部が車になっていた。
 車に乗る事、車を直す事、車を労る事。
 代償行為という言葉を聞いた事がある。そして、多分にそれを当てはめるのが一番適当ではないかと彼女も思っている。
 車に自分の生活の一部が喰われてしまった今では、それがなければ生活そのものも成り立たなくなるかのように。
 それは果たして何の代償なのか――今更考える事もなく。
 梓は、もう一度ため息をついた。
 車がなかった頃の自分を思い出せないぐらい、今が苦痛だと言う事に気がついて。
 フェンダーに腰掛けた彼女は、一気にコーヒーを煽った。
 そして、右手で弾くようにしてそれを缶入れに投げ入れて、ドアを一息に開いて一気に身体を滑り込ませる。
――悩んでいたって始まらない
 イグニッションを回す。
 聞き慣れたエンジンの唸りが響き、彼女の右足に合わせて低く、大きく唸りを返す。
――止められる物なら、止めて見せてよ。…楽しみにしているんだ
 フロントタイヤが一瞬空転して、彼女の車は夜の峠道へと弾き出される。

――ね、耕一。あたしは、あんたが……兄貴になるのは何故か……


      ―――――――――――――――――――――――
解説


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