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夏の残り香


 今年の夏は異様なまでに暑かった。
 酷暑――日本海側に接したこの地域も、真夏は異常に暑い。
 しゃりしゃりと音を立てる削氷器が涼しげに回っている側で、細かい氷のくずが水滴に変わっていく。
 そのぐらい暑かったのだ。
「涼しいよね」
 だから、こうやって縁側に出て涼んでいるのがこの上なく幸せに感じられる。
 空には満月。
 いつ来ても思うのだが、隆山の夜には満月が似合う。
 一度だけ根拠もなくそう言い切って、楓を除く全員に笑われたことがあった。
「昼間はまだ日差しが強いけどね」
 ここは隆山、柏木の屋敷。
 ただしいつもの自分の部屋ではなく、ここは食堂兼居間の裏側にあたる、縁側。
「だからだよ、余計涼しく感じるじゃないか」
 力を入れて言うと、にっと本心からの笑みを見せる。
 そして、視線を逸らすようにして空を見上げる。
「そうだな」
 夕方のイメージ。
 秋、それは夏とは明らかに違い、僅かなその隙間を埋めるようなものではない。
 ある日突然――
 そう、何の前触れもなく訪れる。
「梓、お前、どんな時に秋を感じる?」
 だから耕一は、ちょっと聞いてみたくなった。
 あれから一年経って、ある意味ではもう忘れてもいい時期。
 あの秋の訪れはあまりにも唐突で、痛々しい物だった事だけは確かだ。
 何故――いや、言うまい。
 耕一は梓に目を向けたまま、周囲の気配に意識を埋没させる。
 虫、獣、そして――鬼。
 あらゆる存在がそこにいて、そこにはいない。
 だから、あまりにも騒々しく五月蠅く――でも、静かで。

  あのときとは まったくせいはんたいの秋の色

 梓は視線を変えなかった。
 空は月の色で染まった蒼。
 濁った白を含む藍色。
「お風呂に入った時かな?」
 耕一は思わず吹き出す。
「なんだよ」
「だって、そうだろうが。ったく、なんだか馬鹿みたいじゃねーかよ」
 梓はさすがにむっとした表情で耕一に目を向けた。
「……だったら、耕一こそ何だよ。ちぇ、人の事を言う前に自分の事はどうなんだよ」
 ジト目というよりも甘えるよう(にみえる)目つきで顔を赤くする梓。
「風、かな」
 耕一は慎重に言葉を選びながら顎に手を当てる。
「湿気とか、雰囲気とか。…夕方に、夏の季節以外の物を感じる時かな?」
「…………うそつき」

  めぎゅぅう

「げっ、げげげ」
「なによ、きたろうじゃないんだからね」
 ぐりぐりと思いっきりすりーぱーほーるどをかける。
 がっくんがっくんと頭が上下して、耕一の意識が飛ぼうとしてふらふらとあちこちをうろうろする。
 左手で喉を潰しながら、右手で首を前に折っていく。
「し、しぶ、しぶっ」
「散々、散々、この男はっ、あたしの部屋でっ」
 初めは赤い顔が二つそこにあったのだが。
 気がつけばいつの間にやら片方は青白くなって、力無くしおれている。
「耕一の馬鹿野郎っ」

 虫の音が聞こえる程、優雅ではないにせよ。
 まだ騒々しい夏の虫の鳴き声は――丁度残り香のように。
 肌に冷たい空気だけは秋だと、感じさせる。

 なお、何とか生き残った耕一は、次の日梓を連れて暖房を買いに行きました。
 まだ早いのに、という他の連中に乾いた笑いを見せて。
「もう文句は言わせないからね」


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