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仕掛け人 佐祐理

 大学3年生。
 この不景気の時代、就職を考えないといけない時期にさしかかった学生が情報を仕入れ始める。
 そんな時期。
 祐一は何も考えていなかった。
――研究でも続けてりゃいいや
 今所属している研究室が、意外にルーズで、簡単に修士号まで(要するに大学院だ)とれそうなのだ。
 だからまだまだ何も考えるつもりはない。
 錆びたキャンパスライフを送ればいいのだ。
 と、思っていた。
 その日が来るまでは。
「見つけた」
 少女はにこにこしながら双眼鏡を覗いていた。
 彼女のレンズの向こう側には、祐一の姿があった。

――…約束
 ぶっきらぼうに差し出した右手の小指。
 祐一はそれが恥ずかしさの裏返し、不慣れな感情表現の現れだと言う事を知っていた。
 だから、思わず笑みを浮かべてその小指に自分の小指を絡めた。
――覚えておくから。絶対忘れないよ
 セピア色に薄れゆく思い出。
 翳った表情とポニーテールが妙に目についた。
 結局、それ以来会うこともなく、今の今まで時間は過ぎていった。
「…忘れていた癖に」
 喉元に竹刀を突きつけられて、祐一は冷や汗を垂らして両手をあげている。
 じとっと睨んだ表情は、まだ思い出の中と変わらない。
「わ、忘れてなんかないじゃないっ」
 か。
 声にならない声。
 唸りをあげて祐一の耳元を過ぎる竹刀。
 もし一瞬でもかわすのが遅れていれば彼女の突きが決まっただろう。
 そして、間違いなく気を失っていただろう。

  めきり

 …訂正する。
 間違いなく絶命していただろう。
 彼女の突きは、祐一の背後にあった巨木に小さな穴を開けていた。
 丁度、竹刀の頭が沈む程の穴だ。
「…五月蠅い」

  びゅん

 あの斎藤 一が得意とした『平突き』の如くそのまま水平に薙いだ竹刀を、しゃがんでかわす。
「まぁまって」

  びゅん びゅん めき

 二回までかわすことのできた彼女の太刀筋も、三回目は見事に祐一の顔面を叩いていた。


 いつの間にか人だかりができていた。
『祐一が校内で痴話喧嘩してる』
 そう言う会話が飛び交っている。
 そんな中で、舞は竹刀をぶんぶん音を立てて振り回している。
「待てって」
 顔に真っ赤な竹刀の痕を残したまま叫んで、祐一は舞に背を向けた。

  ざわざわざわざわ

 祐一が通るとまるでモーゼが杖を突き立てたように人垣は音を立てて開く。

  ぶんぶんぶんぶん

 その後ろから、ものすごい勢いで竹刀を振り回す――でも美少女がいるからだ。
「待てって言ってるだろーに!」
 全速力で駆け抜けて、振り向きざまに祐一は腕で竹刀を受け止めた。
 白刃取りではない。両腕を交差させて受け止めたのだ。
「…待たない」
 まるで鍔迫り合いをするようにぎりぎりと体重をかけて押してくる。
 この鍔迫り合いというのは真剣ならば意味がある。
 が、素手の祐一に対して竹刀の舞がどれだけ優位なのか。
 素直に引いた方がさらに打ち込めるのだから有利に決まっているのだが…
「な、何でそんなに怒るんだよ」
 しかも、女の舞に押されている祐一だから、情けないことこの上ない。
「『可愛い』って言ったのが悪いのか?」

  ぶうん  めき

 脇腹に直撃。
 それも、腕を上げていたせいで、思いっきり痛かった。
 声なくごろごろと地面を転がる。
「…今更、そんな言葉聞きたくない」
 顔は真っ赤だが。
「佐祐理が、祐一のことを『祐一』って呼んだ」
 地面に転がる祐一を見ながら、舞は淡々と言う。
「…私は、代わりにはなれない」
 祐一は――多分骨ぐらい折れているだろう――激痛をこらえて舞の顔を見ようと顔をあげた。
 彼女はうつむいて、祐一を見つめている。
「いや、そうじゃなくてね」

  ぶうん  ごす

 今度は祐一の側頭部に竹刀が命中する。
「黙れ」
 …殺す気ですか?
 本気で殺る気ですか?
 気がつくと舞の目がすわっていた。
 いや、先刻からもう殺戮モードに切り替わっていたのかも知れないのだが。
「…嘘つき」
 冷たい彼女の言葉を聞いて祐一は死を予感した。

「あはははははははは」
 学校の屋上で双眼鏡を覗いて大笑いしている少女。
 長い髪を揺らして、再び追いかけっこを始めた二人を見つめている。
「やっぱり仲がいいですねー」
 どう見たって仲がいいと言うよりも、どう見ても殺人鬼から逃れる不幸なホラー映画の主人公なのだが。
「…でも、そろそろ止めた方がいいですねー」
 おっとりした調子で『自称舞の親友』倉田佐祐理は呟いた。


 結局牛丼を差し出した佐祐理によって、その場は丸く収まったという。
「よかったですね、祐一さん」
「よくねー!」
 祐一は全治三ヶ月で病院に入院した。


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