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ヤサシイヒカリ


 大きく呼吸をする。
 蒼い月灯りの元では、全てが寝静まっているように静かな沈黙を与えられている。
 この夜の中では全てが平等――唯一とも言える、存在を残して。

 残滓のように淀む校内。
「あとはあなただけよ」
 宣告される最後通牒。
 唯一にして最後の望み――一縷の望みの中には光は既になく。

  その望みさえ既に血に染まり

 朱の中でもがき苦しむ――もがく?

  そんな思いを持ったのは一体いつのことだったのか

「そうね」
 だから意外と簡単にその言葉を受け入れた。
 初めに血に染まった手は、今では血染めになることすらなく。
 随分と巧くなったものだ。
 ゆっくりと力無く頷き、うなだれるようにしてそのまま身体を僅かに前傾させる。
 それは本能でも何でもなく、ただ地面に惹きつけられるままに。
「私が最後なのは判ってるわ」
 宿主は――既に死んだ。
 目の前の女が殺したから。
「でも」
 所詮この女も、『人ではない何か』。
 放っておけば『あの女』が殺す。
「だからって、簡単にこの命を手放すとでも?」
 あの女を退けるのは無理だとしても。
 この女ぐらいは――遠野の名を持つ、この娘だけは切り刻んでやりたい。
 もしこいつが遠野でなければ放っておいただろう。
 もしこいつが志貴の妹でなければ――許せない。

  志貴君はわたしのものなんだから――



「では、次の所を――弓塚」

 どこにでもある風景。
 誰もが体験する一瞬。

「はい」

 吸血殺人事件が終末を迎え、世には平和が戻ったように見えた。
 別に犯人が逮捕されたわけじゃない。
 ただ連続していた殺人事件が終了しただけ――そう、終わっただけ。
 そう見えるように仕組んだだけ。
 だから――だから。

「葡萄の美酒、夜光の杯」

 ここにまだ一つの闇が存在した――

「飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す」

 歌うように古文を読み上げる少女。
 決して目立つ風体ではない。
 なのに、今、ここで読み上げる一文字一文字がまるで生きている物のように教室に行き渡る。
 彼女の吐息の一つ一つが生き物のように蠢く。

「酔うて砂上に伏すとも、君笑うことなかれ」

 最後の一文を読み上げる必要はない。
 彼女が朗々と謳い続けている間に、それを指し示した教師はいなくなっていた。
 彼女の朗読の間に教師ではなくなっていた。


「……終わりね」
 教室は既に静まりかえり、黒板を汚していた血糊は既に灰になろうとしている。
 結界はおろか、魔術的な知識の一つも持たない彼女――弓塚さつきが生き残るには、より優れた方法を使う必要があった。
 迷うこともなく、死徒の本能は彼女を陽光から隠し陰鬱な気を与えるここを住処と定めた。
――高校
 大人になりきれず、子供でもないあまりに浮き上がった時期を過ごす人間達。
 その不必要な想念と鬱屈した気は、少しつついてやるだけで幾らでもわき上がってくる。
 生命体として最も生き生きとした、そして何より活きのいいこの時期を過ごす人間は美味い。
 その気も、血も、何よりまだ生命体として生の状態である人間は極上の美味である。
 これからヒトとして生きるであろう、その生命力に満ちあふれている時期の人間の血は甘い。
 これから熟れようとする青い果実の瑞々しさを、何よりも早くつみ取って――灰へと帰す。
 異性にも渡しはしない――それが特権。

 多少不味いと言え、この絶対不可侵の『お菓子の家』を護るためならば。
――教師は、使い方次第では如何様にでもなる最強の駒だもの、ね
 虚ろな目をした人間――食物以下の存在を、さつきは見下ろしていた。


  酔うて砂上に伏すとも


 一瞬だけ教師の姿を探して彼女は戸惑う。
 でもそれを咎める物もなく、それを笑う者もいない。
 ただ彼女が自嘲の笑みを浮かべるだけ。
――ふん…
 学校という名の閉鎖空間は彼女の物だった。

「遠野くん」
 そう呼びかけていた少年がいた。
「?なんだい、弓塚さん」
 眼鏡を掛けた、これも又目立たない少年。
 にっこりと――多分、半ば本能的に――笑みを浮かべる少年。
 もう青年と呼ぶにふさわしい年齢なのに、周囲の男に比べ生命力に乏しい雰囲気を与える。
 庇護してやりたくなる――そう言った少年。

『早く家に帰って、お雑煮でも食べたら』

 誰も知らないけど、彼のその不均衡な言葉。
 さつきにとって一番自慢したい事――今でも一番、懐かしくてそして何故か寂しい言葉の一つ。


 目が醒めた。
 実際には眠っていたわけではない。
 だから彼女は気怠そうに髪の毛を払いのけて空を見上げる。
 いつまでたっても夜はまだ夜であり、彼女が意識する領分でないような気がして。
――空が蒼い
 もう青空を見上げることはできない。
 陽の光を浴びることはできない。
 代わりに。
 今こうして見える蒼穹の果てに見える――白銀の月。
 その光は彼女へと活力に似たものを与えてくれる。
 それが‘月光’という魔術言語に対する言霊の効果であることは、恐らく気づかない。
 『魔法とは月光(Moon Shine)である』という、有名な言葉。
「空が蒼いわ」
 すっと、今まで誰もいなかった屋上に人影が現れる。
「…どう見えるかな、志貴くん」
「やっぱり蒼いかな。はは、これでも青空っていうのかなぁ」
 その瞳はまだ死の線を虚ろに映しても、頭痛を与えない。
 多分――永遠に。
「そうだよ、志貴くん」
 彼女はそれでも、背後に現れた気配を無視するように目を空に向けて、片方の膝を抱える。
「後悔してる?」
 背後から志貴の声が聞こえた。
――後悔?
 溜息をつくように振り返り、虚ろな彼の蒼い瞳を見返す。
 多分昔はその瞳は輝くように蒼く、今の彼女を貫いていただろうが――
「あなたは」
 言いかけて、再び顔を正面へと戻して呟く。
「いいわ、今日は消えて」
 後悔。
 久々に聞いた言葉なのに、それはやけに耳障りがした。
――多分後悔できないから
 さつきは自分の『巣』を見下ろして見た。
 コンクリートで固められた古風な建築。
 城、と呼べなくもない。
 自分の意識の届く範囲であれば、この周囲は彼女の物。
 極短期間に自分の中身を本質的に知る――彼女は異常なまでにこの状態に適応した。
 過去に存在した真祖から生まれたと言う祖と呼ばれる死徒に匹敵する素養を、この段階で得ていた。
 それは幸か不幸か。
 わざとだろう、足音を残して志貴は去った。
――彼も
 まだ力を付けていない彼女から生まれた死徒にしては、随分彼女の意志の外側で動いてくれる。
 さつきはそれを、自分の無意識の行動――意識できない自分の意識だと考えている。
――それは本当の願い
 さつきは屋上で校舎を見下ろしたまま小さく微笑む。
 自嘲の笑み。
「志貴くんが本当の望みだなんて」
 その考えに至った自分があまりに馬鹿げていると思って大声で嗤った。
 嗤って嗤って――いつの間にか、空を見上げて瞳には涙が。

  あの日から変わった常識

 戻れない日々は、彼女を縛り付けるように校舎に居座らせる。
「では、次の所を――弓塚」
 今や一つクラスを飲み込んで、彼女の「巣」は存在した。

  一つの噂が生まれた

 今日も又、偽物の学校生活が始まる。
「はい」
 望むこと全てが可能な世界。
 怖ろしいまでに兇悪な力――人間という筺を開いてぶちまけたような、そんな世界。
 人間が望むこと全てが可能な代わりに、全てを捨てなければならない。
――なんでこんな――
 多分そのうち飽きてしまうかも知れない。
 死徒という存在は、その存在を保つ理由はなく結果――全てに飽きてしまうだろう。
 時の流れは無情なまでに長い。
 それが永遠を得ると言うこと――

  幽霊のクラスがあるという噂


「…少しは退屈が紛れると思ったのだけど」
 大量の自分の血の海で横たわる少女――遠野秋葉。
「にい――さ――」
 絶望的な声を上げて自分の後ろに立ちすくむ少年を見返えそうとするが、もう身体は動かない。
 一度に大量の血を失ったから?
――違う
 たった一突き、彼女は殺されていた。
「遠野の血って、美味しいのかしら」
 さつきの口元が歪んだ。

 食事を終えても志貴は何も言わなかった。
 既に秋葉の死体は完全に灰になっていた。
「切り札は取っておく物よ」
 既に、自分を吸血鬼にした死徒はいない。
 既に、自分の周囲にいた死徒もいない。

――たった一人を除いて

「志貴くん」



  だからまたわたしがピンチになっちゃったら、その時だって助けてくれるよね?



「なんだい、弓塚さん」



  随分と遅れちゃったけど、あの時の遠野くんの言葉、嬉しかった



「ううん、なんでもない」


 焦る必要はない。
 時間は幾らでもある。
 でも多分、その前に『教会』の女を押さえなければならない。
「ただね」
 やっぱり彼女は志貴には背を向けて言う。
「最後は――志貴くんに殺してもらいたいな」
 振り返って見せた笑いは、いつかの夕方と同じで。
 少しはにかんでいて、多分二度と浮かべることのない笑みだった。

                               了
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 一応の終わりです。3/暗黒唇痕の続きのつもりで書いてます。
 なんで引用が漢文でしかもあれ?というのは趣味だと思って(^^ゞ
 ほら、アトラクナクアの影響やって(^^ゞ
 少し手短にまとめてみました。こう言うのも味かな〜って思って。
 もしどこからともなく要望があれば、長編にします。できます。
 但しこういう終わりじゃなくて、もっと暗くてシエルもでてきますから、そのつもりで。
 メール、BBSには『アサヒミタ シリョウヲクレ』と記入してください(笑)



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