いつかは日が沈む。
 必ず夜はやってくる。
 月がいつまでも満月ではないのと同じように。
 雲が永遠に、空を覆うことがないように。

 星は必ず輝く時間を与えられる。


星の見えない夜空に


 梓が飛び出した時、まだ朝靄の煙る町並みが目覚めようとしている時刻だった。
――かおり、一体どうして
 その時、彼女は大事なことを思い出して悔しそうに顔を歪める。
 電話番号も、住所も、大学も。
 かおりからは何も聞いていなかった。
「畜生」

『どうして陸上を止めたんですか?』
『…取り残された気がしました』
『梓先輩がいなくなってから、凄く寂しかったです』

 あのあきらめの悪いかおりが、あんなチャンスをみすみす放棄したのは何故?
 本当に偶然だったのか?
「…まさか」
 それを確かめるのは簡単なことだった。



「――もう一度大学に行く」
 案の定、耕一は絶句してた。
 おかしかった。想像してたよりもずっと。
 二の句が継げないのか、いつまで待っても返事は来ない。
 だから、判るようにもう一度言ってやったんだ。
「別の大学に。今からだから、一年程後になるけどさ」
 電話口で千鶴姉を呼んでいる。
『梓、本気?』
 千鶴姉の声。
「嘘でこんな事言わないよ。あたしは本気。もう一度勉強し直したいんだ」
『どうして?』
 千鶴姉が言葉少なく聞き返してくる。
 きっと逡巡してるんだろうと思う。
 千鶴姉、こういう時はきちんと話を聞いてくれるんだ。
「なりたい職業が見つかったから。こんな風に生きてやろうって考えたからだよ。
 それには勉強が足りないんだ。だからもう一度やり直したい。…お願い」



 公衆電話の前で梓は絶句していた。
『今そこにいます?』
 まだ朝も早い。起きているか心配だったが、梓はかおりの実家に電話していた。
「…ごめん、おばさん。かおりちゃん、今側にはいないんだ」
 答えながらようやく理解できた。
 昨晩の彼女の表情。
 態度。
 そして、あの時自分ががどんな表情を浮かべたのか。

 『…今、凄く怖い顔をしてた』

 鏡の前に立って自分の表情を見たような。
「でもそれなら、どこに行ったか判ると思います。済みません、すぐ探しに行きます」
 返事も待たずに彼女は電話を切った。
 そして地面を蹴る。
――かおりは大学になんか通っていなかった
 電話口で怪訝そうな声を出したかおりの母は、それよりも、と慌てた口調で梓に聞いた。
『かおり、人を殺して逃亡中なのよ』
 一瞬錯乱しているのかとも思った。
『あの娘、監禁されて酷いことされたことがあったでしょ?あれ以来凄く情緒不安定で』

  『3年も…かかっちゃいました』

『その時も犯人だ犯人だって叫びながら』
 以前以上の男性恐怖症になった彼女は、どこか危険な薫りを漂わせていた。

  『私も、もう変わったんですよね、先輩』

――お願いだから間に合ってっ!
 膝が笑う。
 筋肉が引きつる。
 心臓がばくばく言って、胸が苦しい。
 そんなに体力が落ちたつもりはないのに、足が止まりそうになる。
 居場所はもう分かっている。
 あそこしかない。
 なのに、脚は思い道理に動かない。
 通りをぬけ、信号を駆け抜ける。
 さぁっと眼前に風景が開けた。
 駅前にある広場、時代遅れの噴水。
「…かおり」
 人気の少ないその場所に、彼女は座り込んでいた。
 ぱぱっと街頭は瞬き、夜の灯りを消していく。
 噴水のイルミネーションも消える。
 そこにあった夜の欠片が全て消えた。
「先輩」
 惚けた表情を浮かべたかおりは、不思議そうに梓を見上げていた。
 ぜいぜいと肩で息をする梓は、すぐに声を出すことができなかった。
「…どうして、追ってきたんですか」
「ばか、心配かけさせて何言ってるんだ!」
 しばらくゆっくり深呼吸して、息が落ち着くのを待った。
 かおりは梓の方を向いたまま、その間何も言わなかった。
「隣、どうですか?」
 勧められるまま腰掛けるとかおりは肩を寄せてきた。
 噴水の縁はコンクリート独特の冷たさがあって、走ってきた脚があっという間に冷たく冷える。
「…かおり」
「騙したんじゃ、ないですよ?」
 そう言うと頭を起こして、梓の方を見た。
 昨日見た彼女の顔ではない。
 落ち着いた微笑み。
 それは、今までに一度も見たことのない貌だった。
「様子が変だったから」
「先輩が変わったのと同じ。…あたしももう戻れないから」
 再び頭を梓の肩に預ける。
「人を殺しちゃいました。…やっと、見つけたんですよ、彼奴を」
 淡々とした口調。まるで何か大切な物でも自慢するように彼女は続ける。
「だから、判らなくなったんです…今まではそうだったから、これからはどうしたらいいのか」



「それで、何になりたいんだ?」
『…心理学者か、カウンセラーってとこかな?』
 耕一は千鶴を見る。
 彼女はゆっくり首を縦に振る。
――止めても無駄、って事か
「よしわかった。どうせ、止めたって聞かないんだろ?」
 くすくすと言う笑い声が受話器を通して判る。
 耕一は苦笑して、千鶴は手を口元に当てた。
「好きにしろよ、そうしたい訳があるんだろ?」



「高校生の時までどうだったのか、もう判らない」
 かおりは、まるで囁くように呟いた。
「ただ先輩と一緒にいた時間だけは大事に想ってるんだけど」
 寂しく乾いた笑いを返すかおりに、梓は何も与えることはできなかった。
 その薄っぺらな彼女の仮面を壊すことすら敵わなかった。
 だから、彼女は。
「…警察に行く決心は付きました。梓先輩、次に会う時まで、ここでさよならです」
 本当に嬉しそうな笑みで。


 ありがとう耕一。
 今でも一番、好きだよ。
「判ってくれてるんだ」
 だから、隆山には帰れない。
「んじゃ、仕送りお願いしていい?流石に勉強しながらバイトはきついからさ」
 千鶴姉も待ってる。だから。
「うん、ん…いや、成功するまで帰らないよ。何だよ…。…五月蠅い」
 だから帰らない。
「判った、判ったよ、大学受かったら帰る。一度顔をだすから」
 でもそれすら判らない耕一のような鈍感な人間は。
「お節介だよ。でも、そうだね、楓に会いに行くなら、それでも良いかも知れない」
 受話器の向こう側で何か言っている。
 でも、気に入らないから投げ捨てるように電話を切る。
 かおりが待ってる。あの隆山で。
「頑張らなきゃね」
 自分で声を出すと、急に盛り上がるからおかしい。
 そしてあたしはもう一度、受験するために勉強を始めた。

 星を覆い隠す雲は風で。
 輝く太陽は地平へ。
 月は新月。
 夜は、星が輝くためにある。

FIN


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