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Cryptic Writings 
Chapter:5


        ―――――――――――――――――――――――
Chapter 5

主な登場人物

 柳川 祐也
  鬼の刑事。現在鬼塚殺しの犯人を追っている。
  犯人である裕の正体を知って、若干困惑している。

 月島拓也
  20歳。電波使い、だけど少し設定が違います。高校生の頃に3人の人間を廃人にしている。

 柏木耕一
  梓を認めたくても認めにくい位置にいる。
  現在、祐介の行動まち。

 柏木 梓
  現在耕一の追っかけ中。
  行動力では恐らく姉妹随一。

 長瀬祐介
  現在、情報を握る『生体兵器』。まだその正体ははっきりしない。

 月島瑠璃子
  拓也の妹。電波の感応力が最も高い。
  純粋な感情は、彼女が嘘をつけない存在にしている。

 柳川 裕
  鬼。彼は生粋の狩猟者で、祐也の『鬼』を演じていた。
  カニバリズムの持ち主。

 マルチ型(月島)
  どうやら感情が生まれ始めたらしい。
  但し自分が何者で何をしたいのかは自覚できていない。

        ―――――――――――――――――――――――

Chapter 5:LiVE aND LET DIE

 日本国某所。
「書類はまだ通らんのか」
 緑色の制服に身を包んだ男。
 胸についた奇妙な四角い物と肩の桜が彼の身分を示している。
 陸上幕僚長。
 陸上自衛隊の最も上級の幹部に匹敵する役職だが、彼は『指揮官』ではない。
 統合司令官が存在しないのが自衛隊の特色だった。
「もう全基地に待機命令を出した。一時間以内に迎撃は可能だ」
 こちらは航空幕僚長。
「…相手はほぼ間違いなく、小規模な空挺作戦を組んできます。ああ、これは私個人の意見ですよ?」
 並み居る政治家、軍人を前にして、男は堂々と発言する。
「『Hephaestus』は本来軍事力を持つ組織ではありません。『実験部隊』を囲っていますが…彼らとて傭兵。
 金さえ払っている間だけ忠実なんですよね。それはたとえ、その時敵対している相手から金を貰おうとも。
 そして、たとえ相手が『Hephaestus』に敵対するべき人物であったとしても雇い主になることができる」
 一瞬光が男の顔を遮る。僅かに傾いた眼鏡の上を光がなめたのだろう。
「それはある時には一撃で紛争を沈めた決定打であったり、ある時には絶対死守すべき場所で現れた救世主であったりしました。
 クェートもその力を信じて疑いませんでした。アメリカはその存在に気が付かなかった。
 …今度は国家と変わらない政治力でもって、我が国に攻め入ろうとしている、という訳です」
 男の顔にかかった眼鏡を、ついと人差し指で差し上げる。
「彼らの目的は、『首都の制圧』、及び『主要交通機関の分断』でしょう。
 もし私がこの国を攻めるのであれば、まず交通路を分断するのが手っ取り早いのではないかと」
 男の言葉に若干周囲がざわめく。
 当然だろう。
 彼は軍事専門家でも軍人でもない。
「まぁ、取りあえずは出方を見るしかないというのが結論ではありますが」
 統合幕僚会議。
 その、緊急召集がかけられたのはその男のせいでもあった。
 『Hephaestus』に所属するASSET、久品仏大志だった。
「言っておきますが、敵は私達じゃない。…奴らです」
 

 太陽が柔らかい日差しを散らしている。
 真昼の日差しが暖かいのに、空気の冷たさは拭えない。
 いつの間にか秋から冬の匂いが漂い始めた。
――もう、あれから一月になるんだな
 双子の裕との闘い。
 自分の中の鬼の正体。
 そして、それを良く知る自分しか、奴を止める事は叶わない事。
――それから全くと言って良い程、進展はない
 CYBER-NAUTSでの情報は大して期待していなかったとは言え、何もなかったことが逆に疲労感を増大させた。
 鬼塚死亡時刻は、今をもって正確なものは分からない。
 彼はずたずたの肉片として発見されたのだから。
 『あの事件』があって、初めてその死体が彼であると――血液等検査の結果――判別したのだから。
 彼の死体は巧妙に隠されていた。
 だからこそ、振り出しに戻されたとも言えるだろう。
 但し手口があまりにも巧妙すぎる。隆山のように死体を遺棄するという雰囲気ではない。
――…わからん
 頭をぼりぼりかいて、彼はため息をついた。
 河川敷から引き上げて、署の入り口をくぐる。
 ここもいつの間にか住み慣れてしまった。
 だが彼のため息は、大声によってかき消された。
「遅い!」
 部屋に入るなり長瀬が柳川を叱りとばした。
「一体昼食にどれだけ時間をとれば気が済むんだ!」
 見れば彼は上着を着込んで、机の上から書類をひっつかんでこっちに向かってくる。
――っ、しまった
 少しのんびりしすぎたのかも知れない。長瀬の手が飛ぶことなど初めてだが…
「行くぞ、急げ」
 直接怒鳴り散らすのかと思いきや、そう言い残して彼は柳川の側を過ぎ去った。
「え、あ、はい、今行きます」
 彼は慌ててその後ろをついていった。署を出てすぐ彼に追いつくと、柳川はリモコンを自分の車に向ける。
 がしゃん、と低い音がしてキーが解除された。
 と、すぐにスタータの回る音がした。
「どうしたんです?」
 運転席に回りながら長瀬に聞く。
「タレコミがあった」
 助手席に――長瀬はいつもこの席に座る――滑り込みながら応える。
 若干遅れて柳川が乗り込むと、エンジンは既に回っていた。
「…タレコミ?」
「ああ、CYBER-NAUTSの社員からだ。すぐに来て欲しいってさ」
 柳川は眉を顰める。
「今から、ですか?」
「今更の間違いじゃないのか?」
 長瀬は笑いかけて、懐に手を入れた。
「どっちにしても行くしかないさ」
 そして煙草を振り出すと、口を歪めてそれをくわえた。
 もっとも、ライターが切れたらしく懐をあさっているが。
「…はい」
 笑いながらソケットをぬいて彼に手渡す。
「おっ、すまん。…いいのか?」
「ええ」
 と笑いながらエアコンのスイッチを入れるのを忘れない。
 長瀬はため息をついた。
「お前ねぇ」
 長瀬は苦笑しながら柳川の横顔を見た。
 彼は決して嫌がらせでやっているわけではない。まだ子供っぽい目つきが残る横顔は、真面目で通るだろう。
「なんです?」
「…いや、いいよ」
 くすっと柳川は笑い、アクセルを踏み込んだ。
 

 CYBER-NAUTS社の側の喫茶店。
 指定された場所はここであった。
「…おかしいな…」
 人気がないと言っても、指定された時間はとっくに過ぎている。
 店の中には誰の姿もない。
「すみませーん」
 柳川が声を挙げても、店の人間の返事すら聞こえない。
「どうなってんだまったく…」

  ぴぃん

 妙に張りつめた空気。
 空気その物がまるで質量を持ったように重くなる。
――これは
 長瀬も気がついたらしい。目がすっと細められ、見えない何かを追うようにゆっくりと頭を巡らせる。
 空気が凍り付いたように全く動かない。
 じりじりと長瀬が動く。
 だが急にその気配が遠のいていく。
 まるで霧が晴れるかのように。
「柳川」
 長瀬がしわがれた声をだした。無言で頷いて、無意識に懐を探る。
「違うか」
「…ええ…別ですね」
 冷たい金属の塊に手が触れて、僅かに彼は足を進めることができた。
 ゆっくりカウンターの向こう側の気配をうかがいながら、奥へと進む。
 だんだん空気が重くなっていく。
 違う。先に進むのを恐れているんだ。
――!
 その時、その正体に気がついた。僅かな血の臭いがする。
 躊躇わず彼は即座に銃を抜く。
 そして厨房に躍り込む。
 ほんの僅かの時間、長瀬の目の前を紺のスーツが覆う。
 やがて、それが静かに収まると銀色の厨房が目に入った。
「ぐっ」
 柳川が息を詰まらせるのを聞きながら、彼は眉をしかめた。
「…こんなのは…久々だ」
 厨房にある大きな机。恐らくはそこに材料を並べるだろうそこに、人間が横たわっていた。
 大きく下腹部から喉元にかけて切り裂かれて。
 脈打つ内臓を見ればまだ生きている事が分かるし、出血もない。
「死んでいる方がいくらかましだな」
 何故か落ち着いた口調で長瀬が言うのを柳川は虚ろに聞きながら、目眩を覚えていた。
「…救急車を呼ぼう」
 そこで腹を真一文字に切り開かれた男は、CYBER-NAUTSで鬼塚を担当していた社員だった。

 彼は病院にかつぎ込まれたが、手術と検査の結果身体に異常は見られなかった。
「ですが面会は不可能です。脳波に異常がでていまして…恐らくこのまま目覚めないでしょう」
 それが彼を見た医者の意見だった。
 道すがらにでも襲撃されるかと身構えていた彼らは、何事もなく病院まで辿り着いたので安心していた。
「結局収穫なしかぁ。まいったな、柳川」
 口調も表情もまったくそんな風情を見せずに言う。
 柳川は半ば憮然とした態度で頷いてため息をついた。
「…どうした?」
「いいえ、以前に会った事のある男だったので」
 ふん、と長瀬は息を吐いて笑うと彼の背をぱんぱんと叩いた。
 柳川は苦笑して長瀬の方を見ると、やがて真剣な表情になって言う。
「どう捉えます?これを」
 じっと長瀬の顔を見つめて、彼は顔を前に戻しながら続ける。
「自分は…警告ではないかと感じたんですが」
「そうか?」
 長瀬はやけに意外そうに呟いた。
 柳川はそれが気にくわなかった。
「では、長瀬さんはどう感じてるんですか?」
「…柳川、もしあれが警告だとしても、あの男におかしなところがなかったか?」
 男に異常。
 柳川は発見された状況を良く思い出してみる。
――確かに出血はやけに少なかったが…
「内臓に目がいって、見てなかったんだろう。目つきが異常だったぞ?あれはまともに殺された人間の目ではない」
 言われてもぴんとこない。
「そう。…俺達に対する仕業にしては奇妙だと思わないか?むしろあれは、あの男に対する拷問のよう見えたんだが」
「だからですか?出血が少なかったのは」
 長瀬は頷く。
「何故なら、簡単に死なれては困るからだ」
 柳川はむっと嫌そうな顔をした。長瀬はその様子に僅かに笑い、ため息をついた。
「こういうことは結構少ないがな。…柳川、俺はお前と組む以前に一度だけ似た事件を担当した事がある」
 そして、今度はにっと笑みを浮かべて柳川の肩を叩く。
「お前と一緒に仕事するようになってから、奇妙な事件ばっかりだけどな」
「ちょっと、それ酷いですよ?」
 柳川は応えながら、しかし頭の中では肯定していた。
――長瀬さんには、悪い…かもしれない
 彼が警部補試験に受かって隆山に来た時からのつき合いだと考えると、まさに『彼が来てから』だ。
 柳川はエンジンのキーをリモコンで操作して、ふと背中に悪寒を感じた。
――…なんだ…
「どうした?」
 長瀬に声をかけられて、彼は頭を振ってなんでもないと応えたものの、冷たい視線が気になった。
――…まだ…見ている
 神経質になっているのだろうか?彼の視線の中に、しかし何も捉えることはできなかった。
 

 署長室。
 便宜上そう呼ばれる事務室には、応接用のソファと小さな机、そして仕事用のデスクがある。
 簡素な部屋だが、少なくとも仕事の為に必要な機能は全て備えている。
 今そこに、署長と一人の男がいた。
「…分かりました」
 署長の言葉に、男は頷く。
 恐らくかなり若いのであろう、まだ顔つきには幼さが残る。
 だが眼光だけは違う。署長に対して向けられた瞳の光は、鍛え上げられた兵士の物だ。
「恐らく止めることはできない。できる限り交戦をさけろ」
「…本部には」
「私から連絡する。いいか?それよりも我々の身を護る方が先決だ」
 再び機械的に頷いた。
「それと、ついでだから連絡しておく。『神の雷』が妙な動きをしているらしい」
 署長はそう言って、両手を開いてみせる。
「今回の件に関しては、『それ』もある程度関わってくる」
「…だから『奴ら』が出動している訳ですか」
 彼は頷く。
「礼儀知らずの傭兵どもだ。――聞き出せとは言わないが」
 そして思い出したように彼は一度瞬いた。
「――そうだ、矢環」
 そして、続けて非常に気軽に声を掛けた。
「もし――必要ならば持っていっていいぞ」
 そういって彼が机に置いたのは――通常、警察官でも持って良いはずのない――デザートイーグルだった。
「はい」
 矢環は何の感情も感じられない仮面の目を、凶悪なその銃へ向けた。
 

「がーっ」
 署長に報告を終えた長瀬は、奇声を挙げて伸びをした。
「長瀬さん、どうでした?」
「んにゃ」
 柳川の持ってきたコーヒーを受け取って、彼は首を振る。
「いつも通り」
 ずずとコーヒーをすする長瀬の側に腰掛けて、自分のコーヒーを一口含む。
 泥水のようなコーヒー、という表現があるが、あれはインスタントのコーヒーじゃないな、と最近思う。
 少なくとも、この署ではコーヒーメーカーが常時コーヒーを作り続けている。
「でも先輩なんですよね」
 ん、と長瀬は柳川を見下ろすように――珍しい物でも見つけたかのように――して彼は柳川に目を向けた。
 そして、二度顎をさすってふむ、と笑みを浮かべた。
「…俺達みたいな感じだったんだろうな。と、思うよ」
「え?」
「以前、署長と組んでたんだよ」
 応えると長瀬は苦笑いを浮かべて柳川の肩を叩く。
「あの人には敵わないがな。…恐らく、今でも」
 CYBER-NAUTSの社員については、もう警察関係の者を派遣した。死んでいないが、あの状態では死体と変わらない。
 もし拷問なら自白剤を使用されている可能性もあるからだ。
 味気ないコーヒーは、ただ苦いだけだった。
「柳川、お前、コーヒーもだめだったっけ?」
 よっぽど嫌そうな顔をしていたのだろう。長瀬が面白そうな顔つきで聞いてきた。
「酒もだめ、煙草もだめ、コーヒーもだめじゃ、何を楽しみに生きてるんだ?」
「長瀬さん」
 咎めるような彼の物言いも、長瀬は笑って流した。
「いいから。全く、仕事に差し支えるなよ?それでなくともお前、ため込む癖があるからな」
 見抜かれている。
 柳川はやれやれと言う風に肩をすくめながら、この人には敵わないと思った。
――取りあえず今は…まだ…
 酒は嫌いではなかった。それに、恐らく十分呑める方だろう。
 だが、酒が怖くなっていた。
 酔っている自分が、まだ怖いのだ。
 酒に口を付けることも、まだできないだろう。
「さって、仕事仕事」
 いいながら机に置いたカップを再び柳川は拾って給湯室に向かった。
 僅かに水を掛けてコーヒーを流すと、彼はそれを洗い場において立ち去ろうとした。

  ずくん

 悪寒。
――なんだ?
 急に全身から冷や汗が吹き出し、熱病に冒されたように目の前がぐにゃりと歪む。
「ぐ…う」
 頭を鷲掴みにされて振り回されているような気分の悪さに、柳川は洗い場に手をついた。

  じりじりじり

 金属を叩く甲高い音。
 目覚ましが頭の中で鳴り響いているような頭痛と耳鳴り。
「があああっ」
 声を殺せず、思わず片手を口に当てる。
 胃の中身が逆流しそうだった。

「がはっ」
 柳川は口の周りに溜まった唾を吐き出して頭を振った。
 先刻までの悪寒がまるで嘘のようだ。急速に晴れたもやに彼は目をしばたたく。
――なんだったんだ?
 仕事の事を思い出して、彼は給湯室を離れた。
 まとめる為の書類が幾つもある。刑事とは法律のエキスパートであり、またその官僚的手続きに長けていなければならないのだ。

  じりりりん

 席についた時だ。ほぼ同時に、彼の机の上の電話がけたたましくなる。
 一瞬こめかみを押さえるが、今度は間違いなく目の前の電話がなっているようだ。
「はい…」
『矢環です、柳川さん』
 それは隆山県警の後輩、矢環だった。
「なんだ?どうした、俺に用事なら携帯にかければいいだろう」
 僅かにため息を吐きながら、このどうしようもない後輩に恨み言を吐く。
『それが、実は仕事の用事なんです。用事で自分も今東京にいます』
 柳川は息を飲んだ。
 今彼が担当している仕事については矢環も十分知っているはず。
「鬼塚について…か?」
『そうです』
 

 矢環が指定したのは新宿駅のすぐ側にある喫茶店だった。
 平日、それももう昼を過ぎただけに人通りは少ない。
「お久しぶりです」
 矢環が立ち上がって彼に手を差し伸べる。
「ああ。しかし、まさかわざわざこのためだけに来たんじゃないだろうな」
 握手しながら、矢環はいつもの人の好い笑みを浮かべる。
「まさか。自分も東京に用事があったんですよ。今は休暇中です」
 休暇中の言葉に肩をすくめてみせて、彼は席に着いた。
 コーヒーを二つ注文する。
「…で、良い身分のお前が、一体何を教えてくれる」
 厳しいなぁ、と笑いながら、矢環はポケットから写真を出した。
 ふとそれを受け取って、視線を厳しくする。
「どこでこれを」
 それには柳川 裕とマルチ型の横顔が写っていた。
「…それは」
 矢環の視線がついっと上を向く。
 つられるように柳川もそちらを向いた。
 そこに。
 恐ろしく惹き付ける気配を持った人間がいた。
 細い人影がこちらを向いている。恐らく背も高い方だろう。
 細身の服が、見る物に鋭い針を連想させる。
 決して目立つ人間ではないのに、まるでそこだけ刳り抜いたような印象を与える。
 そして、その表情が砕けるように笑みを浮かべた。
「柳川さん」

 矢環の言葉が聞こえるか否か。
 そのタイミングで細く強く絞り込まれた殺気が走った。
「っ」
 くぐもった音が、彼の耳に伝わった。
 
 
 

    ― ツギハダレヲコロセバイイノ? ―
 

  ずしゃ

 重い音を響かせて彼らは舞い降りた。
 鋼鉄の鎧、闇をも切り裂く目。
 それは技術の粋を極めた兵器の塊だった。
 音もなくヘリから降りた者、水中から姿を現した者など様々ではあったが、めいめいは同じ格好をしている。
 その先頭に、やはり同じ格好をしているものの金色のしるしのついた者がいた。
 指揮官の階級らしい。なにやら身振りで指示をしている。
「…!」
 その彼の後ろから、一人が耳打ちした。
 一瞬口元が歪んだがすぐに元の真顔に戻り、再び指示を開始した。
 その感情が、兵士達に伝わらないように。
 

「取引?」
 来栖川総合研究所。
 人里から離れた場所にあって孤立していたせいか、まだ研究所の周囲は静かだ。
「そう。長瀬源五郎。我々に協力する代わり、その見返りを与えると言っているのだ」
――正確には、この僕と、だけどね
 月島は笑みの裏側に決意の表情を隠していた。
 これ以上の失敗は赦されない。
 これ以上時間をかけてもならない。
 何故ならば。
――祐介はお人好しだ
 必ず邪魔をするに違いない。邪魔の入らないうちに事を済ませなければならない。
 だからこそ、こうしてなりふり構わず情報を収集しているのだ。
――瑠璃子がいれば
 ふとそういう考えも頭をよぎった。だが、彼は首を振ってそれを否定した。
「見返りは――」
「そうだな、見返りはもう既に用意されているとしたら、それでどうかね?」
 拓也は片方の眉を吊り上げる。
「な…に?」
「ああ、失礼。こういう意味ですよ。
 『君』の研究をさせてくれるので有れば、それで構わないと」
 ぴく、と月島の表情が歪む。

  びし

 甲高い、板を叩きつけるような音が後ろで走る。
 長瀬は振り返らなかった。恐らく、彼の想像している通りだろうし、今背を向けるのは得策ではない。
「よろしい、その条件が呑めないのであれば、もう一つ情報を挙げましょう」
 彼は素早く情報端末を叩き、一つのデータを引き出した。
 情報の機密ランクは非常に高く、今彼のIDで接続しているからこそ呼び出せる実験データ。
 それを彼は惜しげもなくスクリーンに投影した。
 それを見ていた月島の表情は大きく変わる。
「…これは!」
 目を丸くして驚きを全身で表現していた。
「…こういう憶測は、私はあんまり好きじゃないだけどね」
 長瀬は内心ほくそ笑んでいた。
 明らかに今では立場が逆転している。
 拓也が驚くだけの情報を握っている事が判れば、融通が利くかも知れないという『憶測』だった。
「これはウチの研究グループの一人にシュミレーションさせた結果だけだからね」
 結果。
 松浦は胃潰瘍を悪化させて入院。源五郎が入院費用をだして、毎日見舞いに通うことになった。
 閑話休題。
 拓也の目の前に広がっている、格子状の空間。
 いや、実際には若干違う。
 それらは格子を形成しながら、常に揺れ動いている。
 丁度『分子モデル』をリアルタイムに見ればこんな感じか?という模式図。
 実際には違う。
「…貴方は、工学者だ。理論物理学者とは、違う」
 拓也は呟くように言い、自らの頭を右手で押さえる。
 スクリーンに展開される像は、明らかに…
「実際にそれを確かめなければ、それが実際であることを突き止めなければ、信じることも公言することもない」
「お褒めの言葉と受け取っておくよ」
 自分の身体の中に『それ』が入っているはずなのだ。
 但し、瑠璃子と同じ初期型。
「これは散布状態のシュミレーション。そして…」
 キーを数回叩く。
 すると、今度は先程のような美しい格子ではなく、複雑に絡まり合ったアモルファスの――硝子のような分子構造。
「これが、密集状態。…何かに似ていると思わないかね」
 複雑に絡まり合いながら千切れたりくっついたりを繰り返し、それぞれが蠕動をする。
「…脳、だよ。正確にはシナプスの末端の動作と同じような物だと言ってもいい。
 ただこれだけでは外界からの刺激の伝達やそのフィードバックは不可能ではあるけれどもね」
 拓也の表情が険しくなっていく。
――…あいつは…自分の子供を実験体にして…
 源五郎はそれを怪訝に思いながら、映像を切った。
「これが私の研究結果…ま、一部研究中の過程を見せた訳だが」
「どうやら…どうやら貴方の方が一枚も二枚も上手だったようだ」
 拓也は自らの手札で、それだけで長瀬から情報を手に入れるつもりだった。
 あの社員のように。
 あの、情報を漏らそうとしたHephaestusの『残置』のように。
「これでは僕は、ただ掌の上で踊らされたピエロです」
 資料室の空気が冷たく濁っている。
 僅かに、ほんの僅かに『それ』を解放したからだ。
「やはり貴方の能力は惜しい。…殺すにはね」
 がたん、と椅子を蹴って長瀬は銃を抜いた。
「…ただの工学博士ではないですね」
 拓也はぎこちなさのない彼の動きにそんな感想を抱いた。
 だがその口調は一切の動揺を感じさせないものだった。
「『惜しい』と言っているでしょう。それに今はそんな時じゃない」
 拓也が目を閉じると、電子音がして資料室のロックがはずれ、停止していたカメラが作動し始める。
 そして、それと同時に辺りがざわめきに包まれた。
「もし次に、貴方と生きて会えるのであればその条件…飲みましょう」

――止めるべきだったか?
 扉の開け放たれた資料室で、源五郎は立ちつくしていた。
 妙に嫌な予感が、彼を取り巻いている。
 組み上げた方程式の中に、一つだけ計算できない非線形の物が含まれていて、その計算がまだ終わっていないのだ。
 通常その場合、次々に数字を入れていき量をこなすことである程度近似解が出せる。
 非線形の研究で有名な物はマルデンボロー図形を描いた複雑系の学問だろう。
 コンピュータの発達は非線形の研究の進展と大きく関わっている。
 源五郎の予感は、大抵の場合『最悪』な場合を予期している。そして、外れることはない。
 彼が最後に見せた表情がどうしても気になっていた。
 

 荒い息をついて、月島は頭を押さえ込んだ。
 生白い肌が、真っ青になっている。
 狂ったように懐をがさがさとあさり、ポケットから金属製の円筒を取り出す。
 『Auto Injector』と表記されている。
 彼は親指で軽い音を立ててキャップを取ると、自分の太股につき当てた。

  しく

 軽い痛みと共にそこから冷たい物が侵入する。
 と同時に、全身を支配していた『虫の蠕動』が嘘のように引いていった。
 一つ息を大きくついて、彼は背をぴんと伸ばす。
 最近『周期』が早すぎる。この間など、奴を追いつめたところで気を失ってしまった。
――僕にももう終わりが近づいているのかも知れない
 それも判っていたはずだ。
 既に高校生の頃に三人殺している。
 間接的に。
 その死に様を見てきたはずだ。
「…香奈子」
 彼は顎を引いて呟いた――いや、彼にとって彼女はおもちゃに過ぎなかった。一時の感傷で呟いた訳ではない。
 と、空中にぼんやりした気配が現れたと思うと、急速にそれは人の姿を象り始める。
 やがてそれは、15、6の高校生の少女の姿をとった。
 儚げな表情は、今にも消し飛びそうな気がする。
「本当は君も、自分の感情を持っているんだろう」
 断罪。
 一瞬そうともとれる感情が彼の中に沸き上がった。
――いや…懺悔か?
 訴えるように目の前の少女に叫ぶ彼の姿を、何故か冷静に感じていた。
 だが月島の言葉に彼女は首を傾げる事すらしない。
 ただひたすら焦点の合わない視線を彼に向け、にたにたと笑みを浮かべているばかり。
 判っていたはずなのに。
「お前もっ…」
 拓也は言いかけて止めた。
 余りに自分がむなしすぎるから。
 人形のようににたにた笑うことしかできない相手に、何をこれ以上言うのか。
 命令しなければ、彼女は動くどころかここに存在することすら不可能だというのに。
 そもそも、人形にしたのは自分なのだ。
 人形になってしまった、と言うべきだろうか。
「いや、…いい。行くぞ」
 我に返ったように彼は呟き、背を向けた。
 彼女は何も言わず、彼の後ろを足を引きずるようにして歩き始めた。
 月島はポケットに手をつっこんで、来栖川研究所からの道を下り始める。
――…同士討ちになる前に、奴を叩かなければ
 長瀬が与えた情報には非常に奇妙な物が含まれていた。
『…そう、まず『奴ら』の動きが奇妙なんだ。
 スキャニングできるほどネットワークは詳しくないんだが、どうやら傭兵を雇ったらしい。
 今回の様な一斉蜂起をする予定で、ではなくてもっと…そう、緊急に』
 判っている。
 傭兵の正体は、間違いなく『神の雷』、Hephaestusの抱える傭兵だ。
 急がなければならない。長瀬の情報は、十分過ぎた。
――考えられる最も近い場所は
 東京駅周辺。
『彼らが持てる物を考えればそこが最も有力だろう。
 電力を確保でき、人間を見張ることができ、そして人間の行動を制御するにはここしかない。
 ま、確証はないがね』

  にたり

 香奈子は口元を引きつらせるようにして笑みを浮かべた。
 しかし、拓也はそれに気がつくことはなかった。
 

「え?」
 梓は咎めるような声を出した。
 彼女と耕一の前には祐介と瑠璃子がいる。
 燻る硝煙の匂いが漂う教室で、彼らは向かい合っていた。
「…率直に言うと、私達が探していた月島さんと勘違いしたって事ですよ」
 祐介はさも当然のこととばかりに肩をすくめて見せる。
 梓は眉を顰めて黙り込んだ。事情が余りに複雑そうだからだ。
「僅かに、貴方達はどうやら『純粋』なようなのですけども」
「言っている意味がよく分からないんだが」
 耕一は半身をおこした格好のまま、祐介に問う。
 まだ身体が完全に回復していないのだ。
 祐介は僅かに哀しそうな表情を浮かべ、そして戸惑うように瑠璃子の方を向いた。
「それは、私達が純正な『もの』じゃないから」
 にっこり、というよりも正に微笑み、僅かに笑みと判る表情を浮かべて耕一を見つめる。
「私達は紛い物だから」
「人工的に作り上げられた『兵器』だからです」
 耕一は僅かに目を見開いた。
 梓などは手を口に当てて驚いた表情を隠そうとしない。
「へ…いき?」
「そうです。月島さん…瑠璃子さんの兄も、そうです。
『Lycanthrope』という言葉、そう、…『狼男』とか半獣人とかいろんな呼び方…はご存じですか?」
 梓が、人差し指をこめかみに当てて、上目遣いに応える。
「えと…ゲームとかででてくる?」
「そうです」
 大きく頷いて、祐介は両腕を大きく開いた。
「もっとも、広義の意味で『化け物』とも、いいますけど」
 祐介の笑みが自虐的な色を見せた。
「『毒電波』などと、月島さんは言ってましたが実際には違います。
 …でも、殆ど同様の力を貴方達は持っているはず」
 梓と耕一は顔を見合わせた。
 彼の言っている言葉の意味はよく分からないが、こちらが鬼であることはばれているようだ。
 何故?
「…何故なら、君達は普通の人間よりも『僕ら』に近いから。だから勘違いしたんだし」
 確かに初めはそうだ。初めは、月島さんと思っていた。
 無論、途中から違うことに気がついて『協力』して貰うように仕組むつもりだったのだが。
――少し計算が違う
 『Lycanthrope』であることがばれれば、即敵意をむき出しにする人間の方が多かった。
 だから協力的な対応をさせるには、こちらから下手に出てやれば即可能だったのに。
「聞いて好いかな」
 耕一は腕を組むような格好で二人を見た。
「どうぞ」
 できる限り表情を変えずに彼は言った。
「協力して欲しい、のなら、詳しい事を教えてくれないと。
 それと、今のこの状況、どうやら知ってるようだけどそれも教えてくれないか?」
 祐介は小さく頷いて、澄まし顔のまま続ける。
「勿論。恐らく…先刻までの話を話半分に聞き流していなければ信用できるでしょうが」
 祐介の前振りに、梓と耕一は変な顔をする。
 彼はその反応に笑みで応えて続ける。
「一般に知れ渡っている情報が『常識』である場合と、そうでない場合があるんです」
 そして、彼は片手を差し出した。それが何を意味するのか判らず、途方に暮れる耕一。
「取りあえずここから出ましょう。時間もありませんし、どうせ…遠からずまた奴らが来る」
 耕一は苦笑して、その手を掴んで身体を引き起こした。
「じゃ、歩きながら教えてくれないか」
「ええ」
 静まり返った――静けさの帰ってきた廊下に、彼の声と靴音が響く。
 改めて不気味な物を感じさせられる。電気が通っていないのも、恐らく原因の一つなのだろうが。
「まず。この騒ぎを起こしたのはたった一人だと言うこと。
 そして、その人物を追うのが我々だと言うことをまず承知して欲しい。
 その最中に行方をくらませた月島さんを探していると言うことです」
「裏切った可能性は?」
 梓が気軽に声をかける。だが祐介は目を閉じて首を振る。
「お兄ちゃんはそんな事しないよ」
 瑠璃子が、やはり感情を感じさせない幼い口調で言う。
「お兄ちゃんは『化け物』て言われるのがいや。そうさせた本人もいや。『化け物』もいや、だから」
「逆なんです。今言ったとおり、彼は『Lycanthrope』に対して激しい恨みを持っています。
 そのせいで、恐らく…勝手に行動しているのでしょう。
 でも、彼にとってそれは危険なんです。先刻説明したとおり、私達には人工的に力を与えられています。
 それが不安定なせいで、常時ある『薬』のような物を服用しなければならないのです」
 薬と聞くとどうしても緊張してしまう。
 先刻まで闘っていた幽鬼のような人間達や隆山の事件を思い出すからだ。
 耕一は喉が乾くような錯覚を覚えて、一度喉を鳴らした。
「もしそれを使わなかったらどうなるんだ」
「『喰われて』死にます」
 一瞬、静けさに包まれる。
 靴音が聞こえると同時に祐介が続ける。
「それよりも心配なこともあります。だから、少なくともいつも僕らは一緒にいるんですが…」
 耕一は一度側の梓に顔を向けた。
 梓と目が合う。
 いつもの澄まし顔だ。彼はそれを見ると祐介の方に顔を向けた。
「じゃ、その月島さんの特徴とか、教えてくれ」
「はい。彼は…体格は良くないですが背は高い方。もしかすると高校生の女子を連れている可能性もあります。
 糸目で、冷たい感じのする青年です。僕らの一つ上で、大学二年生と言えば判りやすいと思います」
 耕一の中で何かが引っかかっているような気がした。
「…で、女子高校生ってのは?」
「に、見えると言う方が正しいでしょう。外見は虚ろな眼差し、表情は無表情に近く、時折笑みを浮かべている。
 服装まで限定はできませんね」
 耕一は右眉をぴくっと引きつらせた。
 思い出した。確か、何事もない時期にぶつかった娘がいた。
 倒れたのに何の反応もなくただ歩き去った少女。
「もしかしてさ、それは人にぶつかったりしても何の反応もしないとか」
「ええ。彼女は所詮人形です。月島さんの『力』で蘇ったようにも見えますが…」
 続けようとして、彼は耕一の様子がおかしいのに気がついた。
「どうかしました?」
「いや、俺、一度高校生には有った覚えがある。あんまり人間味なかったから、間違いないと思う」
 その言葉に逆に眉を顰める祐介。
「え?…彼女だけ、歩いていたんですか?誰とも一緒ではなくて」
「ああ。俺が見た限り近くに人は…見なかった」
「それはいつのことですか?」
「一月ほど前だ」
 一ヶ月。
 祐介の脳裏に警報が鳴り響く。
「…急がなければもう間に合わないかも知れません」
 瑠璃子の方を振り向く祐介。
 彼女は一つ大きく頷くと、つと目を閉じた。
「もう一度聞きます。貴方達の力、貸して戴けますか」
 

 銀座。
 普段であれば、この通りは行き交う人々でごったかえしているはずだ。
 だが。
 この日に限ってそれはなかった。

  きしん

 金属を弾く音。
 もし聞き慣れた者であれば、それがコッキングレバーを弾いて弾丸を装填した音であることに気がつくだろう。
「フン…」
 茶番だ。
 彼はそう感じて鼻を鳴らした。
『ユウ、確実に彼らを集結させてくれ』
――…どうせ…
 彼女の読みはおおよそ正しかった。
 だが、自衛隊の反応は以外に遅い物だったのだ。
 首都圏で現在最も脅威となる部隊は朝霞、習志野、木更津だが、ここに来るまでに朝霞ですらまだ行動していなかった。
 仕方あるまい。
――我々の『仲間』が内部に十分に浸透しているのだから

 『Mastermind』は隆山で実験してきたA兵器の中でも最も良い出来だ。
 『Lycanthrope』の欠点は、それを自らに投薬するというコンセプトにあった。
 元来人間の身体は異物を排除するようにできている。
 その機構に逆らう事は非常に難しい。それだけではない。A兵器そのものにも問題があった。
 いわば人工の『ウィルス』である。
 彼らは取り憑いた人間の内側から破壊する方が適しているのだ。
 そう、初めから他人に投薬するように設計すべきだったのだ。
「『子供達』は全くの自由を持つ代わり、何にもできないのだ」
 コンソールの前で一人ごちる。
 神の意志と名付けられたそれは、人間の思考を砕き彼女の手足にすることができる。 
 思考という名の束縛から解放されるのだ。
「『仲間達』の指揮と護衛が、どうしても必要だ」
 次々に集結していく『子供達』の居場所は、彼女の脳内にある三次元地図に展開されている。
 膨大な数の『子供達』一人一人を把握することは難しいため、端末である彼女の分身――マルチ型から情報を得る。
 また逆にフィードバックもできる。
――人間の様に不完全なコミュニケーションしかできない下等な存在とは訳が違う
「さあ、どちらにしてもまず戦わねばならないのは――」

 ほんの一週間で、『Mastermind』は十二分な量を生成できた。
 十分な数の人間の脳を食いつぶすだけの。
『楽になる薬だ』
 そう言われて飲まされていた薬も、殆ど同じ物だった。
 騙された。
 いや。
 そうは思わなかった。思えなかったのかも知れない。
 何故なら。
 またばっと赤い炎が見えたような気がした。
――ふん
 命の炎が赤く咲くのを見ても何の感慨も抱けなくなった――いや、それは抱くための部品を失ったからだ。
 こんなマウスの実験がある。
 脳のある部位を注射で破壊してやる。
 そこがもし空腹を伝える中枢であった場合、『空腹』であることに気がつかずにマウスは餓死してしまう。
 満腹を伝える中枢であった場合、今度は際限なく食べ続けるようになる。
 今の裕は、まさにそのネズミ同様だった。
 御陰で、『狩猟者』の欲望をむき出しにする必要がなくなった。
 もう、隠れて人間を喰う必要性もないのだ。
 だがどうやらこの『狩猟者』の力は、命の炎を――生命を奪わなければ見ることのないその輝きを必要としているらしい。
 それが無くとも生きていることはできるが。
 そうだ。
 動物は食事をする。餌を喰う。その理由はなんだ。
 突き詰めれば、相手の命を喰らう事ではないのか。
 狩猟者という――エルクゥという生命は、恐らく直接命を喰らう事ができるのではないか。
 裕は自らの仮説を満足させるだけの経験がある。
 自らで殺したわけではないが、このほんの小一時間で彼は全身に力が漲るのを覚えていた。
 すぐ側にいるマルチ型がつと彼を見上げる。
「裕様。我々に向かいつつある人間の集団があります」
 裕は目つきを変えた。
 集結させるのは、幽鬼の兵隊ども。その指揮をするのは緑色の髪の白い死神。
 そして、それを護衛するのが真っ赤な髪をした、黒いジャケットの部隊。
 戦闘用セリオ型ロボットだ。
「規模は」
 そして、それらを統括して指揮しているのが、柳川 裕だった。
「およそ1個大隊程度。現代戦基本型と思われます。方向は、首都高速付近」
 現代戦基本型とは、歩兵、戦車、砲兵の混成部隊を指している。
 通常、砲兵で叩けるだけ叩いた後に戦車を先導した歩兵が突撃し、陣地を掃討する。
 一番ポピュラーな形だ。
「たった1個か?…舐められた物だ」
 裕は凄みのある笑みを浮かべる。彼の『鬼』も戦いを目の前にするとやはり騒ぐらしい。
「…よし。良いだろう。1個分隊準備させろ。先行して、叩く」
「かしこまりました」
 戦闘用セリオ型、HM-13A。
 隆山で使用された、月島博士の初期型セリオである。
 型番にあるAは本家と区別するために付けられたもので、アルファベット順に改良されている事になる。
 Aは基本型に比べ戦闘力を重視しているため、比較的高速に動くことを重視している。
 漆黒のスーツに軽防弾ジャケット、各種ポーチを付けた格好は特殊部隊隊員の様に見える。
 それが14体。
「裕様、準備完了しました」
「…よし。残置に自律戦闘待機命令、続行しろ」
 短く命令されてマルチ型はほんのわずかに頷き、即座に命令を発信した。
「はい」
 彼女は、この部隊では『副官』の位置にいる。
 常に裕のすぐ側にいて、セリオ、マルチ達を統括する。
 そして、『月島』のマルチ型に全ての感覚が伝わるようになっている。
「裕様」
 裕は振り返らない。
「敵砲兵の射程に入りました」
「自衛隊なら撃てんさ。こっちには人質がいるからな」
 呟いて、彼は地面を蹴った。
 続くセリオ型は音もなく周囲に散開し、前進を開始した。
 裕の感覚に、敵の位置が鮮明に映し出される。
 鋭い嗅覚が獲物を捉える。
――もうすぐそこまで来ていたのか
 人気のない街を駆けながら、彼は距離を計り始める。
 1000、800、500…
 大きく全力で跳躍する。バネを使い、大きく胸を反らせて。

   ひょう

 風を切る音と同時に、彼は銀座の町並みを見下ろしていた。
――あれか
 暗い闇の中、ビルの影と影の間に細かい影が動いている。
 その様子はおどおどと暗闇に迷子になっている子供のようで。
 滑稽さに裕は声を出して嗤った。
――二流の軍隊め
 一瞬静止する裕。
 彼はくるんと宙で姿勢を変えると敵陣に向けて自由落下を始めた。
 

 射撃は一斉に始まった。
 敵の射撃は正確且つ巧みであり、どこから撃ってくるのか、敵の勢力がいくらなのか判らない。
「くっ、ひけっ」
 撤退命令を出そうとした瞬間に指揮官のこめかみが撃ち抜かれる。超一流のスナイパー以上の腕前だろう。
 銀座のビル街は、垂直にそそり立った谷間の様にも見える。
 実際意外と狭い物で、戦車があるだけで邪魔になる。
 通常は楯になる戦車も、ここでは障害物に過ぎなかった。

  ずん

 それが、信じられない音を立ててひしゃげた。
 金属が立てる音ではない。硝子が砕けるような甲高い音だ。
 

  ぐるるるるるるうううううううぁぁぁぁぁぁぁ
 

「うわああああっ」
 装甲板が文字通り砕けていた。
 あまりの衝撃に、まるで水に水滴を垂らしたような形に歪んでいた。
 そこに化け物が立っていた。
 黄金色の輝きを発する目を持った、3mはある巨躯の怪物。
 鬼だ。
「て、撃てっ」
 半狂乱になった兵士達が叫びながら小銃を鬼に向ける。
 が、次の瞬間、彼らは鬼の姿を見失った。

  ぶしゃ

 兵士の一人が弾ける。
 一人。
 もう一人。
 あっと言う間にそこは鮮血の鉄の薫りで満たされてしまう。
「わぁっ」
 そして、最後の一人が上げた言葉はそれだけだった。
 喩えるに、それはもはや戦いとは言えなかった。
 虐殺。
 一方的な殺戮に過ぎない。
 片や夜の市街戦に慣れぬ軍隊。
 片や夜眼の利く、正確な戦闘集団。
 どちらに分があるかは言うまでもないだろう。

「下らん」

  ごとん

 裕の足下に、何かが落ちた。
 それは兵士のかぶっていたプラスチック製のヘルメットだった。

  ぐしゃ

 それを、まるで紙屑か何かのように踏み砕いてしまう。
――くだらんぞ祐也。この程度の生物に、何故お前は執着していたのだ
 じわりと足下に染みが広がっていく。
 踏み砕いた物から、何かがはみ出ている。
――お前も誇り高い狩猟者の血を…俺と同じ『鬼』だったというのに
「…裕様。この先、集結予定地までの安全を確保しました」
 マルチ型は正確に情報を探り、裕に報告した。
 すなわち、この近辺にいたはずの兵士は皆殺しにされたと言うことだ。
 裕は自分の思考を中断して、マルチ型の方を向いた。
「よし、前進させろ」
「了解しました」

 東京駅八重洲中央口まで、彼らは難なく辿り着いた。
――本当は…
 ここにいる倍以上もの人間が、少なくともここには存在したはずだ。
 20体程の指令端末と、彼女らが率いる軍勢。
 今では、この街の人口はこれだけしかないのか。
 裕は首を僅かに横に振るとそれらに背を向け、ビルの中に足を踏み入れる。
 金属の匂い。かちゃりというスリングの金具が立てる音に彼が顔を向けると、衛兵のセリオ型はぺこりと会釈した。
「開けろ」
「かしこまりました」
 その部屋――正確にはコンソールルームと呼ぶべきだろう――は、厳重なロックが外れる音と共に暗闇を迫り出させた。
「…ユウ」
 続いて感極まった声が聞こえた。
 子供が楽しみにしていた物が届いた時のような、嬉しそうな声。
――…馬鹿な
 彼女は身体を翻して、裕の前に現れた。
 背中に、ディスプレイ等の電気的な輝きを受けて。
 何故?相手はただの人形だろう?いや、俺に何かの感情を抱くなど、あるはずないだろう。
 元来…感情などあり得ないはずだ。
 その思考は、僅かな時間彼を躊躇させるのに十分だった。
 それだけ、彼女の表情が――いや、彼女の行動が意外な物だったのだ。
 小走りに近寄ってきて、胸に飛び込んできた。
「待っていたぞ」
 ぽすっという軽い音。僅かに暖かい身体は、普通の人間と変わらなく感じる。
 鳩尾付近で僅かに身じろぎするのを感じて、彼は妙な物を見る目で彼女の頭を見つめた。
「首尾は」
 判らない。
 分からない。
 解らない。
 いや。
 多分、知らないのだ。
 裕は何が起こっているのか理解できないまま、ぎこちなく答えた。
「…上々だ。大した妨害でもなかった」
 彼女は顔を上げず、ただ腕に力を込めた。
「そうか…」
 そして離れる。
 一歩ほど離れて彼女は裕を見上げる。彼女にとっては裕は頭二つ程高い。
 まさに見上げる程の位置に彼の頭はある。
「何事もなく帰ってきてくれて、嬉しいぞ」
 ひとしきり喜んだ後で、彼女は怪訝そうに顔を歪めた。
「…どうした?」
「いや。…以外だっただけだ」
 冷たい表情で呟く裕に、みるみるうちに彼女は怒りの表情を露わにする。
 が、裕は淡々と言葉を続ける。
「これから世界を敵に回して、人間を手足のように変えようとするお前が」
 両腕を広げ、天井を仰ぐ。
「何の気まぐれか、この俺にそんな言葉を呟く」
 視線を戻した裕の目には、メイドロボを馬鹿にしたような姿の彼女が憮然と立っている。
 そう、メイドロボなのだ。
「…要するに信用してないって、事か」
 彼女の表情から険が消え、代わりに苦笑いの様な笑みを浮かべた。
 その表情が無機質に感じられるのは、彼女がロボットだからだろうか。
「…だから」
 彼女はくるっと背を向けた。
「私は、人間を…『普通の』人間を滅ぼそうとしているんだ」
 裕は僅かに眉を潜めただけで、何も言わなかった。

 Babylonのコンソールルームの中は、ただちかちかとディスプレイが時折瞬く位で、何の光もない。
 しかし、二人ともその程度の光でも十分な視界が得られる。
――成長…していると言う事か
 初めて会った時は、『あからさまに人間の振りをしている』のが解った。
 あの時には既に博士の作った『人工脳』が埋め込まれていたのだろうが。
――…それから博士の脳をコピー…した
 実際にはその時、彼は闘っていた。
 だから確認したわけではないが、次に目が覚めた時には目の前に既に彼女がいた。
 あの時彼女は幼げな顔立ちを醜く歪めていた。
『ふん、あれだけの騒ぎの中で全く無傷だっていうのも、信じられないけれどね』
『…名前は?』
 無機質で刺々しい、敵意の溢れる言葉。
 それが彼女の本来の姿を見せた直後の事だった。
 今思えば、全ての生命体に対する自己保存の本能だったのかも知れない。
 そこまで考えて彼は苦笑した。
――本能?馬鹿な。…でも、それなら感情もあるのか?
 感情の一部は本能の一部と直結している。
 自己保存の本能を持っているのであれば、『愛』や『怒り』を持てるはずなのだ。
 ただしそれには『自分と同類』、『もう一人の自分』と認められるものがあれば、の話だが。
 不思議な物を見る目で彼女の後ろ姿を見つめる。
 気づいたのか、気づかないのか彼女は振り向かずに裕に声を掛ける。
「ユウ」
 彼は一度瞬きして彼女の言葉を待った。
「…名前を、付けてくれないか」
 だがそれは唐突な言葉だった。
「は?」
 大抵の事では動揺しなかった彼女が、裕の反応にくるっと振り向いて彼女は立ち上がった。
「自分の名前だ。お前の呼びやすい名をつけてくれ」
 表情は読みとれない。元々人間ではないのだが、それは真剣な表情のようにも感じた。
――女性の名前…
「…嫌か?」
「唐突だな」
 頬が僅かに緩み、口の端が動く。
 恥ずかしそうな、困ったような笑み。
――…ディ…ル
「急には思いつかん。マルチ、じゃ、嫌なのだろう?」
 彼は頭の中で響いた声をうち消して首を振った。
――何でもいいのか?
 ため息のような吐息の後、僅かに声を出した。
「…一つ、提案がある」
 怪訝そうな表情を浮かべている。
 女王だった彼女、絶対者としての上司だったはずの彼女が、何故か弱く見える。
「これが…全て事が終わってから…」
 裕はゆっくり目を閉じる。
「でも、構わないか」
 きしきしと探るようにCCDの絞りが音を立てた。
――くるか
 裕は体内にあるナノマシンが自分の身体を制御する能力を持っている事を知っている。
『…死ぬんだよ。私がほんのわずか、機嫌を損ねるだけで』
 彼女の木偶として生きる為に、彼女が自分に仕込んだのだ。
 彼の言葉をまるでかみ砕くようにじっと裕を見つめ、やがてディスプレイの方に顔を戻して目を走らせた。
「…そうか」
 裕は目を開けた。
 かたかたという機械音以外、もうこの部屋には何の音も残っていなかった。
 
 

  轟
 

 空気を切り裂く音が聞こえる。
 ジェットコースターよりも激しい振動と上下運動に、祐介は気分が悪くなっていた。
 運んでいる耕一も祐介の雰囲気が変な事に気がついて、青い顔をしている彼に声をかける。
「…休むか」
 ちら、と後ろを振り向く。
 梓もかなり遠くにしか見えない。全力で移動しているのだから仕方がないだろう。
 丁度いい場所はないが耕一は足を止めた。

 人気のない街を彼らは移動していた。
 車が運転できる人間はいないし、電車は停電で止まっている。タクシーは走っていない。
 これで月島の『気配』を辿る為には、鬼の脚を使うしかない。
「はっ、こ、こう…こういっ」
 大きく肩を上下させて、顔を真っ赤にさせて自転車をついてきたのは梓。
 彼女の運動能力が耕一ほど強くない事に気がついて、自転車でついてくるようにした。
 と言っても、のろのろ走る車並にぶっ飛ばしてきたのだ。良く自転車がもっているものである。
 にやにや笑いながら彼女を迎える耕一。
「大丈夫か?」

  ばき

「んなわけあるかいっ」
 全力のアッパーカットが耕一の顎にヒットする。
「あう」
 油断していた訳ではなくて、梓が殴り慣れているのだ。
 流石に脳が揺れてふらふらと倒れる彼を、祐介が笑いながら後ろから支える。
「仲がいいですね」
 耕一が肩をぴくっと震わせて、梓はかーっと顔全体を赤くする。
「なっ」
 僅かに笑いながら頭をぼりぼり掻いて、彼は祐介から身体を放した。
――成長ないな、こいつのこういうところ
 子供っぽいと言うのだろうか?
 不器用と言う方が、歳相応かも知れない。

 耕一が祐介と瑠璃子を抱え、梓が自転車で走って追いかけてくるというパターンだが、梓がそろそろ参り始めていた。 
――まぁ、それはそれとしよう
 自転車をこいで耕一らについてこいと強要するのも無理がある。
 祐介の方も抱えられている分負担が大きいだろうし。
 それは後で考えるとしよう。
「さてと、まだまだ東京駅まであるが、本当にこっちの方で正しいのか?」
 祐介は彼の問いに、目を閉じてゆっくり首を振る。
「僕には判りません。その…瑠璃子さんのレーダーに引っかかった物を追っているだけなんです」
「それに、俺達も引っかかったって訳だな」
 こくん、と彼は頷く。
「そうなんです」
 耕一はもう一つ思い当たる物があった。
「…それって、『俺達』の同族でも勘違いする可能性が有るんだよな」
「ええ」
 耕一は梓の方に眼を向ける。
 梓は即理解して頷いた。
「わかった、柳川の事だな」
「ああ、携帯…もってるか?」
 PHSだけどね、と言いながら彼女はポケットから取りだした。
「祐介、心当たりがもう一人いる。間違わないようにこっちで押さえてしまおう」
「お任せします」
 梓からPHSを受け取り、すぐに覚えている祐也の携帯の番号を叩いた。
 

  ぴ ぴ ぴ  ぷるるるる  ぷるるるる

  がしゃ

「柳川?」
『あー、どちら様ですか?』
 戸惑って思わず切りそうになった。
 低い声を期待して、聞き慣れない男の声を聞いたからだ。
『柳川くんなら、ちょっと話せない状況なんですよ』
 だが、どこかで聞いた覚えがある声だ。
 そう、隆山で…
「もしかして長瀬さんですか?」
『ん?ああ、君は耕一君かね?元気してたかい』
 例の事件以来ずっとお世話になっている刑事だ。
 相変わらず、緊張感のないゆるい話し方に耕一の苛立ちが焚き付けられる。
「それどころじゃないでしょう?柳川さんはどうしたんですか」
 彼の応答が、一歩間違えたら誘拐犯か何かに間違うような物だったことに苛立っている。
 取りあえず柳川の事は長瀬は知らない。だから、さん付けで呼ぶ。
『…そうだな…今、入院中だよ。それも警察の精神病棟だ』

 耕一が息を呑むのが判った。
――何かあったんだ
 会話からも想像できるが、彼の様子で梓も気がついた。
 梓も柳川の事は知っている。顔の長い刑事と一緒に、いつも千鶴姉を虐めに来ていた刑事だ。
 隆山で危ないところを助けて貰った事もある。
 悪い印象はないが、『鬼』であることと、妙に殺気だった冷たさが気になった。
 まだ彼女は彼が叔父であることは知らない。
 事件の時、日吉かおりの捜索や彼女の見舞いに行っていたせいで、会っていないのだ。
 耕一からPHSを受け取りながら、心配そうな表情を浮かべる。
「どうしたの?」
 耕一の表情は重いまま、変化しない。
 苦々しく口をゆっくり開く。、
「誰かに襲われたらしい。…奴が…そんなに簡単にくたばるたまとは思えないのに」
 精神病院だと確か言っていた。
「催眠術か何かって言ってたが…」
 耕一は首を振って祐介の方を向いた。
 

  ばしっ

 その時、奇妙な音が聞こえた気がした。
「耕一さん」

  ふぉん

 悲鳴のような祐介の声がかき消され、二人の間に何かが走る。

  ちり
  ちりちり

 空気中を放電するような音。
 祐介も耕一も、皮膚が引きつけをおこすその感覚を覚えていた。
「長瀬ちゃん、あそこ」
 瑠璃子が指さす方向にそこにいた全員の視線が向かう。
 そこには男がいた。
 長身痩躯の糸目の男。一目見て感じたのは『さわやかな男』という印象だった。
 だが細い糸目は若干彼の表情を誤魔化している様な気もした。
 喩えるなら、どこかのSFなんかに出てくる超能力者。
 悪役よりは主人公だろう。
「…あれは」
「月島さん!!」
 薄ら笑いを浮かべたまま、彼は足音を立てずに一歩進む。

  ふぉん

 再び、空を割くような音。
――空電現象の…そうだ、球雷の音だ
 祐介が月島さんと呼んだ男を、耕一は見つめた。
 奇妙に存在感の薄い男だ。確かに長身痩躯ではあるが、ひょろっと長いというよりも鋭く細いと表現すべきだろう。
 それだけ冷たさが漂っているのだ。
「っ!!下がってっ」

  ばしぃっ

 明らかな殺気に、耕一は梓を抱えて後ろに大きく跳躍する。
 それぞれ道路の左右によけた祐介達の真ん中に、大きな穴が開いていた。
 まるで、スプーンですくい取ったような滑らかな断面が湯気を立てている。
「一体どうしたんですかっ、僕らが判らないんですか?」
「…長瀬ちゃん」
 口調は変わらないが、表情が苦しそうに見えるのは祐介の主観だろうか。
「瑠璃子さんに怪我でもさせる気ですか?」
 だが、彼の訴えは聞き入れられなかった。
 さらに一歩、ゆっくり彼は近づいてくる。
 
 ― ユウスケハオヒトヨシダカナラズジャマヲスルニチガイナイ ―

 さらに一歩。
 彼の表情は愉悦に歪んでいる。
「くっ」
「祐介、下がれ」
 だがその間合いは耕一の『一歩』に十分な距離だ。
 止める間もない。
 鬼の力を引き絞って、一気に地面を蹴った。

 人間の姿をぎりぎり保って鬼の力を振り絞るのは容易ではない。
 完全に解放してしまう方が精神的に楽である。
 その緊張した状態で、耕一の一撃の間合いに入っていた。

  にや

 爪を振り降ろす瞬間、彼の笑みを見た。
 心臓を鷲掴みにされた瞬間だった。
 爪が青年を切り裂く、その瞬間。

  ばしっ

 爪が、まるで崩れるようにして彼の目の前で弾けた。
 耕一はその場に勢い余って倒れる。
 もんどりうって道の端の壁に激突したが、すぐに彼は立ち上がる。
――くっ
 あの笑みは、確かに殺気だった。
 奴が手を抜いた訳ではない。偶然にもよけることができただけだ。
 もし避けられなければ、伸ばした爪どころではなかっただろう。
 今なら、祐介と丁度挟むような格好である。
「月島さん…」

  ばちぃ

 放電が二人の間に走る。
 電撃の様なそれは、彼らの周囲に立ち上っている。
「それ以上続けるなら考えがありますよ」
 うねりが二人の周囲に発生する。

  甲高い音

 数m離れた二人の間に輪が見えた。
 ほんの一瞬だけ、光に輝く輪が、二人の間に立つような形で現れた。
「…僕は瑠璃子さんを守る」
 その瞬間、鋭く細い殺気が走った。
 拓也から祐介へ。

  がしっ

 コンクリを殴るような鈍い衝撃音と同時に、祐介は身体を前傾にして両足で踏ん張る。
「うぁあああああああっっっっっっっ」
 祐介が叫び声を上げた時、彼の周囲が歪んだような気がした。
 高密度に圧縮された空間が、一気に弾けたようにも見えた。
 拓也の殺気が、一気に霧散する。
 次の瞬間、拓也へと塊が襲いかかる。
 正にそれは塊としか表現のしようのない物だった。

  ばきぃん

 干渉音が拓也の周囲で響いた。
 撓んで見えた彼の周囲も、すぐに元に戻る。
――?手応えがない
 祐介が戸惑った瞬間、拓也の右手が瑠璃子に向けられる。
――ちぃっ
 ぼうっとした表情の彼女。
 ほんの僅かにその表情が歪み、そして目を閉じた。
「お兄ちゃん」

 祐介が、彼女の前に立ちはだかった。
 そして、耕一が強引に爪で拓也を切り払った。
 それはほぼ同時だった。

 耕一は壁を蹴って殆ど真横に跳んだ。
 祐介の攻撃に合わせて、隙のできた拓也に攻撃を加えたのだ。
 今度は小さく爪を構え、最も小さな動きで拓也の意識を奪う。
 それが最良のはずだった。
「はぁ、はぁ」
 耕一は転がるように着地して、片膝をついていた。
 びりびりと痺れる右腕を押さえ、向こうの壁際にまで飛んでいった拓也を見つめている。
――くそ、何でこんなに痺れるんだよ
 右手の指が自分の物ではないようにびくびく痙攣している。
 だが、完全に麻痺してしまっていて言うことを聞かない。
 それだけではない。
 確かに爪は命中したのに、爪は粉々に砕け、拓也の方は殆ど無傷なのだ。
「お前は月島さんじゃない」
 祐介が怒鳴る。
「月島さんなら、瑠璃子さんを傷つける様な真似はしない。
 瑠璃子さんなんて殺そうとなど考えるはずがない」
 祐介の言葉は理解できないが、先刻の手応えは明らかに人間ともコンクリートなどとも違う。
――何か異質な、形のない物だな
 少なくとも『鬼』の手に負える代物ではないようだ。
 耕一はそう理解した。
「誰だっ」
 耕一は思わず祐介の方を向いた。
 先刻までとは、雰囲気が一変していた。
 拓也への攻撃も純粋な力を感じたが、殺気は感じられなかった。
 だが今は、先程とは桁の違う『殺気』を感じる。
――普通の人間が、これだけの殺気を出せる物なんだな
 ある意味感心していた。
 そしてその殺気はすぐに実体化する。
 形のないものが拓也に向かった。

 何かを削り取るような固い、崩れる音。
 同時に、そこにいた全員に伝わる声なき叫び。
「っ…!」
 そして、耕一は先刻までの青年が、半身を砕いた少女に姿を変えていたのを見た。
 それは耕一にも見覚えのある姿だった。
 祐介は表情を強ばらせ、睨み付けるように彼女を見つめている。
「…太田さん」
 祐介が言葉をこぼした瞬間、彼女は地面を蹴るようにして宙に浮いた。
 そして初めて――本当に初めて――苦々しい表情を浮かべた。
 それは怨嗟の表情。
 彼女はそのまま姿を失うようにして消える。
「瑠璃子さん、トレースできる?」
「うん。もう追いかけてるよ」
 彼女の表情は決して変わらなかった。
 まるでその硬い表情は人形のようだった。
 

「耕一さん、大丈夫ですか?」
 祐介はすぐに耕一の元に駆け寄ってきた。
 続いて梓も走ってくる。
「耕一」
「ああ、大丈夫。なに、伸ばした爪がやられただけだからな」
 こきこきと首の骨を鳴らして彼は掌をひらひらさせる。
「…それより」
 頷く祐介。
「ええ。あれが先程言った女子高生です。…彼女は『Lycanthrope』です。人間ではありません。
 月島さんの『作った』人形に過ぎません」
 耕一は表情を厳しくして口を真横に結ぶ。
 人形という言葉に抵抗を覚えたのも確かだが、それにどんな言葉を使って表現しようとも否定できないものが感じられたからだ。
 自分が鬼であることと、同じように。
「彼女は」
 耕一の様子に気づかないのか、祐介はそのまま続ける。
「月島さんが高校生の時に殺害…した少女です」
 耕一の表情が凍り付いた。
 だが正確には殺したわけではない。
「あれはその姿をとっていますが、実体は全く別の物です。…ですが、『宿主』である月島さんから離れて独立して動いている。
 これは、実は危険な事なんです。『Lycanthrope』が暴走してしまっているんです」
 彼の肩を叩く影。
 目を閉じた瑠璃子が、振り返る祐介の顔を覗き込んでいる。
「見つけたよ」
 彼女の手に触れて、祐介は頷いた。
「大急ぎで、お願いします」
 えーっ、と声を上げる梓。

 耕一は振り向いて彼女の方を向いた。
 まだ全力で移動していない耕一に追いつくので限界だというのに、これ以上早く走る事ができないからだ。
 ぷっとむくれて嫌な顔をする梓に、耕一はため息混じりに宣告する。
「…梓、お前は後から追いかけてこい。悪いが、置いていく」
 梓の眉間に皺が寄る。
 あんまり怒ると皺が残るぞ、梓。
「どうせお前が来たところでどうにもなる訳じゃないだろう?」
 判ったわよ。判ってるよ。今更、言われなくても。
 表情にありありと浮かぶ、非難の表情。
 それでもそれに従うつもりはない。
――判って…るよ。足手まといだって
「――それだけじゃない」
 梓ははっとした表情になる。
 心を読まれたような耕一の言葉に。
「恐らく、危険な場所だからな」
――こいつ、こんな顔のできる奴だったんだ…
 梓は僅かに感心して、いつか楓に見せた耕一の表情を見つめる。
 そのせいで一瞬惚けたような表情をしているが、すぐに顔を元に戻す。
「ふん。…あたしの手助けがなくて情けない顔、してるんじゃないぞ」
「上等だ」
 梓は拳を作って、容赦なく耕一の胸を叩いた。
 どん、と鈍い音がして一瞬彼の身体が揺れた。
「待ってろよ」
「間に合えばな」
 
 腰に手を当てて睨み付ける梓。
 そのまま見送られる耕一は、祐介と瑠璃子の二人を小脇に抱きかかえる。
「…いいんですか?本当にあれで」
 小生意気な事に、彼は耕一に意見してきた。
 いや。
 この青年は以外に純朴な所がある。きっと本気なのだろう。
「良いんだよ。ほっぽって死ぬようなたまじゃないし」
 ちらっと瑠璃子の方に視線を向けて、再び祐介に声をかける。
「お前らとは違うさ」
 焦る祐介を見てくすくす笑うと、彼は一息に地面を蹴った。
――優しい声をかけるだけじゃ、駄目な事の方が多いんだ
 

 香奈子の姿をした木偶はかなりの速度で低空を走っていた。
 足と左半身が炎が棚引くように揺らめいている。
 恐らく半分透けて見える彼女を見た人間は『幽霊』だ、というだろう。

 ― ワタサナイ ―

 彼女は背後から迫る『邪魔者』から必死になって逃げていた。
 大急ぎで、自分のいるべき場所へ。
 

 血の、匂いがした。
 

 警備の厳重さから、この先に奴がいるのは判っている。
 拓也はびりびりと感じる先の気配を追って道路を歩く。
 既にもう何人もの『人間』も、『ロボット』も通り過ぎていった。
 彼らには『見えない』からだ。
 彼らの目に映っているわけではないからだ。
 それが、電波だ。
 

 部屋の外にでた。
 がたん、と簡単な音を立てて扉は閉まる。
「え…ええ、そうです。ああ、携帯だからですよ」
 大志はPHS程の小さな携帯電話で話す。
 眼鏡の奥に隠れる光。
「なに。『枝』を付けても大丈夫ですよ。わざわざ計ったように自分の側にいないと判らない程指向性の高い奴です」
 普通のPHSではない。
 つと顔を上げると、すぐ側にセリオが立っている。
「…ええ。…ああ、はい。まぁ、『Lycabthrope』の方は上手くやりますよ」
 彼が持っているPHSは本来の電話回線を『複数』同時に割り込み、データをランダムに分散させてあるサーバへと送る。
 サーバは強制的に割り込みをかけて次々にデータを送り、最終的に電話の主に伝えるようになっている。
――この声を聞くことができる人間は側にいる人間か、同じシステムを持った者だけ
 特殊な秘匿通話用電話だ。
「なに、もう連絡はついています。暴走した方は押さえましたよ」
 大志の顔が若干皮肉ったものになる。
 冷徹な表情。
「それに良いデータが手にはいるかも知れないですよ。『Lycanthrope』…そう、A兵器の方です。
 月島博士ない今、実験体からの生データしかないですからねぇ」
 電話口の向こう側で非難していた声がやむ。
 
  くす

 彼は電話に笑いかける。
「『HALO』現象、拝めるかも知れません」
 
 

  ぴくん

 コンソールの上を滑る指先が一度、ほんのわずかにはねる。
 エラーコードが視界に入る。
 ドライバ正常、パルスモータ正常、センサ正常。
 今の反応は?
 彼女の脳裏に一つの結論が生み出され、後ろにいる彼に声をかけるのが妥当だと結論した。

「ユウ」
 マルチが振り向きながら声をかけた。
「…行ってくれないか」
 ディスプレイに赤い光点が映っている。
 警告を示す光点だ。それをちらっと見てから、彼は頷いた。
「貸して貰えるか」
「一人出そう」
 彼女の言葉に、隅に立っていたセリオ型が一歩前に出た。
「行くぞ」
 僅かにスリングの金具をちゃりちゃりと音を立て、セリオは彼の側についた。
 マルチが後ろを向いた時には既にだれもいない暗い扉だけが残されていた。
――近づいている…
 恐怖なのか?
 自分の体の中で暴れる予感に彼女は自問自答する。
 それは『自分は人間だ』と自覚したアンドロイドのようでもあり、初めての感情に戸惑う子供のようでもあった。
 

――この…先か
 目のうつろな人間がすっと彼の前を横切る。
 拓也は何もなかったかのように宙の一点を見つめている。
 もう逃すつもりはない。

  ぐず

 丁度テレビの画像が乱れるように。
 調子を外した眼鏡の映像のように。
 彼の右腕が一瞬形を失う。
 痛みを伴わず、感覚すらなく、ただ目に見えて確かに『滅びる』。
 彼はそれが脳の裏側まで追い立てられるように近づいているのを知っていた。
――まだ消える訳にはいかない
 

 うつろな目をした少女。
『ぬげ』
 彼女は何の躊躇いも恥じらいもなく自分の服に手をかける。
 面白くなかった彼は、すぐに言い換えた。
『ひきさけ』
 しかしそれも、ただ絶望するだけに過ぎなかった。
 全力で制服を引き裂きながら、彼女は裸体を露わにした。
 ほんのわずか、自分の『電波』を浴びせすぎて、人間としての思考ができなくなった状態。
 それはあまりにも面白みのない、人形相手の会話のようで。
 彼女のことを哀れとも思えなかった。
 ただ、もう少し多くするとどうなるのかと思った。
 試しに、自分の下で働いていた少女二人に試すことにした。
 勿論、十分楽しんでから。

 面白いことが起こった。
 ある程度越えると精神が壊れてしまい、電波で操れるただの人形になる。
 人形にさらに電波を加えると『帯電する』ようになる。
 人間の体がぱりぱりと音を立てて、常に静電気を帯びているような状態になるのだ。
 そして、さらに加えると彼女達の体は崩れ始めた。まるで砂で作った人形のように。
 

 それが『Lycanthrope』と呼ばれるものであることに気がついたのは、生まれ変わってからだった。
 

  かつん

 人間の様な男とセリオ型ロボットをやり過ごすと彼は階段を選んで足を踏み出した。
 株式会社Babylonの名前は拓也も聞いたことがある。
 『Hephaestus』の息のかかったサーバ管理会社だ。
 ここの管理するサーバにはプロキシが仕込まれている。社員ですらそれと気づかれないよう。
 社員達がそれを知っているのか知らないのかは、拓也には判らない。
 だが『Hephaestus』がこのサーバを通して様々な事を行っているのは確からしい。
――…この…感じは
 階段を一歩一歩上り詰めながら、近づいている『意志』に彼は何故か――酷く『近い』ものを感じる。
 自分が探してきた『それ』が、ここまで自分に近いものだとは思っていなかった。
 いや、考えれば当然かも知れない。
 何故なら彼は拓也の父だからだ。
 彼が――父が、瑠璃子を無茶苦茶にしたのだ。
 廊下の向こう側にセリオ型が立っている。
 彼は眉を顰め、ゆっくりそれに近づいていく。一瞬彼の方を向こうとした瞬間、彼は僅かに『それ』を解放する。
「…あけろ」
 セリオはぺこりと頭を下げ、鍵を外した。
 軽い音を立てて金属製の扉が開く。
――こんなものか
 余りに呆気なかった。それだけに思わず拍子抜けしていた。
 彼の目の前に僅かな空間が広がり、その先にあるものは白い光。
 緑色の斑が浮かぶ、茶色い髪の毛の少女。
 それがゆっくり振り向いた。
 左右対称な綺麗な顔立ち。

 二人が、鏡あわせのように向かい合っている。
 やがて意外そうな横顔が醜く歪む。
「ほぅ…」
 そして満足げな声を上げ、拓也のつま先から頭の先までじっと眺める。
「成る程。誰かと思ったが」
 親しみとは別の感情が拓也の中に沸き上がってくる。
 自分の行動と感情がほんの一瞬で否定されたから。
「こちらの科白だ」
 言いたいことは山程ある。
 会いたかったはずの『父』がこんな姿になっている事も。
 瑠璃子のことも。
 そして今のことも。
「ふざけた…ふざけた格好しやがって」
 怒りを露わにする彼に、月島は口元だけを歪め嗤うと見下すような嘲笑を目元に浮かべる。
「さぁ?お前は誰の話をしている?私は――お前の考えているような人間ではない」
 そして彼女はゆっくり椅子から立ち上がり両腕を大きく広げる。
 小柄な彼女のその姿は滑稽でも、奇妙な威圧感と畏怖を感じる。
「わたしは『私』だ、月島拓也」
 小柄な少女。
 一瞬その姿が歪んで見える。
――来る
 と思った瞬間、肩口に衝撃を受けた。
 衝撃は表面ではなく体の中を突き抜けて行く。
「『初期型』が、この私に敵うはずがない」
 左腕が痙攣する。
 だが二人の間の空気は微動だにしたわけではない。
 脳が感じれば、それは本当の痛みとして受け止められる。
 今月島は、拓也に対して『痛み』を感じさせたのだ。
「『ヒト』の器に収まっているままではこの私に勝てるわけがないだろう?」
「貴様っ」
 叫んだ。
 絶叫に近い声で。
「だから人間を人形にしているのか?だから支配しようとしているのか?」
 だが――いや、当然、彼女は眉一つ動かさない。
 能面の様な表情が彼の前に浮かんでいるだけ。
「…お前も人形を持っているではないか」
 拓也の表情が一瞬険しくなる。
「少なくとも――『月島』の記憶には『彼女』のデータもある」
 

 一瞬記憶がなくなった。
 血にまみれた拳を握りしめ、何故冷たい床に倒れているのか判らなくなった。
「…ぐぐ」
 くぐもった声が彼の耳に届いた。
 拓也は両手で体を起こそうとして初めて床が濡れていることに気が付いた。
――血?
 鏡のようになった暗い床に自分の顔が映っている。
 真っ黒な顔に、汚れた顔の中に浮かぶ白い目。

  ぐぶ

 吐き気を催して、床に吐いたそれは朱。
「…間に合って良かった」
 後ろから聞こえる声に拓也は混乱しそうになった。
 判らない。
 誰も、自分の姿を見ていないはずなのに。
 声の主を見ようとして両手に力を込めて、派手に床に転がる。
 力が入らない。
 思うように体が動かない。
 何故。
 どうして力が抜けて行くんだ。
「フン…まぁ、こいつなら別にお前の手を借りる事はなかった」
 奴の声がする。
 このまま…死ぬのか?
 

 月島――マルチ型のCCDにも捉えられない程の速度でそれは振り抜かれた。
 拓也の後ろに裕の姿があった。
 右足はまだ地面から離れていた。
 拓也の横腹を真横から思い切り蹴り飛ばしたのだろう。
「むしろ、お前には荷が重かっただろうな」
 言葉でそう言ってみても、実際にはどうか判らない。
 本当に、肉体を維持している彼を上回っているのか?
 『月島』はその問いに応えられない。
 何故なら、既に死んでしまったから。
――『私』では…もう判らない
 咄嗟に拓也の体内のナノマシンに指令を与えて攻撃したものの、それが限度だった。
 それも思いつく限りだった。もっとも、構造はほとんど同じなのだ。
 柳川に対してできたことができないはずはない。
「…そうか。…まぁ、それなら良いだろう」
 裕が表情を変えずに足を地面に降ろして呟いた。
――良い?
 何故良いんだ?
 彼女がむっとした表情を見せると、裕は眉を顰める。
「…何が不満だ?」
 判っている。
 彼がそう応えることも。
 判らないのはむしろ、自分の方だ。
 何故こんなにいらいらするのだ?
 そもそもこの――『感情』はなんだ。
「取りあえずこの塵を片づけよう」
 裕は触らぬ神にたたりなしとばかりにすぐ話を逸らせた。
 向こうの壁際で僅かに体を痙攣させる拓也の側まで悠々と歩く。
  違和感
 その時彼女の体の一部で奇妙なエラーが発生した。
「?気を」
 つけろ、そう声をかけるつもりで、その声はかき消された。

  轟

 劈く激しい雑音。
 頭に何かを差し込まれるような音。
 機械部品が軋みをあげ、ノイマンチップは立て続けに不可避エラーを弾き出す。
 裕ですら頭を抱え込むほどの奔流。
 それは本当の音ではない。
 音として捉えられるほど高密度の電磁波。
 電子レンジ程高周波ではないが、遙かに高出力なものだ。
 『Lycanthrope』が自己位置標定及び通信の電磁波を流すのは確かだし、共鳴させて指向性を持たせるのも可能だ。
 だがここまで強力なものを撃てば人間なら砕けてしまう。
――一体何が
 幾度もノイズの交じるCCDに、一瞬だけ人影が映った。

  ― ワタサナイ ―

 言語中枢がその言葉を拾い上げる。

  ― ダレニモ ―
 
 

 ぐずり、と右腕から先が崩れてしまう。
 拓也は全身が乱れたテレビのように崩壊するままに、目を閉じようとした。

  ちり

 その時、まるでそれに共鳴するかのように何かが現れた。
 拓也の中に、何かが染み渡るように。
――っ
 途端、形を失いかけていた彼の体は焦点を合わせるようにして元の姿を取り戻す。
 だが今度はそれが行きすぎたかのように姿がぶれる。

  あああああああああああっっっっっっっ

 一気に意識が真っ白に塗りつぶされていくのが、解った。
 自分以外の誰かの存在を感じた。
 それが最後の彼の『存在』だった。
 

――!
「お兄ちゃん」
 瑠璃子もそれに反応していた。
――間違いない
「見つけたのか?」
 耕一の言葉に、祐介は真剣な顔で頷いた。
 彼らの見ている方向に耕一は顔を向ける。
 耕一は声を失い、喉を鳴らした。
 それはまだ一度も見たことのない、初めて見る光景だった。
 異常な光景なのに、それを見た瞬間彼は体が震えた。
「天使の翼…の、ようだ」
 言い切りそうになって、慌てて彼は付け加えた。
 駅の側にそびえ立つビルの中腹よりも僅かに高い部分からそれは現れていた。
 よく見れば解るが、空中に虹のような光沢と硝子に走る罅のような筋がドーナツ状に浮かんでいるのだ。
 ビルが体とすれば、耕一の見ている方向からでは美しい羽根のようにも見える。
「Halo。天使の翼ではなくて輪ですよ」
 だが祐介の目にはそれは天使などという生やさしいものには見えなかった。
――むしろ…そうだ、怪物の目が見開いているんだ
 それが見つめるのは自分。
 祐介は下唇を噛んで続ける。
「僅かに…間に合いませんでした。もう…」
「無駄じゃないだろ?」
 耕一は重ねて言葉を畳みかける。
「もう目に見えてるんだ。間に合わないじゃない。間に合わせるんだ」
 驚いた顔をする祐介に人の好い笑みを返す。
「『何とかなる』ってのが嫌いな性分なんだ。それよりも『何とかする』だよ」
「しかしあの光は」
 耕一は彼の言葉を遮って瑠璃子を親指で指してみせる。
 瑠璃子の表情は変わらない。ただ
「お兄ちゃん」
 一言だけ呟いた。
「『何とかしてくれ』。俺達なら、何とかなるだろ?」
 耕一の言葉が、どれだけ本当に生きているのかは解らない。
 でもどれだけの強がりを言っても、これほど心が揺れ動かされるとは思えない。
 何故か。
 何故か、素直にその言葉に従いたくなった。
「迷ってる暇はないですね」
 耕一は不敵な笑みを浮かべていた。祐介にはその顔が非常に頼もしく思えた。
 

  ぐぁあああああああっっっっ

 拓也は叫び声を上げる。
 だが、それも激しい奔流にかき消されてしまい声にならない。
 彼は襟首を掴まれるように胸を反らせて浮き上がり、幾重もの暴風の中央で張り付けにされていた。
「糞、一体何なんだ」
 裕の鬼の瞳は人間の可視外の波長を僅かに捉える事もできる。
 闇の中を見通す事ができるのはその御陰なのだが、その目で僅かに『歪み』が映る。
 それは脈打つように拓也から放たれている。
――紅いな
 本能的にマルチ型をかばって彼の様子を見た。
 解る。
 薬だ。自分の体の中にあるものがそれだと囁く。
 拡散しやすい薬らしく、瓶を僅かに開けていただけで空になった薬。
 その日はけだるさがとれなかったのを覚えている。
 だがこの奔流は密度が違いすぎる。
――…逃げなければ
 奴の命の火が消えかかっているのが解るが、間違いなくその前にこちらがくたばる。
 それでなくとも彼の周囲にあるコンピュータは既に電源を落として――そう、誤動作により――いる。
「…ディフェ…っ」
 だが、かろうじて彼女は生きている。
 いや、その表現は正しくないのかも知れない。何故なら、彼女は。
――っ、今はそんな時ではないっ
 彼女を抱き上げた瞬間、僅かに震えた。
 ほのかな温もりと同時に、それは大きな安心感を与えてくれる。
 まだ、生きている。
 彼は言うことを利かない体を弾くように、ぎくしゃくと地面を蹴った。

  いぃいいいん

 彼が動くとそれに合わせて『濃度』が動く。
 密度の差が『衝撃波』を産み、窓の硝子を震わせる。

  どんっ

 地面を、蹴る。

 格子という鎖を断ち切られた硝子の破片。
 粉々としか言いようのない硝子の煙を突き破って、裕は体を宙に躍らせた。
 

  ― コノヒトハ ワタシノモノ ―

  ひゅごっ

 まるでそれと入れ替わるかのように大きく風が吹き込む。
 煙のようになった硝子が部屋へ舞い込むが、それは拓也を避けるようにして部屋の隅へ流れて渦を巻く。
「月島さんっ」

  ― マダ ジャマヲスルカッ ―

 急激に膨らむ奔流。
 だが、レンズに歪められた光のように逃げていく。
 触れることなく避けていく。
「だめだよ」
 揺れる光が、弾けるようにして乱れた。
 そこには二人がただ静かに立っているだけだった。
 後ろには一人、跪いている。
「君は…『太田香奈子』じゃない。月島さんの作り出した亡霊だ」
 その言葉を叩きつける彼は、もう優男の印象は少ない。
 歳不相応に感じられる程の存在感を持っていた。
「消えて――なくなれっ」
 

 その時。
 ビルの周囲に広がっていた天使の輪は溶け崩れるように広がり、ゆっくり縮みながら消えていった。
 同時に壁が内側へとひしゃげ、その階は支えを失って潰れた。
 

  ぷるるるるる ぷるるるるる

『…ん在、電波の届かない所にいるか、電源が…』

  ぷつ
 

 やがて朝が来て。
 静けさが包む白い空に、僅かに人間達がいた。
 整然と並んだ姿に交じって、ぽつんぽつんと緑色の点が見える。
「なかなか、壮観な事だよ」
 ふん、と鼻で笑いながら、男はそれを見下ろしている。
 彼はそこから遙かに上方、ビルの屋上に立っている。
「もう既に――神の雷もこの辺りに潜んでいるんだろう」
 ビルの谷間から吹き上げてくる風がスーツを靡かせる。
 仕立てのいいものらしく、皺がよることもなくすぐに元に戻る。
「――今なら一網打尽に」
 右手を指先まで大きく外側に伸ばし、再びそれを懐に戻す。
「焼き尽くすことは不可能ではないが」
「不用心だな」
 彼の独り言に重ねるようにして、声が響いた。
 声に振り向くと、そこには矢環がいた。
 隆山署に勤務しているはずの、そしてこの間襲われたはずの男だ。
 振り向く男に彼は続けて言葉を投げかける。
「…奴らのいる近辺で」
 男はいつもの笑みを浮かべ、口元をにやりと歪める。
「良く無事だったな」
「丈夫なだけが取り柄でね」
 めきめきと拳を握りしめて見せる彼に、男――大志は僅かに見下したような表情を浮かべた。
「…Haloの事ですよ」
 矢環は眉を顰めて大志を睨み付けるが、彼は口元に浮かべた笑みを崩さずに続ける。
「予言どおりならあの現象は電磁波の干渉面なんですよ。
 空気中の塵やら周囲の壁、生き物、さらに空気その物をリミッターの外れた『Lycanthrope』が喰い始める」
 大志は両腕を大きく広げ、こびりついた笑顔を見せつけるようにしてこうべをしゃくる。
「…それで?」
「周囲に最大レベルの電磁波を放出します。これは『自己増殖』の際に余るエネルギーを変換しているらしいですね。
 その『干渉面』が虹色の波面を形成するんですよ」
 電波はある一点から放出されれば、等速度で同距離へ到達する。
 そのため干渉面は球形を取る。
「若干誤差がありますし、『あいつ』の指向性は博士が良くご存じだった。だから…」
「もう良い、止めろ。お前のその口調を聞くと虫酸が走る」
 そこで初めて満足げな笑みを浮かべると大志は鼻で笑う。
「ああ。そう言うと思ったからな」
 けっ、と矢環が吐き捨てるのを見て、大志は彼に人差し指を突きつける。
「だから、どうして貴様が無事なんだ?」
 ゆっくり顎を引いて、僅かに上目で矢環を睨み付ける。
「『貴様』がHaloの直後のこの場所にいて、何故無事に立っていられるんだと聞いているんだ」
 Haloのせいで、未だにこの辺りの無線通信はできなくなっている。
 大量のナノマシンが散布され、微弱ながら巨大な妨害電波の発信装置の中にいるようなものだからだ。
 パソコンもまともに演算結果を弾かないし、ディスプレイもノイズが多くて見にくいものになる。
 恐らくあと半日は残るだろう。
 矢環は逆にそれに対して皮肉った笑みを浮かべる。
「CYBER-NAUTSの技術だ。決して、来栖川のようなちゃちなものじゃない」
 

 目の前には、彼女が横たわっていた。
 名前は、ない。
 彼女には名前は付けられていない。
 彼女の姿には名前はあっても、彼女に名前はまだ…付けられていない。
 親を殺し、自分を捜してきた彼女は、既に何も応えてくれない。
 死んでなどいない。
 そう思っても彼女は、動かない。
 裕はそのすぐ側で跪き、彼女を見つめている。
「…そうか」
 裕は全く表情を変えなかった。
 ただ淡々と自分の仕事が終わりを告げたのを知った。
 もしかして助けられるかも知れない。
 だがそれは彼にとって範疇ではない。
 ふと顔を上げ、頭を巡らせる。
 薬の効果はいつか切れる。
 だから、彼女は常に裕に『薬』を与えていた。
 彼女を無表情で見下ろして裕はゆっくりと立ち上がった。
――もう逃げることはできないな

 胸騒ぎが止まらない。
 今まで歩いてきた道にも倒れた人々がいる。
 自転車は壊れたので捨ててきた。
 慌てて――全力でこいで――ペダルを踏み折ってしまったのだ。
 走ろうにも右足をその時にひっかいてしまったせいで、痛くて走れない。
 それでも足を止めたくなかったから、夜通し歩いていた。
 空が白んできた頃、やっと駅の周辺まで辿り着いて彼女は口を結んだ。
――あと一息
 思わずふうと息をつく。その途端、足下から力が抜ける。
 安心したせいだろう、そのまま膝をついてしまう。
 手を地面について体を起こす。
 と、遠くで軽い音が聞こえた。ほんの僅かに高く、短い破裂音。
 それが立て続けに断続的に起こる。
 梓はそれが気になってそちらへと足を向けた。

   ぱん

 今度はやけにはっきり聞こえた。
 路地の向こう側、彼女の目の前にあるT字路の右側の壁からゆっくり覗き込む。

   たたん

 そこには、例の戦闘用マルチがいた。
 それは無惨な姿をしていた。
 左腕は引きちぎられたように、肘から先が配線と骨格がむき出しになっている。
 時折しゃくるように頭が動き、外れかかった彼女の左眼がきしきし音を立てている。
 あちこちに弾痕が、露わになった白い肌の上に残っている。

  ぴしゃ びっ

 梓の耳に奇妙な音が届いた。
 液体が叩きつけられるような音。

  ごとん

「ひっ」
――しまっ
 慌てて口を押さえるが、戦闘用マルチはぎりぎりとあらぬ方向に首を捩り曲げて梓を見た。
 ゆっくり口が開く。

  たたた たたたたん

 その途端、横殴りの雨のような銃弾が浴びせられた。
 数発でまっすぐに治った頭が、今度は真後ろへよじれていく。
 金属的な音を立てて歪んでいくマルチの頭。
 やがてまだ生きている左腕が再び振り上げられた。

――っ!
 梓は思わず――学校でも、同じようなことがあった事を思い出して――慌てて身を地面に投げ出した。

  ぐっ

 なにかが引っかかるような音がして、また液体の弾ける音が聞こえた。
 顔を上げた彼女の目に、べっとり赤い物を体につけたメイドロボがあった。
 何者かとの闘いは、どうやら決着がついたようだった。
 体を慌てて起こした梓を追うように、ひしゃげた頭を動かす彼女。
 逃げなきゃ。
 僅かな隙をつかなければ、先刻の何者かのように刻まれてしまう。
 不可視の鋭利な刃物によって。
――…?
 マルチ型は頭を梓に向けた所で一度CCDを瞬きさせる。
――っ!
 梓が鬼の感覚を解放した瞬間、もう一つの何かが猛烈な勢いで近づいているのが解った。
 解った時には既に真後ろまで辿り着くところだった。
 目の前のマルチの事など忘れたように振り向きながら飛び退く。
 黒い陰が彼女の前に降り立つ。
「ほぉ」
 見慣れた男だった。
「柳川…」
「フン」
 彼はさらに一歩踏み込み、油断している梓の鳩尾に拳を埋める。
 力無くその腕に崩れ込む梓を片腕で抱えると、ずたぼろのマルチ型に目を向ける。
「…よく頑張ったな」
 きしきしとフレームが軋むのも物ともせず彼女は頭を上げた。
 が、それで限界だった。
 彼女は完全に動きを止めた。
 

 ビルの外に出るだけでも一苦労だった。
「くぅうっ、もう朝かよぉ」
 耕一はビルの入り口で大きく伸びをしながら朝日を拝んでいた。
 崩れる瞬間、拓也に向かって強烈な圧縮がかかった。
 偶然だろうが、突風のようなものが拓也に向かって吹き付けた瞬間、耕一は地面を蹴った。
 両脇に祐介と瑠璃子の二人を抱え込んで、そのまま拓也を突き飛ばす。
 突き当たりの壁までそのまま運ぶ。
――どっちだっ
 轟音が近づいてくる。
 左右に頭を回して素早く出口を探す。
 一瞬迷ったが、拓也の襟首を掴んで右へ足をけり出す。

  轟

 周囲の壁に軋みが入り、音を立てて砕けながら耕一に迫る。
――いい加減にしてくれっっっ
 彼の目の前に見えた階段にまでそれが届いた。
 耕一の姿が階下に飲み込まれると同時に、天井はそれを塞いだ。

「死ななかっただけでも感謝です」
 入り口から祐介が顔を見せる。
 かろうじてかすり傷ですんでいるが、本当にかろうじてだろうか。
「お兄ちゃん」
 そして続いて瑠璃子が顔を出した。自分の兄に肩を貸して。
 うつむいて、力無く引きずられる拓也。
「瑠璃子」
 瑠璃子の声に反応するように顔を向け応える。
「もういいんだよ」
 首を傾げてにっこりと微笑む。
「もう大丈夫だから」
 死にたくなるような罪悪感。
 あの時に彼を包んでいたものが一気に解けて消えるような安堵。
 声にならない叫びをあげて彼は死にかけていた。
 全身の感覚という感覚は全て消え失せ、意識は現実からかけ離れた位置にあった。
 漂う空間の中でただ一つだけ、『存在』を感じていた。
 自分を取り巻き全て飲み込んでしまおうとする貪欲な意識。
 何故か懐かしい気がした。
 もしかすると忘れていた何か――大事な記憶と関係があるのかもしれない。
 『それ』は確かに自分を欲していた。
 噛み砕いて、貪って、完全に自分の中に取り込もうと必死だった。
 何故かそれが当然のように感じられた。そうされるべきだとまで、彼は思った。
――それだけ、彼女には酷いことをしたんだ
 だから目を閉じた時、声が聞こえた時、彼は僅かに驚いた。
 瑠璃子の声だ。
 やがて、彼は現実を取り戻した。
 轟音が聞こえた。
 誰か知らない人間に抱きかかえられていた。
 側に瑠璃子がいた。
 彼にとってそれだけで十分だった。
「瑠璃子」
 彼がもう一度彼女の名を呼ぶと、無償の笑みを浮かべて彼女は言った。
「お帰りなさい」
 

 無言で瑠璃子を抱きしめる拓也を、羨ましそうに見る祐介の肩をばんばんと強く叩く。
「物欲しそうな目をしてるぜ」
「ちょ」
 反論しようとして、人の好い笑みに圧倒されるようにして彼は肩をすくめた。
「あとは梓と合流するだけだな」
――自分の方が我慢してるんじゃないのか?
 声には出さなかった。
 一方的に抱きしめている拓也に目を向けている耕一の表情を、ただじっと見るだけ。
――でも、この人の御陰で月島さんが助かったんだ
 実際、拓也はもう『生きている』とは言えないかも知れない。
 今確かな存在として目の前にいるが、すでに『太田香奈子』のような存在なのかも知れない。
 敢えて瑠璃子にも伝えていない事がある。
 それを、彼は噛みしめていた。
――…解っているさ
 あの事件の後、『電波』を機械的に論理として組んだ人間がいた。
 物理的な接触を持たない完全に独立したネットワーク。
 そのプロトコルのデータは、『依代』と呼ばれるデータの保存場所に隠されていた。
 月島拓也の『再成』には必要ではあった。
 そして完全に電波と化した彼を再生する為に、彼らは『Hephaestus』に協力する事になった。
 結果。
 抜け殻だった彼の体に、『電波』になった拓也を収める『入れ物』を作ってやった。
 今の拓也の脳髄は、普通の人間のそれとは大きくかけ離れた物になっていた。
 人工的に作り出された『Lycanthrope』。
 『Lycanthrope』とは獣になる人間ではない。先天的に脳の異常をもって生まれた者達。
――今の彼が、どれだけ危険なのか
 寂しそうな瑠璃子さんのため。彼は自分にそう言い聞かせて来た。
 実は核兵器よりも危険な存在を野放しにしてきたのだ。
 しかし、勿論自分がいつそうなるか解らない。
 自分も『Halo現象』を起こす可能性は0ではないのだ。
「どうした?」
 耕一の声に、彼ははっと現実に引き戻される。
 取りあえず今は、これでいいんだ。
「…やっぱり羨ましいなって」
 耕一に振り返りながら、彼は笑みを浮かべて見せた。
 
 

 夢、ではない。

 夢ではない事は解っても、訂正も利かないそれは強制的に見せられる映像。
 できれば夢であって欲しいと思う。
 いつかの、悪夢。

 やがて目が覚めて。

 …延々にそれは続く。
 目覚めがこないから。
 やがてそれが本当の自分ではないかと錯覚する。
 離人症と呼ばれる病気は、自分を他人であると錯覚する事がある。
 自分の意識が、自分の中ではっきりしなくなる病気である。
 やがてそれは二重人格と呼ばれる病気に進行する。
 自分とは別の――理性も記憶もある人間が自分の中にできあがるのだ。
 今の柳川はそのうち『主人格』と呼ばれる人格の位置で裕の行動を感じていた。
――やめろ
 どうやら一方的に相手の事が解っているだけらしく、反応はない。
 自分が裕の意識を知る事ができても、向こう側は自分の存在も意識も感じられないのだろうか。
 それとも敢えて無視されているのか。
 どちらにせよ今回は傍観者でいるしかない。
 以前は――操り人形だったのか?

 俺は当事者であって被害者だったのか?
 なら、何故あいつは俺と同じようにならないんだ?
 なぜ?

 暗い夜の病院。
 面会の時間は既に過ぎている。

  ぴ ぴ ぴ

 しきりに電子音が耳障りな音を立てている。
 病室のドアには――『面会謝絶』のプレートがかかっている。
 ネームプレートには柳川 祐也の文字が読める。
 生命維持装置が備え付けられていて、植物人間を『生かす』為の装置が揃っている。
 そこで、静かに、祐也は眠っていた。
 裕の行動と、心の動きを感じながら。


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