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Cryptic Writings 
Chapter:5

  第6話 『風』

前回までのあらすじ

  瀕死の重傷を負い『天使の輪』を呼び覚ました拓也。
  かろうじて逃げる裕に、暴走をくい止めようとする耕一達。
  だが、同時にビルの壁が砕け、彼らのいる階が押しつぶされた。

        ―――――――――――――――――――――――
Chapter 5

主な登場人物

 長瀬祐介
  優男風だが、その境遇からかやや落ち着いて見える。

 月島瑠璃子
  兄の為なら何でもやれる女の子、と書くとかなりやばい気もする。

 月島拓也
  暴走した『Lycanthrope』に飲み込まれそうになった。
  今、どうなっているのかは不明。
 

        ―――――――――――――――――――――――
 

  ぷるるるるる ぷるるるるる

『…ん在、電波の届かない所にいるか、電源が…』

  ぷつ
 

 やがて朝が来て。
 静けさが包む白い空に、僅かに人間達がいた。
 整然と並んだ姿に交じって、ぽつんぽつんと緑色の点が見える。
「なかなか、壮観な事だよ」
 ふん、と鼻で笑いながら、男はそれを見下ろしている。
 彼はそこから遙かに上方、ビルの屋上に立っている。
「もう既に――神の雷もこの辺りに潜んでいるんだろう」
 ビルの谷間から吹き上げてくる風がスーツを靡かせる。
 仕立てのいいものらしく、皺がよることもなくすぐに元に戻る。
「――今なら一網打尽に」
 右手を指先まで大きく外側に伸ばし、再びそれを懐に戻す。
「焼き尽くすことは不可能ではないが」
「不用心だな」
 彼の独り言に重ねるようにして、声が響いた。
 声に振り向くと、そこには矢環がいた。
 隆山署に勤務しているはずの、そしてこの間襲われたはずの男だ。
 振り向く男に彼は続けて言葉を投げかける。
「…奴らのいる近辺で」
 男はいつもの笑みを浮かべ、口元をにやりと歪める。
「良く無事だったな」
「丈夫なだけが取り柄でね」
 めきめきと拳を握りしめて見せる彼に、男――大志は僅かに見下したような表情を浮かべた。
「…Haloの事ですよ」
 矢環は眉を顰めて大志を睨み付けるが、彼は口元に浮かべた笑みを崩さずに続ける。
「予言どおりならあの現象は電磁波の干渉面なんですよ。
 空気中の塵やら周囲の壁、生き物、さらに空気その物をリミッターの外れた『Lycanthrope』が喰い始める」
 大志は両腕を大きく広げ、こびりついた笑顔を見せつけるようにしてこうべをしゃくる。
「…それで?」
「周囲に最大レベルの電磁波を放出します。これは『自己増殖』の際に余るエネルギーを変換しているらしいですね。
 その『干渉面』が虹色の波面を形成するんですよ」
 電波はある一点から放出されれば、等速度で同距離へ到達する。
 そのため干渉面は球形を取る。
「若干誤差がありますし、『あいつ』の指向性は博士が良くご存じだった。だから…」
「もう良い、止めろ。お前のその口調を聞くと虫酸が走る」
 そこで初めて満足げな笑みを浮かべると大志は鼻で笑う。
「ああ。そう言うと思ったからな」
 けっ、と矢環が吐き捨てるのを見て、大志は彼に人差し指を突きつける。
「だから、どうして貴様が無事なんだ?」
 ゆっくり顎を引いて、僅かに上目で矢環を睨み付ける。
「『貴様』がHaloの直後のこの場所にいて、何故無事に立っていられるんだと聞いているんだ」
 Haloのせいで、未だにこの辺りの無線通信はできなくなっている。
 大量のナノマシンが散布され、微弱ながら巨大な妨害電波の発信装置の中にいるようなものだからだ。
 パソコンもまともに演算結果を弾かないし、ディスプレイもノイズが多くて見にくいものになる。
 恐らくあと半日は残るだろう。
 矢環は逆にそれに対して皮肉った笑みを浮かべる。
「CYBER-NAUTSの技術だ。決して、来栖川のようなちゃちなものじゃない」
 

 目の前には、彼女が横たわっていた。
 名前は、ない。
 彼女には名前は付けられていない。
 彼女の姿には名前はあっても、彼女に名前はまだ…付けられていない。
 親を殺し、自分を捜してきた彼女は、既に何も応えてくれない。
 死んでなどいない。
 そう思っても彼女は、動かない。
 裕はそのすぐ側で跪き、彼女を見つめている。
「…そうか」
 裕は全く表情を変えなかった。
 ただ淡々と自分の仕事が終わりを告げたのを知った。
 もしかして助けられるかも知れない。
 だがそれは彼にとって範疇ではない。
 ふと顔を上げ、頭を巡らせる。
 薬の効果はいつか切れる。
 だから、彼女は常に裕に『薬』を与えていた。
 彼女を無表情で見下ろして裕はゆっくりと立ち上がった。
――もう逃げることはできないな
 

 胸騒ぎが止まらない。
 今まで歩いてきた道にも倒れた人々がいる。
 自転車は壊れたので捨ててきた。
 慌てて――全力でこいで――ペダルを踏み折ってしまったのだ。
 走ろうにも右足をその時にひっかいてしまったせいで、痛くて走れない。
 それでも足を止めたくなかったから、夜通し歩いていた。
 空が白んできた頃、やっと駅の周辺まで辿り着いて彼女は口を結んだ。
――あと一息
 思わずふうと息をつく。その途端、足下から力が抜ける。
 安心したせいだろう、そのまま膝をついてしまう。
 手を地面について体を起こす。
 と、遠くで軽い音が聞こえた。ほんの僅かに高く、短い破裂音。
 それが立て続けに断続的に起こる。
 梓はそれが気になってそちらへと足を向けた。

   ぱん

 今度はやけにはっきり聞こえた。
 路地の向こう側、彼女の目の前にあるT字路の右側の壁からゆっくり覗き込む。

   たたん

 そこには、例の戦闘用マルチがいた。
 それは無惨な姿をしていた。
 左腕は引きちぎられたように、肘から先が配線と骨格がむき出しになっている。
 時折しゃくるように頭が動き、外れかかった彼女の左眼がきしきし音を立てている。
 あちこちに弾痕が、露わになった白い肌の上に残っている。

  ぴしゃ びっ

 梓の耳に奇妙な音が届いた。
 液体が叩きつけられるような音。

  ごとん

「ひっ」
――しまっ
 慌てて口を押さえるが、戦闘用マルチはぎりぎりとあらぬ方向に首を捩り曲げて梓を見た。
 ゆっくり口が開く。

  たたた たたたたん

 その途端、横殴りの雨のような銃弾が浴びせられた。
 数発でまっすぐに治った頭が、今度は真後ろへよじれていく。
 金属的な音を立てて歪んでいくマルチの頭。
 やがてまだ生きている左腕が再び振り上げられた。

――っ!
 梓は思わず――学校でも、同じようなことがあった事を思い出して――慌てて身を地面に投げ出した。

  ぐっ

 なにかが引っかかるような音がして、また液体の弾ける音が聞こえた。
 顔を上げた彼女の目に、べっとり赤い物を体につけたメイドロボがあった。
 何者かとの闘いは、どうやら決着がついたようだった。
 体を慌てて起こした梓を追うように、ひしゃげた頭を動かす彼女。
 逃げなきゃ。
 僅かな隙をつかなければ、先刻の何者かのように刻まれてしまう。
 不可視の鋭利な刃物によって。
――…?
 マルチ型は頭を梓に向けた所で一度CCDを瞬きさせる。
――っ!
 梓が鬼の感覚を解放した瞬間、もう一つの何かが猛烈な勢いで近づいているのが解った。
 解った時には既に真後ろまで辿り着くところだった。
 目の前のマルチの事など忘れたように振り向きながら飛び退く。
 黒い陰が彼女の前に降り立つ。
「ほぉ」
 見慣れた男だった。
「柳川…」
「フン」
 彼はさらに一歩踏み込み、油断している梓の鳩尾に拳を埋める。
 力無くその腕に崩れ込む梓を片腕で抱えると、ずたぼろのマルチ型に目を向ける。
「…よく頑張ったな」
 きしきしとフレームが軋むのも物ともせず彼女は頭を上げた。
 が、それで限界だった。
 彼女は完全に動きを止めた。
 

 ビルの外に出るだけでも一苦労だった。
「くぅうっ、もう朝かよぉ」
 耕一はビルの入り口で大きく伸びをしながら朝日を拝んでいた。
 崩れる瞬間、拓也に向かって強烈な圧縮がかかった。
 偶然だろうが、突風のようなものが拓也に向かって吹き付けた瞬間、耕一は地面を蹴った。
 両脇に祐介と瑠璃子の二人を抱え込んで、そのまま拓也を突き飛ばす。
 突き当たりの壁までそのまま運ぶ。
――どっちだっ
 轟音が近づいてくる。
 左右に頭を回して素早く出口を探す。
 一瞬迷ったが、拓也の襟首を掴んで右へ足をけり出す。

  轟

 周囲の壁に軋みが入り、音を立てて砕けながら耕一に迫る。
――いい加減にしてくれっっっ
 彼の目の前に見えた階段にまでそれが届いた。
 耕一の姿が階下に飲み込まれると同時に、天井はそれを塞いだ。

「死ななかっただけでも感謝です」
 入り口から祐介が顔を見せる。
 かろうじてかすり傷ですんでいるが、本当にかろうじてだろうか。
「お兄ちゃん」
 そして続いて瑠璃子が顔を出した。自分の兄に肩を貸して。
 うつむいて、力無く引きずられる拓也。
「瑠璃子」
 瑠璃子の声に反応するように顔を向け応える。
「もういいんだよ」
 首を傾げてにっこりと微笑む。
「もう大丈夫だから」

 無言で瑠璃子を抱きしめる拓也を、羨ましそうに見る祐介の肩をばんばんと強く叩く。
「物欲しそうな目をしてるぜ」
「ちょ」
 反論しようとして、人の好い笑みに圧倒されるようにして彼は肩をすくめた。
「あとは梓と合流するだけだな」
――自分の方が我慢してるんじゃないのか?
 声には出さなかった。
 一方的に抱きしめている拓也に目を向けている耕一の表情を、ただじっと見るだけ。
――でも、この人の御陰で月島さんが助かったんだ
 実際、拓也はもう『生きている』とは言えないかも知れない。
 今確かな存在として目の前にいるが、すでに『太田香奈子』のような存在なのかも知れない。
 敢えて瑠璃子にも伝えていない事がある。
 それを、彼は噛みしめていた。
――…解っているさ
 あの事件の後、『電波』を機械的に論理として組んだ人間がいた。
 物理的な接触を持たない完全に独立したネットワーク。
 そのプロトコルのデータは、『依代』と呼ばれるデータの保存場所に隠されていた。
 月島拓也の『再成』には必要ではあった。
 そして完全に電波と化した彼を再生する為に、彼らは『Hephaestus』に協力する事になった。
 結果。
 抜け殻だった彼の体に、『電波』になった拓也を収める『入れ物』を作ってやった。
 今の拓也の脳髄は、普通の人間のそれとは大きくかけ離れた物になっていた。
 人工的に作り出された『Lycanthrope』。
 『Lycanthrope』とは獣になる人間ではない。先天的に脳の異常をもって生まれた者達。
――今の彼が、どれだけ危険なのか
 寂しそうな瑠璃子さんのため。彼は自分にそう言い聞かせて来た。
 実は核兵器よりも危険な存在を野放しにしてきたのだ。
 しかし、勿論自分がいつそうなるか解らない。
 自分も『Halo現象』を起こす可能性は0ではないのだ。
「どうした?」
 耕一の声に、彼ははっと現実に引き戻される。
 取りあえず今は、これでいいんだ。
「…やっぱり羨ましいなって」
 耕一に振り返りながら、彼は笑みを浮かべて見せた。
 
 

 夢、ではない。

 夢ではない事は解っても、訂正も利かないそれは強制的に見せられる映像。
 できれば夢であって欲しいと思う。
 いつかの、悪夢。

 やがて目が覚めて。

 …延々にそれは続く。
 目覚めがこないから。
 やがてそれが本当の自分ではないかと錯覚する。
 離人症と呼ばれる病気は、自分を他人であると錯覚する事がある。
 自分の意識が、自分の中ではっきりしなくなる病気である。
 やがてそれは二重人格と呼ばれる病気に進行する。
 自分とは別の――理性も記憶もある人間が自分の中にできあがるのだ。
 今の柳川はそのうち『主人格』と呼ばれる人格の位置で裕の行動を感じていた。
――やめろ
 どうやら一方的に相手の事が解っているだけらしく、反応はない。
 自分が裕の意識を知る事ができても、向こう側は自分の存在も意識も感じられないのだろうか。
 それとも敢えて無視されているのか。
 どちらにせよ今回は傍観者でいるしかない。
 以前は――操り人形だったのか?

 俺は当事者であって被害者だったのか?
 なら、何故あいつは俺と同じようにならないんだ?
 なぜ?

 暗い夜の病院。
 面会の時間は既に過ぎている。

  ぴ ぴ ぴ

 しきりに電子音が耳障りな音を立てている。
 病室のドアには――『面会謝絶』のプレートがかかっている。
 ネームプレートには柳川 祐也の文字が読める。
 生命維持装置が備え付けられていて、植物人間を『生かす』為の装置が揃っている。
 そこで、静かに、祐也は眠っていた。
 裕の行動と、心の動きを感じながら。



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