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Cryptic Writings
Chapter:3 Out ta get me

 聞き慣れない携帯電話の音。
 見慣れない場所。
 暗い、夜道。

 それは不可思議な夢から始まった。

『取りあえず今日は身を隠せ、早く逃げろ』
 長瀬からの電話に、自分に向かってくるサイレンの音。
「何なんですか?」
 器用に携帯を頬と肩で挟んで話し続ける。
『指名手配だ』

  東京近郊。

「あ、そうだ、お願いがあるんだよ」
 葵は澄まし顔で聞く体勢を作ると耳を傾ける。
「何ですか?」
「…格闘技を始めようかと思うんだ」
 浩之は自分のふがいなさをもう一度見つめ直していた。
 

  愛してるよ

 不自然な感覚に、柳川は自らの無実を求める。
 

「主任、『培養』に成功しました」
 長瀬はほほぅと嬉しそうに笑う。
「うちの科学技術も捨てた物じゃないね」
 源五郎はある一つの証拠を手に入れていた。

  
 犯人が特定できないまま立ち消えになりかかった猟奇連続殺人事件。
 そんな折りに浮上した『殺人容疑』。
 孤立無援の柳川を助けるために、長瀬は一路東京へ。
「長瀬さん!どうかしたんですか?」
『今どこにいる?』
「え?」
 緊迫した彼の言葉に思わず聞き返した。
『…見つけたぞ』

  
 果たして柳川は容疑を晴らせるのか?
 

「…まだ生きている奴がいる」
 『鬼塚』は何者なのか。
「…形勢逆転、か?柳川祐也」
「俺のサポートがあって初めて、お前は完全な狩猟者だった」

 謎が一つ消え、新たな謎が再び浮上する。
 永遠に続く、苦痛の連鎖。

「結局、敵ではない事を信じているんだよ、お前はどこまでいっても」
 そう言って彼は柳川の頭を叩いた。
「世話の焼ける部下だ」
 

                 Cryptic Wrightings
                      Chapter:3 Outa get me
 

「後ほんの僅かな時間、ここにとどまれればよい」

「もうすこしだ」
 
 

        ―――――――――――――――――――――――
Cryptic Writings chapter 3:Out ta get me

前回までのあらすじ
  
 マルチの誘拐事件は、解決することなく終わった。
 『Hephaestus』とは?
 長瀬はあらゆる手段をとり、自らその後を追う決意をする。
 そして浩之は。

        ―――――――――――――――――――――――
Chapter 3

主な登場人物

 柳川祐也
  26歳。今回の被害者。

 藤田浩之
  16歳。若干今の自分に弱気になっている高校生。綾香の見舞いにも結構通っている。

 長瀬源三郎(長瀬警部)
  再び活躍の場を与えられて、果たしてどれだけ活躍できるのか。
  過去の美少年シリーズ第二弾。

 長瀬源五郎(長瀬主任)
  実はロボット工学の権威ではなく、情報工学の権威だということがはっきりした。
  だって『心』の開発者だもん。ロボット工学を専門にやる必要性がないのよ。
  過去の美少年シリーズ第三弾。

 柳川 裕
  ?様々な理由でマルチ?に従っている。姿や声は祐也にそっくりである。

 マルチ(?)
  ショートをさらに切りそろえて、Tシャツの上にその時々に合わせて上着を着ている。
  下はスパッツとショートパンツを履いている。気分でこれも変わる。
  どうしてどこにそんなに着替えがあるのかは秘密である。

        ―――――――――――――――――――――――
 
 

 聞き慣れない携帯電話の音。
 見慣れない場所。
 暗い、夜道。
 背中のコンクリがやけに冷たい。
 アスファルトでできた道路に、何故か腰を下ろしてる。
 しつこく続く着信音に、彼はポケットに手を入れた。
 甲高い電子音を止めるために、彼はボタンを押した。
「はい」
『柳川…』
 

  がば

 目が覚めた。
 奇妙な夢だった。見慣れない場所で、アスファルトの地面に座り込んでいた。
 携帯電話も見慣れないものだったし、かかってきた人間の声も、知らない声だった。
 
 柳川は、あの悪夢から解放されたわけではなかったが、以前よりはましになっていた。
 最近寝不足になることもない。
 だが、今のようなやけにはっきりした夢は、久しぶりだった。
 いつか見た明晰夢。
 それにしては、おかしな夢だった。
 彼はすぐに着替えて簡単な朝食を取ると、すぐに署に向かった。
 麻薬関連の最も大きな事件は解決を迎えたため、対策本部は解散した。
 今は、彼も元の部署にいる。
 あれ以来どこからもあの事件の話は聞かなくなった。

  ぴぴ ぴぴ ぴぴ

――電源を切るのを忘れていた
 最近は携帯電話を掛けての車の運転は、『安全運転』の妨げになると言うことで、罰が加えられることになった。
 ハンズフリー通話機を持っていないので柳川は――一応は刑事だけに――あまりいい顔をせずにポケットに手を入れた。
「はい柳川…」
『長瀬だ』
 柳川は訝しがったが、それを聞く間も彼には与えられていなかった。
 サイレンの音が聞こえる。
『取りあえず今日は身を隠せ、早く逃げろ』
 そして、それは彼の目の前に現れた。
 明らかに自分を狙っての行動だ。
「ちょ、長瀬さん」
『俺はお前を信じている…が、今度ばかりは手助けできそうにないんだ』
 そして付け加えるようにして言った。
『良かったよ、お前が俺の声に戸惑ってくれて』

  きゅきゅきゅきゅ

 ゴムタイヤがかすれた声を立て、フレームが金属の鳴き声を上げる。
 一瞬の右ハンドルに、急激な左ハンドルを当てる。
 タイミングを合わせた急ブレーキ。
「何なんですか?」
 器用に携帯を頬と肩で挟んで話し続ける。
『指名手配だ』
 車は後輪を大きく振り、反対側を向く。

  ごん

 パトカーが車の後部にぶつかるのが分かる。
 アクセルを思いっきり踏み込む。
 すごい音を立てる後輪と、シートに押しつけられる身体。
 左手は素早くギアを変えている。
「…詳しくは又電話して下さい。尤も、それは難しいと思いますけれど」
『分かった』
 ギアを変えた手で懐に携帯電話を入れて、柳川は車を山の方へ向けた。
 過去には『雨月山』と呼ばれた山に。
 確か、あそこには水門があり、観光地としてではなく管理するための道路が舗装されているはずだ。
 うろ覚えであったが、隆山全図を頭に思い浮かべながらハンドルを握る。
――指名手配…か
 今更ながら、彼は妙な感慨を覚えていた。
 

 公衆電話を切って、長瀬は車に向かう。
 『柳川の逮捕』の指揮を執らされているのだ。
「…どこへ電話してたんですか?」
 ドライバー兼助手の矢環が長瀬に聞いた。
「いや、うちにちょっとな。…まさかこういうことになるとは思っていなかったからな」
 ああ、と矢環は頷いた。
 彼は長瀬と柳川の関係を知っている。今の会話だけでは『柳川の実家』にかけた事になっている。
 全く表情を変えず、長瀬はこれだけのことをやってのける男だった。
「出してくれ」
 矢環に指示を出しつつ、彼は腕を組んで目を閉じた。
 煙草に火を付けようとして、矢環に咎められたので他に考えをまとめる手段がないのだ。
――…目撃証言だけだとはっきりしないんだが…
 それに事件の現場を考えると柳川がそこにいたという事実こそ考えにくい。

 今から8日程遡る。
 ある場所で、殺人事件が起きた。『刑事殺し』だ。
 これだけなら長瀬達が動く事はなかっただろう。
 問題は殺された刑事ではなく、その刑事を騙っていた人間が問題だったのだ。
 刑事の名前は鬼塚雄平、若手の警部補だった。彼はとある理由で『出張中』だったのだが、
 出張先で彼の惨殺死体が発見された。
 巧く隠蔽しており、恐らく――全くの偶然だが――本来なら明るみになることはなかっただろう。
 『鬼塚』が放っていた雰囲気に、署長は前歴に興味を持ったのだ。
 そして、気がついたときには『鬼塚』は姿を消していた。
 モンタージュを作って調べたところ、警察庁にある名簿に同じ顔の人物がいることが分かった。
 柳川祐也。年齢もほぼ同じ、警部補だった。

――死体が発見されたのは…
 東京近郊。死体の腐敗度から考えて、死後わずかに一、二週間経っていないものだった。
――第一奴に…面識のない刑事を殺す動機はないだろう?
 明らかに眉唾ものである気配がして仕方がなかった。
 だが、ここ隆山県警内部には味方はいない。今彼が手を離してしまえば、誰も彼を信用しないだろう。
――調べる必要がある
 まずは、そのモンタージュと、『鬼塚』に会った署長と話をした方がいいだろうと思った。
――…許可、降りるかなぁ
 長瀬の様子をちらちらと見ながら、矢環は僅かに頭を傾げた。
 

 柳川は車を乗り捨て、地面を蹴った。
 雨月山の頂上まで取りあえず逃げて、気配を殺してしまおう。
 狩猟者の能力を使えば不可能ではないし、第一警察程度の訓練しかされていない人間など敵のうちに入らない。
――問題は、俺の容疑だな
 取りあえず逃げても、解決する方法がなければ意味がない。
 と、そこまで考えて彼はふと思いついた。
――…今なら…あの事件の後を追う事ができる
 まだ忘れてなどいなかった。Hysteria Heavenの事件は確かに終了している。
 だが、『人喰い事件』の方はまだ片が付いていないのだ。
――鬼か…
 彼は後ろから追ってくる人間の匂いを探す。
 一人、二人、三人…
 八人と言うところか?
 彼は頂上から反対側に向けて大きく跳躍した。
 
 

  がしゃん

 金属が叩きつけられるような音。
 荒い呼吸音。
 それは繰り返し行われている。
「Hi!ヒロユキ!最近よく見かけるネ」
 ここは浩之の自宅からそれ程離れていない、商店街にあるスポーツジム。
 彼はあれ以来身体を鍛える事に専念していた。
 ウェイトトレーニング用の器材で、おもりが鎖の先に繋がっていて、ベンチプレスやらバタフライやら総合的なトレーニングができる。
「…まあな」
 声をかけてきたのは金髪の目立つ、背の高い少女。
 レミィだ。彼女は側のマラソンマシンで走り込んでいるらしい。
「筋肉もりもり、身体鍛えるの?」
 浩之はベンチプレスをしながら少しの間考え込んだ。
――鍛えて…どうするつもりなんだろう
 今まで、自分は素質だけに頼っていたような気がした。
 だからいざという時、身体が動かなかった。
 だったら、その殻を破らなければならない。そう思って身体を鍛え始めたのだ。
――…鍛えるだけだったら、同じだよな…
 自分の非力さに戸惑いを覚えて、何をしたら良いのかすら分かっていなかったのかも知れない。
 彼はマシンから手を放して、身体を起こした。
「ありがとう、レミィ。お陰で少し分かったような気がしたよ」
 レミィは頭の上に?マークを幾つも飛ばしながら、愛想笑いを浮かべた。
「それはよかったデース」
――そうだ、こういうことはやっぱり葵ちゃんかな
 ふと頭に浮かんだ内容に、彼は後輩の少女を思い浮かべた。
 レミィとは適当に挨拶を交わしてジムを出ると、彼は帰り道を急いだ。
 夕飯は適当に外食で…と言うのが彼の最近の日常だったのだが。
「外食ばっかじゃ身体に悪いよ」
 というあかりの提案により(というよりも、ジムに行く金のせいで最近はまともな食生活をしていない)今日は夕食が待っているのだ。
 あかりが夕食を作ってくれるのは初めてではないし、恐らく財政的な事からしばらく頼むことになるだろう。
――…少し甘えすぎかも知れないかな
 帰り道を急ぐ中、彼は若干浮ついていたのだろう。

  どん

 路地の横から何か黒い塊が彼を突き飛ばした。
 一瞬それは頭をこちらに向けたような気がした。
 だが、無言で走り去ってゆく。
――なんだ?あれは…
 ふと男が出てきた方の路地を見た。別に、見るつもりなどなかったのだが。
「!」
 するとそこには松原葵がいた。
 本当に偶然だが、彼女はこちらに向かって歩いてくるところだった。
「よぉ」
 彼は片手を上げて軽く挨拶する。葵もそれに気がついて顔を明るくすると小走りに近寄ってくる。
「こんばんは。こんな所で奇遇ですね先輩」
 彼女は背負った荷物からして、恐らく道場の帰りなのだろう。
「拳法の道場の帰り?」
「ええ、そうです。先輩は?」
「似たようなもんだな。…ところで、先刻人影見なかった?」
 すると彼女は顔をしかめて言う。
「はい。あの…良くは見てないんですけど…すごい嫌な感じのする人でしたね」
 よく見てないのに、と一瞬男を哀れむと浩之は口元を歪める。
「んま、そうだろうけどなぁ。あ、そうだ、お願いがあるんだよ」
 葵は澄まし顔で聞く体勢を作ると耳を傾ける。
「何ですか?」
「…格闘技を始めようかと思うんだ」
 

 男は暗い路地を跳ぶように走っている。
 自分を、見失わないように。
 もし少しでも気を抜けば、自分に明日がないかのように必死に。
 そして、あるマンションにつくと彼は足を止める。見慣れた赤茶けた煉瓦の色も、闇の中でははっきりしない。
 恐らく住人にしか入れないようになった、ガラス製の自動扉には電子錠がかけられている。

  ふぃーん

 だが、彼がそれに手を伸ばそうとすると、扉は開いた。
 顔を上げると、監視カメラのような物が隅の方で瞬いている。
 右手の奥にはメイルボックスが並んでいる。
 薄暗い橙色の光の中、彼はメイルボックスから指定された部屋を探して、エレベータに乗る。
 ほんの僅かに足下に重みを感じると、静かにそれは昇っていく。非常によくできたエレベータだ。
 目的の階につくと彼は僅かに呼吸を整え、足を踏み入れた。
 静かに張りつめた空気が冷たく滞っている。鋭く甲高い音が耳元で鳴らされているように静かな廊下。
 最先端の防音設備で囲まれたマンションはこんな物なのだろうか?
 男は妙な静けさに戸惑いながら、部屋番号を眺めて探す。
 と、簡単な音を立てて扉が開いた。
 僅かに、ほんの僅か扉が浮く程度開いた。
――…総てお見通し、って訳だな
 男は諦めたような表情で扉の中から洩れる光を見つめた。
 

  がば

 柳川は跳ね起きた。
 ここはまだ雨月山の林の中、彼は朝家を出た格好のままだ。
――…夢…か?
 又見たこともない場所にいた。
 見たこともないマンションだった。
――いや…
 あれは耕一ではない。もっとしっくりくる、全く違和感のない感じがした。
 頭を振りながらゆっくり彼は身体を起こした。
 警察官数人など、さしたる敵でもなかった。数時間もすれば彼らは引き返した。
 恐らく、人数を揃えて再び帰ってくるだろう。
 一度携帯電話に長瀬から連絡があった。
『今日はもう捜査も終了だ』
 考えてみれば不自然だ。長瀬が一方的に柳川を信用して逃がそうとしているのだ。
「どういう風の吹き回しなんですか?」
『と言ったってお前、何もやってないんだろう』
 長瀬にとってはそれが職務のはずだ。それを放棄するに等しい行為を行おうとしているのだ。
 柳川でなくても咎めるだろう。
「…ですが」
『んー、そうだな、確かにお前は重要参考人ぐらいにすべきなんだよな…今回の騒動は若干『匂う』んだ』
 しばらく沈黙した後に長瀬は言った。
『だから俺は逃げるように言い含めたんだ。私の出張も決まった事だしな』
「出張?」
『証拠集めにね。東京で君を見たという署長に会ってくる。…君がかけられた容疑は殺人だよ』
 そして長瀬から詳しい話を聞いた。
「そっくりさん…とは、言い訳できないんですよね」
『それは私に言われても困る。何故逮捕状まで出されているのかが気になるし、また連絡するさ』
「お願いします。ああ、それから」
『…なんだ?』
 柳川は苦笑して続ける。
「俺の…車、よろしくお願いします」
 長瀬の笑う声に、彼は少しだけ安堵を覚えた。
 腑に落ちない点が多すぎる。
 夜露に濡れて冷たくなった背広を振るって、彼は立ち上がった。
 今日は月明かりもない。数日ぐらいならここで持ちこたえる事もできるだろうが、県内ではどちらにせよ足がつく。
 彼は隆山市街に背を向けると黒い影となって跳躍した。
 鬼の脚ならば、今日中に関東圏に入ることもできるだろう。
 こうして柳川は隆山を後にした。
 自分と『同じ顔』をした人間を捜すために。
 

 サンドバックを叩く規則正しい音。
「やぁっ」
 甲高い発頸の声に、大きくサンドバックが揺れる。
 葵は浩之に一通りの技を見せていた。
 一度見学に来たときに既に基礎は練習はしていたのだが。
「…先輩、それじゃやって見せて下さい」
「ああ」
 まず離れた間合いから踏み込む。

  どん

 彼の拳が当たった瞬間、サンドバックがくの字に折れる。
 吊された枝に鎖が食い込み、甲高い軋みを立てる。
 だが、それが戻る間もなくもう片方の拳が伸びる。

  ずん

 先刻葵が見せた連続技ほどキレもなく速度もないが、一発一発の重さは比べるべくもない。以前に練習した時よりも、遙かに重くなっている。
 彼が持っていた素質と、簡単な練習しかこなしていないものの、基礎体力が以前よりつき始めたのだろう。
 そして、最後のハイキックはサンドバックが大きく揺れて、それをくくっている木の枝まで折れるかと思うぐらいしなった。
「おっと」
 慌てて揺れを止めて、彼は葵の方を振り返った。
「…どうだい」
 葵はぼーっとしていた。
 呆然とした表情で、自分の拳を胸の前で合わせていた。
「す」
 浩之は首を傾げる。
「すごいです、すごいですよ先輩!」
 葵は浩之とはスタイルが違う。無論、男と女の差があるのは確かだ。ウェイトも違う。
 それでも今の浩之の技は力と迫力があった。
 彼女は、大人の男の力を見たことがなかったせいもあるが、浩之の技に圧倒された。
「そ、そうかぁ?」
 うかれ気味。
「ええ、全然練習してないなんて信じられないぐらいです」
「でも、こないだ葵ちゃんところにきたぐらいで」
 あとは地味に筋肉トレーニングぐらいか。
 浩之は言おうとしたが、止めた。あまり意味のないことだ。
 葵は目をきらきらさせて浩之を見つめている。
「やっぱり素養があるんですよ。…これだったら私と練習をやるよりも道場に通った方がいいですよ」
「…道場…ねぇ…」
 あまりぴんと来ない物があった。元々自分とは関係ない世界だったのも事実だが、ここで練習したいものもあった。
 自分がこの素質に気がついた所はここであり、その時一緒にいたのが葵だったからだ。
「だったらさ、たしか中国拳法の道場に通ってるじゃない?それに一緒に通うことにするよ」
 葵はうんうんと頷いた。
 それから練習そっちのけで道場の話を始めて…
 気がつくと既に夕方になっていた。
「…それで、師範の方は何度か実際に中国の先生を招いているんです」
 片づけをして、帰りながらも彼女はまだ話をしていた。
――よっぽど好きなんだよな
 珍しいかも知れない。
 その反面、やっぱり羨ましいと思った。
 浩之があくまで手段として追求しているものを、彼女は全く違う見方をしている。
 彼にはなかった。そういうものがまるで。
「…でさ」
 一区切りがついたのを見計らって彼は口を開いた。
「何ですか?」
「道場に行く以外は、葵ちゃんところで練習してて良いよな?」
 え、と驚いたような表情で葵は目を丸くしてしまう。
「…いいんですか?私、大したことなんか教えられませんし」
 続けようとするのを遮って、浩之は首を振った。
「そんなことないって。それに、俺の師範は元から葵ちゃんだし。な、いいだろ?」
 浩之の言葉に葵は戸惑うような顔をしていたが、すこし恥ずかしそうに笑うと両手を前で合わせて立ち止まる。
「そんな、いいえ、こちらからお願いします、先輩」
 ぺこりと御辞儀する彼女。
 こうして、彼は再びエクストリーム同好会で練習する事になった。

「そういうことがあったのね。ふーん」
 綾香はまだしばらく安静が必要だった。
 完全に組織が癒着するまで、予断を許さない状況なのだ。
 と、いうよりも彼女の爺さんに当たる来栖川の会長が退院を許さないらしいのだ。
「どおりで身体が一回りほど変化するはずだわ」
 ここは彼女の病室。
 浩之が見舞いに来るのも習慣になってきていた。
 部屋に入るなり彼の差に気がついて、格闘技を始めた事を打ち明けたのだ。
 隠しても仕方のないことだし。
「ジムにも通ってるからな、確かにがっしりして見えるかも知れない」
 最近、自分でも身体の変化に気がついている。
 サッカーをやってきた頃とは違う筋肉の付き方だ。
「男子三日会わざれば、なーんて良く言った物ねぇ」
 ははは、と少し苦笑混じりに笑う浩之。
 さすがは目の付け所が違うというか、一発で見破られるとは思いも寄らなかった。
「…ねぇ」
 綾香の視線が変化する。
 一瞬どきっとするが、『違う』視線だ。そんな物ではなく、もっと純粋で好奇な視線だ。
「退院して、回復したら、いいかしら?」
 私と闘らないか、という誘いだ。興味津々という表情で彼を眺めている。
 浩之は聞くまでもなくそれは分かったのだが、簡単に返事はできない。
「…何を」
 綾香は少しむくれてため息をつく。
「決まってるじゃない、私と一戦。どうせ練習試合も組んでないでしょ?」
 彼女は身を乗り出して、上目遣いで彼を見つめる。
 会話の内容が、誘いの文句が別ならばこれに耐えられる男はいないだろうに…
「あ、…ああ」
 綾香はチャンピオンだ。それも、エクストリームの。
 確かに男女差があるのは認めるが、格闘技の練習も素質も彼女の方が上だろう。
 それが彼にとって戸惑いだった。
「でも」
「あーっ、もう、おとこだったらでもも暴動もいらないでしょーがっ」
 ぶち切れた。
「まだ自分の実力すら把握できてないんでしょ?だったら丁度良いじゃないの。私が見極めて上げるから」
 でも、やっぱり最後の方は甘えるような仕草になってしまう。
 美味しそうな獲物を目の前にした猫、と言ったところか。
 面白そうなおもちゃを前にされておあずけを喰らっている子供、でもいい。
「分かった。…それじゃ、詳しいことは退院してから頼むよ」
 と言って席を立つのを、彼女は慌てて見咎める。
「ちょ、ちょっと、逃げるの?」
「逃げるって何だよ、そうと決まれば練習をしとかねーと敵う訳ないからな。んじゃ」
 浩之は慌てて病室を退場した。確かにまだ来てから数分しか経っていない。
 だが、彼はその場にいることがいたたまれなくなって、慌てて外でため息をついた。
 誉められたからだろうか?
 彼は首を振ってその考えを追い払った。

  はあ

 綾香はため息をついて身体をベッドに戻した。
――以外ねー。あの浩之があれだけ立派になるなんて
 始めてあった時はただの目つきの悪い男だと思っていた。
 今日の浩之は、その雰囲気が一変していたようにも思えた。
 こう、くすぐられる物を感じる『立派さ』だった。
「早く退院できないかなぁ」
 拳が、肩が、腕がむずむずして来るのが分かった。
 

 僅かに照明を落とした部屋。
 小さな4畳程の天井。
 微かな重みを感じている。
 そして、まるで頭の中がとろけるような感覚。
 直接目で見ているのではなく、まるでビニールシートを一枚被せて見ているような、非現実的な感覚。
 小柄な気配が、むくりと頭をもたげる。
「愛してるよ」
 柔らかい、子供のような声。
 自分の胸のすぐ下に、少女の顔がある。
 だが、その表情は無邪気でありながら含む物を感じるほど魅力的な――蠱惑の笑み。
 彼女の指が後頭部に触れた。

  とんとん

 柳川は肩を叩かれて目が覚めた。
「着いたよ。約束通り、東京の料金所だ」
 彼は東名高速を東京へ向けて抜けた。
 途中何カ所かヒッチハイクして、高速道路を抜けるだけの数時間、荷物を運搬しているトラックにお願いして運んで貰ったのだ。
 お陰で十分な休養をとりつつ東京に着いた。
 隆山の山を鬼の力で疾駆した後、東京への高速を乗り次いだ事で、夜明けまでに東京に到着した。
 近づくに連れて、夢が尚鮮明になっていく。
――耕一の時よりも…
 彼は知らず知らず歯ぎしりをする。
 繋がっているときの感覚は耕一と比べると『自分である』意識と『自分ではない』意識がはっきりしないのだ。
 耕一よりも自分に近い感覚。
 恐らくそれは、彼が今感じている事よりも危険なはず。
――間違いない
 奴こそ連続猟奇殺人犯だ。
 と思うと同時に、彼の側にいる『もの』について奇妙な感慨を覚えていた。
 最初は携帯電話を通した声。
 次は、恐らく…
 彼は頭を振った。
 もう一つの感覚が彼には残っていた。それは、まるで酒を飲んだ後のような自分が自分ではない感触。
 鈍感な肌の感覚。
――…何か関係あるんだろう
 柳川は料金所の脇にある高速バスのバス停から下に降りた。
 当分警察の追っ手はないだろう。
 取りあえず、長瀬警部から聞いた『鬼塚』警部補を見たという警察署の近くまで行ってみよう。
 彼は手近なタクシーを捕まえると取りあえず出発した。
 タクシーの車内ではラジオが入っていた。
「お客さん、切りますか?」
「あ、いや、そのままにしてくれ」
 ドライバーは愛想笑いを見せて前に向き直った。
 朝早いNHKのニュースが流れている。
『…東京郊外にある工場は閉鎖され…』
 この不景気の世の中、良くある話だ。
 業界で唯一成績を伸ばしているのは精々メイドロボ部門、それも来栖川がその先頭を切っているのだ。
 今やHMを知らない者はいない。
「ああ、この辺の工場だね」
 ドライバーは言った。
「この辺?」
「来栖川の系列で、メイドロボを作ってたはずなんだけどな…」
 柳川は笑って話を流した。
 当然だろう。来栖川だって企業だ。不景気に下請けのリストラは当然行うはずだ。他の部門で業績は今ひとつだというのに。
 柳川が興味なさそうな風にするので、ドライバーは黙り込んだ。
「…ここでいいんですか?」
 次に口を開いたのは、柳川が急に止めろと言った時だった。
「ああ、すまない」
 金を払うと慌てて彼はタクシーを降りた。
 頼んだ警察署まではそう遠くないらしい。親切にも教えてくれたドライバーに礼を言うと、彼はすぐ側に立つマンションを見上げた。
 見覚えのあるマンション。
――これだ
 以外に簡単に見つけることができた。
 昨晩、奴はここにいた。
 だが、鬼の気配はしない。どうやらここにはいないようだ。
 ここで待ち受ければ、もしかしてすぐにでも捕まえられるかも知れないという思いはすぐに捨てた。
――地道に行くか…
 どちらにせよ、この辺で張り込むしかないようだ。
  彼は取りあえず周辺をまわることにした。
 警察で仕事を始めてもう7年になるが、こうして犯人を張り込むのにはまだ慣れなかった。
 地道な調査や犯人を追いつめている方が、彼にとっては気が楽なのだ。
 だからだろうか、警官としての経験よりも、鬼の本能の方が『獲物』を探る時には役に立つ。
 あの時もそうだった。
 やくざ崩れの強盗殺人の犯人を追って、埠頭に向かったのもそっちに『逃げた』気がしたからだ。
 柳川は感傷的になっている自分に気がついて自嘲すると、空腹であることに気がついた。
――取りあえず飯にしよう

 マンションが見える場所は以外に限定されていて、直接玄関を張るには当局の許可が必要な場所しかなかった。
――ふん、どうせ『気配』で分かるはずだ
 既に夢で意識が繋がるのは確認している。
 耕一や柳川と同じ程の力を持つ鬼なら、集中するだけで分かる。彼はあまり目立たないような場所に移動することにした。 
 すぐ近くに大きな公園があった。緑が多くベンチもあり、この周囲だけはまるで都会を感じさせない場所だった。
 コンビニで買った弁当を食べて、深々と座り込んで伸びをする。
 結構セールスマン風の人間が休んでいたり、特に違和感なく溶け込んでいるはずだ。
 だから気にせず、マンションの方だけに意識を向けていた。
 夕方まで何の動きもなくただ時だけが過ぎていく。
――間違いのはずは…ないんだが…
「おい」
 乱暴な声で意識を引き戻された。
 声の主は、彼のすぐ目の前に立っていた。年の頃は、そう、17ぐらいか。
 たった一人でまっすぐ柳川を見下ろしている。
「…何か」
 残念なことにエルクゥの『信号』は万能ではない。人間の心まで読むことはできないのだ。
 少年は座ったままの柳川の胸ぐらを思い切り掴んで引き寄せた。
「ふざけるな、忘れたとでも言うのか!」
 少年はそのまま投げ捨てるように柳川を突き飛ばす。柳川は無理矢理身体を突っ張ってそれに耐えると背筋を伸ばして少年を見下ろした。
 こうしていると少年はそれ程背が高い方ではない。
「人違いじゃないか、私はきみに会った事はないが」
「ぬけぬけと言いやがって」
 少年は少しだけ間合いを切った。
「なら吐いてもらうぜ、刑事さん」

  ぶぅん

 少年が不意打ち気味に振り回した脚を、まるで読んでいたかのようにぱしっと弾く。
「どういうことなんだ?」
 柳川はまだ闘うつもりはない。本気でなど、やるはずもないが。
「まだしらを切るかぁ!」
 少年は脚を意外な速さで引き戻して地面を強く蹴る。
 しまったと柳川が身体を後ろに下げたが、次に伸びてきた少年の拳がまともに鳩尾に入る。
 後頭部まで電撃が走るような良い一撃だ。
――仕方ない、納得させるしかない訳だな
 大きく間合いを取って彼は大きく呼吸をする。

  ひゅぅうぉおお

 喉が鳴る。と同時に柳川の周囲が――まだ明るいというのに――悪い冗談を見ているように重くなる。
 夕焼けの空が、濃い赤銅色の空へと変わる。
「あんまり言うことを聞かないんだったら、言い聞かせるしかないぞ」
 眼鏡の奥の目は笑っていない。
 鋭い強い眼光を見せる。
――あの時の目だ
 浩之は背筋が震えるのが分かった。百戦錬磨の執事がほんの一撃で負けた、恐ろしい相手だ。
 なのに浩之はこれを『怖い』とは思えなかった。
 まだ空手も、拳法も始めたばかりで何の役に立つとも思えない。
――逃げるわけには行かない
 音が出るほど強く拳を握りしめて、半身に構える。
 焦り。
 多分、同時に感じていたこれは、恐らく過去の自分。
 超えなければならない相手は目の前の相手ではなく、動けなかった過去。
「だぁあああああ」
 踏み込んだ。
 通常の構えは左半身といい、左手が前になる。これはボクシングでも同じで、利き腕を引いて構えておくのに有利である。
 だが浩之は右手を前にして構えている。
 これは鋭く強力なジャブが撃てるということで、ボクシングで奇襲的にとられるサウスポーである。
  無論、それなりの練習がなければダメなのだが。
 しかし浩之の場合は違う。
 サッカーをやっていたおかげでどちらの脚のコントロールも難しくない。
 ジャブとストレートの差に大きな物があるのは、その射程距離である。
 大きく体を開いて打ち込む必要のある後ろ手の突きは破壊力の反面、身体が真正面を向いてしまう。
 しかし、前手の突きはすぐに相手を射程に入れる事ができる上に身体をさらに真半身に切る事ができる。
 だから敢えて逆に構えているのだ。
 柳川にとってはどちらでも同じ事。全力を出し切らなくとも、まるでコマ送りを見ているような錯覚さえ起きる。
 伸びきった拳を右手で弾く。
 そのまま、身体を左にねじるように左手を引く。
「わ」
 浩之が声を上げる。
 一瞬彼の頬を柳川の右拳がかすった。

  手首に感触
 
 柳川は半身の体勢になりながら思いっきり左手を引いていた。
 彼は浩之を殴ろうとしたのではなく、初めから右腕を掴むことに集中していた。
 引き倒してしまえばもう動かないだろうという打算。

 案の定、浩之は最初に突いた右腕を思いっきり引っ張られて地面に叩きつけられる。
 柳川の右拳を外側によけざるを得なかったせいでもあるのだ。
 身体を右回転させて半身から身体を真横に切ってしまう動きに合わせられたのだ。

  とん

 浩之の胸に、柳川の脚が載る。いつでも踏み抜くことができるとも言いたげに。
「…さ、もういいんじゃないか?納得したかい?」
 柳川は浩之の右手を離して彼を見下ろす。
 一瞬の出来事に戸惑っている風ではあったが、すぐに先刻の目つきに戻ると柳川を睨む。
 僅かに体重をかけ、殺気を放つ。
「いい加減にしてくれないか?仕事中なんだ」
「ベンチに腰掛けて、か?…今度は何の仕事だ?」
 信用していないこの少年には何故か鬼の殺気が効かない。
 普通なら、僅かな殺気でもこの程度の少年なら怯える物なのだが。
「何の、ねぇ。…じゃあ聞くが、君が私に前に会ったのはいつの事だ?その時何をしていたのか言ってみるんだ」
 そう言って脚を降ろして少年を自由にすると、再び後ろにあるベンチに腰をかけた。
 浩之はゆっくり立ち上がりながら埃を払い、柳川を睨み付ける。
「一週間前、お前は俺の友人を殴って、そしてマルチ誘拐の手伝いをしていた」
 柳川はため息をついて、自分の膝の上に両手を組んで彼は僅かに身体を前傾させる。
「…男の名は?」
「鬼塚、そう名乗っていた」
 柳川は僅かに――本当に僅かに口を歪め、そして言った。
「それは俺じゃない。…今から一週間前に、鬼塚警部補は殺された」
 そう言って彼はベンチから立ち上がる。
「俺は其奴を追ってここに来たんだ。…信用してくれなくても構わない。俺の名は柳川、警部補だ」
 懐から警察手帳を出して、自分の顔写真が映っているのを見せた。
「少し話を聞かせてくれないか」
 

 長瀬警部は証拠集めの為に出張した。
 …と、言うことになっている。
 彼は今新幹線に乗り、東京駅へと向かっている。
 弁当を食いながら、東京についてからの行動を考えている。
――…取りあえずは仕事をするにしても
 日帰りではなく一日泊まり。半日がかりの旅程を考えれば当然ではあるのだが…
――今、あいつはどこにいるんだ?
 今回のうんざりするような事件の原因は、不詳の弟の作ったメイドロボのせいだ。
 …とは、思っているわけではないが、彼が何らかの手がかりを持っているのは間違いないだろう。
 少なくとも、未解決に終わっている『人喰い』事件の手がかりぐらいは何とかなるかも知れない。
 彼はそれに加え、阿部貴之の事件が絡んでくるのでは、とも考えていた。
 阿部の肉食獣がまだ生きていて、猟奇的な殺人に…
――そんな訳ないだろう。もしそうなら獣の毛の一本も見つかるはずだし
 何よりそんな目撃情報はない。
 彼はため息をついて目を閉じた。
 まだ時間はある。ゆっくり眠ろう。

 長瀬源五郎は快哉を叫んでいた。
 HMX-13セリオに搭載していたフィルタは、半ば実験的に使用していたもので、気体分子レベルで空気を濾す事ができる。
 これは電磁波を発生させて、電場により分子をより分けるように作った物だ。簡単に言えば静電気で埃をとるような機構だ。
 攻撃衛星『TRIDENT』の攻撃は、レーザーによる事前照準から射撃、衝撃波到達までの時間はほんの3秒しかない。
 綾香の話ではセリオの叫び声のような物を聞いたと言う。
 もしセリオが何かに反応したのだとすれば、フィルタにあれが残っているはずだ。
 その考えは間違っていなかった。ただし、光学顕微鏡ではそれを捉えることはできなかった。
「主任、『培養』に成功しました」
 長瀬はほほぅと嬉しそうに笑う。
「うちの科学技術も捨てた物じゃないね」
 笑いながら彼は電子顕微鏡写真を撮る。
 『Assembler』。
 それは日本語ではこう呼ばれる。『微細機械』、ナノマシンと。
 原子レベルの機械、とでも言おうか。原子一個がスイッチであり、モーターであり、ベアリングである。
 そしてそれらは統合されたある種の動きができるように『群体』としての構成により使用するのが主である。
「月島主任のとこで研究してましたから」
 彼は少し嬉しそうに笑う。
 月島の専門は原子物理学と機械工学だったのだが、いつの間にか研究が原子レベルでの工学主体に切り替わっていた。
 長瀬の、学生時代の友人であった男だ。残念なことに、彼の死体は回収した。もうこの世にはいない。
 瓦礫の調査を行った際に彼らが見つけた物は、セリオであったもの、各種装備品の欠片、そしてマルチの中枢と月島の死体だった。
 だがマルチの身体はどこにもなかった。
 瓦礫の下敷きになっているかと思い確認したが、それはなかった。
 綾香の証言ではマルチとは思えない行動をして立ち去ったということだったが。
――…しかし…
 彼が見つけたAssemblerはそれぞれが微弱な電磁波を発するように仕込まれているが、それはほんの僅かな物だ。
 確かにこれを空気中に散布すればそれなりに電波妨害等の効果はあるだろう。
 しかし、他に何か効果があるかも知れない。一つだけを見たところでそれ以上の物は分からなかった。
「気を付けろよ、こいつらを制御する技術は今の我々にはないのだから」
「わかってますよ」
 これらは機械である。
 が、同時に『生命体』に近い存在である。
  もし自らを増殖するプログラムを用意されていたならば、数時間もしないうちに地球全部を自らに変えてしまう事もできるのだ。
――月島のことだ…それなりに作っているんだろうが…
 彼は試験管を持ち上げて、透明な溶液のように見えるそれを見つめた。
「でも、何で月島主任は来栖川を抜けたんです?別にこの技術その物は…」
 長瀬は首を振った。
「奴には関係ないんだ。…そう言う奴だった」
 試験管を資料と一緒に並べると長瀬は椅子を引き出して座る。
「それに来栖川は結果のでないような研究に金を出すほど暇ではないからな」
 アセンブラを通常の技術に応用するのは非常に難しい。精々コンピュータに使用するぐらいである。
――マルチの筐体に…何の意味があるというのだ?
 長瀬は黙り込んで顎を撫でる。こんな表情をするときは決まって難しい事を考えている。
 できたものでこんな時には誰も彼に話しかけない。
 ゆっくり彼の中の時間が過ぎていく。
「…松浦くん、少しいいかい?」
 彼は長瀬のプログラムを最終的にデバッグしたサブプログラマで、最もその腕を信頼されていると言っても過言ではない。
「はい?」
「ちょっと、今から言うアルゴリズムを方程式化してシュミレートできないかね?」
 ごく、と彼は唾を呑んだ。
 大抵こうやって前置きする場合はろくでもない事である。
 大した事のない事なら何も言わずに即実行させるのが常なのだ。
「主任。また僕を虐める気ですね」
「え?」
 そして、長瀬はそれを悪気があって言っているわけではなかった。
 だから尚、たちが悪いのかも知れない。
「何日かかっても知りませんよ!今度僕が胃潰瘍になって倒れたら主任、ちゃんとお見舞いに来て下さいね!」
 若干たじたじ。
「わかったから。わかったよ、俺ってそんなにひどいやつ?」
 無言でその場にいた全員に睨まれる奴。
 長瀬はふうとため息をついて肩をすくめた。
 

「長瀬警部、到着しました」
 まずは署長に挨拶からだ。と言っても、今日中に事が終わらなければ少し忙しいことになるのだが…
「うむ、御苦労」
 指名手配の柳川祐也は警部補であり、直属の上司は長瀬警部ということになる。
 責任問題の件もあり、彼が動くのは至極当然の話である。
「しかしわざわざ隆山からここまで。一言連絡を入れてさえくれればFAXだってできるだろうに」
 そう、以前の事件の資料も総て隆山で直接FAXで受け取っていたはずだ。
「はっはっはは、ま、上の人間には何とでも勘ぐられて結構ですが、署長」
 長瀬は勧められるまま椅子に座ると、身を乗り出すような格好で言う。
「私の信念と致しまして、『捜査は総て自分の足で稼ぐ物だ』と常々考えております故に」
 上の人間とは、要するに予算を出している大元締めの事だ。
 予算を使った個人的な旅行じゃないか?と勘ぐられてもおかしくないだろう、という含みである。
 署長はくたびれた笑みを見せる。
 元々、その言葉で長瀬を叱咤したのは彼なのだから。
「…変わらないね、君は。もう少し丸くなったかと思ったのに」
 長瀬は悪戯好きな笑みを浮かべて煙草を出す。
「いえいえ、署長だからこそこういうんですよ」
 そして箱を署長の方に向ける。無言でそれを受け取りながら署長は笑う
「だったらその『署長』ってのも止めてくれないか?なぁ、長瀬」
 彼の煙草に火を付けながら、長瀬はにたりと口元を歪めた。
「…ま、そう言うわけにもいきませんよ。やっぱり今はこうして身分も違うんですし、先輩との関係は変わらないじゃないですか」
 署長は長瀬とコンビを組んでいた事のある、直の先輩である。
 彼の名前は岡崎正毅。いわば柳川から見る長瀬、という所だろう。
 大学出のノンキャリアで、ここまで来るのに相当の苦労があったと思われる。まず持って普通はあり得ない。
「同期から見れば出世頭なんじゃないですか」
 彼はすこし苦笑して煙を胸に吸い込む。
「そうかも知れんがな。久々に会った後輩に虐められるとは思っていなかったぞ」
 ははは、と無遠慮に笑うと、長瀬は顔を引き締めた。
「…早速ですが」
 署長は頷いて茶色のA4版の封筒を差し出した。
「関係書類は総てこの中にある。鬼塚の異動書と、写真もな。…どうやら総て偽造らしいが」
 言われるまま長瀬は封筒を受け取り、書類を出した。
 鬼塚。
 この名前の警部補は確かに存在する。但し、既に死亡しているが。
――!
 長瀬の顔が引きつる。写真に映っているのは紛れもなく彼の良く知っている柳川だ。
「確認したかい?」
「署長…」
 驚きを隠さずに書類から顔を上げた長瀬を、彼は苦渋をなめたような表情で見下ろしていた。
「直接本人に会ったのは私だけではないがね。妙な点があるとすれば、ここまであからさまに顔を出していることぐらいだが」
「他人のそら似にしては確かに似すぎています。…しかしこの日のこの時間には彼は隆山で私と仕事をしていますよ?」
 ふむう、と大きく煙を吐いて、彼は煙草を灰皿に突き立てた。
「…なぜ、急に彼を緊急に保護しようとしたか、聞きたそうな顔だ」
 長瀬は応えに窮して声を詰まらせる。岡崎はくっくっくと笑って椅子に背を預ける。
「確かに急かも知れないな。…いや、俺がお前の立場だったら、お前を逮捕することに若干でも悩むだろうかね?」
「ちょ、…あまりからかわないで下さいよ、署長」
 岡崎は最初の仕返しができた、と少しばかり上機嫌に笑みを浮かべ、椅子から身体を起こした。
「すまんな。確かに容疑の固まっていない人間を捕まえるのは困難だが、状況的にあからさまに犯人だろう」
 鬼塚が死体で発見されるのは、『彼』が別人であると分かった直後の事である。
 鬼塚の足取りを掴んだ所で、彼は抹消されていた。
 まるでミキサーにかけられたようなぐしゃぐしゃの肉塊として。
「鬼塚の遺体は完全に隠蔽されていたし、柳川の容疑は取り下げようはない」
 そして、岡崎は口を閉じ、僅かに顔を緊張させた。
「部内の人間だと言うことで、若干手が早かったかも知れないが」
「そんな、証拠不十分での逮捕は、不法逮捕罪になるじゃないですか!」
「だから重要参考人として緊急に保護しようとしているんだ」
 こんな時に、官僚という物は便利な言葉を創る。
 彼は鉄面皮のような硬い表情を作ると言う。
「勿論、柳川に双子の兄弟がいれば別だが…」
 刑事の身分は、その家系を確認される。
 少なくとも、柳川にはそんな兄弟などいない。
「…確かに。いや、失礼しました。それを確認するのが仕事ですしね」
 岡崎は少し顔を緩めて、椅子から立ち上がる。
「証拠物件は取りあえずそれだけだ。今日はこれで終わりだろう?どうだ、久々に飲みにでもいかないか」
 長瀬は封筒を畳んで鞄に入れると、すまなさそうに苦笑いを浮かべる。
「いやー、少し挨拶をしておきたい所があるのでそうもいかないんですよ。すみません」
 その後しばらく私的な会話をして、彼は署をでた。
 久々の東京。もう傾き始めた日を見ながら、彼は首をこきこき鳴らせる。
――源五郎、連絡とれるだろうか
 彼は少々強引な手段に出る事にした。
 要するに、職場になぐり込みである。公務員の横暴。仕事が終われば自由時間。
 なんぼでも働いて、働いた数だけ給料と信用に繋がる企業とは訳が違う。
 以前から電話連絡を入れているのだが、携帯電話を持っていない弟には精々留守電が入れられる程度で、
 それもまともに聞いているのかどうか。
 もう随分前になるが、『研究所に泊まり込む事もしばしば』だと言っていた。
 来栖川総合研究所。ドーム状の天井に、妙にとんがったものが幾つかくっついた研究施設は非常に前衛的である。
 これをもし芸術と介するならば、だ。
 普通は『金持ってるな』という感想が出てくるだろう。
 ここのHM研究室に弟がいる。
 背広を着込んだまま、彼は何の気なしに入り口をくぐった。
「いら…長瀬主任」
 入り口にいた受付の女性が口に手を当てて目を真ん丸くする。
「何て格好、いいえ、背広なんか着てどうしたんですか?」
 長瀬は苦笑して、懐から警察手帳を出す。
「自分はその主任の兄でしてね。…そんなにウチの奴は突飛ですかね」
 自分の写真を見せて、にっと笑う。すると彼女はぺこりと頭を下げる。
「し、失礼しました」
「いや、それよりも是非面会したいんだが」
 こんな時警察手帳は非常に役に立つ。
 私的な用事で来たにもかかわらず、彼女は弟に連絡を入れるとすぐにこちらを向いた。
「そちらのロビーで待っていて下さい。すぐに参ります」
「そうさせて貰うよ、ああ、煙草は?」
「…禁煙です」
 すげなく言われて彼は肩をすくめた。 
 

 松浦がプログラムを作っているうちに、長瀬は『Hephaestus』について調べていた。
――火と金属の神
――鍛冶の神
 ギリシャ神話では、ヘラがゼウスに腹を立てて産み落としたとされる。
 かなり異質な神である。後にゼウスが妻としてアフロディテをめとらせるのだが、彼女は夫に対して不貞の妻であった。
 そして、その鍛冶の技能は神々の中でも随一という。
――世界最大の軍産共同体…
 その神、ゼウスにとって最大の武器職人である神の名を取った、死の商人の組織。
 それが『Hephaestus』だった。
 基本的に自ら表舞台に出るような真似はしないし、積極的に武器を売り込むことはない。
 だが、全世界の兵器を買い込み、その性能を確認し、そして『改良』するその技術力と財力は世界でも随一である。
 さらに、それら各国の新兵器と自ら開発する『新兵器』は、公式に取引はされないが確実に世界市場に出回っている。
 彼がアクセスしているのはそう言った兵器のバイヤーのネットではない。
 インターネット経由の『政府高官専用』のサイトである。
 実は、逆にこういうあからさまなネットに置いている方が疑われなくてすむのである。
『新商品の紹介』
 彼はごく簡単にクリックした。
『XX年以降販売予定の商品』
 そこには意味不明の文字の羅列だけが並んでいる。
 実は、インターネットだけではここまでしか情報は分からないようになっている。
 通常のブラウザで確認しようにも、詳しいことはここにはほとんど表示されないのである。
 このページが何のページであるか知っていて、専用のプラグインとアダプタによってデコードする作業を必要とする。
 一種のPGPメールの様なものだ。
 問題はそこだ。
 ソフトウェアの互換の問題があり、ここに引いているUNIXでは残念ながら動かなかったのだ。
 月島が、WINDOWSを使用していたためである。
  一応助手の何人かはノートパソコンも持ち込んでいる。が、取りあえず月島のデータベースからの情報ではここまでが精一杯のようだった。
――更新日時は昨日の真夜中…確実に更新されているな
 一応、彼はページをダウンロードしておくことにした。通常PGPでは解読にかかる年数が凄まじい物になるために解読できないとされているのだが。
――…ノートパソコンを貸して貰うことにするか…
「…主任?」
 松浦が声を上げた。
「このルーチンなんですけど…」

  プルルルルル

「はい?…はい、しゅにーん、ロビーまで呼び出し」
 松浦と長瀬は同時に眉を顰めて、インターホンを取った人間を睨み付ける。
「ちょ、僕が悪いんじゃないですよぉ」
「…分かった、すぐ行くって応えてくれ」
 松浦と二三話をして若干の修正を加えてから彼は白衣を翻した。
「しばらくかかる?」
「そうですね。帰ってくるまでに何とか形にはできそうですけど」
「ほ、早いね。じゃ、もう頭ン中には形があるんだ」
「ええ」
 松浦は一瞬ディスプレイから目を外し、人の良い笑みを見せた。
「胃潰瘍にならずにすみそうですよ」
 長瀬は苦笑して研究室を出た。
――ロビーまで呼び出しとは。今度はみんなの前で恥でもかかせる気か?
 ぶつぶつ言いながら廊下を歩く。
 この研究所は非常によく考えられており、細長い形の本館の裏に倉庫と僅かながら緑の庭がある。
 大きなガラス戸から差し込むさんさんとした日の光に、彼は目を細めた。
――今度は一体何なんだ…
 ロビーには幾つかソファが置いてあり、広々とした空間にはやはり植木が置いている。
 そして、彼の思っても見ない人物が待ちかまえていた。
「よう」
「ぁああ?兄貴?」
 そして、同時に胸の中ではたと手を打つ。
 会長との話はかなり機密情報が多く、人の出入りが少ないとは言えこんな場所では話すことはない。
 考えてみれば、前回もわざわざ研究室の隣にある休憩室にまで顔を出していた。
「どうしたんだ、わざわざこんなところにまで」
「連絡できるぐらいならとっくに連絡してたよ。お前、最近働きづめなんじゃないか?」
 源五郎はくたびれた笑みを浮かべて彼の前に座る。
「…まあな。お前んとこだから知ってるだろ?あれ以来ちょっと事件続きでな」
 そう言いながら彼はコーヒーを頼む。
「それで、何の用だ?わざわざ隆山くんだりから来るんだからそれなりの用事だろう?」
 彼はぽりぽりと頬を掻いて、少しだけ困った表情を見せた。
「実はその事件の件なんだが」
 あれ以来一切手がかりの方がつかめていない。
 何メイドロボの方で情報がないか、と思って顔をだしたのだ。
「…あの後、後輩が殺人の容疑をかけられてな。こっちに出てきたのは証拠集めだよ」
 源五郎は腕を組んでふむと頷く。
「言っていいものかどうか分からないから、兄貴の心だけに止めておいてくれ」
 フレームのロットから、どうやら以前ここで研究していた人間が犯人だと言うこと。
 彼が最近、ひと騒動を起こした事。そして、その時に町中に『化物』が出たこと。
「そして、恐らく関係あるかも知れないからいうが、『刑事』に変装した男がいたらしい」
 言ってから彼は付け加えた。
「ただし、これも確かな話ではないからな。兄貴と俺は話しているんだから」
 大きく頷いて源三郎はポケットに手を入れる。
「ここは禁煙だよ、兄貴」
 う、と困った表情を浮かべると情けない視線を自分の弟に向ける。
「…分かったよ」
 渋々彼は背広から手を出して、手持ちぶさたな手を自分の顎に当てる。
「そうか…で、その研究員、捕まえたのか?」
 彼は首を振った。
「相当の騒ぎだったがな、どの情報源にも事件については「大規模の落雷」事故になっていた」
 受付の女性がコーヒーを二つ彼らの前に置く。
 源五郎は手を挙げて礼を言うと、早速口を付ける。
「飲めよ、インスタントじゃないからさ」
 研究室内ではインスタントである。
「来栖川がもみ消した…ってのはあり得ないか」
 砂糖とクリームを入れてかき混ぜながら聞く。
「そこまでの力はないだろう。…研究員だった俺のライバルも死んでしまったし、これもお蔵入りって事か」
 そう言って肩をすくめてみせる。
 源三郎は少し頭の中で情報を整理してみることにした。
 しばらくの沈黙。源五郎はコーヒーをすすって彼の様子を見ていた。
――兄弟だからなぁ
 こんな風に考え込む癖は、彼ら兄弟に共通する点がある。
「…兄貴、実は少し頼みがあるんだが…」
 それを無理に中断させて、弟は兄に向かって言った。
 

 浩之は戸惑っていた。
 彼の強さにではない。これだけそっくりな人物がいるとは思わなかった。
「…俺は、来栖川財閥の御嬢様に知り合いがいるんだ。彼女に頼まれて試作型のマルチを助けに行った」
「マルチというのは、例のメイドロボの?」
 頷いて続ける。
「警察に頼めばいいって思ってたし、協力するつもりはあったけど…」
 彼はそこで腕を組んで不思議そうに首を傾げる。
「…今でもマルチは行方不明だし、刑事さんだったらお願いしてもいいですか?」
 柳川は苦笑した。
「もう疑われて…たんだし、言っておいてもいいか…」
 前置きをするように呟いて自分に言い聞かせると、顎を引いてメモのペンを浩之に向ける。
「俺、指名手配なんだよ」
 肩をすくめて、浩之の様子を見る。彼は真剣に聞く様子だ。
「その、今俺が追っている奴のせいで。少なくとも、君はそれを信用してくれそうだから言うがね」
 そしてくたびれたような苦笑をしてみせる。
 証拠はない。
 確証だってない。ここで、どれだけの信用を得るか、だ。柳川は笑みの仮面を外さずに浩之を見つめていた。
 彼はうんうんと頷いた。
「そうでしょう?だってあいつ、そっくりどころか同一人物にしか思えませんよ。声だって同じだし」
 何かに気づいてあ、と小さく声をあげる。
「そうだ、一つだけ違う。…あいつ存在感がすごかったのを覚えてる。遠くから離れてみても、絶対に見分けられる自信がある」
 間違いない。
「…えーと、藤田浩之君だったかな」
 柳川は名前を確認しながらメモをめくる。
「念のために住所を教えて貰えないか?」
 ついいつもの癖でそう言ってしまったが、聞きながら無駄なことをしたと思っていた。
 隆山なら、自分の管轄区なら住所を聞くだけでどの辺か分かるのに。
「これは俺の携帯の番号。…もし奴に出会って事になりそうなら、連絡を入れてくれ。必ず急行する」
 浩之はメモを受け取りながら苦笑して見せて、それをポケットにねじ込む。
「もう協力はこりごりですけどね」
 

  ぴぴ ぴぴ ぴぴ

 例のマンションを張り込み、夜になった頃。
「…はい」
 柳川は用心して携帯電話を取った。誰からの何の電話なのか、非常に恐ろしかった。
 今、やろうと思えば携帯電話の通話によって場所をある程度確定することができる。
 昔のように交換機を使用して逆探する方法とは少々違うが。
『柳川か』
 だが取りあえずその声に安心した。
「長瀬さん!どうかしたんですか?」
『今どこにいる?』
「え?」
 緊迫した彼の言葉に思わず聞き返した。
『…見つけたぞ』

  ぷつ

 意味不明な電話の切れ方をしたが、彼は思わずベンチから立ち上がっていた。
 長瀬は何かを見つけた。それも、わざわざ緊急に携帯に呼び出すほどの何かを。
――決まってるだろう?
 彼はしかし、惜しむらくは今の長瀬の位置を知る手段が全くかけていることだった。
 ゆっくり周囲を見回す。夜中の公園は人気は流石に少ないといえ、ここから跳躍するのは非常に問題があるだろう。
 最も近いはずの、例のマンションにも鬼の気配はない。
――…よし
 少ない手がかりを、待つよりも自ら望んで手に入れる方へと変えることにした。 
 もしこれで見つからなくても、逆に『奴ら』の手に落ちるとしても、何の進展もないよりはましかも知れない。

 赤茶けた煉瓦の、中流以上のマンション。柳川の住んでいるマンションも、隆山だから安いが中の上だ。
 だが、これだけセキュリティに力の入れたマンションは首都圏だからこそ、だろう。
 入り口に監視カメラと赤外レーザーを仕込んでいるのが一目で――エルクゥの感覚で――分かった。
 自動扉の隅には3×4列のボタンが並んでいる。よく見ればそれが鍵であると分かるだろう。
――そうだった
 あの時、夢の中のあの時は鍵がかかっていなかった。
 今はびくともしないが。
 彼はくるりと回れ右をして路地の方へと向かった。

  ざかっ

 そして、彼の姿は路地から一瞬で消えた。
 人間が彼の姿を追っていたならば、間違いなくその姿を見失っただろう。
 彼はほんの一瞬で地上15mの高さにいた。
 落下、ではなく未だに上昇中だ。
――…あそこ、か?
 恐らく屋上も閉まっている。
 直接部屋の前に降りた方がいいだろう。
 彼の身体は空中で一瞬静止する。そのまま、手すりに手を伸ばして彼は身体を固定する。
 そして、身を翻すと廊下に一瞬身を埋める。
――…いや…
 ここではない。
 全くそっくりの外見だが、僅かに記憶に違うものがある。
 階段を登りながら彼は僅かに眉を顰める。もしかして、ここまでして忍び込んだマンションが実は全く関係のないものだったら?
 だがその心配は払拭された。
 次の階に昇った途端、彼は体中が急に重くなるような感触を覚えた。
 同時に既視感。
 彼の視線は、奥の扉に注がれるが、それが開かれることはもちろんなかった。
 部屋番号を確認し、彼は扉に手をかける。勿論、開くことなど期待していない。
 電気のメータはぴくりとも動いていない。
 ほんの僅かに力を込め、彼は思いきりノブを引いた。以外に頑丈な扉は、それを支えるには不十分は金具をはじき飛ばして開く。
 廊下の明かりが部屋の中に差し込み、彼の影がそれを遮った。
 

 長瀬は久々に走る緊張に、手元の銃を確認した。1、2、3。大丈夫だ、実包も入っている。
 通常警官の持つ銃は一発目に空砲が入っている。威嚇射撃用だ。
 だが、勿論警告の後に撃つための実包を入れることがある。
 彼は手入れもせずに入れっぱなしにして腐らせるような、くたびれた警部ではない。
 そして誰もが思っているほど、精度の悪い銃ではないのだ。
――…何てこったい
 彼は自分の運命に毒づいていた。

「最近このすぐ近くの工場が閉鎖されたんだが」
「…ああ、子会社の工場とか言う奴だろう」
 たしかこちらに来る際にニュースで確認した。源五郎は頷いて渋い顔を作る。
「実は原因不明の倒産騒ぎで、こちらとしても手の打ちようがなく、器材一式、向こうの工場の中にあるんだ」
 子会社を来栖川が切った、というのは書類上の話であり、現場のレベルではそうではなかったらしい。
 子会社の倒産を半ば隠す為に来栖川が『切った』形なのだそうだ。
 法的にも何ら問題はなく、子会社はそれを理由に店を畳んだのだが、来栖川のレンタルしていた器材はまだ彼らの手にあるらしい。
 だがその器材もレンタルという形で契約している訳ではなく、
 保証金という形で器材一式を譲渡してしまっているために所有権が移行しているという。
 来栖川はそれにより子会社を完全に吸収する形をとったのだが、それが裏目に出てしまったようだ。
「回収しなかったのか?」
「調整がつかなかった、と言うよりももう連絡のしようがないのだ」
 そして工場そのものの所有権は来栖川ではなく、どこか別の金融会社にでも取られているせいでまだ手が出せない。
「金融業者も特定できないんだ。こっちとしては企業秘密にも関わる器材だし回収したいのだが」
「あんまり秘密裏に事を運ぶのは良くないと思うが。個人的に調べるにも…」
 源五郎は首を横に振った。
 その表情は真剣で、妙に力がこもっていた。
「だめだ。確かにウチは財閥だし、あまりそう言う行動を採るのは最適とは思わない」
 源五郎は両の手を合わせて組むと、膝の前に置くように、肘を太股に載せる。
「だけど、だめなんだ。…発覚したのは、今言った研究員、月島光三の情報を捉えた時だ」
 彼は、その情報をどこからどのように洩れたのかは敢えて言わなかった。
 言う必要などない。それは非合法であることぐらい、源三郎も感じていた。
 そして、月島の裏側に見える組織が超法規的存在であることを付け加えた。
「詳しくは言えない。だが、『彼ら』は国際社会で十分な権力と実力を兼ね備え、日本でも十分にそれを発揮している」
「…どういうことだ?」
 それがどう関係あるのか。今までの話だけではピンとこない彼は思わず聞き返していた。
「そもそも我々が金融業者を特定できないはずがないだろう。どんな手段をとろうと、相手は企業だぞ?」
 そして付け加えた。
「個人で行っている金融でも我々は特定できる。それが不可能だとすれば、理由は幾つもない」
「非合法で行っているものか、さもなければ」
 源五郎は頷いた。
「それ以外の誰かが、確保しようとしているか、だ」
 来栖川グループは世界規模の企業だけに、彼らを狙う人間は少なくない。
 が、あくまで比喩的な表現であり、彼らを敵に回したがる人間はいない。
 企業秘密を守るためには相当な努力をしているようだが。
 そして、彼の弟は『自分しか知らない何か』が原因でないかどうかだけ確認してくれ、と言った。
 可能性を否定したがっている弟の顔を見て、兄として、頷いてしまった。
――兄弟って、あんまり便利な物じゃないねぇ
 結果、彼が教えてくれた工場を見に来ることになってしまったわけだったが、
 従業員は総て韓国人か、どこかのアジア系住民で、日本語がまともに通じない。
 不法労働者、という嫌な言葉がよぎり、確認するために彼がそこを離れた時。
 見てしまったのだ。『柳川』を。彼は悠々と工場に入っていった。
「間抜けな話だ」
 長瀬は腕をまっすぐに伸ばし、腰の前で銃を構える。
 日本の警察で教える、両腕を二等辺三角形にする『護身』用の構えだ。
 本来戦闘的ではないこの構えは、銃の反動を十分に防ぎ、ニューナンブのようなスナブノーズでも命中精度を上げることができる。
 大型の自動拳銃や短機関銃を使用する際の構えではない。
 彼は、今完全に電源を切られた工場の中で身を潜めていた。
 電話の内容を柳川は理解しただろうか?
 いや、分かってももう助けを呼ぶことすらできないだろう。
 動きのない闇の中にある音を探るように、彼は耳に神経を集中させていた。
 電話の最中に大きな雑音と同時に回線が切断され、工場の照明が落ちた。
 工場の中で電話していなければ、と悔やんだが、もう遅かった。
 この「来栖川の子会社」の工場は、『工場』というより『プラント』と呼ぶ方がしっくりくる、近未来的なものだった。
 画一的な規格であるが、白い壁に区分けされた人間がいるべき場所と、生産ライン。
 まるでオフィスのような作りをした工場だ。
 だがそれが災いした。こうやって完全に灯が落とされると少ない窓からの光だけが頼りになる。

  がつ

 妙に大きな音が聞こえる。断続的に、同じ場所で鳴っているようだ。
――近い
 彼は柱の影から身体を僅かに動かして、様子を窺う。
 人影だ。
 誰かが、闇の中で動いている。
 彼が電話をしているうちに『鬼塚』は姿を消していた。
――まさか?
 だが、その人影が動いている場所とは隔離された壁ごしであり移動するなど不可能である。
「終わったか?」
 唐突に声が響いた。
 幼さを感じる、少女の声。まるで作り物のように美しく、可憐な声。
 作り物故の妙な堅さ――それを冷酷さと捉えるかどうか――が嫌に耳に付いた。
「いや」
 それに応えるのは、聞き慣れた柳川の声。だが、彼の知っている柳川の声ではない。
 優しく、柔らかい口調しか聞いていないせいだろうか?
 凶悪な犯人に対してでも、彼の声には『覇気』が感じられなかった。
 だが、今の彼の声は聞いた物総てをひれ伏せさせるある種の『強さ』を持っていた。
――別人?
 知っている人間なら、彼のすぐ側にいる人間であれば違いが分かるかも知れない。
「…まだ生きている奴がいる」

  ぞく

 背筋に走る悪寒。
 長瀬は言葉だけでなく、その冷気にも似た雰囲気、何よりそれを見てしまった。
 人影の闇に輝く赤い物を。

 長瀬は先に動いた。
 影が明らかな殺意を持って躍りかかる。

  甲高い金属的な音

 構えた銃の安全装置を弾き、彼はそれを差し上げながら走る。
 赤い二つの光が冗談のように宙を舞い、長瀬に迫る。
 一瞬彼の左手に机のようなものが見えた。
 わずか、長瀬は身体を投げ捨てるようにして机の上を転がる。

  どん  どん  どん

 彼は背中で机が次々にひしゃげる音を聞いた。まるで巨大なハンマーで机を殴っている音のようだ。

  ひゅぅお

 耳元をかすめる空気の流れ。
 血の臭い。
 彼は机の向こう側に身体を落とし、体勢を立て直そうする。
 何かを踏んだ。妙に柔らかいものを。
 一瞬戸惑ったが、今それを考えている暇はない。
 銃を自分を襲う音の方へ向ける。
 赤い光。
 彼は一瞬の思考と、躊躇いを捨てて引き金を引いた。
 

「何故殺さなかった」
 男は責め立てられていた。
 いや、口調は非常に静かだ。だが、それには有無を言わさぬ力を感じさせている。
 男にも質問の答えが分からなかった。だから答えられず黙ったまま立ちつくしている。
「今の上官は『私』だ」
 凛とした、甲高い声。その声を子供っぽいというか、そんな簡単な形容詞で表現するのは難しい。
 声には一切幼さを感じさせない物があるからだ。舌っ足らずな響きは一切ない。無理な声帯の震えもない。
 計算し尽くされた声の出し方、それを聞く者に感じさせる。
 男の肩にすら届かない程度の身長の彼女は、男の横に倒れた長瀬の側に近寄る。
 その時、長瀬を照らす光の中に彼女は姿を現した。
「…日本人の…」
 その外見は、明らかにHMシリーズの筐体だった。
 故意にだろう、耳にあるはずのカバーは外されているし、髪の色も普通の人間と変わらない。。
 髪型も標準より切りそろえてしまっている。
 懐の警察手帳を開いて彼女は頷いた。
「刑事か。むぅ…確かに、ここで日本人を一人行方不明にするのは得策ではない」
 そう言って男の方を振り返った表情。
 元はマルチと呼ばれていた彼女の表情は、あの無垢な表情ではなかった。
 少年のような髪型のせいだろうか。どこかぼーっとしたものを感じさせる表情は失われていた。
「まあ、いいだろう。結果としてここは制圧できた訳だし」
 笑みを浮かべて男を見上げる。その笑みも、あまり良い笑みとは言えない蠱惑の笑みだ。
「…やっぱり似てるな」
 男の呟きに少女は口元を歪め、嘲りを含めた上位者の笑いを作ってみせる。
「声か?仕草か?顔か?ふっははははは」
 ぶっ壊れたように大きな声で笑うと肩をすくめるような格好に腕を広げ、ゆっくり首を振る。
「仕方ないだろう?この中にはまだあいつは生きているからな」
「自分の親を」
 少女から笑みが消える。人工の目がぎょろりと動き、憎悪を作る。
 高くもない背を伸ばし、男の胸ぐらを掴んで自分の顔に引き寄せる。
「二度とその話はするな。貴様も、その記憶のお陰で生きながらえているんじゃないのか?」
「死にはしな…」
 男の表情に急に苦悶が浮かび、胸をかきむしるようにして苦しみ始める。
「…死ぬんだよ。私がほんのわずか、機嫌を損ねるだけで」
 そう言って乱暴に彼を投げ捨てる。
 男は受け身もとれず無様に地面に転がり、それでもまだ胸をかきむしっている。
 血管が浮かび上がり必死になって酸素を取り込もうとしても、肺の周囲の筋肉が引きつって動こうとしない。
 腹筋はまるで鉛になったように意志を受け付けない。
 身体の制御ができない。
「でも」
 男に近づいて彼女はほんの少しだけ嬉しそうに言い、彼の頬に手を当てると急にその発作が収まる。
 男はせき込みながら大きく音を立てて呼吸を始める。
「言うことを聞いてくれるなら、殺したりしない」
 しゃがみ込んで男を見つめる少女。
――道ばたの捨て犬に憐れみをかける人間のようだ
 男は自分の立場がどこにあるのか、無理矢理自覚させられているようだった。
――…これが運命なのか?
「気が楽になるようにしてあげようか」
 少女の表情は、こうして彼と接触する時は、そんな時に限って彼女は、子供のような笑みを浮かべていた。
  右手には、試験管のような物が握られていた。
 

 マンションの部屋には何もなかった。
 生活していた形跡すら、そこには感じられなかった。
 ただの四角い窓だけが寂しく佇んでいる。
――ばかな…?
 電気をつけて周囲を見回して、彼は部屋の隅に積まれたものに目がいった。
 紙の束だ。
 恐らくここを引き上げる時に片づけたものだろうか。
 彼は梱包されたそれを広げて、何か手がかりはないか探し始めた。
 日に焼けた雑誌、広告、それにメモが数枚。
――…電話の覚え書きだ
 彼がそのメモの類を調べていると、雑誌の間から一枚書類が落ちた。
「権利…いや」
 この部屋の契約書が入っていた。慌てて彼はそれを引き出す。
 どこにでもあるような契約書のサイン。
 彼は歯ぎしりをしてそれを見つめた。
『柳川 裕』
――こんな偶然があるものか!
 夢の中で感じていた違和感。
 『自分の夢ではない』という意志と、『自分の感覚』がごっちゃになる感覚の正体が、こんなに簡単なもので良いはずがない。
 彼はその契約書を自分のポケットにねじ込んだ。
 

 月が浮かんでいる。
 残念ながら下弦の月、21日位だろうか?
 半分にひしゃげた月が、彼を照らしていた。
 見据えるのは闇に包まれた工場。
 元、来栖川工業の下請けだった、名もない会社の最新鋭のファクトリーだ。
 恐らく、工場施設もまだ残っているだろう。
――ここに、長瀬さんが…
 あの時の連絡自体、不自然だった。
 恐らく捕まっていると確信して間違いあるまい。
 彼は小綺麗な2階建てのオフィスにしか見えないそこへ、ゆっくりと近づいていった。
 入り口は3ヶ所。
 正面の自動ドアと、恐らく従業員出入り口であろう小さなドア、後ろの駐車場から考えるに、裏の搬出・搬入扉。
 ガラス戸から覗くと、非常灯(常夜灯)すら明かりが灯っていない事に気が付いた。
 非常出口を示す緑のランプや消火栓の赤いランプが灯っていないのだ。
 真の闇。
 彼は訝しがって従業員出入り口の方を目指すことにした。

  ふわ

 高い塀も、警報装置も、鉄条網すら関係ない。ひとっ跳びで越えてしまうと、音もなく扉へ疾走する。
――…鬼…と、一人…
 だんだん強くなる気配。
 柳川の感覚は研ぎ澄まされたように鋭敏になっていく。
――近い。少なくとも3人
 一人は妙に離れた場所にいるが、二人はすぐ側にいる。
 従業員出入り口に取りついた彼は耳を澄ませてノブに手をかける。

  かちゃ

 以外にも、鍵はかかっていなかった。
 僅かに浮かせた扉の隙間から身体を忍び込ませ、音を立てないよう気を付けて再び閉める。
 中は真っ暗だった。機密性の高い工場なのだろう、窓も明かり取り用の小さなものが上にあるぐらいなのだ。
――狭い部屋だな
 区画割りされた部屋。そこは大きな窓がついていて、工場内部を見渡せるようになっている。
 だがそこから見えるのは高い天井と低い壁に囲まれた廊下があるだけだった。
 無機質で、そこにいる者を不安にさせる空気。
――まだ気が付いていないのか?
 鬼の気配はさっきと変わらない位置で変わらないままいる。
 彼は長瀬だとかんがえられる気配へ向けて移動を始めた。

「う…」
 顔がひび割れるようなひきつりに現実に一気に引き戻される。
 目を開けても、そこは真っ暗な空間だった。
 一瞬記憶が混乱するが、手首をきつく縛られていて動けなかった。
――捕まったのか…
 理由は分からない。
 あれだけ血の臭いのする場所であれば、彼も当然殺されると思っていた。
 今血の臭いがしないのは、それだけ時間がたったからだろうか。彼はゆっくり頭を巡らせて、頭を振った。
 人間の目では何にも見えない。
 若干光が射し込んではいるものの、ここはどうやら部屋のような場所らしく、彼の顔に当たる細い光条があるだけ。
 ため息を付いて彼は縛り付けられている物を見ようと後ろを向いた。
「っ」 
 白い人の顔。落ちくぼんだ二つの闇と思わず目が合う。
 一瞬息が止まるかと思った。目の前に人間の頭蓋骨があった。
 いや。
「…メイドロボのフレームかぁ」
 よく見ればそれは金属の光沢を持ち、あるはずのない筋が見える。
 考えれば何も不自然ではない。ここはメイドロボを造っていた工場だ。
 メイドロボのフレームからは幾つも配線が出ていて、これから表皮の『塗装』行程に入る物らしい。
 彼はどうやらその機械の一部に固定されているようだ。
――他にいい場所がなかったのかねぇ
 案外落ち着いた調子で彼は考えていた。
 顔の上をぼろぼろと崩れていくのは、多分かさぶただろう。
 自分の身体はほとんど問題はない。
 若干頭が重いのは、恐らく頭を殴られたせいだろう。
 脇の重さからして、銃も奪われたわけではないらしい。
――何を考えているんだ?
 手首に食い込む冷たい感触からどうやらワイヤーロープのようだが。
 取りあえず生きてさえいれば何とかなる。
 今まで刑事をやってきて、それも前線とも言える一課に勤務して、彼は良い意味での度胸が付いていた。
 だから彼の目の前で鍵が弾け飛ぶ音がした時も、彼は落ち着いていた。
――?鍵をかけていたのか?
 同時に、何故その鍵を壊す必要があったのか、妙な疑問が頭に浮かんだ。
 軋む音すら立てず、彼の前に人影が現れた。
「私を殺す相談でもしてたのかね」
 恐らく皮肉に聞こえただろう。長瀬はそう思うと口元に苦笑いを浮かべた。
 だが、人影に浮かぶ赤い瞳は彼を見下ろしたまま、微笑んだようだった。
「よかった」
 柳川は安堵のため息をもらした。
 彼の見る限り、大きな怪我を負っているようでもないし、何より彼の言葉に安堵した。
「さすが長瀬さんだ」
「…?」
 冷静な判断を信条とする彼が、久々に目を丸くして驚いた。が、それもほんの一瞬の事だった。
「鍵を壊したのがわざとじゃなければ、柳川、お前なんだな」
「…どっちも柳川ですよ、長瀬さん」
 柳川は苦笑して、鬼の視覚を解除した。
 長瀬の顔がすっと闇に消え、部屋の中に差し込んだ星明かりがはっきりする。
「自分でも驚きましたけどね…」
 闇に慣れた長瀬の目でも柳川の顔を見ることができるぐらいだ。
 長瀬は柳川の表情を読みとろうとじっと見つめていた。
「…信用、してくれますか」
 長瀬は鬼をみたらしい。彼の赤い瞳を見て驚かなかったことと、彼の態度から柳川はそう感じた。
 説明しても無駄だろう。
 彼は今更何の説明をするつもりもなかった。
 同じ顔に同じ声。そして不本意ながら相手も鬼らしいということ。
 なんら、証拠がない。
 僅かな沈黙。しかし、柳川にはそれが異状に長く感じられた。
 根負けした柳川が先に声を出した。
「先に逃げて下さい」
 彼は長瀬の背後に回ると、長瀬の手首を縛るワイヤに指をかける。
 ほんのわずかに力を込めると、それは瞬時に寸断された。彼の、鬼の爪の力だ。
「それと…これを」
 彼はポケットから一枚紙を取りだして見せる。勿論闇の中でそれが分かるはずもないが。
「多分、何かの役に立つと思います」
 長瀬はそれを受け取ろうとしなかった。
「柳川」
 今それを受け取ると、すぐにでも姿を消してしまいそうだったからだ。
 彼は、目を凝らすようにして柳川の表情を見つめる。
「思い詰めるなよ。お前はそうやって勝手に突っ走ってしまうくせがある」
 長瀬には柳川が動揺するのが理解できた。
 これが、一日の長という奴だ。
「若いうちはそれでもいいが、たまには先輩の後ろで見るのも勉強だぞ」
 そう言って、彼は書類を受け取った。

 長瀬の話によれば、この中にあった電話を利用して携帯にかけたらしい。
「…それは犯罪じゃないですか?」
「五月蠅い」
 その途中、急に電話がかからなくなったという。
 同時に電源が落ちたように照明総てがダウンした。
 電話も切れたと言うことは、恐らく統合したケーブルを切断したか、何らかの細工をしたのだろう。
 彼の話を総合すると工場内部はおびただしい血痕が残っているはずだ。
「犯人は何を考えてるんでしょう」
 柳川は真っ暗闇の戦場に再び足を踏み入れた。
 再び解放された鬼の感覚。
――…?いない?
 だが、彼の感覚の中に『柳川』が見つからない。
 隠れてしまったようだ。
 歯ぎしりして彼は両腕を下げた格好で軽く身体を前傾させる。
「さてな。俺の知っている特殊部隊が局所制圧をする際に似たような方法を取ると言うが」

  ぱりんぱりん

 次々にガラスが割れる音と同時にどこかで低く唸る音が聞こえた。
「電気がついた…?」
 長瀬の言葉と同時に歯車がかみ合うときに立てる硬い音やぶうんという振動音が聞こえ、ほんの僅かに周囲が明るくなる。

  ひゅぉ

 柳川の身体が残像すら残さず消える。
 低く大きな音を立て、入れ替わりに柳川が現れた。
 長瀬も音に気が付いて柳川の方を見るが、そこには『柳川』が獲物を追って視線を上に上げているだけだ。
 手を、懐に入れて銃に手をのばす。

 柳川は身体をまっすぐに伸ばし空中で真っ逆様になり、下にいる裕を見上げていた。
 僅かな円弧を描き、柳川は裕と2m程の距離で相対する。
「…貴様」
 裕が口を開いた。
 僅かに構える柳川も、初めて見る光景だった。
 まるで鏡を見ているような不気味な光景。柳川は胸を締め付けられるような嫌な感覚が襲ってきた。
――同じ名前だったら、ドッペルゲンガーとかいうんだよな
 よけいな事が考えられるのなら、まだ余裕がある証拠だ。
「今頃何故現れた」
 対する裕は驚いていなかった。表情は憎々しげで、開く口の中からは鋭い鬼の牙が覗いている。
 まるで今まで忘れていたかったものが帰ってきたかのように。
「あんまりそっくりなんで、俺の方が困っているんだ」
 共鳴するように、柳川の身体に異変が起きる。

 長瀬は銃を抜くのが精一杯だった。
 腕が震える。指に力が入らない。
 強烈な殺気が、彼を先程捕まえた時とは比べ物にならない威圧感が彼の目の前の人物から放たれている。
「…全てを奪っておきながら」
 喋りながら身体が膨張する。彼の顔がさらに凶悪に歪み、肌の色が病的に変わる。
「まだ苦しみ足りないのか」
 そして、柳川の目の前には鬼が立っていた。
 

 工場の施設全てに電気が行き渡った。
 細かい部品を指令通りに洗浄し、組み立て、機械は休むことなく前日までやっていた作業を始めた。
――取りあえず、これは良いな
 工場2階、操作室。
 マルチは両腕を腰に当てて、モニタを見つめた。
 ラインのどこにも欠陥はない。1週間もあればここの材料はつきるだろうし、警察が踏み込んでくる可能性もある。
 だが彼女には睡眠は必要なかった。
 彼女には本来のマルチに含まれていた記憶の整理を行う理由がなかった。
 常に記憶にアクセスしながら、リアルタイムに整理を続ける事で睡眠を除いていた。
 そのための補助ノイマンチップを搭載している。
――…ん?
 彼女がモニタしているはずの下僕の動きがあった。
 操作室から工場内部を見渡せるように作られている。ここからならラインの異状も一目で分かる。
 その彼女のCCDカメラの絞りが急に小さくなる。
――ユウが二人?

 鬼の拳が柳川の頬をかすめて壁を打ち抜いていた。
 まだ柳川は鬼を出していない。
 鬼気に当てられて口が裂け、目が紅くなっているが完全に『人間』の姿を維持している。
――ナゼオレノマエニデテキタ!
 壁から拳を引きながら、反対側の腕が風になって襲いかかる。

  左耳に感じる風

 柳川は背を丸めて頭を下にして宙に浮く。
 逆さまに鬼の後頭部が視界に入っている。

  ぱぱん

 引き金の重いレボルバを連射するのは至難である。
 そのため、長瀬が銃を確認したように、通常一発目に入った空砲を実包に変えておくのが基本だ。
 鬼の後頭部、背骨が浮かんでいる部分に命中し、悲鳴が上がった。
 左足から着地した柳川は、右足をのばして叩きつけて、身体を一気に回転させて鬼の方を向く。
 鬼は悠然と身体を回転させて柳川と向き合う。
――…鬼、か
 彼は再び同じ言葉を呟いた。
 目の前にいるこの男は、完全に鬼に呑まれてしまっている。
 元の人間の人格という『もの』を感じられない。
 何かが欠けた、足りない物がある『者』だ。
「さあな、お前に何かが足りないからだろう?」
 気が付くと鬼の右手は柳川の目の前にあった。
――しまった!
 直撃を受けた彼はまるで人形のように弾かれ、すぐ後ろの壁をぶち破って転がった。
「柳川!」
 長瀬は思わず鬼に銃を撃った。
 癖で思わず足を狙ったのが失敗だった。
 太股と臑に一発ずつ命中したが、鬼はそれを意に介した風ではなかった。
 そのかわり頭だけを長瀬に向けた。

 奇妙な光景だった。
 彼女が見間違えるはずはない。『目』だけで彼をモニタしているわけではないから。
 体温、心音、脳波、筋肉が出す電流、磁場、全てが彼女の頭の中に入ってくる。
 それが今のユウの状態だった。
 だが、ほとんど同じ人間が、姿を変えたユウと闘っている。
 無駄だと分かっているのかいないのか、男は銃弾を鬼に浴びせる。
 ユウが感じる激痛が彼女に伝えられる。
「ユウ」
 思わず声を上げていた。

 背中がずたずたに裂けている。
 機械に当たって止まった彼は身体を起こしながら冷静に判断していた。
――止まれない
 激痛に顔をしかめて身体を起こす。
 もって数分だろう。さもなければ失血によるショックが彼を押しとどめる。
 銃声。
 鬼が顔を横に向けるのを見て彼は駆け出した。

  たん

 壁を抜けた柳川が数m跳躍する。空中で足を入れ替えるようにして右足を大きく振り上げる。
「くたばれっっっ」
 身体を左へ半回転させる。
 全身の力を、体重を込めて鬼の頭を大きく刈り、彼は崩れる鬼の背を蹴って着地する。
 彼の臑は丁度鬼の鼻先を叩いて、最初の銃創に衝撃を与えていた。
 鬼の後頭部から飛びかかるように接近し、油断せず彼は素早く銃を鬼の上瞼に押し当てる。
 大きく荒い息をしながら、彼は鬼の感覚を最大限に解放する。
「はぁ、っ…分かるだろう?いかに狩猟者の身体と言っても、ここをこいつでぶち抜かれればひとたまりもない」
 そして、だめ押しにもう一言付け加える。
「下手な動きをすると撃つ」
 柳川の指の速度と、鬼の腕が柳川にとどめを刺すその速さは言わなくても分かるだろう。
 鬼は観念したように動かなくなった。
 そして、ゆっくりとその姿を人間へと戻していく。
 完全に彼は柳川と同じ姿をとった。
 柳川は、ユウに銃を突きつけた格好のままでゆっくり片膝を付く。
 息が上がっている。これ以上は耐えるのが難しいだろう。

「…無様だな」
 ああ、無様だろうな。
「まだ生きていたんだな。死にたいと思った事はないのか?」
 同じ顔が、
 鏡の向こうで、
 俺の声を紡いでいる。
「…俺が留守の内に、随分とのんびりやっていたんだな」
 ぴく、と銃が震える。
 にやぁっと口が切れ上がり、その口の間から牙が覗く。
――アベタカユキ

  ごり

「貴様」
「腑抜けが。高潔な狩猟者の血を引きながら、同じ血を引きながらまだ『狂った教え』に従っているのか」
 浮かべる笑みに変化はない。
 だが、絶えず動いて嘲笑を絞り出すように柳川は感じた。
「やめろ」
「…俺の『影』になったはずのお前が、何故今頃姿を出したんだ」
「やめてくれ」
 にんまりと笑みを浮かべた。
「俺がいなくなって、幸せだったみたいだな」
「やめろーっっっ」
 既視感。
 柳川は銃を取り落として両腕を振るわせる。
「…形勢逆転、か?柳川祐也」
 その間に悠々と立ち上がり、男は引きつった――人間の顔では引きつったように見える笑みを浮かべた。
「俺のサポートがあって初めて、お前は完全な狩猟者だった」

  べきべきべきべき

 柳川の目の前でゆっくり確実に獣に変貌していくユウ。
――モウオマエハヨウズミナンダ
 『狩猟者』が、柳川の目の前に立っていた。

 耕一がそうであったように。

 祐也もまた。

 より強い鬼の影響により、『鬼』を解放した。

  あれは、全て仕組まれたことだった…
 

――アレは俺ではなかったのか
 心の中で続いた叫び。
 血の衝動。
――だったら、俺が殺した…俺が殺したはずの人間達は?
――オレノエサダ
 柳川は両手をわななかせる。
 彼の前には両腕をだらんと下げたままの狩猟者が、獲物を見つめ瞳を向ける。
 狩猟者はじっとしたまま応えた。
――『お前』を利用したんだ。あの時と同じさ、あの長い夜と
 じゃああれは?あの心の奥底から沸き上がった殺意は?
 俺は一体何者なんだ?
――お前も狩猟者の血を引いているのだろう
 鬼はあきれかえったような声を返した。
――俺が、後押ししたのは確かだ。だがお前の殺意は確かだ
 そして、彼は口元に笑みを浮かべた。
――俺もお前も、同じ血を引く者だからな
 柳川は混乱と驚きにまだ立ち直れない様子だ。
――俺の為に、良く踊ってくれたんだ。…でも、もう必要ない
 鬼の脚が一歩、ずっとすり出される。
――『狩りの時間』は、俺にはもう必要ないものだ

  うわあああああああああああああ

 柳川の身体が変化する。
 全身の筋肉は一斉に盛り上がり、人間という器から逃れようと脈打つ。
 口が裂け、目がつり上がりまるで引きつったように表情が変化する。
 その時。
「ユウ!」

  ずくん

 柳川の全身が急に鉛になったように重くなる。
 いつか感じたあの感じ。
 そうだ、こっちに来る時に見た夢の感じだ。
「止めろ。そこまでだ」
 いつの間にか、獣の側に小さな少女がいた。
 柳川が胸の苦しさを感じているその時、鬼は頭を抱えて両膝を付いていた。
 そして、見る間に人間の姿へと転じる。
 これだけ短期間に身体を変貌させれば鬼と言えどもダメージは計り知れない。
「…?その顔…」
 長瀬が言うと、少女はらしくない勝ち誇った笑みを浮かべる。
「何か?日本の刑事さん」
 柳川は息苦しさに声も出ない様子で、地面にうずくまっている。
「あ、いや、こちらの勘違いだ。…さて、ではまず理由をお聞かせ願おうか」
 いつもの人を食ったような口調で彼は始めた。
――どうするか?まさか出てきたのがこんな…
 彼は敢えて何も言わなかったが、彼女の姿をHMだと見破ったのは弟の話を聞いていたからだ。
 恐らく弟の言っていた試作型はこの事だろう。
――…様子を見るか…
 ともかく、取引に応じる位の気はあるようだ。
「理由、ねぇ」
 そう言って彼女は周囲をぐるっと見回す。
 長瀬つられて周囲を見て絶句した。
 血の海。死体がごろごろと転がっている。
 想像していたことだったが、今の今まで鬼の殺気に気を取られていたせいで気が付かなかった。
「私は、まだ彼を失いたくないのだ」
 そう言って、長瀬を冷たい視線で見つめる。彼、とは恐らく倒れている男だろう。
「どうだ?」
 ひけ、と言うことだろう。
 柳川も何故か土下座をするような格好で痙攣している。
「…だ、だったら…」
 痙攣する身体を無理に起こそうと膝を立て、柳川は立ち上がろうとする。
「むりするな」
「だったら…」
「そこの男の、履歴か本籍か、ないか」
 長瀬はにっと笑って胸のポケットに手を入れる。

  しゅぼ
 
 これだけ堂々と胸ポケットに手を入れられるのはここが日本だからだ。
 アメリカなら今の一瞬に銃殺されていてもおかしくない。
 それを知っていながら、分かっていて行う。
「…ウチの奴もまだ失いたくないんだ。できれば、…そう、これで解決するとは思えないが」
 彼は煙草をポケットに仕舞って大きく煙を吐く。
「…お前らは一体何者で誰なんだ」
 柳川が畳みかけるように、強引に絞り出した声をぶつけた。
 少女はふうとため息をつき、呆れたように肩をすくめる。
「お前達、自分の立場を考えて物を言ったらどうだ。死に損ないに、何もできない人間風情が」
 そして彼女は丸い目を長瀬に向ける
「時に長瀬。…兄弟でもいるのか」
 長瀬は動揺しない。身分証なら常に携帯しているし、先刻自分を『日本の警察』と呼んでいた。
 気を失っているうちに調べたのだろう。
「見た顔でもいるのか」
「…少々知った顔に長瀬という奴がいたからな。…詳しくは奴から聞いて見ろ」
 そう言って懐からカードを取り出すと彼らの足下に投げる。
 金属製のクレジットカードのようなそれは、表には幾何学模様が書かれており、裏は真っ白だった。
「それがあれば何かの役にたつんじゃないか?」
「ただじゃないんだろう」
 その時、マルチの表情は凄みのある笑みを浮かべた。
 それは彼女に仕込まれたアクチュエータがいかに人間に近いかを証明していた。
「1週間だ。我々にはそれだけ期間を与えてくれればいい」
「…もしかして、ここでYESと言うだけかも知れないがね」
「できるものなら、やってみることだ」
 

 二人は工場の外にいた。
 柳川の背中の傷は何とか塞がっていたが、失血のショックでふらふらしていた。
「長瀬さん」
 長瀬に肩を借りて、夜道を歩いていた。
「何だ?」
 この人はどこまで知っているのだろうか?
 いつも気が付けば抉り込むような視線と科白に全てを見透かされているようだった。
 色々聞きたいこともあるだろう。
 何故、それを聞こうとしないのか。
「…どうして何も聞かないのですか?」
 一瞬目を合わせるが、すぐに相好を崩して大声で笑った。
 自分でもその笑い方が不似合いだと思ったらしく、すぐに鼻の頭をぽりぽりかいて恥ずかしそうにする。
「いや…すまんな。…頑固で、自分の信じている物以外は信じられないからじゃないかな」
 柳川は何か言いたかったが、彼の言葉をじっと聞いていた。
「…誰だって言いたくない事はあるし、人間一人では分からないことの方が多い。
 でも、やらなきゃならないことは分かるし、どうすればいいかも分かる。『知らぬが仏』と言う言葉もな」
 それは『タブーには触れることすらしない方が良い』と言うのも含んでいるのだろうか。
 宗教にもタブーはある。
 知っていても見て見ぬ振り、そんな物の存在を見ないようにしようとする。
 あることを知った途端に、穢れるかのように。
 キリスト教の悪魔の名のように。
「結局、敵ではない事を信じているんだよ、お前はどこまでいっても」
 そう言って彼は柳川の頭を叩いた。
「世話の焼ける部下だ」
 愚かだ。
 柳川は一瞬そう感じた。
 曖昧な表情で応えながら、それが『鬼』の感情であることに気が付いていた。
――人間は愚かだ
「…じゃあ、もしその信頼を裏切られたら、どうするんですか?」
 長瀬は急に難しい顔をして頬を掻いた。
「そりゃ、お前…驚くだろ?」
 思わず声を出して笑った。
 相手が長瀬であることも忘れて、久々に大声で笑った。
「すす、すいませっ、くっくっく…笑わせないで下さいよっ」
 すこしばつの悪そうな長瀬に、彼は安堵を覚えた。
「でも、長瀬さんらしい答えです」
「…そうかもな」
 長瀬になら、殺されても構わないかも知れない。
 一瞬だけそんな思考が横切った。
 

 柳川 裕、26歳。孤児院で育てられる。14の時に傷害罪で逮捕、状況証拠、物的証拠共になし。即日釈放。
 18の時に強制送還される。アメリカにパスポートなしで半年以上滞在していたらしい。
 22の時に隣に住んでいた男と争いになり、殺害。但し、これも不起訴処分になっている。
 最大の理由は、彼にできないはずの殺害方法だったからだ。
「…すげえ経歴だな」
 マルチが渡した金属板は、調べればすぐにそれがデータカードだと分かった。但し、分析してそれを読めるようにするのに骨が折れたが。
 今、どこにもこのタイプのデータカードは市販されていないからだ。
「ああ」
 来栖川総合研究所。
 長瀬警部のつてですぐにそのカードを解析にかけ、中に入っていたデータの読み取りに成功した。
 丸々半日かかったわけだが、今から帰れば十分夕方までに隆山に帰り着く。
「…これがあれば一緒に帰れるな」
「ええ、偽造どころか読みとる方法すら難しいこれなら、証拠になるんじゃないですかね」
 楽観的思考ではあるが。
「ええ、こいつを作るには相当の技術がいりますねぇ。専用のリーダーとライターがなければ使用できないですよ」
 これは警部の弟の弁だ。
「解析に骨が折れましたよ。お陰で何人技術者が倒れることか」
「そんなこと言って、どうせここんところ徹夜詰めだろう?他人のせいにするな」
 源五郎は疲れているはずなのに、表情にはそれを見せなかった。
 その理由は、すぐに分かった。彼らが持ち込んだカードだ。
「いや、実は礼を言いたいのはこっちの方なんだ、兄貴。行き詰まっていたこっちの捜査の方も進みそうだ」
 ゆっくり顔を歪めながら源五郎は嬉しそうに言う。
「じゃ、前に言っていた『ある組織』の…」
「ああ」
 源五郎は頷いた。
「これには様々なデータがあってね。ま、核心とは行かないまでも、かなりのものですよ」
 そしてすぐに困った表情を浮かべてカードを差し出す。
「本当は渡したくないんですが」
「それじゃ困る」
 源五郎は兄の表情に肩をすくめて柳川にカードを握らせる。
「分かってるって、兄貴。ただこれは非常にやばい物だと思う。だから一つだけ忠告しておく。
 絶対に他の人間に見せたりせず、最悪の場合自分の命がやばいと思ってくれ」
 沈黙。
「もし想像が正しければ、政府高官に渡されている物と同じ『セキュリティカード』だ」
 すなわち、このカードを下手に見せてしまえば『ある組織』に狙われる可能性ができるということになる。
「…分かった、気をつけることにする」
 しかしこれを証拠とする限り、必ず目に付くであろう。
 その時はその時だった。
 柳川達が隆山に戻ると、大騒ぎになっていた。
「…っ、柳川ぁ!」
 署長の怒鳴り声で迎えられ、事態を収拾するのに結局半日近くかかってしまった。
 無実の証拠を突きつけ、ぺこぺこ頭を下げてまわりながら。
 柳川 裕との関係についてはこれからの問題になるが、取りあえず顔も声もそっくりな人間がいる証明だけはできた。
 そしてアリバイも認めて貰えることになった。
 取りあえず、彼の殺人容疑は晴れたわけである。
「御苦労だった」
 長瀬と並んで柳川は署長に敬礼する。
「結局無実であったわけだし、まあ、今日からもう働いて貰うぞ」
「…はい」
 予想はできた事だ。公務員に休みはない。
 署長は嬉しそうではない彼に、若干笑みを浮かべると言う。
「そんな顔をするな。一課の方はかなり忙しいんだ。君にも一つ事件を担当して貰う」
 そう言うと一枚書類を渡す。
「…これは」
「『鬼塚』警部補の殺し、引き受けてくれるな」
「はい!」
 

 突拍子もない話で困惑する柳川達を見送ると源五郎はため息を付いた。
――『Hephaestus』について話せる事はない
 あのカードを持っている限り避けることはできないだろうが、それでもまだ今はその時ではない。
 しかし思わぬ所から思わぬ拾いものができた。カードに、ある意味のない羅列が含まれていたのだ。
 それもPGPキーににた羅列である。
 言うまでもないだろう。彼はすぐに研究室のコンピュータに向かうことにした。
 月島のデータと例のページは既にノートパソコンに転送している。
 このノートパソコンは松浦の物である。
『壊さないで下さいよ』
――散々言われてたからなぁ
 ブラウザを立ち上げて、例のページを開く。
 そして、そのページを丸ごとテキストデータとしてコピーして月島の持っていたデコーダーにかけてやる。

『OK...認証キーファイルを選択して下さい』

 そしてファイル選択ダイアログが開く。
 彼は口元を引きつらせながら、例のコピーファイルを選択した。
 そして、数分後。
「…これは」
 思わず声に出してしまう。
 彼の目の前で展開される、『商品リスト』。
 TCM、CLGP、SADS…
 火器、爆薬を問わずそこに並んでいる。
 目玉商品に書かれている物があった。
『A兵器』
 Atomic、ではない。
 NBCに変わる新しい新兵器だそうだ。
 N=Nuclear、B=Bio、C=Chemicalに加えるA、Assembler兵器。
 化学兵器や生物兵器のように完全に秘匿された、かつコントロール可能な兵器。
――月島の技術か!
 そこに記されていたスペックと原子デザイン図は、明らかに『ナノマシン』技術だった。
 その中でも一際目を引いたのは、カプセルの写真が載った物だった。
『人体投薬用A兵器』
 意識を浮かび上がらせる『自白剤』、特定の部位を直接攻撃する『ミサイル』(これは医学的な分野でも使用できるそうだ)、
 そして、投薬された人間の脳内に寄生するAssembler。
 攻撃的にも防御的にも、そしてそれらを武器にも毒にも、そして無毒化まで完全にコントロールできる兵器。
 化学兵器のように汚染することはなく、敵に奪われても自軍に対しては無毒化できる。
 理想的な兵器だった。
 恐ろしいのは、この兵器がコントロールを受けて作動するまで、目標は攻撃されたことに気が付かないと言うことだ。
――自律プログラム入りの人体投薬型を試験的に配布中?
『投薬後数日で稼働態勢に入ります。稼働後は脳内に常駐したAssemblerが最初に指定した中枢を攻撃します』
 ようするに、効果を試すための物だろう。
 その効果は数種類の薬剤と同時に投薬する事でコントロールされるという。
――…こいつは…こいつが裏のドラッグ市場に出回れば…
 気が付かないうちに、潜在的に、自国の兵士を作る事ができる。
 あらかじめ潜入する必要がない。
 その国で動いているマフィアに『ただで』薬を分け与えてやるだけでよい。
 長瀬は身震いした。
 既に侵略が始まっているのだ。


「そう、本当に簡単な事」
 可愛らしい声が響く。
「後ほんの僅かな時間、ここにとどまれればよい」
 その後ろには、男が立っている。
 男の目は正常な色を示していたが、しかしそれ以上輝くことすらなかった。
「もうすこしだ」



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