「大学、卒業したらどうするんだ?」
 あたしの答えはもう決まっていた。
 多分耕一達が反対するだろう事も、簡単に想像できた。
「あたしは――」

星の見えない夜空に

 耕一が鶴来屋の会長職に就き1年。
 梓の大学卒業を目の前にして、彼は千鶴と結婚した。
 広い柏木の屋敷には今、大学浪人中の楓を含めて3人が生活していた。
 梓は東京の大学に。
 初音は、ひょんなことから芸能界入りを果たして女優として活躍中。
 存在感のある演技で既に主演として映画出演も果たしている。
 実年齢と外見の差から『日本のナタリー=ポートマン』と言われたとか言われてないとか。
「今回は巧くいくといいんですけど」
 楓は、あれだけ優秀だった高校の成績が、受験の時になって急に低下。
 結果2度の浪人を経験している。
 彼女はがんとして大学に行くと言って聞かず、結局今回で3回目の受験になる。
「結構頑固なところがあるからな、楓ちゃんは」
 聞いても教えてくれないので、彼女のやりたいようにさせている。
 あとは大学卒業を目前に迎えた梓の進路だけが、今目前にある問題だった。
「梓はどうするつもりだと思います?」
 小首を傾げて穏やかに聞く千鶴。
 耕一は口元を歪めて肩をすくめる。
「どうだろう、彼奴も跳ねっ返りだから判らないな」
 ごく普通に大学に入学して、人並みの成績で平凡に過ごしている彼女。
 このままどこかの会社にでも就職して、ごく普通に結婚でもするつもりだろうか。
――…似合わん
 梓がスーツを着てパソコンに向かうのを想像して思わず吹き出す。
「会社に就職しても似合わないのになぁ」
「どこかの料理屋にでも勤めれば最適だと思いませんか」
「…妥当な線だろうな」
 白い服を着てキッチンを忙しく立ち回りながら料理する梓。
『頑固一徹、アイアンシェフ』
 耕一は台所に入ろうとするたびに追い出されていた千鶴を思いだした。
「いや、似合い過ぎか」
 言い直して千鶴の顔を見返して微笑んだ。

 熱された油に水分が触れる時の香ばしい音。
 かんかんという金属音と、回り続ける換気扇が立てる音。
 いくつもの喧噪の中で、彼女は立ち回っていた。
「はい、炒飯できたよっ」
 手慣れた動きで次々に料理が出来上がっていく。
 夕飯時のラーメン屋、最近バイトの女の子が評判の店。
 でも、彼女はカウンターではなくて奥の厨房で働いているという。
「お疲れ、とりあえずはけたよ」
 終わった伝票を片づけた主人が厨房に声をかける。
「はーい」
 てきぱきと道具を元の位置に戻して、梓は返事を返した。
「店長?今日はもう上がって良いですか?」
 ラーメン屋というのは、大凡のとこ一日中営業というのはない。
 この店は昼は14時まで、夕方は6時から12時までという。
 梓はこの夕方の時間のみの出勤、と言うわけだ。
「ん?早いな?どうしたんだ」
 時計はまだ8時を差したばかり。本来ならまだ4時間はある。
「うん…でも、昨日もそう話して置いてるでしょ。覚えてない?」
 だから、今日は厨房にもう一人助っ人が来ている。
 いつもであれば一度に5人の注文まで対応できる彼女一人だけで切り盛りしているのだが。
「いや、判ってるよ。たまには勉強する時間が欲しい、だろ?」
 親父は人の好い笑みを浮かべて親指を立てる。
 梓もそれにウインクで返して、更衣室に入る。
 ラーメン屋も含め、中華料理のように油を多く使う場合、服に匂いが染み付く。
 これを嫌って(まぁ、制服があるのはこのせいでもある)厨房では専用の服を着る。
 今日着ていた名前入りの服をクリーニング用の篭に放り込んで、自分の服をロッカーから出して着替える。
 青いジーンズにTシャツ、少し大きめのジャケット。
 多分胸がなければ男で通用する格好だ。
「じゃ、お先!」
「おつかれ〜」
 荷物を肩からかけて、彼女は裏口から店の外に出る。
 ここから自分の住んでいる下宿まではおおよそ30分。
 決して近くはないが、陸上で鍛えた脚もあるし、なにより。
 夜道の散歩が嫌いじゃなかった。
 そろそろTシャツだけでは肌寒い季節。
 ジャケット越しでもその風が冷たいのは判る。
 どこか遠くで踏切が鳴っている。
 車のエンジンの音が聞こえる。
 見えないから、音がよけいに良く聞こえる。
――…明日も晴れるといいな
 大学生になってから陸上はやめた。
 別に走るのが嫌いになったわけじゃなくて、別に何か理由があったわけでもなくて。

――なにか理由が欲しかったから、陸上を止めた。

 元々陸上選手になるつもりはない。
 だから、ここで潮時だと思ったのだ。

 ここで見る星は、隆山の星の海に比べればずっと少ない。
 明るすぎる空には星は僅かしか見えない。
 月夜でもないのに蒼く蒼くこもった夜の闇では、星は輝くことができない。

 ため息を、つく。

 気がつくと項垂れてとぼとぼと歩いている。
 自嘲の笑みを浮かべ、目を覚ますように首を振る。
 卒業したらどうしよう。
 今の研究室の教授のつてで、いくらか有望な仕事も見つかりそうなのだが。
 どうしても今の彼女には欠けているものがあった。

 何もかもがうまくいかない。
 何一つ思い通りにいかない。
 何も…もう何も手元にはない。

 後押しするための力が、欠けていた。
 空を見上げてくすんだ星々を見つめる。
 足が止まり、不意に笑いがこみ上げてくる。
――…何やってるんだろ
 お金はある。
 それなりのチャンスもある。
 大学生活は決してつまらないものではない。
 何度も思い返しても、今の自分の中にある空虚が説明できない。
――早くかえろ
 明日から大学祭。
 準備のために明日は早いのだ。
 せめてそんな小さな目的でいいから、彼女は家路を急いだ。

 学祭当日。
 ここの学祭というのは、前後含めて四日間行われる。
 前祭、本祭、後の祭りと学生達は俗に呼称しているが、前祭が初日、本祭が中二日、後の祭りは片づけのことである。
 今日は各サークルのそれぞれの発表の場の様なもので、特にサークル関係者ではなければ自由である。
 梓はいつもよりも数時間早く学校に行き、準備をする。
 彼女の研究室は大して出し物を出すわけでもなく、予定通り当日の朝だけで充分間に合った。
 だから始まるまでの間、大学の中を歩くことにした。
 彼女ぐらいの美少女を普通は放っておくような事はないだろう。
 だがやはり高校生の時と同じで、彼女に近づく男はいてもそういう関係になることはなかった。

  それが柏木の力と無関係な訳はない

 無意識のうちに彼女から身を遠ざけようとする本能的な恐怖。
 それに似たものがあるのだ。
 たとえ薄れた血だといえ。
 数人の友人と話しながらキャンパスを回る。
――…?
 妙な違和感。
 少しだけ非現実的な感覚。
 昨日までのここにはなかったはずの…
「どうしたの?」
「え?いや、うん、最後だからさ、ちょっとじんときちゃって」
 巧くごまかせただろうか?
 笑う友人の顔を見ながら、苦笑いを浮かべる。

  小さな悲鳴。

 身体に軽い感触。
「ごめん」
 とっさに謝って、彼女と目があった。
 目をまん丸くして、驚いた表情を隠さない。
「…え?」
 まず声を出したのは、梓の方だった。
「梓先輩?」
 その少女の顔が顔を歪ませるのに、それ程時間はいらなかった。
「何?」
 訝しがる友人。
 まぁ、誤解を生んで当然だろう。
 いきなり名前を叫びながら抱きついて、泣いているのだから。
「ぇあぁ、いや、高校の陸上部の後輩。…涙もろいんだよ」
 適当に誤魔化して、友人とはそこで別れた。
 少女――日吉かおりは、梓に抱きついてぐずぐずとまだ泣いていた。
「かおり、もう離れろよ」
 梓は子供をあやすように背中を叩いてやりながら、できる限り優しく言った。
 それまでぎゅっと力を込めていた両腕がゆるみ、彼女は梓から離れる。
 目を真っ赤にする程ではなかったが、まだ目の端に涙を浮かべている。
「…せんぱい」
 僅かに上目づかいに梓を見上げる。
 そして、にっこりと笑う。
「お久しぶりです!」
 僅かに感じた違和感は、彼女の鬼の血だった。

「へぇ、先輩、陸上もうやってないんですか」
 かおりも順調に大学に進学したらしい。
 ということは今3年生だろう。
「どおりで…」
 複雑な表情を浮かべる横顔。
 最後に会ったのは高校卒業の時だから、もうかれこれ3年会ってないことになる。
 思うところがあったわけではないが、一度も隆山に戻ってもいない。
「私、きっと先輩は陸上やってると思ってたから、今でも陸上部です」
 にこっと笑って顔を梓の方に向ける。
 表情も髪型も変わっていない。
 以前のまま、まだ彼女は高校生の――卒業時の彼女だ。
 少しだけ胸の奥が痛い。
――変わってない
 羨ましい。
 梓は純粋に彼女の立場を、そして変わらなかった彼女を羨ましいと思った。
「選手にでも選ばれたのか?」
「残念ですけど。…走ってるのが楽しいから苦にはならないですよ」
 高校の時も、脚は早くないからマネージャーに徹した彼女。
 どうして続けているのか聞いた事もあったが、その時も彼女は楽しいから、と答えた。
「でも、ここに通ってたんですね…今まで知らなかったのが不思議です」
 しばらく話をしながら、大学の構内を歩く。
 出店でお好み焼きを買い、構内の少し外れの方にある広場に腰をかける。
「でも先輩、すっごく大人っぽくなりました」
「え?」
 お好み焼きをかじったまま、目を丸くして彼女を見返す。
 かおりは割り箸で器用にそれを切り分けながら、口に放り込む。
「ホントですよ?こう、全然前とは雰囲気が違います」
 そうかも知れない、と思った。
 東京に来てからバイトを始め、仕事をしながら下宿で生活をしてきたのだから。
「落ち着いたって言うか…はははっ、やっぱり言葉で表現しにくいです」
 終始にこにこしているのだが、時々それが翳って見える時がある。
 気のせいかとも思ったが、かおりはそのまま箸を止めて、うつむいている。
「…先輩」
 お好み焼きを見つめたまま彼女は言う。
「どうして陸上を止めたんですか?」
 梓は一呼吸ほどの時間沈黙して、かおりの肩をぽんと叩く。
 一瞬びくっと身体を震わせて彼女は顔をあげる。
「別に陸上が嫌いになったんじゃないよ。ただ、続けて、このまま選手になるわけじゃないし」
 オリンピックとか、そういう大きな大会に出るつもりはない。
 生活するには、別の手段がいい。
「大学で勉強したかったんだから、もっと別のこともしようと思ったんだ」
 それに。
「だから、隆山に帰る暇もなかったんだ」
「…取り残された気がしました」
 ぼそり、と呟く。
「梓先輩がいなくなってから、凄く寂しかったです」
 久々に会った、先刻の泣き顔で。
 彼女は、梓を見つめている。
「大学で陸上部にいれば、また会えるかも知れないと思ってて、3年も…」
 そして、にこりと笑みを浮かべる。
「かかっちゃいました」
 又お好み焼きをつつき出す。
――可愛いな…純粋で
 妹のようにも、そして子供のように可愛く見える。
 得な性格だ。
 どうしても彼女のその態度が、作っているようには見えない。
「ところでせんぱい♪」
 ひらがなで喋るな。
 だが梓は魅了されたまま、彼女の言葉の続きを聞いた。
「今から暇ですか?」
「うん」
 と反射的に答えてしまったと思ってももう遅い。
 にんまり笑みを浮かべた彼女に引きずられてのデートと洒落込むことになってしまった。

「ねぇ、梓先輩の下宿に泊まって良いですか?」
 散々付き合わされた上、胸は揉まれるはの大惨事になったにも関わらず。
 ぬけぬけとそう言うことを言う。
「…こんな寒い時に?かおり、正気?」

  こくこく

 目が正気じゃない。
 俗に言う行っちゃった目だ。
 大抵の場合断るに断れない目とも言う。
――断ったところで無理についてくるんだろうし
 なにより断った後が怖い。
「愛があれば寒さなんかへっちゃらです」
 おひ。
「風呂も狭いよ」
「梓先輩…狭い方がいいに決まってるじゃないですか」
 だから目が怖いって。
 じっとりと粘りのある視線で梓を舐る。
「一緒に…」
「言っとくけど、一緒には入れないぞ。そのぐらい狭いんだ、一人ずつ入るからね」
 梓は悉く彼女の反論を『言わせない』タイミングで発言し、何とかねじ伏せる。
 流石に――それがメインに違いないだろうが――口を開こうとする度にねじ伏せられるので諦めたようだ。
 悔しそうな顔で梓を見返している。
「…先輩、わたしの事嫌いですか?」
 今にも目に涙が浮きそうな位。
――鬼だ。あたしは鬼なんだ、鬼にならなきゃ
「嫌いなんですね?」

  じわ

「嫌いじゃないよ」
――わーっっっっ!あたしの馬鹿っ
 間髪入れずに答える自分に動揺したのがまずかった。
「ぢゃ、一緒に寝てくれますね?」
「ああ、いいわよ」
――わーっっっ!

 時既に遅し。

「おやすみなさーい」
「お、おやすみ」
 一つしかない布団の中に、梓とかおりの二人は潜り込んでいた。
 だいぴんち。

「…かおり?」
 梓はすぐ側に眠る少女の顔を見て、ふと罪悪感に捕らわれた。
 すーすーと寝息を立てる彼女は、完全に安心しきった寝顔を見せていたからだ。
 年下というのもあるだろうが、掛け値を引いたとしても充分可愛らしいと思った。
 だから、まさか彼女が起きているだろうとは思わなかった。
「可愛い」
「本当ですか?」

  がば

 ほとんど掛け布団をはねのけるような勢いで梓の上にのしかかってくる彼女。
「ちょ、ちょっとまってかおりっっっ」
「待ちませんよぉだ♪」

  ぬぎっ

 彼女に貸したパジャマは無惨な姿で脱ぎ捨てられる。
 その下は、言うまでもなく裸。
 そ、はだか。
「あずさせんぷわぁい!」
 
  だきっ

 ちなみにこの時の格好、上半身裸のかおりにパジャマ姿の梓。
 いつぞや襲われた時と同じシチュエーション。
「以前みたいに先輩も、先生もいないですよ」
 かおりが絶望的な事実を、嬉しそうに耳元で囁く。
 ふわっとした髪の毛に漂うシャンプーの薫り。
 何故か絶望的な状態なのに、妙な安心感を覚えた。

  星はその場所で輝き続けるとも

 だが、それ以上先の言葉は、以前の合宿の時の言葉とは違った。
 あの時は確か、『好きです、先輩』だったはずだ。
「…でも」

 梓の耳に、絶望的な彼女の言葉が届いた。

 多分。
 梓は思った。
 もし今彼女を抱きしめれば、幸せになれるのではないかと。
 それが勘違いでも、かおりがそれで笑ってくれるならそれでもいいと感じた。

 だけど。

 もう、彼女を抱きしめるには遅すぎて。

「私も、もう変わったんですよね、先輩」
 いつの間にか声は彼女の眼前から、離れた場所にあった。
 かおりは裸で梓の上に上乗りに、梓を見下していた。
 何も言えなかった。
 裸の彼女を、ただ見ていることすら…

 僅かに微笑んで、彼女はパジャマを拾いながら立ち上がる。

「…今、凄く怖い顔をしてた」

  太陽があれば星はその姿を消してしまう

 止めなければ。

「ごめんなさい、先輩。…もうしないから、側で眠らせてください」

 でも、梓には止めることはできなかった。

 梓が目を覚ました時にはもう彼女の姿はなかった。
 荷物も、服も。
「っかおり!」

  星々から闇を奪ったならば、輝きは永遠に失われてしまうだろう

『さようなら、ありがとう
            日吉 かおり』 

 梓はメモ用紙に書かれた置き手紙を握りつぶすと、大急ぎで身支度を整えて部屋を飛びだした。
 まだ朝靄の煙る町並みが目覚めようとしている時刻だった。
――かおり、一体どうして
 その時、彼女は大事なことを思い出して悔しそうに顔を歪める。
 電話番号も、住所も、大学も。
 かおりからは何も聞いていなかった。
「畜生」

『どうして陸上を止めたんですか?』
『…取り残された気がしました』
『梓先輩がいなくなってから、凄く寂しかったです』

 あのあきらめの悪いかおりが、あんなチャンスをみすみす放棄したのは何故?
 本当に偶然だったのか?
「…まさか」
 それを確かめるのは簡単なことだった。



 公衆電話の前で梓は絶句していた。
『今そこにいます?』
 まだ朝も早い。起きているか心配だったが、梓はかおりの実家に電話していた。
「…ごめん、おばさん。かおりちゃん、今側にはいないんだ」
 答えながらようやく理解できた。
 昨晩の彼女の表情。
 態度。
 そして、あの時自分ががどんな表情を浮かべたのか。

 『…今、凄く怖い顔をしてた』

 鏡の前に立って自分の表情を見たような。
「でもそれなら、どこに行ったか判ると思います。済みません、すぐ探しに行きます」
 返事も待たずに彼女は電話を切った。
 そして地面を蹴る。
――かおりは大学になんか通っていなかった
 電話口で怪訝そうな声を出したかおりの母は、それよりも、と慌てた口調で梓に聞いた。
『かおり、人を殺して逃亡中なのよ』
 一瞬錯乱しているのかとも思った。
『あの娘、監禁されて酷いことされたことがあったでしょ?あれ以来凄く情緒不安定で』

  『3年も…かかっちゃいました』

『その時も犯人だ犯人だって叫びながら』
 以前以上の男性恐怖症になった彼女は、どこか危険な薫りを漂わせていた。

  『私も、もう変わったんですよね、先輩』

――お願いだから間に合ってっ!
 膝が笑う。
 筋肉が引きつる。
 心臓がばくばく言って、胸が苦しい。
 そんなに体力が落ちたつもりはないのに、足が止まりそうになる。
 居場所はもう分かっている。
 あそこしかない。
 なのに、脚は思い道理に動かない。
 通りをぬけ、信号を駆け抜ける。
 さぁっと眼前に風景が開けた。
 駅前にある広場、時代遅れの噴水。
「…かおり」
 人気の少ないその場所に、彼女は座り込んでいた。
 ぱぱっと街頭は瞬き、夜の灯りを消していく。
 噴水のイルミネーションも消える。
 そこにあった夜の欠片が全て消えた。
「先輩」
 惚けた表情を浮かべたかおりは、不思議そうに梓を見上げていた。
 ぜいぜいと肩で息をする梓は、すぐに声を出すことができなかった。
「…どうして、追ってきたんですか」
「ばか、心配かけさせて何言ってるんだ!」
 しばらくゆっくり深呼吸して、息が落ち着くのを待った。
 かおりは梓の方を向いたまま、その間何も言わなかった。
「隣、どうですか?」
 勧められるまま腰掛けるとかおりは肩を寄せてきた。
 噴水の縁はコンクリート独特の冷たさがあって、走ってきた脚があっという間に冷たく冷える。
「…かおり」
「騙したんじゃ、ないですよ?」
 そう言うと頭を起こして、梓の方を見た。
 昨日見た彼女の顔ではない。
 落ち着いた微笑み。
 それは、今までに一度も見たことのない貌だった。
「様子が変だったから」
「先輩が変わったのと同じ。…あたしももう戻れないから」
 再び頭を梓の肩に預ける。
「人を殺しちゃいました。…やっと、見つけたんですよ、彼奴を」
 淡々とした口調。まるで何か大切な物でも自慢するように彼女は続ける。
「だから、判らなくなったんです…今まではそうだったから、これからはどうしたらいいのか」
「高校生の時までどうだったのか、もう判らない」
 かおりは、まるで囁くように呟いた。
「ただ先輩と一緒にいた時間だけは大事に想ってるんだけど」
 寂しく乾いた笑いを返すかおりに、梓は何も与えることはできなかった。
 その薄っぺらな彼女の仮面を壊すことすら敵わなかった。
 だから、彼女は。
「…警察に行く決心は付きました。梓先輩、次に会う時まで、ここでさよならです」
 本当に嬉しそうな笑みで。



「――もう一度大学に行く」
 案の定、耕一は絶句してた。
 おかしかった。想像してたよりもずっと。
 二の句が継げないのか、いつまで待っても返事は来ない。
 だから、判るようにもう一度言ってやったんだ。
「別の大学に。今からだから、一年程後になるけどさ」
 電話口で千鶴姉を呼んでいる。
『梓、本気?』
 千鶴姉の声。
「嘘でこんな事言わないよ。あたしは本気。もう一度勉強し直したいんだ」
『どうして?』
 千鶴姉が言葉少なく聞き返してくる。
 きっと逡巡してるんだろうと思う。
 千鶴姉、こういう時はきちんと話を聞いてくれるんだ。
「なりたい職業が見つかったから。こんな風に生きてやろうって考えたからだよ。
 それには勉強が足りないんだ。だからもう一度やり直したい。…お願い」
「それで、何になりたいんだ?」
『…心理学者か、カウンセラーってとこかな?』
 耕一は千鶴を見る。
 彼女はゆっくり首を縦に振る。
――止めても無駄、って事か
「よしわかった。どうせ、止めたって聞かないんだろ?」
 くすくすと言う笑い声が受話器を通して判る。
 耕一は苦笑して、千鶴は手を口元に当てた。
「好きにしろよ、そうしたい訳があるんだろ?」
 ありがとう耕一。
 今でも一番、好きだよ。
「判ってくれてるんだ」
 だから、隆山には帰れない。
「んじゃ、仕送りお願いしていい?流石に勉強しながらバイトはきついからさ」
 千鶴姉も待ってる。だから。
「うん、ん…いや、成功するまで帰らないよ。何だよ…。…五月蠅い」
 だから帰らない。
「判った、判ったよ、大学受かったら帰る。一度顔をだすから」
 でもそれすら判らない耕一のような鈍感な人間は。
「お節介だよ。でも、そうだね、楓に会いに行くなら、それでも良いかも知れない」
 受話器の向こう側で何か言っている。
 でも、気に入らないから投げ捨てるように電話を切る。
 かおりが待ってる。あの隆山で。
「頑張らなきゃね」
 自分で声を出すと、急に盛り上がるからおかしい。
 そしてあたしはもう一度、受験するために勉強を始めた。

 いつかは日が沈む。
 必ず夜はやってくる。
 月がいつまでも満月ではないのと同じように。
 雲が永遠に、空を覆うことがないように。

 星は必ず輝く時間を与えられる。

 星を覆い隠す雲は風で。
 輝く太陽は地平へ。
 月は新月。
 夜は、星が輝くためにある。

FIN


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