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 地酒、ではない。
 百姓が自宅で作るような濁酒だ。
 蓋を開けた途端にむわっとする麹の臭いが漂う。
 酸っぱい発酵した薫りに、真っ白く濁った乳のような酒。
 木の匂いがまたよく合う。
 作り手もまたかなりの酒飲みだろう。
 わざわざとっくりではなく木箱に入れているあたりもそれを伺わせる。
 一度それでからかって呑み潰されそうになった事もある。
――戦の前に不謹慎な
 誰もそれを口にしなかった。
 前日の夜から飲み続けた彼は、『水杯ではなく本物の酒でやろう』と口走った。
 その場にいる誰も、高々酒一口で酔いが回る程善人ではない。
「体の中から邪気を掃除するのだ。鬼共との戦の前には必要ではないか」
 真面目腐った顔で言われて全員が苦笑する。
 いや、本人は本当にそう思っているのかも知れない。
 彼の顔つきは決して冗談ではない。
「いや、尤も。なかなか洒落た趣向ではないか、次郎衛門」
 鬼との戦いは、これが始めてではなかったから。

 果たして何人の人間が再び盃を手にすることができるのだろう。
 それが判っているからこその提案であり、そして…
「前回も、隠れて呑んでいたのではないか?」
 唯一の生き残りであった次郎衛門。
 彼の言葉だからこそ、その提案に重みがある。
 だが逆に――嫌な噂も聞いている。
 何故奴だけ生き残った?
 鬼の娘と出会ったという噂も聞いている。
 この酒だって本当は、奴の策略なのかも知れない。
――馬鹿な
 黒糸威の鉄鎧をがしゃりと鳴らして奴が、次郎衛門が盃を俺に差し出した。
「生き残れよ、日吉の」
 ほら。
 見ろよ、こいつの純真そうな目を。
 盃を差し出すこいつの深い、濃い目を。
 こんな悪人がいるんだったら、俺は…


「へえ」
 梓は納得したような感心したような、そんな声を出した。
「そうなんです、先輩。だから私の家系は、侍だったんですよ」
 いや、だからどうという訳ではないが。
――…その頃から手の早い男だったのかなぁ
 梓はかおりに僅かに混じる『血』の匂いに苦笑していた。

 次郎衛門、それじゃ悪人じゃん。



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