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歌声

 白い平原。
 正直、そんな場所で立ちすくむようなことがあるとは思わなかった。
 何故――それは、今の自分では多分理解できやしない。



 甲高く、細く長く続く黄色い声。
 抑揚と大きさだけが韻律を支える歌。
 いや。
 それを歌と呼ぶべきだろうか。
 山肌からせり出した舌のような台。
 それでも雪は等しく地面を覆い尽くす。
 そんな小さな場所ですらその例外ではない。
 甲高い声はそこから発せられている。
 何故か悲しい――そんな感情を覚えさせる。
 だから、そこへと通じる道に独りたたずむ姿があった。
 彼の耳にもその歌は届いている。

 声が、震える。

 男は目が覚めたように再び足を進め、台に向かう。
 もし今声が震えなかったら、多分その機会を失ってしまったはずだ。
 平和、そう呼ぶべき静けさが帰ってきたから。
 あまりに閑かで耐えきれないぐらい――そう、彼らのように狩猟を本能とする者にとっては。
 だから、だからこの冬という季節は耐え難い。
「――っ」
 足音に少女は身体を引きつらせて、歌をやめる。
 おびえきった表情を浮かべて振り向いて――やがてそれが氷解する。
「――――」
 少女は、男の名を呼ぶ。
 男は僅かに頷いてさらに少女に近づく。


 ここは雨月山、鬼が住むと言われる山。


「耕一お兄ちゃん」
 歌い終わった初音ちゃんの、驚いたような声にやっと我に返った。
 何だか懐かしい気がする。
 雪の積もった広場の中でこうやって向かい合っているのは、以前にもあったような気がする。
「ごめん、邪魔だったかな」
 慌てて笑いながら答えると、初音ちゃんはぶんぶんと音がしそうな程首を横に振る。
「ううん、お兄ちゃんだったらかまわないよ」
 にっこりと笑みを浮かべるとくるっとまた水門の方に身体を向けた。
 今度合唱コンクールがあるらしい。
 だからわざわざ水門まで練習に来ているのだという。
 俺は、千鶴さんに頼まれて夕食前に迎えに来たというわけだ。
「でもそろそろ帰ろうか。夕食の時間だよ」
 初音ちゃんは一瞬貌を曇らせて口をつぐむが、すぐに元通りに笑みを浮かべて大きく頷く。
「うん、一緒に帰ろう」
 ちょん、と一度両手を大きく開いて俺の側まで跳んでくる。
 よっぽど楽しいのだろうか。
 俺は思わず頬がゆるむのを抑えられない。
「なにお兄ちゃん。にこにこして」
 い、いや。
 思わず頭をなでなでしてあげたくなった。
「いやー。初音ちゃん可愛かったから」
 まぁ事実だし。
 驚いて頬を赤くするのも可愛いんだよな。
 歩きながら、いつもの山道を眺める。
 もう隆山の全域で雪が降り、この山道も足首が埋まる程の積雪だ。
「今年はよく降ったよな」
 足跡を見ながら言うと、初音ちゃんは少し真面目な表情を浮かべた。
「初音ちゃん?」
「……雪が降るとね、思い出すんだ」
 つい、と顔を上げて俺と目が合う。
 こういう時の彼女の顔は千鶴さんとよく似ている。
 やっぱり姉妹なんだって、そう思う。
「何を?」
「いろんな事。叔父ちゃんの事とか、お父さんの事とか、悲しいことばっかり」
 初音ちゃんはまた顔を前に向ける。
「するとね、何故か歌を歌いたくなるの。歌ってる間は何故か落ち着いていられるの」
「ふうん。それはきっと、歌を聞きたがっているんだよ、雪が」
 それだけじゃないだろう。
 多分、彼女の中にある思い出が。
 歌を歌いたがっているんだろう。
 鎮魂の――歌を。
「…そうかな。うん、そうかも知れないよね」
 初音ちゃんはまだ知らないだろう。
 鬼の話を。
 いつか必ずそれを知ることになるだろうし、その時にはきっとまた歌いたくなるはずだ。
 何故かそれだけは確信できた。
「大丈夫だよ、初音ちゃんやさしいからそう思えるんだよ」
 できれば、この雪のように。
 純粋で優しい歌声だから、全てを包み込んでくれるはずだ。
 過去に起こった――次郎右衛門と戦い破れた鬼達の魂も、全て。
――あ…
 屋敷の入り口に楓ちゃんの姿が見えた。


 男は少女に、先ほどの歌について聞いた。
 少女は僅かに首を横に振り、両腕を大きく――何かに訴えかけるように開いて語った。

 彼女達は、逆らうべき運命を持っていた。
 そしてまだその答えを軽々しく言うべきではないと思っていた。
 彼女の声は山に――山の隅々に響き渡り彼女の意志を伝える。
 眠りについた翼を慰めるように。
 もう飛び立つことのない折れた翼を労るように。
 そして、今目の前にいる男は――交差した運命の向こう側にまだ立っている。
――責任
 そんな簡単な言葉や理由で、一緒にいるのだろうか。
 では――いや。
 まだまだ知るべき事も、知らない事も多い。
 何より彼の瞳の中にはまだ――そう、恐らく永遠に取り残された光が点っている。
 今少女が側にいる理由はそれだけでも良いのかも知れない。
「寒いだろう、帰るぞ」
 そう、男に声をかけられただけでも。
 憎しみに覆われている心の壁があるのだとしても。
 まだ時間はある。
「はい、ジローエモン」
 これからの人生ぐらい、もっと楽に生きられればいい――そう思う。
 だから彼女は歌う。
 彼の側で。


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