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『穹』から零れた物語

第4話 千鶴の場合



  あなたを――殺します




 にっこり湛えられた笑み。
 その仮面の裏側に――彼女の凍てつく心が見え隠れする。

  鬼は滅びなければならない

 先祖の血を色濃くついだ彼女の心を、人間では推し量ることなど不可能。
 女性と言え、狩猟者を内面にもつ彼女は。


「逢いたい」
 それは彼女が大学生の時。
 流れる黒髪に僅かに憂いを帯びた表情が人気の彼女に、誰も近づかなかった。
 近づこうとしなかった、とも言えるだろう。
 近づけなかったのだ。その――漠然とした恐怖に。
――逢いたい
 それが千鶴の最後の抵抗だった。
 意図していなかったと言っても、近寄り難い雰囲気があれば辛い思いをする必要がないからだ。
 これ以上の別れも、これ以上の痛みも。
――…逢いたい
 その日、彼女は夕暮れのあぜ道を歩いていた。
 彼女の行く先は誰も――そう、本当に誰もいない。
 あるのはちっぽけな石の塊だけ。
 墓石と言う名の、一人の人間の死を意味する時の楔。
 隆山の外れにある山奥、ここを父は欲していた。
 ここに埋めて欲しいと。
 その遺言通り、彼女は二つの墓をそこに用意した。
 墓石は一つ。
 そこは彼女の両親が眠る場所。
 周りに生えた木々のせいか、夕暮れ時の夏の日差しを千々に切り裂いた欠片が降り注いでいる。
 紅い世界。
 二人が眠る墓石にしては小さな御影石。
 その表面に――ガラスのように磨かれた黒い石に、彼女の姿が映り混む。
 木々がざわめく。
 夕日の朱と陰の黒。
 鋭くも優しいコントラストの世界の中で、千鶴は立ちつくしている。
「逢いたい」
 言葉にして吐いてみて、それが無駄な事だと気がついて彼女は目を伏せる。
 父が自殺したことは彼女が一番良く知っている。
 柏木の――鬼の力を継いだものとして、これからの人生のなかそれを捉える一つの手段として。

  鬼の力を認めるのか、否定するのか

 父から鬼の力について聞き、恐らく姉妹の中でも最も顕著にそれが現れている彼女。
 父親としてこれほど心配な事はないだろう。
 そして――誰よりも愛しく感じる事は。
「――ごめんなさい」
 両親の墓の前で、彼女は淡々と謝罪の言葉を述べる。
 どれだけ、その言葉に意味があったのか。
 それともその言葉には――別の意味があったのか。
 千鶴は自分の口元に浮かぶ笑みに、気がついていなかった。

  幸せになりなさい

 結局父からその言葉を聞くことはなかった。



 目覚めなければよかったのに。
 目覚めさえしなければ、狩られることはなかったのに。
 鬼が目覚めなければあなたは…きっと…

 月灯りの蒼い夜。
 満月が雨月山の上で輝く。
 水門のすぐそばにある広い広場に、彼女は立ちつくしている。
 護るために。
 全てを捨てるために。
 そして、後始末をするために。
 多分明日から夢の続きを貪るために。
 おそらく無限に重くのし掛かる、現実という名の重圧から逃れるために。
「ごめんなさい」

  それは――果たして誰に向けられた言葉だったのだろう。
  自分の妹達に?
  『人間』としての自分に?
  それとも…今は亡き、自ら支える男性のために?

 ぱしゃっと水面を叩く音。
 一瞬バケツで水を捨てたような激しい音がして、再びその場は静けさに包まれた。



 隆山で引き起こされた連続猟奇殺人事件は幕を閉じた。
 その真相は、一人の娘の中に隠されたまま。


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