戻る
魂の器


 何もない、青い空。
 美しい色に彩られたそこには、もう悲しみはない。
 穹の蒼さが目に痛い程、寒々しく静かだった。

 一念発起して始めた仕事だったが、まだ実感がわかない。
 保母の資格も取り、正式に務められるようになって。
 あれからもう1年も経って、それで彼女は思いだしたように感じた。
 風に秋の匂いが漂い初めて、肌寒さにふと別れを思い出して。
――この仕事、うちの性に合ぉとる
 彼女――神尾晴子はここまでくるまでかなりの苦労をしたが、それすら苦に感じられなかった。
 前向きに生きる事を覚えて。
 結果として辛い別れになった事が、彼女には最も大切なものになった。
「こら、悪戯するんやないっ」
 時には厳しく。
 時には優しく。
 いつも元気良く。
 メリハリのある彼女の態度は、子供達にはなかなかの評判だった。
 初めての卒園式の時、園児にプレゼントを貰って泣いてしまったりした。
 長いようで短い。
 彼女にとって非常に密度の濃い一年間だった。
「けっこん、しないの?」
 あの時、一組の子供を見つけた。
 どことなく放っておけない雰囲気のある、すこし人よりドジな感じの二人。
 少女はあどけない表情で、不思議そうに彼女を見つめている。
 ははは、と軽く笑いながら彼女を見る晴子。
 ぼそっと零した言葉が彼女に心配させていたんだろう。

  『んん?結婚してへんよ、うちは』

 大人はみんな結婚しているものと思っているのか、彼女は真剣に心配そうな表情をしていた。
 出会うたびに、彼女は笑い顔を隠すように。
 まるで本気で――心配しているように。
――あほな。そんなわけあらへん
 子供の戯れ言だ。
「…もしかして、わたしのせいだったらいやだよ」
 晴子は思わず彼女の顔を見返していた。
 いや、少女は不思議そうに彼女を見返して首を傾げている。
 何も言っていない。
 何も、少女は考えてもいない。
 ただ…
――…観鈴に、よぉ似とるなぁ
 短く刈りすぎた、自分の娘の事を思い出す。
 何で今まで気がつかなかったのだろう。
 そう言えば、心配そうな彼女の顔は、引き取った頃の観鈴にそっくりだった。
 いや、似てるはずはない。
 ただ幼い娘独特の雰囲気が、彼女にそれを思い出させるだけなのだろうが。
 この秋の冷たい空気が、寂しさが忘れさせていたものを呼び覚ましたのだろうか。
「あのね、このあいだ告白されたんだよ」
 すこし恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに晴子の服を引っ張りながら彼女は言った。
 無論、相手はあの男の子だろう。
「けっこんしようって」
 意味など、まるで判っていないだろう。
 それどころか、覚えている事もないだろう。
 無邪気な約束。
――ああ、そうや

  『元気で、幸せになってよ』

 観鈴にそう言われたような気がした。
――何や、子供の癖に親の心配なんかして。生意気や
 あやすように彼女の頭をなでてやって、晴子は笑って見せた。
「良かったなぁ、それは大切にせなあかんで。大事な、大事なもんや」
――覚えとるよ、忘れるはずないやろ。でも、短かったけどうちは生き方を見つけたんやで
 少女の笑い顔に、自分の娘を重ね合わせるように。
――あんたの御陰や。観鈴

 永遠は存在しない。
 その先にある無限にも、かならず終わりは来る。
 できればその最期の刻には、せめて幸せな記憶を。

――うちは、今幸せやで


top index