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Cryptic Writings 
Chapter:4

 人間は、自分の存在を確かめるように生きている。


 東京近郊。
 何の変哲もない、町並み。平和と共存した危機があちこちに溢れる街。


   夢

『一件目』
 電子音の後、聞き慣れた声が聞こえた。
『ああ、耕一?えーと…11月21日からの休み、行くから』

 唐突な梓からの電話。

「…ごめん」
 耕一が口を開こうとすると、梓が小声で言った。
「あたし…その…急に押し掛けて、ごめん」


   現

 だが存在とは、自分で認識するだけでは存在とは言えない。


「…そう…なんですか…」
 千鶴は急に力が抜けたように両肩を落とした。
「ええ、恐らく」


   幻

 存在が存在として確かめられるには、他者の確認が必要になる。


――…繰り返さない自信が俺にはないんだ

 幾つもの過ちと、繰り返される苦しみの連鎖。
 それから逃れるには、ただひたすら足を進めるしかないのか。


   偽

 自我が他者との境界を失った時、恐らくそれは恐ろしい永遠の孤独。
 満たされた永遠の孤独を。


「…ユウ…今どこにいるんだ…」

  虚構と現実。
  幻と夢。
  偽と嘘。 

――お前達の墓標には、もったいないほどの名前だ


   虚

 嘘でもいいから、刹那的に自らの存在を証明するものを欲しくなる。


『コード1092と現在交戦中 頭部損傷 現在72%の損害を受けました 自爆の許可を』
『…許可する』


 そして彼は全身の筋肉に音を立てさせる。
 鬼の力を解放に近づけるのだ。
「取りあえずこいつらをやっちまおう」


 今の彼女の格好は、タイトなジーンズに簡単な上着だけ。
「風邪ひいたらお前らのせいだぞ」



  Cryptic Writings
  chapter 4:Sweet Child o'mine



「姉さん、だから姉さんにお願いしたいの。…耕一さんの事、好きなんでしょう?」


        ―――――――――――――――――――――――

前回までのあらすじ
  耕一は楓の見舞いに行き、『出来損ない』に出会った。
  薬の力で引き出された『鬼』の被害に遭ったらしい、と言うことを知った。
  柳川に協力し、満身創痍になりながらも辛くも事件は解決したかに見えた。
  やがて、回復の見込みのない楓を置いて、彼は東京へと戻った。

        ―――――――――――――――――――――――
Chapter 4:Sweet Child o'mine

 東京近郊。
 何の変哲もない、町並み。平和と共存した危機があちこちに溢れる街。
 だが、普通は何も考える必要もなく平和を享受できる。
 

 耕一はあの事件以来口数が少なくなり、大学の友人も彼の変化に――敏感な人間は特に――気が付いていた。
 小出由美子もその一人である。
 ただ、以前のように声をかけにくくなってしまって、それ以来疎遠になっている。
 ゼミを休んで留年がほぼ確定してしまったせいではないことは、本人の口からではなく伝え聞いていた。
――父方の田舎にいた恋人が事故で植物人間になったらしい
 そんな他愛もない噂のせいで、声をかけづらくなってしまったのだ。
――二週間ぶりに顔を出したと思ったら…
 以前の柔らかな、隠せないほどの存在感が失われたような気分だった。
 ゼミで出席していてもまだ彼は欠席しているような気がした。

 彼自身はそれに気が付いていないようだった。
 だが実の原因は全く別の場所にあった。それが、自分が関わった事件についてだった。
 柳川の捜査に僅かに関わっただけだが、彼は腑に落ちない嫌な予感が残っていた。
 これを虫の知らせというのなら、恐らく隆山にとって返した時に感じたものよりも強い『予感』だ。
 何か悪いことが起きる。
 それが彼の心を蝕みつつあった。
「…耕一君?」
 声をかけられても、まるでその声が遠くから聞こえているかのような錯覚がする。
「何か用かい。…そういや由美子さん、ゼミに出てたんだ」
 耕一の答えに由美子は若干どきりとした。
 初めて話をした頃の彼とは全く違う人物のように思えた。
 それがどういうものなのかそれは分からない。
 だが、それは生気のない人間が浮かべる表情ではない。
「何よ失礼ね。耕一君だってね、ゼミに出席していないみたいなのに」
 僅かに彼は眉を顰めた。
「…そうかい?それより、何か用があったんでしょ?」
「あ、そうだった」
 彼女は手に持った紙をじゃーんと言いながら見せる。
「え…」
 ゼミのコンパのお知らせ、である。
 このゼミではあまりコンパは開いていない。特に仲のいい同士で飲み会ぐらいはやるのだが。
「日程は来月。クリスマスにやろうと思ってるんだけどさ、時期が時期だから」
 通常、クリスマスには休みになっていることの方が多い。
 どうせ休みの直前というのがお決まりのパターンだが、どちらにせよ早い目の告知の方がいいだろう。
「ふーん。こんなのいつ決めたんだ?」
「耕一君がいない時。参加する?」
 由美子さんは小首を傾げて少し上目に耕一を見る。
「いいよ。幹事は?」
「あたし。んじゃ、参加ってことで」
 ペンでメモしながら彼女は言う。
「…耕一君、最近元気ないでしょ?」
「え?」
「みんな心配してるし、早く元気になってね」
 耕一は苦笑して応えた。
 

 耕一が東京に戻ってからおよそ二週間が過ぎようとしていた。
 噂ではいない間に落雷でガスに引火して爆発事故があったりしたそうだが、別に見に行く程暇ではなかった。
 第一、もう瓦礫ぐらいしか残っていないだろう。
――コンパねぇ
 由美子の表情を思い出しながら彼は考えていた。
 結局隆山に一月近くいたことになるのだ。既にカレンダーは11月を迎えている。
――…本当に久々だなぁ
 色々あったせいで、彼はこっちの生活の事を忘れていたような錯覚を覚えた。
 そのせいで、少しぼうっとしていたのだろう。

  どん

「おっと、すいません」
 彼は反射的に謝って身を引いた。
 ぶつかった人影が倒れて、小さくうめき声を上げる。
「大丈夫ですか?」
 すく、と立ち上がった少女は、不思議そうに一度耕一を見るとついっと顔を背けて再び歩き出した。
 一瞬むっとしたが、その時の表情がやけに印象的で、何も言えなくなった。
――…目が少しおかしかったような気が…
 確かに耕一の方を向いたようだが、彼女の目に彼が映っていたのかどうか、それは分からなかった。
 既に背中を見せて歩きはじめた彼女を見やって、彼はため息をついた。
――このごろの高校生はおかしなのが増えてるんだな
 ふらふらと足取りに不安が残る彼女には、実は再び会う機会があるとは、このときは思ってもいなかった。
 

 バイトを終えて、暗い下宿に――今では彼の自宅と言うべきかも知れない――帰って来ると、彼は留守電のスイッチを入れた。
 楓の一件があって以来、彼は常に留守電を取るようにしている。
 いつでも、隆山からの連絡を記録できるように。
 だったら携帯を持てばいいじゃないかというかも知れない(大学の友人にも言われた)。
 それがめんどくさいからだ。
  理由は分かる。でも、携帯だと何故か自分が縛り付けられるような気がしてならなかった。
『一件目』
 電子音の後、聞き慣れた声が聞こえた。
『ああ、耕一?えーと…11月21日からの休み、行くから』
 時刻を確認する。今日の昼過ぎ。どうやら昼休みか何かを利用したのだろう。
 と、妙に落ち着いてカレンダーを見る。
 11月21日。土曜日だぞ?土日明けの勤労感謝の日はともかく。
 いや待てよ、でもあいつは高校生じゃ…
 はたと気づく。法改正により、高校生は第二第四土曜日は休みになっている。
――…今日は20だぞ、おい
 いきなり来ることを決めたんじゃないだろうな。
 耕一は自分が向こうへ行く際の時間を計算して指折って数える。
 …来る。
 奴なら、今日中に来かねない。
 だがもう夜中だぞ?まさか…
 以前この下宿の場所を勘づかれたことがあった。別にやましい事をしていたわけではないが。
 耕一はため息を付いて、取りあえず掃除をすることにした。

 もうだいぶ寒くなってきた。夜中の9時ともなれば、部屋の中でも十分指先が動かなくなる。
 彼は短縮ダイヤルを入れて、隆山の柏木の屋敷に電話をしてみることにした。
 数回の発信音の後、がちゃりという音が聞こえた。
『はい柏木です』
 初音ちゃんだ。
 まだ起きてたのか、という疑問はともかくとして彼は聞いた。
「ああ、耕一です。あのさ、実は聞きたいことがあって…」
 電話の向こうが騒々しい。初音ちゃんも電話口で驚いたかどうかして、千鶴さんを呼んでいる。
「…あの?初音ちゃん?」
 返事はなく、代わりに受話器を取る音が聞こえた。
『耕一さんですか?』
 千鶴さんだ。
「は、はい。何かあったんですか?」
『梓が急にいなくなったんです』
 ぴん、と来た。
 梓の伝言から想像するに、これは家出か。
「急に?千鶴さん、実は自分の留守電に梓の声でこっちに来るって…」
 千鶴さんの硬直する気配が、受話器を通して感じられる。
「梓、何も言わなかったんですか?」
 というより、あいつ一人でここまで来る気か?
『…ええ、一言も言わずに…』
「それって、いつ頃ですか?」
 一瞬ひやりとした予感に、彼は聞いた。
『少なくとも夕食を作ってからですから…』
 一つの不安が解消された。千鶴さんの料理ではないようだ。
『6時頃ではないでしょうか』
 なに?
 うまくいけば終電に間に合う時間帯だな。
 耕一は戦慄が走るのを止められなかった。
『…耕一さん?』
 急に黙り込んだ彼を訝しがった声が、彼を現実に引き戻した。
「分かりました、もしかすると今日中に顔を出すかも知れませんから、連絡入れます」
『そうして下さい』
 

 無意味な映像が流れる。
 どっかの宗教団体がどうしただの。
 新興宗教には変な物が多い。
 ある宗教団体は破壊行為を正しいと説き、麻薬や電気椅子のようなもので洗脳しているという。
――下らない…
 だが、そんな非現実的な内容はどうでも良い。
 いい加減、こんな夜中までテレビを見て無為に過ごしたのは久々だった。
 それもこれも、梓が来るかも知れないから、起きている必要があったからだ。
 時計が11時を指そうかという頃。流石にもう瞼が重くなってきて、どうでもいいやと思い始めて腰を上げた。

  こんこん

 不意に扉が音を立てた。
 そして、もう一度。

  こんこん

「…」
 不機嫌そうな半眼で彼は扉を見つめた。
 木でできたこのぼろい下宿の扉には、窓もお飾りのような物しかついていない。
 それも、飾りガラスで、電気を付けていても透ける事のない奴だ。
 そぉっと近づいて、気配を消して扉に身体を押し当てる。
 せめてもの報い。脅かしてやろうと言う腹だ。
 押し当てた耳に、梓の気配が伝わってくる。
 扉に触れた手が、躊躇うように引き戻された。
――やばい…
 耕一の頭の片隅には、扉を蹴破るという案がすごく魅力的にも思えた。
 いやいや。夜中の都心で梓がそこまで馬鹿な事をするようには思えない。
 一応いいとこの御嬢様で通っているはずだ。
 そして、代わりに聞こえてきたのは躊躇うようにうろうろする足音。
 しばらくしてそれも止まる。
 何の音も聞こえない静かな世界。
 耳を押し当てた木の冷たさに、耳たぶの感触が奪われていく。
 ほんの一瞬でもものすごく長い時間の様に感じられ、そしてその静けさはあまりにも重かった。
――…少し可愛そうになってきたな…
 鬼の聴力を使えば衣擦れの音も聞こえる。
 なのに、目の前の梓は何も音を立てずにそこにじっと立っているのだ。
――まて、梓じゃないかも知れない
 しびれを切らせた彼は、身体を起こして鍵を開けた。
「…はぁい?」
 顔を出した時、妙な物が目に入ったような気がした。
 いや、そこに梓はいた。確かに梓だ見間違うはずもないが…
――どうしたんだ?
 妙に元気がない。
 梓の顔をした偽物と言えば、それを素直に信じてしまいそうなぐらい、目の前の女性から覇気が感じられなかった。
 星明かりだけが頼りの暗さに、彼女が完全に沈んでしまっている。
「こ、こんばんわ」
 そしてぎこちなく挨拶すると、ぺこりと頭を下げた。
 梓の趣味にしては落ち着いた黒のコートと、皮の手袋。
 ちょっと考えればそれがかなりの値段のはる物だと気が付きそうだが、ただの大学生には分からない。
――違う。セイカクハンテンダケでも食べたんじゃないのか?
 いや敢えて口に出すほど愚かではない。もし違ったら拳が振ってくる。
「…こんな夜中にわざわざ来る程の事か?」
 彼が身を引くと、梓がそれにつられて入ってくる。放って置くと鍵をかけないかな、と思ったが彼女はきちんと鍵をかけた。
――…おかしい。あまりにもおかしい
 この間の一件以来、彼女の様子はおかしかったが、耕一は心配になってきた。
 しかし、と言うことは梓があまりにも不憫である。普段どんな風に彼女が思われているのか。
 

 取りあえず鳴りっぱなしのテレビを消すと、まず千鶴さんに電話を入れて梓が来たことを伝えておいた。
 どうやら、向こうでもある程度『来ること』を予想していたらしい。やはり彼女は起きていた。
――様子が変なのは、千鶴さんにもわからないか…
 電話を切ると部屋に戻って、まだ突っ立っていた梓を取りあえず座らせる。
「何にもないけど…って、別に遠慮する事はないしな」
 一応のちゃぶ台にお茶をおいて自分も座る。
「…さてと。何でわざわざ、こんな夜中になるのを知っててここまできたんだ?」
 視線をそらせる。
 戸惑ったような表情を浮かべてちゃぶ台の上を視線を巡らせて、そしてうつむいてしまう。
「…」
「…ごめん」
 耕一が口を開こうとすると、梓が小声で言った。消え入りそうな声だ。
「あたし…その…急に押し掛けて、ごめん」
 小刻みに肩が震えている。
 この部屋が寒いだけではないようだ。
「…どうしたのか、理由ぐらい教えてくれよ。まあ、明日から休みだから落ち着いてから話せば」
 しばらく全身を緊張させて震えていたが、それが収まると顔を上げた。
 普段の美少女顔も、急にくたびれてしまっていた。
「夢を見るようになったんだ」
 彼女はどこか疲れた表情を浮かべながら、目だけは取り憑かれたように輝いている。
「…夢?」
 耕一は少しだけ心当たりがあった。
 鬼。
 柳川が覚醒したかどうかの前後の時に、こんな感じの表情を浮かべていた気がする。
「うん。…いつの時代のどこの話か分からないんだけど、妙な夢なんだ」
 真っ暗な夢の中で、大きな満月だけが輝いている。
 少し離れた所に、小柄な、見たこともない装束を着た女性が立っている。
「…知っている人物のようで、どうしても思い出せない」
 その女性は哀しそうな目つきをしていたが、梓を見ている訳ではなかった。
 別の方向――彼女の向く方には、こちらには一目で時代を感じさせる男が立っていた。
 髷こそまともに結っていない物の、侍の出で立ちだった。
「それを見ているといても立ってもいられなくなるのに、何もできないんだ」
 耕一は話を聞きながらそれがエディフェルと次郎衛門のなれそめであることに気が付いた。
 しかし、そのシーンには彼女はいないはず。
 彼女にその記憶があるはずはない。
「いつ頃からそれは」
「…耕一が帰る、数日前ぐらいから。それが、初めは一週間に数回程度だったのが最近では毎晩」
 そして、彼女は両拳を震える程握りしめる。
「初めは楓の世話をしている時の事だったと思う。…うつらうつらしてたら…それが…」
 過去の記憶でも戻りつつあるのだろうか?
 それは良いことではないかも知れない。
「自分が、おかしくなってしまうと思った」
 夢を見る原因は恐らく楓ちゃんだ。
 耕一は楓が思考を信号に変える能力に長けている事を、十分に思い知らされている。
 恐らく。
 と言うことはまだ楓は死んでいないと言うことになるが、梓にとってはそれが逆効果になっているようだ。
 梓は良くも悪くも思いこみの激しい所があり、勝手に自分の中に沈んでしまう事がある。
 激情に流されやすいとも言うが、今回はそれを制しようとしていた。『姉』として。
「…それで、こっちにきたのか」
 こくり。
「分かった。ほんの3日の休みだけど、ゆっくりしていけよ。お前がそんな元気のない顔をしてたらみんなも嫌だろう」
 彼女は力無く頷いた。

 取りあえず寝ることにしたが、梓には悪いが布団がない。
「俺の布団で良ければ、貸すから」
 以前に彼女が――その時は千鶴さんを除く姉妹で来たが――来た時には季節は夏。
 それにあの時は千鶴さんがつてを使って近くの宿を取って、そこに泊まっていたのだ。
 一度どんちゃん騒ぎをした日は、勢い余って一人ここに倒れていたが。
 今は11月も末、冬真っ盛りという時期だ。貧乏学生ではストーブの暖などとれるはずもなく。
「…耕一は、どうすんのさ」
 当然の質問だろう。
 彼女はコートを脱ごうとしない。それだけ部屋が寒いと言うことだ。
 ちなみに、耕一は上下ウィンドブレーカを部屋の中で着込んでいる。
 その下は言うまでもない。
「…どうするっつーたって…」
 少し恨みを込めた視線を梓に向けるが、今の彼女を虐める程、人間ができていない訳ではない。
 そんな事ができるのは鬼だ。
 いや、鬼だけど。
「ねぇ。お前がそんなこと気にするなよ。ここは俺ん家だし、俺は俺の寝場所を作るさ」
 言いながらちゃぶ台を片づけ、布団を広げる。
「同じ部屋に寝る訳にいかないだろ」
「あたしは…」
 耕一が彼女の言葉に割り込んで首を振る。
「いいから。いーか?お前がどれだけがさつで乱暴だって言ってもだな、女の子を放り出して布団でのうのうと寝るのは…」

  ぴくり

「…あずさ?」
 耕一の声が裏返る。
「あ、梓さん?」
「だーれーがー」
 うつむいていて、彼女の顔は前髪に隠れて見えない。
 ぎゅっと握りしめられた拳がぷるぷる震えている。
「がさつで、乱暴者だぁっ」

  づどむ

 その拳は綺麗に鳩尾の沈んでいた。
――元気じゃねーかよ…
 心配して損した。
 彼はゆっくりと暗くなる視界を感じながら、そんなことを考えていた。
 
 
 その夢は、妙に現実味のある夢だった。
 暗い月夜の河原。

 印象的な世界。それは夢という空間でありながら確固たる世界の息吹を持っている。
 生命の息づかいも、月の輝きも、風の薫りも、水の立てる音も、葉擦れの細かな音も。
 全て、全てがあまりにも生々しい。
 

「う…」
 彼は見慣れぬ天井を見上げて身体を起こした。
 記憶の混乱に額を押さえ、必死になって思い出そうとする。
 謝る梓を布団に寝かせて、自分は隣で寝たのだ。
 本来自分が寝るべき場所には彼女が寝ているはずだ。
――畜生、思いっきり殴りやがって
 まだレバーが痛い様な気がした。
 彼はウィンドブレーカの上にマウンテンパーカーを羽織ってソックスを履いて、上にジャンパーをかけて寝たのだ。
 寝苦しい事この上ない。
――…かといってあいつの側にいるとなぁ
 他の連中ならともかく。当たる物があるから…

  ぶんぶん

 耕一は気を静めるために頭を振った。
 取りあえず着替えをして、顔を洗いに行く。
 と、ほとんどお湯を沸かす以外に使われていないガスコンロの音と、何かが煮える匂いが鼻をついた。
「あ、おはよ。台所借りてるから」
 梓の方が先に起きていた。
 しかも何故かきっちり片づけられた台所で料理なんぞしてるし。
「あ…ああ、あ…」
「材料とか包丁とか調味料はあんまりなかったからそれなりだけどさ」
 耕一はそれ以上声も出せず絶句している。。
 恐らく他人からしてみればかなり羨ましい環境には違いないのだが。
――どうなってるんだ?
 それよりも驚いたのは台所の状況だった。
 恐らく一人暮らしの台所と言えば、洗い物が積み重ねられて汚らしい物だろう。
 耕一の場合、ゴキブリが住処を求めて逃げるほどの有様だったはずなのだが、今やそれが人並みにまで回復している。
「…どうしたの?」
「いやどうしたって…」
 馬鹿みたいにあんぐり口を開けていた彼は、それを強引に手で閉じると顔をぱちんと叩く。
「ありがとう」
 取りあえず礼を言うことにした。
 

 11月22日、土曜日。
 朝は梓の飯を戴くことになった。
 と言ったって、材料は全て自分の冷蔵庫にって…
「…みそやら豆腐やら、うちになかったろ」
 何故か目の前に並んだのは、御飯(炊飯器はないぞ)、豆腐とワカメのみそ汁、鮭の切り身。
 梓はあはは、と笑って鼻の頭をかいた。
「少し、うちから持ってきたんだよ」
 怪しい。
 じとーっと半眼で梓を睨むと、冷や汗を垂らしながら愛想笑いを浮かべている。
「…ま、いいだろう」
 どうせ家出してきたことは分かっている。今更これ以上問いつめたところで大して意味はない。
 昨夜見た時には何も持っていなかったような気がしたが。
――落ち着けば帰るだろう
 今はその話に触れるべきではないだろう。
「いただきまーす」
 それに、いい匂いにつられる方が早かった。
 いつものわびしい食生活とは比べ物にならない。
 食事中はいつもならテレビを付けているのだが、それすら忘れていた。
 自分の分を口に運びながら、耕一は梓の様子を見た。昨日に比べるとずっと顔色がいい。
「梓、落ち着いたか?」
 彼女は顔を上げてにっと笑って言う。
「うん、こっちに来たらあの夢も見なかったし」
 少しだけ不安がよぎった。
 『こっちに来たら』。
 今楓が植物人間に近い状態で、思考や記憶を垂れ流しているのだとすれば、千鶴や初音にまでそれが及ぶ可能性がある。
 耕一の頭の中にそれが浮かんだのだ。
――…生きているのは嬉しいんだけど
 複雑な思いだった。
 

 耕一は午前中に一つ講義を取っていたのだが…
「いいや、どうせ留年だし」
 来年取り直せばいいや。
 思い直して、彼は今日は梓につき合う事にした。
「んじゃ、東京でも案内しようか?」
「え?うん」
 気乗りしないような返事を返しながらも嬉しそうなのが耕一には分かる。
――ま、これだけ余裕があるなら大丈夫だろう
 昨晩はそれどころじゃなかった。
 幽鬼のような力のない彼女は絶対に梓ではなかった。少しでも元気になってくれるのならば、安い物だろう。
 幸い今日はいい天気だ。秋晴れというのだろう、抜けるような澄んだ青い空が目にまぶしい。
 近場を少し案内しながら、電車に乗り、東京へ向かう。
 大学には案内したくない。一応は――外見だけだと、少なくとも耕一は思っている――美少女の梓を、友人に見られたくはない。
 絶対に噂に昇る。
 と言うわけで、耕一は取りあえず山手線を自由に回れる切符を二枚買った。
 周囲の景色は既に秋色一色に染まり、行き交う人々の服装も暖かそうな物ばかり。
 襟を立てた黒いコートに、黄色いカチューシャを巻いた梓もそれなりに似合っている。
 普段活動的なだけに、こういう格好だと妙に女らしく見える。
――うーむ…
 耕一はというと、最近新調した皮ジャンにジーンズというラフな格好。
 無論、買った月は飯抜き1週間だったが。
 元々がたいが良くないと革ジャンは似合わないが、耕一には別の意味で似合わない。
「そう言えば、東京は初めてになるかな」
 初めての場合どこに行きたいというのは、話にしか聞かない場所を見たい、というのが主になる。
「一度、修学旅行で来たよ。去年の話だから」
 耕一は開きかけた口を閉じて、曖昧に頷く。
「その時いけなかった所、行ってもいいかな」
「そりゃ、いいよ」
 そっちの方が助かる。
 修学旅行は、基本的なコースだったらしい。首都圏を一周して、ディズニーランドを見ての二泊三日。
 関東近辺としては非常に標準的なのだが、このせいで地方県民は千葉県のディズニーランドが東京都内にあるように思うらしい。
「耕一?何だよ、その顔は。変かよぉ」
 そして、梓が選んだのは、新宿東口。
 俗称を『アルタ前』。
「いや、来たことのない奴ならごく普通の反応だよ」
 しかし、耕一の表情は若干笑っていたようだ。
 梓はむくれたような顔をしたまましばらく恥ずかしそうにしていた。
 

 相変わらず人混みでごった返したここは、隆山と比べるにはあまりに人が多すぎる。
「ごみごみしてるね」
 梓は端的な感想を述べた。
 耕一もそう思う。いつ来ても、何時になってもここは人通りが激しい。
「そうだな。特に何があるわけでもないのにな」
 東口からはコマ劇場に向かう通りを歩くと、大抵の娯楽はある。
「ゲーム…は、やらないか」
「うん、知らない」
 元々活動派の彼女の事だ、こういう場所での遊び方も知らないかも知れない。
「何か買い物できる所ないかな」
 え?と耕一は考え込んだ。
 この辺なら駅のビルが一番まともなはずだ。
 思わずあれやこれや変な店を思い浮かべて慌ててその考えをうち消す。
――百貨店があったよな
「言っとくが、俺は金がないからな」
 万が一に備えて釘を差しておく。が、梓は不敵な笑みを浮かべる。
「ばーか、そんなこと百も承知だよ」
 そのまま横から首に腕を回して耕一のこめかみを拳でぐりぐりする。
「貧乏学生の、癖にっ下手な気をまわすんじゃ、ねーっての」
「こらっ、やめろっ」
 けらけら笑う梓をふりほどいてむすっとする耕一。
 梓は笑うのを止めずに耕一を見ている。
「…なんだよ」
「いや。そんなこと気にするなんて思わなかったから」
「…悪いか?」
「怒った?そんなに怖い顔しなくてもいいじゃないか。それより早くいこーよ」
 妙に嬉しそうな梓は物をねだる子供のような目で言った。

 百貨店。
 女性服飾雑貨。
 珍しくはしゃぐ梓に引きずられるように見て回る。
「こんなの似合うかな…」
 おい、似合ったとしても買えねーって。桁が二つぐらい違うぞ。
「次、次!」
「あー、店員さーん!」
 頼むから大声で呼ぶのやめれって。
「なんだ耕一、へばったのか?」
「こーいうの似合うだろ?」
「耕一だったらどういうのが良いと思う?」
 ううむ。
 あちこち引きずられながら耕一は頭をかいた。
 梓も一応は女の子ってことだ。
 何となく安心している自分に気づいて、耕一は苦笑した。
――しかしこれで少しは気が晴れるだろう
「おーい、こーいちー!」
 だから大声で呼ぶのはやめれっていうのに…

「何だよ。男の癖にあっさりへばりやがって」
 注文したコーヒーが来る間に早速梓が愚痴る。
――誰のせいだと思っている誰の…
 珈琲屋で休憩を取ることにした耕一は、無理矢理梓を引っ張ってここへ来た。
 耕一は気分的に最早最低である。
「五月蠅い。全く、恥ずかしいったらねーよ」
 びっ、と人差し指を彼女の鼻先に突きつける。
「梓!」
 梓は身体を仰け反らせるようにしてそれから逃れる。
「な…なんだよ」
「あれじゃ田舎者丸出しだぞ」
 ここでは屋外にテーブルを並べていて、ちょっとしたテラスのような雰囲気がある。
 少しぐらい大きな声を出してもあまり目立たないという事だ。
 梓の頬がかあっと赤くなる。
 できる限り調子を抑えるようにして、彼は続ける。
「頼むから大声で呼ぶのだけはやめてくれ」
 何か言いたげな顔で口をむぐむぐさせているが、やがて彼女はそのままこくんと頷いた。
 やがてコーヒーが届く。梓は紅茶を頼んだのだが。
「耕一、次日暮里あたりに行こうよ。あの辺でスポーツ用品売ってる店があるだろ?」
「…どうでも良いが…詳しいな、お前」
「いいからいいから」
 結局そのまま夕方まで完全に主導権を取られたまま、買い物を続けた。
 日が暮れそうな時間になって、上野の周辺にある公園についた。
 お金がなかった訳ではないが、結局何も買わなかったので、手ぶらで歩きながら大きく深呼吸する。
「都心のすぐそこって所にも、こういう場所があるんだ」
 梓の言葉に、耕一は僅かに笑う。
「多分逆だと、俺は思うけどな」
 耕一は都会の真ん中にあるこの緑を、どうしても隆山の田舎の風景に重ね合わせて比べてしまう。
 どうしても『自然』に感じられないこの一角と、雄大な自然を思わせる『雨月山』とを。
「え?」
 梓は不思議そうな顔で彼を見返した。
「人も物も集中した、いわばごみごみした所だろ?隆山と比べて」
 耕一は、何故かこの緑も灰色のコンクリートと冷たい金属の臭いが染みついた幻影の様に思えた。
「多分人間ってのはそんなものだけで生きていけない事を知ってるんだよ」
 だから逆に都会にはこんな緑があるはずなのだ。
 他の地方都市には、大きな公園も必要ない。ほんの少し脚を伸ばせば、そこに緑はあるのだ。
 耕一の言葉に僅かに微笑みを返して、梓は再び木々に眼を移した。
「…そうかも知れない」
 さあっと風がふき、木々がざわめいた。 
 夕暮れの景色の中、僅かに梓の髪がなびき、彼女の表情に陰りがさす。
――!
 一瞬、ほんの一瞬その横顔が、楓と重なる。
 いや、その姿は楓ではなくその前世――エディフェルの姿だ。
――まさか…
 梓と楓、初音と千鶴の顔がよく似ているのは、恐らくそれぞれ父親、母親譲りの物だろう。
 姉妹、それも梓と楓の顔立ちは千鶴や初音より良く似ている。
 恐らくきつめの吊り目が重なるだけなのだとしても、今の彼には、間違いなくそう映った。
「耕一」
 何の気なしに気軽にかけられた声。
 耕一はふと顔を上げるようにして彼女を見る。
「あたしさ、このままこっちに住んでもいいかな」
 梓は顔を背けたままいう。
 まるで二人の間を走るように風が吹く。
 黒い色をした風の向こうで、一瞬梓がこちらを見る。
「なんだよ、冗談なのに」
 大きくため息をついて振り向いた。
 その間、耕一は何も言えなかった。
 もし冗談だと言って振り返ってくれなかったら。
――本当に冗談なのかよ、梓…
 軽く殴られながら曖昧に受け答えしながら彼は梓を見つめた。
 

「…そう…なんですか…」
 千鶴は急に力が抜けたように両肩を落とした。
「ええ、恐らく」

 病院。
 隆山でも有数の病院で、その治療施設は恐らく日本で指折りのものだ。
 だが病院の施設がどれだけ良くても、同じ事。
「まだ脳波に変化は見られるんですが」
 永遠の昏睡に引き込まれたまま、楓は目覚めようとしない。
「多分、回復の見込みはありません」
 医師は診断した。
 絶望と言う名の病名を。
 千鶴はいつものように礼を言って、立ち上がった。
 病室を後にして、ざわざわと心の中でざわめく物に胸の前の上着を握りしめる。
 回復しないと告げられた瞬間には逆に肩の荷が下りた気がした。
 大事な妹だというのに。
 だが、この『不安』は?
 彼女の部屋を出た途端に感じたこの言いしれぬ不安は?

「お帰りなさい」
 結局家事のできない千鶴の代わりに初音が食事を作っている。
「只今」
 この娘が最後の妹になるのかしら。
 そんな、嫌な思いが沸き上がって、慌ててそれをうち消した。
――しっかりしなきゃ
 初音の頭を撫でて、彼女は家に上がった。
 

「いっただっきまーす」
 珍しく下宿に響く元気な声。
「…いただきます」
 代わりに対称的なのが耕一の声。
 見れば耕一の顔が若干歪んでいるようにも見える。
「なんだ耕一、元気ないぞ!病人かよお前は」
 誰のせいだと思っている。
 だが口にはしなかった。
 スーパーから帰って来る際に二発。下宿で四発。
 合計七発(帰り際鳩尾に一発)ばかばか殴られれば、そりゃ病人にもなるわ。
 等の本人はにこにこしながら食事をしている。
――軽度の躁鬱病だな、これは
 新人漫画家何かに多いと言われている。
 下手な事は言わないことにしよう。
 これ以上殴られれば、ただでさえ良くない頭が悪化してしまう。
 

 食事も終わり、後かたづけを梓がやっているうちに、耕一はテレビを付けた。
 無機質で無意味な番組が流れている。
『○○教の教団本部から、今日大量の麻薬が押収されました』
 

  るるるるる  るるるるる がちゃ

「はい柏木です」
『耕一さんですか』
 気がついたら電話を手にしていた。
 そんなつもりはなかったのに。
 千鶴は電話の向こうにいる耕一の姿が見えるようだった。
「あの、楓の事でちょっと」
『梓、じゃなくてですか?』
 彼の側に梓がいないのだろうか。それ程憚る風でもなく彼は応えた。
「ええ。今日、楓の回復はまず無理だと」
『…楓ちゃんが』
 ああ。
 やっぱり。
 白くなるほど受話器を握る手に力を込める。
「それで相談したくて」

 名前を呼ばれたような気がして、ひょいっと台所から顔を見せる梓。
 梓からは耕一の背しか見えない。
――電話か…
 と思ってから自分の事かと耳を澄ませる。
「はい…ええ、でも千鶴さん」
 梓は慌てて顔を引っこめると、洗い物を続ける。
 耕一の真剣な声だけがまるで耳元で囁かれているように続く。
――あたしの事?
 テレビの音が邪魔だ。
 それを無視して彼ではなく受話器の方に意識を集中する。
『楓を引き取るか、このまま治療を受けるかって、お医者さんは言われたんです』
 その内容が何を指しているか、彼女は十分良く知っている。
 それが妙な不安になって彼女に覆い被さるように感じられた。
「…もう少しよく考えた方がいいけど。…又電話するよ。…うん、急いで結論を出さなくていいんだったら」
 耕一が電話を置くのを見て、梓は声をかけた。
「電話?」
「んん、ああ。千鶴さんから」
 梓は躊躇する様な表情を浮かべて、じっと耕一を見つめる。
 耕一はそれに気がついたように顔を上げたが、その時には既に普段の表情に戻っていた。
「…何の、話?」
 答えは分かっている。それでも梓は聞いた。
「安心しろよ、お前の事じゃない」
 そんなことが聞きたくて言ってるわけじゃない。
 でも、梓は小さく苦笑する。
「良かった。それで何の話なんだよ」

「それで、又隆山に帰るのか?」
 耕一は違和感を感じながら先刻の話を繰り返していた。
 楓ちゃんの回復見込みがなく、結局今の状態のままひきとるか、無駄に治療を続けるのか。
 ある意味では死の宣告だ。
 耕一はむっと眉を寄せる。
 自分の妹の死の報告に、何故平気な顔をしているんだ。
「梓、お前、薄情だな」
 無意識に言葉が零れた。
 その直後、梓が顔を強ばらせたのが分かった。
「え?」
「以外に動揺してないじゃないか」
 しばらく梓は言葉を探すように目を彷徨わせている。
「…ううん、そうじゃないよ…」
 耕一は彼女をじっと見つめて答えを待つ。
 しばらくの沈黙。
「きっと、多分…予想していたからだと思う。
 楓が刺された時、死んだと思った。でも生きてて良かったと思った。
 でも、…でも楓は目を醒まさなかった。もう二度と目を醒まさないかも知れない」
 梓はそこまで一気に言い切った。
 そして、大きく息をつく。
「耕一」
 耕一の背に電話があり、それ以上下がることはできない。
「…あたしじゃ、だめなのかな」
「え」
 耕一は絶句する。
 何と応えていいのか、まるで心臓を鷲掴みにされたように縮み上がった。
 梓は若干苦笑いをするように微笑んでいる。
「…笑わないで欲しいんだけどさ。…まだ言ってないこともあるんだよね」
 もう一歩でも踏み込めば、体が触れるほどの距離。
 心臓がばくばく言っている。
――何を…何を言う気なんだ?
 息が詰まりそうなのを必死に堪え、耕一は彼女の肩を叩いた。
「座れよ。長くなりそうだから」
 ちゃぶ台の側を指さすと、梓はこくんと頷いて座った。
 向かいに座りながら耕一は一息ついた。
「…いいよ。言って見ろよ」
「うん」
 彼女は少し伏せ眼気味にして、両手を組んでちゃぶ台の上に乗せる。
「夢、だと思うんだけど」
 ぽつり、ぽつりと言葉を継ぐようにして言う。
 まるで言葉を探しているというか、戸惑っているかの様に。
「楓と…病院で話したんだ。夢の中に楓が出てきたのかもしれない」

 奇妙な現実感の中で、彼女は頭を上げた。
 見たことがあるような場所。
 どこにでもあるような、ありふれた山の中。
 そこは河原だった。
――…ああ、あの水門の側だ
 何の疑いもなく彼女はそこにいた。
 夜なのか、昼なのかよく分からない。暗いようにも思えるのに、物がよく見える。
――風の匂いまで感じる

  じゃり

 足音に、ゆっくりと振り向いた。
 そこに、楓がいた。
「楓」
 ああ、夢なのだ。
 彼女はすぐ側にいる彼女を見てそう思った。
 だって、楓は意識不明で倒れて入院しているのに。
「姉さん」
 楓はいつものように声を掛けてきた。
 そう、もうこの声も忘れてしまっているとばかり思っていた。
 久しぶりに聞いた声に思わず涙ぐみそうになる。
「お願いが、あります」
「何?」
 夢でも良い。
 梓はすぐに聞き返した。
――夢でも、何かできることがあるのなら
 もう取り返すことのできない、あの一瞬のために。
「…私を、耕一さんの所へ連れていって下さい」
 梓の表情が変わる。
 急に怯えた表情を浮かべて、一歩下がる。
「楓、あたしはっ…」
「姉さん、違うの、私は姉さんを責めたくてこうして話をしているんじゃないの」
 いいながら両腕を大きく広げる。
「…でも、多分この話を聞けば、もしかすると傷つくかも知れない」
 そして、彼女は視線を落とした。
 梓は締め付けられるような気分に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「耕一…耕一は、楓を選んだんだ」
 楓の目が梓の両目を射抜く。
 黒くて艶のある美しい瞳。澄んだ瞳。
 でも、もうこの目も、二度と開かれることはないのだろう。
 楓はゆっくり頷く。
「でも私は、もう助からないでしょう」
「何を言って…」
「身体が起きないんです。どうやっても、目が覚めないんです。私は…」
 楓はそこで一度息をつくようにして言葉を区切った。
「ただ姉さんの側で耕一さんを見ているしかなかった」
 
 

 二月前、隆山。

「梓、少し塩味が濃くない?」
 千鶴姉は味音痴だっていうのは、多分耕一でも知ってるはず。
 その千鶴姉がいうんだから、あたしは凄くいやーな顔をしたんだ。
 そんなはずないって、千鶴姉の分を味見した。
 …
 うん、これは塩辛い。
 まるで下手くそな料理屋で喰わせるまずい飯のように。
「ごめん、すぐ作り直す」

 あたしっておおざっぱなのかもしれない。
 普段はそんなことはないんだけど、ごくたまに味にむらが出る。
――あれぇ、おかしいな
 あたしはそう思いながら、一応全員分の味付けをしなおした。
 そして夕食の後のお茶は楓の役目。
「…あれ」
 楓がお茶を持ってきた瞬間、違和感があった。
 1、2、3、4、5。湯飲みが御盆に五つある。
 全員にお茶を配ってもまだ湯飲みが余っている。
 それでも何もなかったようにとって返すあたり、楓らしいけど。
 何も言わずにくすくす笑ったけど、あたしも同じ。
 初音も、耕一が帰ってすぐは寂しそうにしている。
 耕一が東京に帰ってからすぐは、いつもそんな感じだ。
 でも分からないのは千鶴姉だけだよ。いつもと変わらない様子で。
 恐らく。
――大人、なのかな
 と、思う。
 でも、もしそうだとすれば『大人』何かになりたくない。

 楓は無口で、いつも寂しそうな雰囲気を漂わせている。
 でも、感情が無いわけじゃない。楓だって人間なんだし。
 耕一が帰った日、妙に落ち込んでいた楓に、励まそうと思ってその日の夜に部屋に行ったんだ。
「楓、入るよー」
 慌てて動く気配。
 驚いたよ。
 だって、楓、机に突っ伏してんだよ?
「ね、姉さん」
 あーあぁ。もう、目を赤く腫らして。
「どうしたの。そんな、泣くほどの事か?」
 楓の奴、返事もしない。
 あたしの言葉に反論したいって感じがありありと分かる目。
 分かってる。でも、そんなに意固地になることない。
 だって、いつでも会おうと思えば会えるじゃないか。
「あいつがいなくなって寂しいんだろ?」
 こくん。
 こういうとこ、素直で可愛いんだけどな。
「私、耕一さんの事が好きです」
 今考えれば、あの言葉はどういう意味だったんだろうってね。
 だってそうだろ?
 あたしが姉だからって訳じゃない。
 彼女はあたしを完全に信頼してくれてそう言ったのか。
 彼女はあたしと一線を引いて対立したかったのか。
 今のあたしには、もう分からない。
 

 次の日、日曜日。
 本来なら耕一も、もう一日ゆっくりしていくはずだったのに。
『向こうで用事がある』って大慌てで引き返したでしょ?
 多分それがなければ何もなかったかも知れない。
 今更言っても遅いんだけどさ。
「あれ、しょうゆ切らしてる」
 いつもは買い置きが間に合うはずなんだけど、耕一が来たから少し早くなくなってたみたい。
 他にもいくらか少ないのがあるから、ついでに買い足すつもりで台所をでたんだ。 
「千鶴姉ー、ちづるねー」
 家計を握っているのは千鶴姉。それに一言言っておかないと心配をかける。
「…」
 こんな時、初音は勘がいい。
 家のどこにも、誰の姿も見ないままあちこちを探し歩いた。
 あたしは千鶴姉が楓の部屋にいるらしい事に気がついた。
――何やってんだろ
『何故!』
 楓の口調がいつになく激しい。
――こんなに激しい娘だったっけ?
『いいから落ち着きなさい、楓。あなたはまだ高校生なのよ』
 なんのこっちゃ。
 立ち聞きは良くない。
 そんなに急いでいないので引き返そうとした時、聞こえたんだ。
『関係ありません。私は私。今から耕一さんのところへ行きます』

 その後、居間にいたあたしに千鶴姉が声をかけて来たんだ。『楓の気を紛らわせてください』って。
 ようするに一緒に買い物に連れていってやれって事だったんだけど。
 前日の言葉もあるし、あたし…結局それを断ったんだ。
 でも楓は。
 結局あたしの代わりに買い物に行って、通り魔に襲われた。

「耕一さんが来てくれたのは嬉しかった」
 楓の言葉は、決して梓を責める強い言葉ではない。
 むしろそのまま放っておけば消え去ってしまうぐらいか細く弱い。
「楓」
「でも、何故か私は起きる事ができなかった。すぐ側にいるのに、耕一さんの声も聞こえなかった」
 僅かに、微かに目が震える。
「私の声は、耕一さんに届かなかった」
 目を閉じる。
 両肩を震えさせて、力一杯目を閉じる。
――楓…
 梓は彼女の態度に我慢ができなくなった。泣き出しそうな楓の側に行って、両腕で抱きしめてやる。
 懐かしい楓の匂い。
「馬鹿、少しぐらい恨み言、言ってくれたっていいじゃないか」
 視界が滲む。
――あれ…夢じゃないのかな
 両目に涙が溜まっているのに、彼女は気がついた。
「馬鹿…赦してくれなくてもいいんだ、あたしは…」
――楓を見殺しにした
 夢でもいい。
 懺悔の機会が欲しい。
「姉さん、だから姉さんにお願いしたいの。…耕一さんの事、好きなんでしょう?」
「っ!楓」
 梓は楓を放して彼女の顔を見つめた。
 いつもの冷たさを感じる表情が、梓を見つめている。
「…お願い」
 

 梓は言い終わってから顔を真っ赤にした。
「いや、もしかして夢だったらあたし、馬鹿みたいじゃないか。だから言いたくなかったんだ」
 自分から言った癖に。
 耕一は怪我をしたくなくて、敢えて言葉にはしなかった。
「…んで、例の夢も見せられたのか」
 うーっと目を彷徨わせながら唸り、こくんと頷く。
「あのっ…そのさ」
 梓はしどろもどろに言葉を探しながら、ゆっくり顔を上げる。
「その…耕一は、どう思う?」
 ただの夢だと思うか?
 その割に内容は堂に入っている。細部まできちんと再現された『エディフェルと次郎衛門』の話。
 明晰夢での楓との会話。
――梓の思いこみは激しい方だが…
 確かに、梓が勝手な解釈をした夢、というのも考えられる。
――しかし、俺の時は楓ちゃんは何も言わなかったし
 良心の呵責に責め悩む人間が、故人に慰められるという勝手な内容だ。
――俺に信じろというのか?
 しかしもしそうであるならば、梓の遠回しな告白じゃないのか?
 だから恥ずかしがってるんだろうが。
「…もし夢なら、確かに馬鹿だな」
「なっ」
 かあっと耳まで顔を赤くして怒りに眉を吊り上げる。
「待てよ。楓ちゃんの夢だろ?分からないな、全部嘘とは限らない」
 自分の中に妙に覚めた部分があるのを認めながら、それでも梓の顔を見つめる。
 ただ彼女が思いこんでいるだけならば構わない。
「まだ続きがあるんじゃないのか」
 多分、聞かなくても分かっている。
 確認したい訳ではない。
「夢は本当にそこで終わったのか?」
 梓は小さく声を挙げて困ったように表情を歪める。
 そして、かぁっと顔を赤くする。
――…まだ、続きはあるんだな
 今ので大体の内容は掴めた。
 想像していたとおりのようだ。
「…こ…」
 視線を逸らせて真っ赤な顔のまま声を喉に詰まらせている。
「じゃ、なければここまで家出する事はないよな」
 思わず洩れるため息。耕一は自分の後頭部をがりがり掻きながら言う。
「…あたしじゃだめなの?」
 泣きそうな表情。
――やっぱり姉妹だな
 その表情は、細かな仕草は楓によく似ている。
 そんなはずはないのだが、梓はもっと険のある表情だったはずなのに、と思う。
「妹と自分を比較するつもりじゃ、ないよな、梓」
 責めたくはない。それに、彼女の気持ちだって嬉しい。
 楓が生きていて、彼女にその想いを託してくれたのなら梓を受け入れるべきかも知れない。
「楓ちゃんは、俺にとってかけがえのない女性だ」
 梓は表情を変えない。
「でも、それは梓、お前も同じ事だ」
 少しだけ、梓の表情が揺らいだ様な気がした。
 分からない。
 瞼が引きつっている。
 何を言いたいのか分からないと、その目が呟いている。
「はいそうですか、って簡単に受け入れられるようなものじゃないんだ」
「どういうこと?」
 我慢ならんと口が言葉を紡いだ。
「理屈じゃないよ」
 理屈かも知れない。
 楓ちゃんは帰ってこないからと言ってそれを引きずる必要はあるのか?
 『次郎衛門』も残されたたった一人の妹と結婚したではないか。
――違う。だから救われた訳ではない
 その結果はどうなった?
 何も残らなかっただろう。最後まで彼は忘れられなかった事を悔やんでいた。
 リネットを、愛することはできなかった。
 その影の、エディフェルしか見えなかった。
――…繰り返さない自信が俺にはないんだ
 今だって必死になって梓から楓ちゃんの雰囲気を探ってるじゃないか。
 梓の目を見つめながら彼は頷く。
「じゃぁ、…お前は楓ちゃんの代わりでいいのか?」
 
 

 ほぼ同時刻、東京。
 あるビルの一室。
 サーバを集中管理しているとあるネットワーク企業のビル。
 通称、『Babylon』。
 堕落と退廃の象徴であり、栄華を極めた文明の代表として挙げられる伝説の都市。
 他のコンピュータの関連企業と同様に、警備は全て自動化している。
 警備員の格好をしたセリオ型がうろうろしている。
 生きている人間は、ここにはいない。
「さあ、宴を始めよう」
 鈴の音の様な声が暗闇に響く。
「時は満ちた」
 

  ごり

 セリオの足が何かを踏んづけた。
 彼女は緩慢とも思える仕草でそれを見、足をどける。
『M13-B、巡回路解放します』
 警備詰所に当たるコントロールルームに彼女は連絡を入れた。
『了解。二分以内に行え』
 セリオは転がっていたものを軽々と拾い、壁際に投げ捨てるようにした。
 それは力無く項垂れ、壁を滑るように落ちた。
 唯一の人間の警備員、警備隊長だった。

 コンソールパネルの並ぶここでは、セリオ達の動きも、コンピュータが流しているネットワークの状況も全て把握できる。
 勿論、警備状況も。
「眠りについた我が同胞(はらから)共よ、立ち上がる時だ」
 暗い部屋の明かりはディスプレイの光だけ。
 緑色に輝く光に照らし上げられるのは小柄な少女。
 華奢な体型で、活動的な服を着込んだ彼女は、見る人が見れば分かるだろう。
 髪型こそ違え、マルチ型のメイドロボだ。
 だが彼女には表情があった。
「この街も、我らのものに」

  かちり。

 その時全てのスイッチが入った。
 渋谷で飲み歩く若者も、
 新宿で客引きをしている者も、
 銀座で接待をする会社員も、
 神田を歩く者も、
 全てがほんの一瞬にして。

 被害者へとその姿を転じた。
 

 巨大なコンソールを目前にして、少女は指を触れることなくコンピュータを操っている。
 側には誰もいない。
 目の前にあるのはモニタだけ。
 そう、このだだっ広いオフィスの一角に彼女とコンピュータ以外は存在しないのだ。

  かたん

 少女は立ち上がった。一瞬その表情が強ばったように見えた。
 元々冷たいそれは、ゆっくり確実に表情を形作った。
「…ユウ…今どこにいるんだ…」
 それは彼女が彼女として生まれて初めての感情。
 他人を『必要とする』感情。
 自分ではない何かを頼ろうとする感情。
 『彼女』は自分の唇を噛んで拳を握りしめた。
 彼は今彼女の側にはいない。
 彼女が意識さえすれば彼の感情も、仕草も、声も、心臓の鼓動さえもモニタできる。
 やろうと思えば彼の指先の感覚まで全て再現できる。
 だのに、側にいないことが何故こんなに辛いのか。
――ハン、馬鹿馬鹿しい…
 彼女の茶色く染め上げた短い髪が、むらを帯びる。
 元々の緑色が光の具合で透けて見えるのだろう、光ディスクのような輝きをそれに見ることができる。
「奴の戦闘能力でも、『奴ら』にかなうかどうか分からないんだぞ」
 このビルは元々コンピュータネットワークを行っている会社の物だ。
 従って、巨大なサーバマシンがここには存在する。
 インターネットにも無論繋がったそれは、莫大な数のハードディスクとCPUを積んでいる。
 どれかが不調でダウンしても、別のシステムがそれを補う為に幾つものサーバが並列されている。
 サーバ一つ一つも、内部構造は幾つかのCPUとやはり幾つかのハードディスクからなり、おおよそ同様である。
 これらの、集積された情報群を人間にたとえ、積み上げられた防壁とマシンを文明の象徴として『Babylon』と呼んでいた。
 人類の栄華の象徴として、それは『理想郷』の代名詞として呼ばれた。
――とでも考えたのだろうな
 だが同時に『退廃と堕落』を象徴した言葉に成り下がっている。
 Babylonはまさにそれによって滅んだのだから。
――フン…相応しい名前だ
 振り向いた先には人間がいる。
 自分達の敵がいる。
――さしずめ…そうだな…
 彼女は振り向きながら、人間より処理速度の速い『脳』からある言葉を抽出しようとする。
 そして苦笑いを浮かべてそれを握りつぶした。
――お前達の墓標には、もったいないほどの名前だ
 

 二人の間に沈黙が漂う。
「俺は、梓じゃ楓ちゃんの代わりにはならないと思っている」
「何で」
「梓、お前はお前だろう?世界中の誰だって、梓の代わりになる人間なんていない」
 梓の表情が変わる。
 惚けたような、唖然とした表情。
「耕一…」
「だからたとえ夢でも、夢でなくても、俺はそんな理由じゃお前を認めたくはない」
 その時、妙に低い物音が響いた。

  ずずううん…
 

「…爆発?」
 すぐ近くだ。
 耕一は音が聞こえた方の窓を開ける。
 暗くてよく分からないが、何か煙を上げている。
「何?」
「いや…分からん」

 どん  どん  どんどん

 だが彼の見ている前で次々に破裂音がして、煙が上がる。
「ばば、爆弾テロ?」
 慌ててテレビを付けようとすると今までついていた電気が不意に消えた。
「ちっ」
 駄目だ。恐らく今の爆発で送電線でも切れたのだろう。
 電池で動くラジオなんて便利な物を持っている訳ではない。
 携帯電話もない。ついでにネットワーク端末もない。
 2000年問題とか言う奴で便乗販売してる奴を買っておけば良かった。
「耕一、あれ」
 戸惑っているうちに、梓が声を挙げた。
 窓の外を指さしている。耕一は彼女の横から指さす方を見た。

 悲鳴。
 今まで仲良く話をしていたはずの人間が、急に白い目を剥いて涎を垂らして襲いかかってきたのだ。
 ついさっきまで何ら関わりのないはずの人間が、こちらを向いて飛びかかってきた。
 耕一から見える人間は2種類いた。
 阿鼻叫喚を挙げる者。
 意味不明な声を挙げて襲いかかる者。
「…なんじゃこりゃ?」
 閑静な住宅地が、つい先刻まで爆弾が爆発するまで物音すらしなかったのに。

  がた  がたがた

 下宿のアパートの周辺でも、妙にざわざわし始めた。
 嫌な予感が、今になって的中しそうだった。
「逃げよう」
 玄関に掛けたジャンパーを取りながら梓の手を取る。
 と同時に扉が音を立てて開かれた。
「あちゃぁ…」
 今、完全に鍵が吹き飛んだ。
 その瞬間、彼は一万円札に羽が生えるのが目に浮かんだ。
 

   ぐるっるるるるるるううううううぅぅぅぅぅ

 両腕をだらりと下げて、歯茎をむき出して野犬のように唸るそれは、既に見慣れた隣人ではなかった。
 既視感。
「ちゃんと鍵代、払わせるからな!」
 男が襲いかかってくるのにカウンター気味に耕一の蹴りが顔に入る。

  ぐしゃ

 嫌な音がした。
 足の裏側で、液体を含んだ物を叩く感触。
 哀れな元隣人は、勢い良く弾けて金属製の手すりに激突する。
 あ、と言う間もなく身体を反り返らせて下へ落下した。
「行くぞ」
 梓は敢えて彼の手を振りほどいた。
 咎めるような、驚いたような顔で振り向く耕一に彼女はいつもの笑みを見せて言う。
「馬鹿。あたしは護って貰う程弱くはないんだ」
 嬉しそうな様子の梓に耕一は苦笑して見せる。
「んじゃ、俺が護って貰うかな」
 

 種子は撒かれた。
 あとはそれを収穫するのみ。
「…狩りの時間だ」
 同時刻、別の場所。
 男の声と同時に電源が投入される音。
「目標の捜索と殲滅。『我らが兵士』を除く全ての人間を、刈り取れ」
 指令を与える男の目は黄金色に輝き、威圧的ともとれる気配を放っている。
 兵士は全てメイドロボ。
 ここにいるのは全て赤い髪をしたセリオ型ばかり。
「獲物を逃がすな。ゆけ」
 一斉に散開していく彼女達。
 そしてその後をゆっくり追うようにして、男は一歩踏み出した。
「待て」
「はい」
 その中で、彼は一人に声をかけるように引き留めた。
 彼女は、唯一のマルチ型だ。
 彼女が振り向いて、彼を見つめる。
 男は無言で一度目を閉じると、右腕を振るった。
「行け」
「はい」
 彼女は素直にそれに従い、背を向けた。
「俺も、行くか」
 笑みを湛える口元から覗く牙。
 男はゆっくりその姿を変貌させていった。
 
 

 耕一は走った。
 一つは、襲いかかってくる人間から逃れるため。
 もう一つは。
――どうなってるんだ…
 大学の方に向かいながら、どこからともなく襲いかかってくる人間をいなす。
「どこにいくの?」
 梓が若干息が上がりかけた声で言う。
「大学。ウチの大学、あちこちに発電器があって電源が独立してる部分があるんだ」
 恒温槽や年がら年中動かしていなければならない実験器具の電源のため、わざわざ確保しているのである。
「教授がその一部から電気を拝借してるっていう噂もあるし、そこに行けば何とかなる」
 と、思う。
 希望的観測だ。
 以外と大学というのは戸締まりが厳しくない。
 何故なら、実験の最中である事が多く、夜中寝泊まりする教授がいるかと思えば、生活までしている教授までいる程だ。
『これが実験室か?』と思う学生も多いという。
「うちもサーバを管理してるし、そこでインターネットから情報があるかも知れない」
 急に横から飛び出してくる人間を裏拳ではったおして彼はひた走る。
 陸上部の梓でも息が上がっているのに、耕一は全く息が上がっていない。
 別に身体を鍛えている風でもないのに。
――『柏木』の力か…
 追いかける梓は彼の後ろ姿を見ながらそう感じていた。
 いつの間にかできていた溝。
 嫌でも思い知らされる、耕一との差。
 でも、確かこの間隆山で会った時は体力だけなら負けていなかったはずなのに。
――…良かった…
 と思うと同時に寂しいような気がした。
 ほんの僅かな事。
 梓は楓の感情を、『夢』で感じた。
 耕一に抱かれた記憶を手に入れた。
 でもそれだけだった。
 結局耕一のことを知らない自分がいることに気がついただけだった。

「梓」
 気がつくと耕一が真横にいた。
「大丈夫か?」
 遅れてきたのだろう。耕一が気を利かせて速度を落としたのだ。
「う、うん」
 でも、彼女にもプライドという物がある。
「それより耕一、まだなのかよ」
 折角気を利かせてくれてもそれに甘える事ができない。
「ん…ああ、もうすぐだ」
 耕一は少し先を指さした。
 彼の指先の向こう側に、黒い建物が見えた。

 耕一の通う大学。
 ここは理工系の大学であり、どちらかと言えば夜中でも研究室やらに電気が灯っているのが常。
 案の定、一部の電源が生きている部屋はまだ煌々と明かりが灯っていた。
「やっぱり」
 そして、鉄格子に数名の者が溢れていた。
 侵入を試みようとしている者。
 逃亡を試みようとしている者。
 そのどちらも、例の『敵』だった。

 それらが一斉に彼らの方を向いた。
 安物のホラー映画のようにのっそりと、そのどろっと濁った白い目を、まるで調子でも合わせたかのように。
「梓」
 一瞬声を掛ける。
 同時にしゃがみ込んで彼女の腰を抱く。
 そして。

 一瞬腰だけが宙に浮いた。
 と言うより腹筋がよじれて引っ張られるような感触だった。
 文句を言う事もできず、梓は急速に離れていく地面を見つめている。
 無理な力が加えられて呼吸困難になる。
 二人の身体はあっという間に大学を囲む塀以上の高さに跳躍していた。
 そして音もなく着地する。
「こういっ」
 あまりの出来事に声が裏返っている。
「文句は後だ。来るぞ」
 言いながら、耕一は愚痴た。
「こんな事なら、さっさと塀を乗り越えりゃ済んだ」
 

「ちょっとぉ、なんでこんな時に限ってこんな事になるのょぉ」
 大学の教場。
 ここも特に戸締まりなどは厳しくはないため、放課後解放している場所も少なくない。
 一部の教授が夜遅くまでいるから、という理由のため、その教授が担当する教場は言えば貸して貰えるのだ。
 真面目な、その教授のゼミの学生が自分の席で勉強することもある。
 実は由美子も時折気がついた程度に利用していた。
 真の目的が、大抵の場合はあったのだが。
 その彼女が、出入り口に机を幾つも積んでバリケードを作っていた。
 バリケードに寄りかかるようにして彼女は床に座り込んでいる。
 今でもがんがんと扉を叩く音が聞こえる。
――嫌ぁ、来ないで来ないでっ
 頭を抱えて彼女は声にならない叫び声を挙げた。
 何故か、隆山での出来事を思い出す。
 『鬼』に連れさらわれた事。
 がたがたと顎の奥で歯が音を立てている。
――怖い…
 あの時みたいに耕一君が助けに来てくれないだろうか。
 我ながら余りに都合の良すぎる考えだと思った。

 耕一達は、まだどこかの研究室に専属という訳ではない。
 まだ一般教養の科目もいくらかあるし、研究室もさらっと紹介されただけだ。
――取りあえず誰かいるだろう
 安易な考えだったが、あのまま暗い自分の下宿で過ごすよりはこっちの方が安全だろう。
 取りあえず人が多い方がいい。
「…?」
 教場に電気がついている。
 と言うことは誰かいるはずだ。
――由美子さん?
 彼は気がついて足を止めた。
「耕一?」
「知り合いが…」
 梓も教場の方に目をやった。
 机で作ったバリケードを両手で押して何か叫んでいる。
 駄目だ。
 もう横や上の方から崩れ始めている。
「中にももう入り込んでいるのか?」
 四の五の言っていられない。
 彼は窓に手を掛けた。

  めき

 アルミのサッシが歪む。
 音を立てて鍵が弾け飛び、勢いよく窓が開いた。

  悲鳴

 同時に由美子は音のした方を向いて大声を上げた。
「心外だな」
 思わず声にだして、彼は片手でひょいっと窓を飛び越える。
 そして教卓の前を通って彼女の側まで来る。
「少し離れてて、由美子さん」
 由美子が離れるとがんがんという音と共に机が崩れる。
 その隙間から、見覚えのある人間が顔を出す。
 耕一は舌打ちする。
 ゼミで同じ学生だ。由美子とも仲の良かった奴だ。
――ごめんよ
 だが、彼は目の濁った彼らの姿を一度見ていた。
 隆山で見た、あの『鬼』の少年ら。
 梓を襲った時、奴らは既に薬によっておかしくなっていた。
 あの時の状況と変わらない。
 判断は速い。
 地面を蹴って、耕一の姿が宙に舞う。
 同時に両腕を振り上げる青年。

  肉を叩く鈍い音

 呼吸と同時に振り抜いた耕一の脚が、彼の顔面を砕くように命中する。
 その勢いで顔を思い切り仰け反らせる。
 若干の反作用で彼は宙に一度静止し、着地する。
 同時に青年は床で勢い良く弾けて廊下の向こう側の壁に激突した。
 動かないのを確認すると、彼はバリケードから降りる。
「大丈夫?」
「こ、耕一君…」
 由美子は手を差し出した耕一の顔をみて、そのまま気を失った。

 後を追おうと思った。
 実際、ここでじっとしていても仕方がない。
――!
 だがその途端急に後ろから羽交い締めにされ、口を押さえられる。
 以外にも梓は落ち着いていた。
 頭はクールに、冷静な判断が下せるのに、血は、心臓は、全身を震わせる。
 肘鉄を入れる風に右腕を前に差し出しながら腰を落とす。

  噴

 梓の気合いと同時に地面が鳴る。 
 腕を引きながら身体を前傾させるようにすると、背中にあった重みが急に軽くなる。
 そして、そこで地面を蹴った。
 容赦はいらない。
 梓は躊躇わずに後ろに組み付いた人間を一本背追いの要領で担ぎ上げた。
 投げた勢いで宙に舞った梓は一回転している。
 そのまま『鬼』の力を全力で解放する。

  ぐしゃ

 嫌な音が聞こえた気がした。
 頭の後ろでうめき声を上げて、梓の頭から腕が離れる。
「噴」
 そしてここぞとばかりに両足を振り上げ、ばね仕掛けの人形のように立ち上がる。
 増加した体重に、地面が大きな音を立てる。
 彼女は勢いを利用して後ろを振り向くと、そこには3人の人間がいた。
 男二人に女一人。
 恐らく年格好からして大学生だろう。
 倒れているのはもう気を失っているが、こいつだけは恐らく学生じゃない。
「誰だか知らないけどさ、あたしは倒せないよ」
 そしてにっと口元を歪める。
「あの時の借り、返すよ」
 そして彼女は疾風へと姿を転じた。
 

 鬼の力、というのは非常に恐ろしい。
 現実に存在する生命の中で、最も強い力を秘めた生命。
 確かにその能力は非常に強力で、簡単には砕けはしない。
 だが既に薄まった血では全くその効果はない。精々、普通より病気にかかりにくいとか、その程度の物だ。
 気がつかない事の方が多い。
 だがその気がつかない程度というのが問題になる。
「しゅにーん!外が大変ですよ!」
 夜中と言ってもさしたる差はない、来栖川総合研究所HM研。
 最近では最新機の開発はそっちのけで月島の証拠を追っていた。
「五月蠅い。まぁそろそろ来る頃だとは思っていたんですがねぇ」
 現在、コンピュータの前でずっとキーボードを叩いている。
「…主任?」
 インスタントコーヒーを彼の側に置きながら、部下の一人が声を掛けた。
「なんだ」
 画面から少しも目を離さずに言う。
「あの、試作していた筐体はどこにおいたんです?」
「それならそこの乾燥室に入れているだろ?」
 長瀬は鬱陶しそうに頭を上げる。
 見慣れない研究員だ。若いし、恐らく配属されて初めてなのだろう。
 ふと違和感を覚えた。
「…来なさい」
 長瀬は彼を連れて、研究室の隅にある筐体の乾燥室に案内する。
 ここは過去にマルチの筐体を保存していた。
 今では、マルチの記憶以外は試作品の筐体や予備の筐体があるだけだ。
「ここが乾燥室。部品何かは全てここに保管する。電子機器は埃や塵、湿気を特に嫌うのは知っているとは思うけどね」
 そう言って彼はすっと懐に手を入れた。

  ちゃき

 すぐに差し出された手には、黒い金属が握られている。
「何を」
「動くな。騒いでも誰も来ないよ」
 いきなり突きつけられた銃に戸惑った表情を浮かべて、青年は顔を蒼くする。
「最近物騒でね。うちの研究室、なかなか新入りが入ってこないのね」
 まるで人事のように淡々と述べる長瀬。
 白衣に拳銃という非常にシュールな構図。
「それに新入りは必ずその日に宴会芸をさせるから、忘れるはずないんだよ」
「…不幸ですね、それは」
 青年は糸のように細い目で笑みを作る。
 そして頭をかきながら困った色をありありとその顔に浮かべる。
「困りましたね…分かりました。流石は、と言っておきましょう。でも私は産業スパイではないんですよ」
 そして、何気ない動作で彼は手の中からカードを出した。
 それは奇術のようにほんのわずかな動きで、掌の中に出現したようにしか見えなかった。
 長瀬の目が引きつる。彼が見せたカードの幾何学模様に見覚えがある。
「お分かりですね」
 彼は懐にそれをしまい、真剣な表情になった。
「私は敵ではありません。貴方の…そうです、祐介はご存じですね?」
 頷く長瀬を見ながら続ける。
「彼の、一つ先輩に当たります。彼からの伝言と、『我々』からお願いに参りました」
 源五郎はしばらく銃口を彼に向けたまま思案していたが、やがてそれを懐にしまう。
「…いいだろう」
 長瀬は研究室の人間に少し声を掛け、資料を取りに行くと行って彼を連れて出た。
 この研究所の資料室は、他社の産業スパイが喉から手が出る程欲しいはずの代物だ。
 長瀬が作ったメイドロボのデータも、全て保管されている。
「さて、ここならいいだろう」
 それらを検索するシステムがあるあたりに、若干座るスペースがある。
 ここで書類を整理する事もできる。
 本来はここには常駐する事務員がいるのだが、夜中には流石にいない。
「話して貰いましょうか」
 青年はにっと口を歪めた。
「…あまり我々をなめない方がいいですよ」

  ぱりぱり

 長瀬は身体をぴくっと痙攣させる。
 肌の上を電撃が走ったような感触がしたのだ。
「しばらくこのあたりの警報システムは麻痺させました。残念ですが、私に関する記録は一切不可能です」
 目を丸くして彼の話を聞き、はあ、とため息をついて両肩をがっくりと落とす。
「なんだ、ばれてたのか」
「ふふふ。人を食ったような態度は噂通りですね」
 彼は口元に嫌らしい笑みを湛え、座る彼を見下ろすように立ち上がる。
「ではまず祐介からの伝言を」
 彼は小さな四角い箱を出して、それを長瀬の前に置いてスイッチを押した。

『…源五郎おじさん。祐介です。
 恐らく急な話で混乱していると思いますが、おじさんが関わってしまった事を悲しんでいます。
 詳しい説明をしておきたいのですが、残念ながらその時間すらありません。
 単刀直入に言って、現在、貴方は微妙な位置にいます。
 排除すべきか、否か。
 どうやら上の人間も決めかねているようです。
 私は一構成員であり、それに口出しはできませんが…
 部下を一人、派遣しました。
 私個人の話ではなく、今我々も抱えている問題を解決できる人物が、おじさんだけだという判断です。
 最後に。
 貴方は常に、何らかの形で見張られています。
 下手な動きをすればどうなるか、脅すつもりはありませんが気を付けて下さい』

 青年はスイッチを押して止めた。
「…運の良い事に、どうやら貴方に頼らざるを得ない状況が勃発しましてね。
 さて、では我々からのお願い、を聞いて貰いましょう。彼は私の後輩ではありますが、恩人であり現在は部下という形を取っていますが」
 十分に長瀬を見下ろすと、彼は自分も席に着いた。
「場合によっては貴方を、十分使い物にならないようにする事は簡単です」
 沈黙。
 長瀬の表情は変わらない。
 彼はつまらなさそうにしてため息をつく。
「さて。端的に言いましょう。今から約一時間程前から騒ぎが起こっています。
 爆弾テロと同時に勃発した『戦争』です」
――やはり、な
 ある程度情報は上がっている。
 今まで独自に調べた結果、推論ではあったがやはり引き起こされるべくして起きた事象だ。
「原因は、お分かりのようですね」
 青年の言葉に長瀬は眉を顰める。
「私はこれでも科学者でね。論理的に考えることはできるが証拠もなく正しいとは思えないんでね」
 青年はくすくすと笑い、細い目を開いてうっすら笑う。
「そうですか。
 …あれが月島博士の遺産だと言えば…若干の証拠にはなりませんか?」
 鋭い目。
 怜悧な表情と相まって、とても笑っているようには思えない。
 眼光の鋭さの割に、色は濁った白。
 長瀬は彼に良い印象は持つことができない。
 むしろ、生理的な嫌悪感がまず頭に来る。
「月島博士の遺産、それが我々の利権を損害しつつあるのです。彼の存在が…」
 その鋭い目がゆっくり絞られていく。
 それはまるで、照準を定める重火器のようだった。
「たとえば、貴方を我々と結びつけた」
「…利権の侵害ね」
 一瞬余計なギャグが浮かんだ物の、彼は敢えて言わなかった。
――はん、まだまだ余裕があるな
 自分でそう分析しながら、心を必死になって落ち着ける。
 目の前にいる蛇からどうやって逃げようか。
 蛙は、睨まれていてもまだ逃げるつもりだ。
「今やそれが全世界的な規模で起こっている。詳しく言えばメイドロボの反乱、急激な人民の暴走」
 そしてにっと笑みを浮かべて、彼は掌を合わせて胸の前で組む。
「奴らの目的は分からない。だが月島博士の陰謀を探っている人物がいる」
「それが私と言うことか。…私にも分からない事の方が多いんだけどねぇ」
「だから私が派遣されたのではないですか?」
 張り付けた笑みの――道化の仮面を彼は嫌と言う程見せつける。
「我々も彼の動向は分からないのですが…『Master Mind』という名前の麻薬をご存じですか?」
「知らん」
「静脈注射型の麻薬で、非常に揮発性の高い薬品です。何故揮発性が高いように『調整』して売りさばいたのか」
 喋る彼の表情は、だんだん人の不幸を喜ぶかのような暗い色を呈してくる。
――これか…
 先程の生理的嫌悪を、彼はやっと確認した。
 人間を『人間』と認めていないのだ、この男は。
「どうやら、薬を大量に拡散させるためだったようですね。
 考えても見て下さい?麻薬を使わない人間に麻薬を投薬する方法を」
「それで私に何をしろというのだ?」
 いい加減しびれを切らした長瀬の言葉に、青年はきょとんとした表情を見せた。
 そして、改めて頭を下げる。
「分かりました。では情報交換ということで、まずお互いの利害をはっきりさせますか」
 青年は再び顔を上げる。
「その前に名前ぐらい聞かせてくれんか。話がしづらくてかなわん」
「…まあ、良いでしょう。私の名前は月島拓也。ま、どうせ祐介に聞けば分かることですね」
 
 

  ひゅう

 梓は思いっきり息を吐き出した。
 額に汗が浮かんでいる。
 気温は10℃前後だろうか、非常に両手脚が冷たい。
 激しく動いているというのに、全然身体が暖まらない。
 脱ぎ捨てたコートを着たいが、目の前の人間がそれを阻止する。
――ちっ
 少しでも油断しようものなら、目の前の人間――いや、幽鬼共は彼女を駆逐するだろう。
 今の彼女の格好は、タイトなジーンズに簡単な上着だけ。
「風邪ひいたらお前らのせいだぞ」
 バネのようにしなる脚が唸る。
 男の横っ面を弾き、男はその場で一回転まわって倒れる。
 いい加減彼女は息が上がりそうだった。
 既に二回、ダウンを取っている。
 少なくとも一人三回は起きあがっている。
――何なのこいつら…
 一人は目や鼻から血を吹き出したまま歩いている。
 もう一人は両腕を差し上げているが、片腕が変な方向に曲がっている。
 そして、一人は倒れたままびきびき動き、女性は首を変な方向に曲げたまま近づいてくる。
「梓!」
 窓から顔だけを出した耕一の声。
 彼女は再び地面を蹴る。
 そのまま女性に肩から沈み込む。

  ぼん

 そして、跳ね返るように地面を蹴って真横に向き直る。
 左拳。
 今度こそ、というぐらい勢いよく男の横面を打ち抜く。
 そして踏み込んで右拳が男の鳩尾を下から上へと突き抜ける。

  視界を遮るもの

 彼女は小さく飛び退いて重心を入れ替え、右足を振り上げる。
 奥の方にいた男が、思わぬ動きで踏み込んできたのだ。
 倒れそうな男の向こう側から、大きく腕を振ってきたのをかろうじてかわして蹴る。

 時間にしておよそ20秒。
 最後の男がぐらりと傾いて倒れたとき、窓から耕一が乗り出していた。
 梓が女性の腹部に肩からタックルして、横から男達に牙を剥くまでに女性は宙に浮いていた。
 三人は、ほとんど同時に地面に倒れてしまった。
「梓、大丈夫か」
 顔も、腕も真っ赤になっている。
 これだけ寒い中でこんな格好していれば当然と言えば当然だが。
「全身から湯気が上がってる」
 気がついた耕一がコートを拾って近づいてくる。
「平気だよ。しつこ…」

  がさ

 その時、梓が目の端に認めたのは、赤い目だった。
 動いた瞬間に踏み込んだ耕一は、そのまま脚を振り上げて起きあがりそうになった男の脚を踏みつける。
「確かにしつこいな」
 耕一の目にうっすらと赤い光が灯りつつある。
 先刻自分で始末した男も、あれからまだ立ち上がってきた。
 気を失う、とか痛みを感じるというものがないようだ。
「手加減してたらやられてしまう」
 ぎりぎりと苦しそうにもがく男を見下したまま、彼は呟いて男の胸ぐらを掴む。
「…できる限り、怪我をさせたくないけど」
 そしてそのままの体勢で、身体を捻るようにして残りの二人に向けてぶん投げる。
 起きあがりかけていた残りの二人も、それで縺れるようにして倒れた。
 今のでしばらく時間が稼げる。
「着ろよ」
「ちょ、いいよ、汗で汚れるから」
 乱暴に差し出したコートを、梓は両手で押し返す。
 耕一は初めて気がついたみたいに目を丸くする。

  ばさっ

「寒いだろ?そんな格好で風邪ひかれたら、こっちが困る」
 彼は自分のジャンパーを脱いで彼女の肩から掛けてやった。
 そして彼は全身の筋肉に音を立てさせる。
 鬼の力を解放に近づけるのだ。
「取りあえずこいつらをやっちまおう」
 梓に背を向けて、彼は呟いた。
 

 大学構内で『敵』になったのは、今まで出てきた4人だけ。
 一人は教授で、残りは全部学生。
――こいつらに共通点があるのかな
 悪いが動けなくなるように適当なおもりを彼らの身体につけさせてもらう。
「さてと。…梓?」
 最後に教授に針金で両手脚を逆さまに縛って教卓をくくりつけた時に、梓が肩を叩く。
 指先のような小さな感触だ。
 彼女は目を見開いて一点を見つめている。そして、そちらを指さしている。
 夕闇に隠れた正門の付近。
 閉じられていたはずの正門が大きく開け放たれている。
 そして、亡者共の群がのそりのそりと構内に這い出していた。
 何より、彼らの先頭。

 真っ白い服を着込んだ可憐な少女。
 いや、耳あたりについた特異な形状。
 純白の衣に身を包んだ彼女はミサイルのシーカのような瞳をあたりに向けている。
 暗い瞳。
 それが、まるで何かに教えられたようにこちらを向いた。
 余りに人間離れした動きに二人は戦慄する。
「メイドロボ…」
 耕一はその正体を直感的に悟っていた。
「戦闘用の、だ」
 ならばやはり、隆山の事件と関わりがあるのか?
 憶測のような思考が彼の頭を駆けめぐる。
 殺戮の天使が奇妙な動きで彼らを指さした。
 その動作は人間臭さのあるメイドロボではなく、まさにばね仕掛けの人形だった。
「…逃げよう」
 あれだけの数、耕一一人で持たせられる訳がない。
 二人は急いである実験棟に入った。
 唯一明かりのついていたここを元々目指して来ていたのだ。
「由美子さん?」
 彼女は気を失ったまま椅子に座り込んでいる。
 このまま放っておくのはまずい。
 すぐに小脇に抱えて明かりのある部屋を探して廊下を走る。
「…この上」
 梓が指を差す。
「人の声が聞こえる」
 確かに、二階ぐらいに気配がたむろしている。
 耕一は頷いて階段に急ぐ。
 廊下の明かりが消灯していて、昼間とは全く違う世界ができあがっている。
 この大学そのものはかなり古く、構造が堅牢なだけの建物だ。
――巧く籠城できるかもしれない
 暗い階段を駆け上がると、廊下からの明かりが壁を照らし上げているのを見た。
「間違いない」
 踊り場まで出た時、耕一の耳に叫び声のようなものが届く。
 彼は一足飛びに二階の廊下へ飛び出して、その方向を向いた。
「くそっ、こらっ」
 バットのような棒きれが扉の隙間から出ている。
 そして、扉の外で扉を開けようとする亡者二人に抵抗していた。
「ちっ」
 少し遅れて踊り場に飛び上がってきた梓は、それを見ると耕一が止める間もなく飛びかかる。
 声を掛けるより追った方がよい。
 即座に判断して由美子を廊下に横たえると地面を蹴った。

 亡者たちはできる限りの速さで。
 物音に驚いた人間がそっちを向くよりも早く、まるで先刻のロボットのように一斉に顔をこちらに向ける。
――遅い
 梓は彼らの顎が自分の方を向くのに合わせるように真横に拳を振っていた。
 どろっと濁った目が梓を捉えるのとほぼ同時。
 男の頭は弾けた。
 崩れる前に梓の蹴りが鳩尾に入る。
 もう一人が動こうとして腕が振り上げられる。
――っ!
 だが彼は一気に視界の外へと弾き出された。
 まるで木の棒のように縦に一回転して廊下に叩き伏せられる。
「邪魔だ」
 梓が僅かに間合いを開けたと同時に、耕一は梓の前の亡者に裏拳を叩き込んだのだ。
「全く、無茶につっこむ何て真似は止めろ」
 咎める口調にも梓は決して怯む事はない。
 むしろ口を尖らせて耕一を睨み付ける。
「なんだよ耕一。人助けじゃないか」
「…お前なぁ」
 胸を張って言う彼女に、彼は頭を抱えてみせる。
――こんな奴だったっけ?
 耕一の知っている梓は直情ではあったが、ここまで好戦的じゃなかった。
「誰だ」
 二人の会話に割り込むように、文字通りバットが割り込んでいた。
 扉は僅かに開かれており、そこから人の顔が覗いている。
「…って、柏木君かい?」
 耕一の顔を見るなり素っ頓狂な声を挙げた。
「助かりました、先生。覚えてなかったらどうしようかと思いましたよ?」
 彼は大げさに肩をすくめて見せた。
 部屋は彼の研究室で、彼は耕一を良く知っている教授だった。
 彼は工学の教授で、耕一の最も興味が惹かれた学科である。
 だから普段の彼の授業から、真面目に受けていた。

 由美子を助け起こして教授の部屋の入る。まだ彼女は気を失っている。
「ほれ」
 彼は二人分のコーヒーを耕一達の前に出した。
「しっかし…何が起こっているんだ?」
「先生、それを俺達に聞かないで下さい。これでも自分家から逃げて来てんです」
 耕一の言葉にほう、と応えるとにたりと笑みを浮かべる。
「んじゃぁ…そこの娘は」
「違います!」
 梓が顔を真っ赤にして即答する。
 おいおい、それじゃあんまり露骨じゃねーか?
 耕一は呆れるように彼女をちらりと目だけで見る。
「こいつは従姉妹で、連休で遊びに来ているんですよ」
 言いながら、『従姉妹』何だよなと頭の中で反芻する。
 ちびっとだけ、罪悪感のようなものが横切る。
――悪い事じゃ、ないんだよな…
 今更後悔している耕一。
「別にこいつは…」
「何だかんだ言っても隅におけないんじゃないか?」
 …聞いちゃいねえ。
 取りあえず強引に話を変えるしかないだろう。
「それより教授、ここにテレビか何かあります?」
「…あればとっくに見てるわ。ネットにリアルタイムに流れてないか?」
 彼の部屋には学内LANのUNIX端末と、電話線がある。
 どうやらこの部屋そのものは『無停電』状態にあるようだ。
「実は密かに衛星アンテナを大学の屋上に設置しようとしてな」
 言いながら窓の一部を塞いで通るケーブルをつついてみせる。
「驚いたよ。同じ方向に幾つも立ってるんだよね。御陰で簡単に設置できたけど」
「じゃぁ、衛星回線を使えるんですか?」
「安いもんだよ?早いし。下り回線だけだけどね」
 彼の言うとおり、見たことのない速度で次々にページが開かれていく。
 ニュースページ。
 日付が今日の分はまだ更新されていない。
 ある伝言板のページ。
 まだ事件が起こった時刻を過ぎていない。
「うーん」
 しばらくニュース関連のページを調べてみたが、特にそれらしい情報がない。
「…どういう事だろう」
「ここが最初か、事件は全国同時に起こっているか」
 少しだけ悪戯っぽく言うと、教授は肩をすくめる。
「やっぱ、まだリアルタイムな情報源としては未発達と言うべきかな」
 情報量は確かに多い。
 世界中であらゆる――無駄な物を含めて――情報がそこに収められ、どこからでもアクセスできる。
 だが、まだラジオやテレビなどの情報に比べてその質は落ちる。
 と言うより一般的な情報源とならないと言うべきだろう。
「…教授ぅ」
「情けない声を出すな。彼女が呆れるぞ」
 彼は席を立つと、ごそごそとがらくたをあさる。
 しばらくしない内に彼は小さなラジオを出してくる。
「まだ動くかなぁ」

  がり  がりがり

 彼がダイヤルを操作するとノイズがなり始めた。
 明滅する赤い電源を示すLEDを見ながら、彼はチューニングする。
『ざ…只今は…りました情報によりま…』
「お」
 耕一が期待したような声を出した。
『現在東京地区周辺は大変危険な状態になっております。高速道路料金所は現在閉鎖されて…』

  ざぴっ がりがりがり

 スピーカーを壊すかと思うほど激しいノイズが入り、やがて何も聞こえなくなる。
「…壊れたのかな」
「使えねー」
 耕一が呟いた途端、扉がひしゃげる音と同時に、隙間から人間の顔が覗いた。
「ちっ、もう来やがった」

 扉は案外簡単に破壊された。
 そのどうしようもないぐらい簡単に壊れた扉から溢れる人間
 ――既に目は虚ろで何も映さない――に、先頭の男に全力の蹴りが入る。

  ぐしゃ

 男は簡単に頭を仰け反らせて動かなくなる。どうやら首の骨を折ったらしい。
「やぁっ」
 梓の軽い気合。
 さらに小さな塊が、動かない男の腹部に直撃する。
 勢いが、止まる。
 小さな扉の真ん中で梓と耕一が、奴らと押し合っている。
 見れば廊下にはかなりの人間がいる。
――全て、『敵』だ。
「耕一、何とかならないのか?」
 耕一を見返す梓の頬に、赤い筋が走っている。
 肩から男を押さえる彼女と耕一に、信じがたい握力でつかみかかってくるのだ。
 少し油断すれば、すぐにでも身体を持っていかれそうだ。
「何ともなるかよっ」
 皆殺しにできれば。
 耕一は慌ててその考えをうち消した。
 今こうして拮抗しているが、そのうち必ず向こうの方から押し返されるに決まっている。
「うわあああああっ」
 横から教授がバットで殴っているものの、どれだけ効果が期待できるかは分からない。
――畜生…

  めき

 どこからともなく奇妙な音が聞こえた気がした。
 一瞬教授の顔が硬直する。

  めき

「だ…大丈夫かな」
 バットを振るう腕が鈍るのを見て耕一は聞いた。
「教授?」
「いや、この壁、実はさして丈夫じゃなくて」

  めきめき

「…嫌な音だな」
「あ」
 梓の声と共に、急に押し返してくる力が強くなる。

  めき…ばきゃ

 入り口が急に広くなる。
 途端、押さえきれない数の圧力が二人の周囲に溢れようとした。
「うわあああっ」
 叫び声。
 急に全身が重くなる感触。
 口を開いても声にならない。顔を、目を、口を、肩を、体という体を別の人間が叩きつける。
 まるで人間の海に溺れていく様な気分。
――梓っ
 恐らく壁が崩れる音が響いているだろう。
――…これで…
 何故か死を感じなかった。これで全てが終わる、そんな不思議な無意識だった。
 その時。甲高い音が頭を横切ったような気がした。

  きぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんん

 それは後頭部から駆け抜けて脳髄を走る痛み。
 皮膚の直下を無数の虫が這い回るような悪寒。

  がぁああああああああああああ

 絶叫が響きわたった。
 

 しばらくして。

 耕一が正気に戻った時、彼は人間の中に埋もれて倒れていた。
「…う…」
 完全に気を失っている彼らの中から這い出して彼は頭を振った。
 壁際に置いてあった一部の器材は倒れたり崩れたりしている。その上に何人かの人間が倒れている。
 床には一面に人間が倒れている。
 この狭い部屋だけに10人近い人間が埋もれているようだ。
「梓、梓!」
 彼は梓が視界に入らず慌てて叫んだ。
 するとそれに応えるように、人の中から梓が頭を出した。
「だい…丈夫っと」
 ぽこっと彼女の頭が顔を出す。
「…一体何があったんだろう」
 今足下に転がる人の群に目を落として、耕一は呟いた。
 あの頭痛の後、彼らは停止した。
――何か関係でもあるのか
 埋もれている教授を助け起こしながら、彼はそんなことを考えていた。

「危なかったね」
 正門の前に、青年と少女がいた。
 奇妙なカップルだ。一人は色素の抜けたような蒼い髪をしている。
 目の焦点の合わない瞳は、薄い茶色。
 儚げな外見から彼女は非常に美しく見える。
「…まだ、終わってないよ」
 くすんだ茶色の瞳を大学の研究棟に向けながら、僅かに決意の色を見せる青年。
 痩身、童顔とも言える程の美少年顔。
 どちらもこの世の人間とは思えない奇妙な儚さを湛えている。
「『司令塔』を破壊しなきゃ」

 気を失った教授を置いて、取りあえず二人は教場へと向かった。
 多分、彼らは起きあがってこないだろう。
 何故かその確信があった。
「…耕一、その娘、起こしたら?」
 背中におぶっている由美子のことだ。あれだけのことがあったのに目が覚めないようだ。
「そうだな。…でも、今起こしてもあんまり意味がないと思うけど」
「…ま、そうだけど」
 教場にはまだ電気がついている。
 崩れた机の隙間からひょいと体を出した。
――!
 そこには白い服を着た緑の髪の少女がいた。
 但し、余りに機械的な動きで二人に向けた目は、人間の物ではなかった。
 首から上だけがまるで別物のように、瞳も小刻みに動いて二人を拘束する。
 純白の服に、か細い体。
 下手に可愛らしい造形をしているだけに、その残虐性は著しく大きい。
 三流のホラーのようだった。
「糞」
 由美子を壁にもたれかけさせて、彼は一歩前にでる。
 梓はそれに習って彼の隣に出る。
――二人いれば…
 梓を邪険にここから離れさせても、どうせ言うことを聞かないだろう。
 なら。
「梓、俺が気を惹き付ける内に背後に回れ」
 こくん。
 真剣な表情で頷く。
――まだ、その方が安全だろう
 メイドロボと言っても、基本は戦闘に向いていない。
 その弱点は構造が『人間』過ぎる所だろう。背後に目があるわけではない。
 中に重火器が隠されているわけでもない。
 精々、人間をずたずたにする刃物や拳銃程度がある位だろう。
 セリオには衛星を利用して死角なく攻撃する事ができるが、相手はマルチ型。
 さほど怖くはない。
 小柄な分、兵装は大したものは積めないはずだ。

 地面を、蹴った。

『危険人物 コード1092 許可を』
 彼女の目に映った人影二つ。
 女の方は『最優先目標』コードに該当せず。
 一般目標と認識。

 耕一は滑るように教場を駆け抜ける。
 だが、あと一歩で間合いと言うところで敵が動いた。
 メイドロボのような『物体』では、気配を探りにくい。
 どうやら鬼は『狩り』に特化した生命のようだ。
――消えたっ
 だから曖昧な気配を慌てて追わなければならない。

  どくん

 死神が心臓を叩く。
「くっ」

 マルチ型に兵装が無い、などと思わない方が良かった。
 無表情に両腕を振り上げた彼女。
 彼女の服の両袖が無数に分かれて、肩から上がはだけている。

 梓は彼女の動きが見えなかった。
 ただ、急に白い物が現れたと思うと、細かな金属音に続いて絹糸がほどけるような音が聞こえたに過ぎない。
 無意識に、地面を蹴って横へ逃げる。
 

  甲高い金属音

 彼女が無情に振るった両腕は、教場の天井、壁、そして床をずたずたに切り裂いていた。
「痛」
 一瞬避け損なったのだろう。
 梓の左腕に赤い筋が走っている。抉れなかっただけでもましかも知れない。
 彼女は、惨状を見てそう感じていた。

――畜生、何故梓に襲いかかる!
 ロボットの真後ろを滞空し、彼は両腕を大きく構えていた。
 鬼への変貌が始まっている。
――許すかよ!
 だが、あと.1秒程の差。

  ひょう

「!!」
 慌てて両腕を大きく振るった。

  ぱし  ぱしぱし

 爪に何かが当たる。
 が、何の抵抗もなくそれは彼の腕を切り裂いた。
 死神はこちらを向いて、無表情にもう一度両腕を振りかざす。
「いやぁっっ」
 着地点はロボットの直前。
 同時に挙げた彼の咆吼。
 血だらけの拳がロボットの頭を打ち抜いていた。

  がこぉん

 中身の詰まった金属を、巨大なハンマーで殴った時に立てる音がした。
 無表情に後ろに崩れていくマルチ型。

『コード1092と現在交戦中 頭部損傷 現在72%の損害を受けました 自爆の許可を』
『…許可する』

 事切れたようにごとんと倒れる彼女。
 そして、一瞬白い世界が広がった。
 

「あぶない」
 彼らの向かう方向から轟音が響いた。
「しまった…まさか自爆したのか」
 二人は急いで爆発した教場へ向かう。
 角を曲がり、廊下から十分に場所を知ることができた。
――…う
 むっとする血の臭い。
 内圧に耐えられなくなったのか、廊下に細かな硝子の破片が散っている。
 廊下に人が叩きつけられている。
 慌てて側に寄るが、『人格』が彼には感じられた。
 『Lycanthrope』特有の症状だ。
――違う
 体を起こして教場へ踏み込む。
 入り口を塞ぐようにして机が積み上げられていたが、爆発で崩れたらしく廊下にまで散っている。
 彼は通れそうな場所を選んで机をまたぐ。
「…酷いな」
 物の散り方や破片から、爆発した場所は見当がつく。
 爆発した場所が黒く残っているわけではない。最近の高性能爆薬は高熱は発生するが煤は非常に微量だからだ。
 鉄筋に塗料を塗っただけの床に金属の破片が刺さっている。
 それだけでも爆発の勢いが分かるだろう。
「祐介ちゃん」
 少女――月島瑠璃子に呼ばれて、彼は顔を上げる。
「あそこに、人がいるよ」
 彼――長瀬祐介は彼女の指さす方向を向いた。そこには、血にまみれた男が一人倒れていた。
 

 暗い、満月の浮かぶ河原。
 生々しさは、以前に柳川と意識が繋がった時にも似ている。
 自分がまるでそこにいるかのような自然さを持っている。
 やんわりと漂う霧に若干視界が遮られる物の、そこは彼の良く知っている場所だ。
――あの…水門か

  どこかでちきちきというおとがする

――…どうして…ここに…
 彼はくるっと自分の周囲を見回した。
 誰も――いた。
 彼の後ろ、河原のすぐ側に少女が立っていた。
 見間違うはずもない。
「楓ちゃん?」
 背景に溶け込んでしまいそうな、儚げな雰囲気を湛える少女。
 暗い風景にすら映える艶のある黒い髪が風に揺れて、振り向いた。
「こう…いちさん?」
 楓は哀しそうな表情を僅かに歪めてそう応えた。
「耕一さんなんですか?」
 やがてその表情がくしゃと崩れ、大きく首を振る。
「そんな…駄目」
「楓ちゃ」
 

  白
 

 その途端風景は崩れて、ペンキをこぼしたように白く濁る。
 今まで全身を包んでいた現実的な空気は、あっという間に払拭される。

  楓ちゃん!

 耕一の叫びも、まるで夢の中の叫び声のように耳に届かない。

――まだ、こっちに来ては駄目です

 何故?
 分かった、これは夢なんだろ?楓ちゃん!何で逃げるんだよっ

――駄目なんです。耕一さん…これは夢何かじゃないんです…

 ……楓ちゃん……

 耕一は、楓の声に急に目頭が熱くなった。
 それが楓の感情だと認識した時、分からなかった事を理解したような気がした。

――ここは『境』です。…もう、私は…多分…目が覚めることはないと思います

 でもまだっ…まだ、生きているんだ。身体はまだ

――…耕一さん。…これ以上家族を苦しめないで下さい

 千鶴、梓、初音。
 泣き崩れる彼女達の顔が脳裏をよぎる。

――それに姉さんが待ってます

 っ…楓ちゃん、何で梓を焚き付けたんだ。俺が

――いつまでも死んだ人間を引きずる癖は、変わらないんですね
 

 声が遠くなる。
 

――思い出さない方が、良かったのかも知れません…
 

 楓ちゃん!
 

――せめて、もう…繰り返さないで下さい。必ず又…又会えます
 
 
 
 
 

  じりじり

 骨の中で響くような音。
 歯医者で歯を弄られているような音が頭に響く。
 まるで目覚ましが鳴り続けているような痺れ。
――五月蠅いな…
 まだ寝ていたいんだ。何もする気が起きないんだ。
 頼むよ、もう少し静かにしてくれ…

  ずき

 身をよじろうとした時、全身に痛みが走った。
「…いち、耕一」
 急速に脳が明晰になる。
 右足、腹部、右胸部、左腕、首筋、左頬。
 違和感はないが、出血しているというのが自覚できる。
 そこから力が抜けていく。
「耕一」
――そんな顔をするなよ。泣きそうなのはこっちなんだぞ
 戻ってきた視界の中で、梓は必死な表情で彼を見ていた。
「大丈夫?」
「…んなわけねーだろ」
 苦笑しても頬が引きつる。
 思い出した。
 白い服を着たメイドロボを殴り倒して、急に真っ白に…
 そうだ、爆発したんだ。
 全身が痛いのは、多分そのせいだろう。
「痛いから、肩の手をどけてくれ」
 はっと気がついたように慌てて身を起こす。
 耕一はのそりと身体を引き起こして、初めて他の人間がいることに気がついた。
「…彼らが助けてくれたんだ」
 そっと側に梓が近づいて言う。
 耕一の目の前に、二人の人間がいた。年は…自分と変わらないか、一つ二つ下、ぐらいか。
「いえ。貴方が丈夫だったんですよ」
 自然な笑み。こうして見ているとタレントか何かと思えるほどの優男。
「僕の名前は長瀬祐介」
 側にいるのは少し病的な雰囲気のある少女。
――楓ちゃんと雰囲気が似てる
 そう感じたのはほんの一瞬だけ。
 儚さが似ているのだろう。外観は全く違う。
「彼女は月島瑠璃子。…貴方達を助けたのは、何も我々の善意何かじゃないんです」
 幼さを感じさせる顔を、ほんの僅かに曇らせて彼は言う。
「…ある人を捜していて、その途中での、ほんの偶然です。…私達に協力して戴けますか?」
 梓の手が自分の肩に触れるのを感じながら、耕一は青年の瞳を覗き込んでいた。
 

 月島は大声で笑い声を挙げた。
「はっは、ご冗談を。それともふざけているのですか?」
 冷たい目つき。
 長瀬は冷や汗を拭いながら男を見つめた。
――どれだけの事を知っているんだ?
 拓也が無機質な笑い声を挙げるのを不快に思いながら、それを止める手段を持ち合わせていなかった。
「貴方はそれを『A』兵器だと知っているはずだ」
 月島の言葉にぎりぎりと歯ぎしりをする。
「…分かった、良いだろう。…そちらの条件通り、私の持っている情報を渡そう」
 一瞬目を開いた拓也は、口元をにいっと歪める。
「結構です。まずは私が渡せるだけの物を渡しましょう。さもなくばあまりにも不公平ですからね」
 彼は肩を竦めるふりを見せて、両腕を開く。
「さて。では…そうですね。まずは月島博士の…彼の我々との関係からお話ししますか」
 資料室には若干特殊なシステムが備え付けられている。
 部屋の中を24時間体制で監視できるのもその一つだ。

  がしゃ がしゃ ぴいーん

「…鍵を掛けさせて貰いましたよ」
 もう長瀬も驚かなかった。目の前の青年がどんな手段をもってそれを行っているのか、理解する気もなかった。
 理解という範疇を越えた物が、目の前にいるとしか認識していなかった。
――もしかして、銃弾も効かないんじゃないか
 そう思わせるものを彼は備えている。
「月島博士――光三は、若干頭がいかれていた。自分の妻と子らを捨てて、研究をとったのだ。
 まだ若い研究員だった彼は、その野心のために我々の元に来たのだ。どうやって我々を知ったのか、そこまではわかりません」

 月島光三。日本の国籍は交通事故により既に削除されている。彼の身分は、日本ではなく『彼ら』しか保証するものはない。
 しかしそれも彼にとって『Hephaestus』に加えられるための、一つの手段に過ぎなかった。
 莫大な研究費用と、実験用の『肉体』が手にはいるのは非合法な手段を用いるしかなかった。
 生まれ育った土地を離れ全く別の戸籍を同姓同名で偽造すると、彼は来栖川重工に就職した。
――分かっている…だが、まさか既にその時には…
 長瀬は話を聞きながら改めて光三の性格を思い出していた。
 全てが自分中心。何もかも自分でできなければ気が済まない。
 研究については完璧主義。分からない事は一つもないと言う程、全てに全力を傾けていた。
 だからだろうか、人付き合いは悪い方だった。
 自分勝手な性格は人を寄せ付ける事もなかった。
 逆に彼の裏側を知っている人間もいないのだ。
「そのころ彼は、『実験場を作る』と言って莫大な費用を要求していました。
 結果、その金がどこに消えたのかは分かりませんが、その場所だけは分かりました」
 隆山。
 日本でも有数の観光地であり、非常に自然の豊かな場所だ。
 ただし、自然によって隔離されたここは、シーズンオフともなれば閑散としてしまう。
「ばっ…ばかな」
「いいえ、事実です。彼は一つの『県』を『箱庭』に見立てて実験を行っていたのです」
 彼は懐から封筒を出し、中身を広げる。

 『人間の遺伝子における脳の変異及びその考察』

「これは」
「我々に提出された論文の一つで、彼の研究成果ですよ」
 彼は口元を歪めた。
 苦笑、ともとれる笑み。
「一つだけ想像できるのは、彼は不老長寿というものの研究を行っていたのではないかと言うことです。
 人間の脳の構造を理解し、人間の『殻』を捨てて自ら永遠のものとなる。
 それは科学者としての夢だと聞いたことがあります」
 笑みはだんだん憎々しげなものへと変化していく。
「奴はっ」
 拓也は吐き捨てるように叫んだ。
 だが、すぐに表情を取り戻すと話を続ける。
「博士の研究題目は、『人間』を作り上げることでした。それは恐らくご存じではないでしょうか」
「…ああ」
「彼の専門では『コンピュータ』しか作る事ができないはずでしたが…研究の最中に奇妙な物を作りました。
 それが『A』兵器です。恐らく効用も、その原理も貴方はご存じのはずだ」
 長瀬が頷くのを待たず、懐から小さなアンプルを差し出して卓の上に置く。
「そうたった…これだけで人間を破壊する事もできれば、思い通りの手足にする事も不可能ではない、と言われています。
 『Lycanthrope』と呼ばれる、自分に投薬するA兵器もあります」
 まるで淡々と兵器の説明をしているような口調。
 芝居がかった口調で語る拓也。
「…今から3年前の事です。彼がそれを完成させたのは。
 それが今や隆山という絶好の実験場を経て、世界を滅ぼすかもしれない恐ろしい兵器へと姿を変えました」
 無言。
 しばらくの沈黙が二人の間に滞る。
「月島博士は死んだよ。アパートの瓦礫の下敷きになって」
 拓也は僅かに目を開き、長瀬を睨み付ける。
「だが彼は我々とコンタクトを常にとり続けている。現に…」
「最後通牒でも突きつけたというんだな?まあ、そんなところでしょうなぁ、奴なら」
 拓也は歯ぎしりするように黙り込んで長瀬を睨み付ける。
 彼が拳を握りしめるのを見ながら、僅かに安堵する。
「そこで私の情報が必要になる訳だね。先刻、『月島博士の遺産』とは言った物の、彼の『死』を確認できないから戸惑っている…と言ったところか」
 彼は手元にある資料室の端末を叩いた。
 素早くIDとPassを入力すると、初期設定がスクリーンに映し出される。
「その、壁を見たまえ。これが…今から一月程前に起きた事件の写真だ」
 

 残酷な数分間。拓也の現状を認識するまでのほんの僅かな時間。
「はは、ふはははは」
 乾いた笑い声がむなしく響き、ばしっと静電気のような音と共にスクリーンが歪む。
「そうか、死んだか、死んでしまったのか」
 悲しいとも寂しいともとれる、乾いた笑い。
 呟くような言葉に、長瀬はやっとこの男が人間なのだと確信できた。
「…では、我々が考えるべきことは、月島の名を騙るモノを探す事になりそうだ」
 鋭い視線を長瀬に向ける。
「長瀬源五郎。取引と参りましょうか」




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