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Cryptic Writings 
Chapter:2 Perfect clime

 夏の終わり。

「よーし、練習始めるぞー」
                          佐藤雅史

 一つの事件が、幕を開ける。

「浩之ちゃん、ほら、マルチちゃんがいる」
                          神岸あかり

「…なんですか?これは」
「つい先日の話だ。警察の方から連絡があってね」
 写真に残されたメイドロボのフレーム。

 その写真が、その事件の発端だった。

「用何てもんじゃないわね。協力して欲しいの」
「協力?」
「そ。マルチ捜索のね」
                          来栖川綾香

 隆山で起きた殺人事件。
 それは事件の側面でしかなかった。

「僕は鬼塚。一課担当の刑事だ」
 男は鋭い目を、申し訳程度に歪める。

 復讐。
 

 会長はじっと長瀬を見つめる。
「あの男は執念深いぞ」
「自分の娘を殺人に使われて、気分を害されましたよ」
 彼は口を歪めたまま会長を見下ろすようにしてポケットに手を入れる。
                          長瀬源五郎

 果たして事件に終焉はあるのか。
 それとも。
「マルチを返して貰う」
                          藤田浩之

「…俺の名は、柳川だ」

    Cryptic Writings
    Chapter 2:
               Perfect crime


 

              その秘文書の内容が 語られることはあるのだろうか

        ―――――――――近日公開―――――――――

前回までのあらすじ
  
 『鬼』の事件の後、『薬』が隆山で蔓延していた。
 隆山でのバイヤーの元締めが自滅した。
 だが、まだ危機が去ったわけではなかった。
 

        ―――――――――――――――――――――――
Chapter 2

主な登場人物

 藤田浩之
  16歳。目つきが悪い事をのぞけば結構ないい男。あらゆる事に素質があるようで、
  飽きっぽいところが欠点である。

 佐藤雅史
  16歳。女殺し、実はモー○ーなどと噂されるほどの美少年顔、というか童顔。
  実は真が強く、浩之とはかなり仲がいい。天然ボケ。
  
 長岡志保
  16歳。『最新情報は志保ちゃんニュースから!』という謎のキャッチフレーズを誇示する少女。
  五月蠅くて暴れん坊。

 神岸あかり
  16歳。やけにおとなしくて天然ぼけなところのあるたれ目。
  浩之とは幼なじみだが、本人が何を考えているのかは実際は分からない。

 来栖川綾香
  16歳。どちらかというとオープンな性格をした、目つきのきつい娘。
     若干いい加減なところが目に付く事がある。

 セバスチャン
  じじい。その強さを最大限度に活かして、今度こそ大活躍なるか?

        ―――――――――――――――――――――――
 

 藤田浩之
  16歳。目つきの悪い事を除けば、ただの元気な高校生。…のはず。

 長岡志保
  16歳。カラオケの巧い事を除けば、たぶんにただの女子高生…だよな。

 神岸あかり
  16歳。お下げの似合う、多少童顔な少女だ。
     PS版はそうでもないが…
 

        ―――――――――――――――――――――――
 

        ―――――――――――――――――――――――
 
 

Chapter 2:Perfect crime

 夏休みが終わり、もう数週間が過ぎた。
 修学旅行もとっくに終わり、大学進学の為の大事な時期に入ろうとしていた。
 とは言っても、まだ余裕のある者、何も考えていない者、既に就職を希望している者。
 少なくとも、まだ追いつめられていなかった。
「へえ、もう次の試合が終わればキャプテンなんだ」
 ショート、と言うよりはおかっぱに近い髪型の少女。
「やっぱりお前だったな」
 目つきが悪いが、雰囲気は一切とげとげしさを感じさせない少年。
「うん、それで最近忙しくって。ごめん」
「ううん、全然構わないよ。練習、頑張ってね」
 あかりに合わせて、浩之も続ける。
「んじゃぁな」
 雅史は浩之に手を振って別れた。

――浩之も何か部活したら?
 彼は何度も誘ったことがある。しかし結局無駄に終わってしまった。
「よーし、練習始めるぞー」
 とても高校2年の男子に見えない彼は声を上げた。

 浩之はサッカーの練習をする雅史を後ろ見ながら、あかりと並んで歩いていた。
「雅史ちゃんも大変だね」
 でも、あかりはにこにこして嬉しそうにしている。浩之は少しその表情を眺めて同意するように頷く。
「あいつはあれでいいんだよ。それだけの練習だってこなしてんだ」
 これでも中学の時までは、浩之もサッカー部で雅史と一緒にサッカーをしていたのだ。
「浩之ちゃん、部活結局やめちゃったけど…大学には進学するの?」
 あかりは小首を傾げながら覗き込むようにして聞く。
「大学かぁ…そうだな」

 たわいない話をしながら商店街の方へ向かう。
 何の気なしに顔を向けると、ショーウィンドウに少女の姿があった。
 最近発売された、HM-12、13のマネキンだった。携帯電話のモックみたいなものである。
 そんなに普及するほどの安い値段ではないが、この街にも購入した人間はいる。
 まだ使い方を良く知らない消費者達は、彼女達を『箱入り』にしがちだという。
 だから、あまり街でその姿を見かけることは少ない。
「メイドロボか」
 あかりは何か言おうとして、目の端に妙な物が映ったような気がした。
「浩之ちゃん、ほら、マルチちゃんがいる」
 嫌でも目立つHM-12はどんなに遠くからでも判別できる。
 あかりの指さす方向。
 かなり遠くだが、確かに緑色の髪の毛が見えた。
「ばーか、量産型だろ」
 浩之はそれでも一応そちらに目を向ける。
 緑の髪、特徴のある耳カバー。
 そして、おどおどした表情。
「!」
「ね、マルチちゃんでしょ?」
「ああ。…そんなはずは…」
 言いながら、浩之はマルチに釘付けになっていた。
 マルチ――試作型は量販品とは実は一目で見分けられる。
 彼女には表情があるからだ。
「だって、売ってるのはもっと人形みたいな顔だよ」
 話をしているうちに、すっとその姿は人影の間に消えた。
「そうだな」
 その時は何かの偶然か、としか思っていなかった。
 

 練習が終わり、片づけを終えた下級生が全員引き上げたのを確認して、雅史は学校を出た。
 もう日も暮れかかっており、帰り道ももうかなり暗くなっている。
 久しぶりに一人で歩いていた。
 何気なく顔を向けたところに、緑色の髪の毛が見えた。
 そう思っていなくても、それを確かめるためにしばらく見つめてしまう。
 それは仕方のないことだった。
――マルチちゃん?
 雅史は目で彼女の後を追う。
――どうしよう、浩之にも言った方がいいかな…
 浩之が仲良くしていた、不思議な転校生。
 ほんの一週間ほどの『試験』に立ち会っただけだとは言え、彼もマルチを人間のように感じていた。
 マルチはロボット何かじゃない。
 浩之が力説していたような記憶もある。
 しかし電話しようにもあいにく公衆電話も携帯もPHSもない。
 そうこうしているうちに、おどおどした彼女は暗い路地の方へと歩き始めた。
 嫌な心配事が頭をよぎる。
――…よし
 彼はなけなしの根性をかき集めて腹を据える。
 彼女が向かう先だけでも見守ってやろうと。

 この辺の路地は結構入り組んでいる。子供の頃に『近道』を探して潜り込んだ事もある。
 意外なところに通じている事もある。
 マルチの姿は非常に目立つものの、この時間の路地裏はしみ出した夜の闇が淀んでいて、
 月の光だけでは非常に心許ない。
――一体どこまで行くつもりなんだろう…
 そう考えた瞬間。
「おい」
 乱暴な男の声。
 同時に、暗く落ちていく感覚。

 暗転。

 
 街の片隅。
 薄汚いアパート。
 あまり人通りもなく、寂れた場所にあるためか、ここにはあまり人は住んでいない。
 金属製の錆びた階段があり、ベランダ代わりの桟が窓に備え付けられている。
 その一角。
 日当たりは良好だが、外界と決別したようなついたてが窓から覗く部屋。
 その、中央。
 およそ六畳敷きの部屋の中に男がいた。
 緩やかな淀みの中に、薄明かりを灯している。
 モニターだ。
 一切生活感のないこの部屋には、コンピュータ機器だけが備え付けられている。
 キーボードの側にあるマウスを扱って、何か操作している。
 時折こぽこぽと水音を立てるのは、奇妙な円筒形のものだ。
 それからは様々なコードが伸びて、男の操作しているコンピュータに繋がっている。
 部屋の隅においている四角い塊のような機械も同様だった。

  かちかち
 
 忙しくマウスをクリックする。
 画面に映っているのは、何かの分子組成モデルのようだった。

  とんとん

「誰だ」
『俺だ』
 抑えた声が聞こえた。男はむうと唸って席から立ち上がると、それ程遠くもない扉に手をかけた。
 扉の向こうには眼鏡をかけた男が立っていた。幾分鋭く、あまり好印象を与えない目だ。
「遅かったな、一体どこでさぼっていたんだ」
「いや、こそこそとHMの後をつけてた奴を…少しな」
 ユウと呼ばれた男は表情を変えずに言う。
「殺したのか?」
「まさか。眠らせてきただけだ…それに今日はまだ…」
 ユウは眉を顰めた。別に今の話に嫌気がさしたわけではない。
 鉄の階段をけたたましく転がり落ちる音と同時に、子供の声のような物が聞こえたのだ。
 彼は、睨み付けるように音のした方を向いた。
「あのばか」
 言いながら、初めて男が姿を出した。
 蒼い夜の月の光に照らされた姿は、白衣を着た四十台の学者風の男だった。

  かつん かつん

「ふえ、ふえ、きょ〜じゅぅ」
 泣きながら白衣の男のところへと歩いてくる。
 緑色の髪をしたメイドロボ――マルチは涙をこすりこすり声を出した。
「こら、大きな声を出すな。全く、料理はできない、お使いもできないとは」
 ぐずぐずいうマルチを部屋に押し込み、彼らは部屋へと入った。

  ぱたん

 扉は閉められた。
 それっきり、何の物音も聞こえなくなった。再び夜の静寂がそこに訪れていた。

 マルチはほんの僅かな期間、学校に通っていた。
 試験運用、そう彼女は言っていた。
――…研究所へ帰ったんだよな…
 その後、彼女は『妹』達のために眠りについたはずだ。
 そして彼女の妹達は発売された。
『心があった方が良いと思うかい?』
 変な白衣の親父は、浩之にそう聞いた。
 長瀬源五郎とかいう、来栖川の研究員だった。今思えば、『娘』の友人に会いに来たのだろう。
――…マルチな訳…ないよなぁ…
 そして、次の日。
「結局見間違いだったのか?」
 少し困った表情を浮かべるあかりにちらと顔を見せながら言う。
「うーん…」
 学校に行く途中、志保に会ったので早速マルチの事について聞いてみたのだが。
「あれでしょ?どうせヒロが見たメイドロボを見間違えて…」
「馬鹿野郎、あれはあかりが見付けたんだっ」
「そ、そうだよ志保、浩之ちゃんが間違えたんじゃないから」
 浩之はぺろっと舌を出した志保の頭を小突く。
「いい加減なことを口走るな。…でも、あれは本当にマルチだった。な、あかり」
 あかりはにっこり笑って頷く。
「こんなあてにならない奴より、他の連中に聞いてみようぜ」
「あてにならないとは聞き捨てならないわね」
「なんだ?いつもの事だろうが」
 噛みついてくる志保に適当に呆れた表情を見せてため息をつく。
「全く、自覚がない奴は困るよな」
 二人ががみがみ言い合っているのを、あかりはくすくす笑いながら眺めていた。

 その日のホームルームは、妙に騒がしかった。
「雅史の奴、遅いよな」
 あれから何人にも話を聞いたが、知らないか気にしていないかのどちらかだけだった。
 実際に見かけたのはあかりと浩之の二人だけだという事だった。
「あれ?浩之くん聞いてへんの?」
 隣に座る、眼鏡の委員長――智子が怪訝そうな目で聞く。
「は?」
「雅史君、入院したらしいで」
「なに?何だって?」
 側で話をしていたあかりも目を円くして驚く。
「雅史ちゃんが?」
「何や、必死に聞きまわっとったのはそれとちゃうんか?」
 浩之とあかりは顔を見合わせてしまう。
「…ま、なんや、先生が何か教えてくれるかも知れへんし」
 希望的観測というよりは、何もできない諦めと言う方が正しいのだろう。
 浩之も彼女の言葉に頷くことしかできなかった。
「佐藤君は後頭部を強打して入院している」
 担任は病院の名前と場所を知らせると、それっきり話を止めた。
「浩之ちゃん、お見舞い行こうよ」
「そうだな。あかり、果物か何か買っといてくれないか?後で金は出す」
 あかりはにっこり笑って応えた。
 

 長瀬はゆっくり頭をもたげた。
「主任」
 彼は、メイドロボの開発主任――来栖川の現在の最先端を突き進む男だ。
 それだけに、彼の周囲に与える影響は大きい。それが良きにしろ悪しきにしろ。
 顔は上げた物の、手元はかちゃかちゃまだ動いている。
「んー?」
 彼は口にねじをくわえたまま返事を返す。
「HMX-14、完成はまだかって来てるんですけど」
 長瀬はかく、と頭を下げる。そして口にくわえたねじを左手で取ると眉根を寄せる。
「あのねぇ…」
 今の不景気の中で唯一興行成績を伸ばしている部門だと言ったって、そんなにぽんぽん新製品を出せるはずがない。
「言ってやって?パソコンがどれだけ、どうやってマイナーチェンジしているのか」
 確かに年に1度は同型の改良版が販売されている。
 新型に至っては1年に何台も売れている。
 だからと言って同じ事が一人の手でできる訳じゃない。
「まだHM-13が販売されたばっかりでしょうに」
「…それは主任が言って下さい」
 もっともだ、と彼は工具を置いて、客が来ている部屋へと足を向ける。
「ああ、ついでにそいつの組立、代わりに進めてくれんか」
「しゅにーん!まーた内職してる!」
 おいおい。
 長瀬は先刻まで工具を握っていた手で頭をかいた。
――販売部門の人間が来てるんだろう?
 仕返しのつもりか?
 長瀬は困った表情を浮かべたまま、部屋の扉に手をかけた。
 部屋には、セリオと、不似合いに古めかしい装束の老人が座っていた。
「!会長」
 男は威圧感のある目で長瀬を見上げる。
――…勘弁しろよ…
 先刻の部下の言葉を恨めしく思いながら、彼は老人の視線に耐えていた。
「まさか会長が直々に…」
「そうだ。他の連中をやったところで効果がなかったからな」
 長瀬はため息をついて頭をかいた。
「あのですねえ。開発は進んでいますとも、着実にね。でもそんなに慌てたって何もでないものはでません」
「ああ、君ならそう言う答えだろうとも思っていたが」
  やけにあっさりと言うと、会長はセリオに視線だけ向ける。
 セリオは懐から写真を一枚差し出して、会長の座る目の前に置く。
「本題はこちらだ」
 写真に映っているのはメイドロボのフレームだった。
 若干痛んでおり、一部は完全に破断している。
「…なんですか?これは」
「つい先日の話だ。警察の方から連絡があってね」
 そう言うと長瀬に自分の前に座るように促す。言われるまま彼は彼の前に座る。
「暴走したメイドロボが殺人事件を犯したというのだ」
 長瀬は目を円くした。
――そう言えば…兄が何か言っていたな
 ついこの間、兄がメイドロボが暴走してたのなんだのっていう電話をくれたところだった。
――たちの悪い冗談か、嫌がらせだと思っていたが…
「隆山からだ。そこでフレームを確認したんだが、一般向けに販売したロットではなかった」
 長瀬は写真をつまみ上げて見た。
 若干の改良が加えられた跡があるフレーム。
「そして、これだ」
 今度は懐から黒い金属の塊を差し出した。
 初心者マークような形をした、幅3cm程の刃。
「!」
 無論、彼はそれには記憶がある。
 後ろの、谷になった部分に圧搾空気の吹き出し口が左右3個づつ対照に備えられている。
「これが死体の中から発見された。警察はこれを凶器と断定した」
「当然でしょう」
 言いながら彼は歯がみした。
 来栖川重工第8研究室。通称『兵器開発部』。
 今は既に実際の部署としては存在しない、過去の部門。
 長瀬は直接反対運動を進めていたわけではないが、結果として長瀬が潰した事になる部門だ。
 メイドロボ――HM-12の完成が、来栖川の兵器開発を中止させた。
 兵器としてのロボット開発よりも、平和への利用。
 長瀬の作った『心』が、それを果たしたのだ。
 会長はじっと長瀬を見つめる。
「あの男は執念深いぞ」
「この写真を見れば分かります」
 そう言って長瀬は立ち上がった。
「自分の娘を殺人に使われて、気分を害されましたよ」
 彼は口を歪めたまま会長を見下ろすようにしてポケットに手を入れる。
「結局君に頼るしかないのだ。…心してくれ」
 長瀬は苦笑いを浮かべて見せる。
――決定権は会長、半ばの責任はその決定をさせた私に…か
 それは自嘲とも、そして自慢ともとれた。
「ええ、これ以上迷惑はかけられませんから」
 会長は頷いて立ち上がった。
 セリオはしばらく長瀬の顔を見つめていたが、やがて会長の後ろについて歩き始めた。

 寺女から帰る最中の綾香。
 聞き慣れた着信音。
「はい」
『綾香御嬢様』
 セリオだ。
「何?電話をよこすなんて」
 セリオといっても、HMX-13、初期試作型のセリオだ。
 マルチと同時に試験中だったセリオが気に入った彼女は、無理言って(もしかして手が出たかも知れない)
 自分の物にしたのだ。
『はい。どうしても、との主任からの依頼です』
「しゅに?ああ、長瀬のおっさんね」
 結構気さくに話してくれる奇人変人。
 彼女にはそう言うイメージしかない。
『マルチを探して欲しいそうです』
 マルチ。
 綾香は一瞬変な顔をする。マルチと言えばつい最近販売されたメイドロボのことだと思ったからだ。
「ねえ、それって、もしかしてあたしの良く知ってる?」
 セリオの返事がやけに遅く感じられた、
『――はい』
 間が長すぎると思った。

 マルチの試験期間は8日間。
 その間に様々な人間が彼女の前に現れた。
 だが、それで終わったはずだった。
 長瀬は会長が去った直後、『娘』を事を思い出してマルチが寝ているスペースへと向かった。
 研究施設の隅に作られた一角。
 そこに備え付けられたコンピュータが、マルチのために作られたスペースだ。
 彼女の筐体はメンテナンスの都合上、完全に乾燥させた部屋で寝かされている。
 そしてデータはOSから離れたただのバイナリとしてだけ、存在した。
 そうしなければ、彼女は寂しがってしまうからだ。
 このコンピュータは常に動いている。
 週に一度メンテナンスで停止する以外、常に動き続けている。
 エディタを立ち上げて、彼は『娘』を見ようとした。
 その時、不自然な物を感じて、先に彼女の様子を窺いに行くことにした。
 彼女の筐体をしまう乾燥室は、すぐ側にある。

   がちゃ

 厳重にパッキンされた扉の向こう側に、彼女が寝かせられていた。
 近づいて、長瀬は眉を顰めた。
――主任、もう少し顔はほっそりした方がいいですよ?
 勿論彼は反対したのだが。
 確か、HMX-12がセリオの廉価版として販売されることが決まってから、細かく煮詰めた事があった。
 ルックスについてだ。
 試作型には細かい表情を浮かべるために搭載した疑似表情筋を、廉価版では取り除いたのだが、
 その際顔を細くするか否かというたわいのない物だった。
 だから、ここに寝ている彼女達の『姉』は、もっとふっくらした顔をしているはずだ。
 もっとも、それを見分けられるのは彼ぐらいだろうが。
――すり替えられた?
 先刻感じた違和感は、コンピュータに侵入されたからか?
 慌てて先刻のコンピュータの接続ログを探す。そして、内容を表示させる。
 数分もしない内に、出た。
 Anonymous log-inの形跡が残っていた。
 無論、完全な違法ハッキングなのに、素人じみたログの残し方をしている。
――…!奴か!
 長瀬は見えないはずの男の顔を、画面を睨み付ける。
 普段は穏和な長瀬の表情が、その時だけはまるで別人のような表情をしていた。

『――主任は非常に感情を害しておられました』
 セリオの言葉はまだ続いていた。
『HMX-12マルチは、誘拐されたそうです』
「ゆうかい?」
 聞き返して思わず辺りを見回した。
 大丈夫、誰も聞いていなかったみたい。
――第一、あの娘なら『誘拐』よねぇ
 思い返しながら、綾香はセリオに聞いた。
「それで?何か手がかりはあるの?」
『詳しくは、お帰りになられてからお話しします』
「そうね、分かった」
『――では、失礼します』
 

「ヒロ!聞いた?」
 初めの授業の休憩時間、あかりと今日の予定を話していた時の事。
「こら、やかましいだろーが!」
 パックのカフェオレを潰しながら志保に向かって叫んだ。
「なによ、こら。志保ちゃんが折角最新情報を手に入れてきたってのに」
 校舎に志保の声が五月蠅く響く。
「黙れ。がせネタ掴まされる身にもなってみろ」
「きーっ、何ががせネタよ!正真正銘最新の情報よ!それもつい先刻聞いたばっかりの」
 でもその出所はいい加減で訳の分からないもののほうが多いのではないのか?
 浩之は敢えて何も言わない。
「…んで?なんなんだ」
 浩之が聞く姿勢になったのを見て満足したのか、志保はふふん、と笑みを浮かべる。
「そーそぅ。実はね、雅史の事なの」
 流石におちゃらけた雰囲気は彼女からも消える。
 真剣な表情と『雅史』の名前に浩之も真面目な表情になる。
「雅史?」
「そう。あのね、昨日の夕方、クラブから帰る途中で通り魔に襲われたみたいなのよ」
 人差し指を立てていかにもそれらしく言う。
「また。…どうせ単なる事故だろ?」
 浩之はため息をつきながら言う。いい加減、こいつのホラは聞き飽きている。
 今更簡単に騙されるはずもない。
「でも雅史って女の子みたいな顔してるから、ストーカーとかに襲われてもおかしくないじゃない」
 とか、最もらしいことを言う割に、その中身が信憑性の低いものが多い。
 こいつはただゴシップ記事が好きで、そう言う話をおもしろおかしくしているだけに過ぎない。
――記者よりは作家に向いてるんじゃないか?
 浩之は何度かそう思ったこともある。
「そこまで言うなら、お前も行くか?雅史の病院に」
「え?もしかして知ってるの?」
 浩之はため息をついた。
「あのなぁ。これでも同じクラスだから知ってて当然だろ?」
 肝腎な情報は一切入っていないのが彼女らしいと言えばらしいかも知れない。
「あ、そりゃそーよね。んじゃさ、雅史のところに行く前に調べ物してくるわ」
「調べ物?」
 浩之はあからさまに嫌そうな表情を見せるが、そんなことはお構いなしに続ける。
「ええ、昨日雅史が襲われた場所とかよ」
 はああ、と大きくため息をついてぼりぼり頭をかく。
 それを見て志保が目を大きく釣り上げてみせる。
「何その態度、信用してないのね?」
 と言っても、彼女を信用するに足ると考えるには問題がある。
――いや、待てよ?
 こいつを信用するよりも、もっと信頼性の高い物があった。
「…よし、それなら俺も調べてやろう。少なくともお前よりも正確な情報をつかんでやる」
 あかりと志保が二人揃って目を丸くする。
「浩之ちゃん」
 あかりが咎めるような声を出して、志保は目を細める
「ええ?え?何、この志保ちゃんと勝負しようっての?面白い、受けて立つわよ」
 にやり、と浩之は笑みを浮かべた。
――勝ったな
「いいだろう。雅史のところに行くまでに調べる事にしよう。時間と場所は…」

 浩之の勝算。
「いいぜ先輩、準備、できたぜ」
 薄暗い部屋に、蝋燭の灯火だけが灯る。
 陰鬱な雰囲気を醸し出す装飾と、部屋の真ん中の燭台に灯された灯りが別世界を作り出す。
 中央に立つのは、三角形のとんがり帽子に、マントを羽織った女性。
 この雰囲気の中で、彼女が妖艶な美女に感じられないのは、おっとりとしたその動作に、ぼーっとした表情のせいだろう。
「…」
「え?あ、はいはい」
 ぼそぼそとした小さな声に、あかりは先刻から何を言っているのか分からなかった。
「…浩之ちゃん、よく分かるね」
 ゆら、と蝋燭の影があかりの表情をよぎる。
 浩之は準備を終えると彼女の座る場所まで来て、隣に座る。
「ま、な。良く聞けば分かるぜ」
 そんなことを言っても聞こえないんだけど。
 そう思いながら先輩――来栖川芹香を見つめた。
「…綺麗だけど、こんな事してたんだ」
「変わってるよな。…でも、志保より信用できるぜ」
 くるり、と急に芹香が振り返る。
「…」
「え?ああ、ああ分かった。ごめんな」
「何?」
「施術の最中は静かにお願いします、だって。悪霊とかが来るかも知れないから」
 先輩と呼ばれた彼女は、ゆっくりと燭台の方へ向かい、両手を差し上げた。
 いつものように魔術の実験を行っていた彼女に、雅史に昨日何があったのか調べて欲しいと頼み込んだのだ。

  ごぉおおお

 そんな音が聞こえたような気がした。
 大きく蝋燭の炎が燃え上がって揺れる。
 隣に座っていたあかりがそわそわし始める。
 浩之は小声で彼女を責める。
「ばか、だからついてくるなっていっただろうが」
『雅史ちゃんのことを探るんだったらついてく』と珍しく強く主張したあかり。
 でも、この雰囲気はどうも苦手らしい。
「だだって」
 まさかこんな真似をするとは思っていなかった。
 浩之はため息をついてあかりの頭をひっつかんで、わしわしと乱暴に撫でる。
「落ち着けっての。…だから、反対したんだぞ」
「…うん…ごめん」
 儀式は滞りなく続けられている。
 今度は一度炎が大きくなり、まるで誰かが吹き消したように瞬時に消えた。
 辺りは一気に暗闇へと沈み込んだ。
「ひゃ…」
 煙が漂う。
 浩之は冷や汗を垂らしながら必死であかりの口を塞いでいた。
――声を出すなってのに
 顔を覆う手から、彼女の震えが分かる。
 浩之もまるで心臓を鷲掴みにされた気がした。
 煙。
 いや、それは煙ではなかった。
 煙だったら、何故暗闇で燐光を放っているんだ?
 ゆっくりそれが何かの形を象っていく。
 伸びて、縮んで、ラグビーボールがゆっくりへこんだり飛び出したりする。
 やがて落ちくぼんだ場所が潤んで、両の瞳になった。
「!…!!…?」
 その時、ぴたっとあかりの動きが止まった。
 …目を開いたまま気を失っている。
――誰かが見たら死体と間違われるぞ…
 と思いながら浩之は彼女の顔に手をかざして、目を閉じさせた。
  て、一番死体扱いしてるのはお前だ!

 数分後。
 再び蝋燭の炎が音を立てて爆ぜ、元のオカ研部室が戻ってきた。
「…」
 雅史は昨晩、暗い路地で誰かに後ろから殴られたらしい。
「え?じゃ、通り魔にあったって事?」

  こくこく

「…志保の言うとおりだったね」
 あかりが惚けたようにいう。
「何か悔しいけどな。…ああ、先輩、わざわざありがとう。え?ううん、別に失敗した訳じゃないんだろ?
 んじゃ、またよろしく」
 志保が喜ぶ顔を目にすると思うと足取りが重い。あかりを引きずるようにして外に出ながら、浩之は言った。
「取りあえず一息入れるか」
 

「――お帰りなさいませ」
 いつものように彼女は待っていた。

 綾香は自分の部屋に帰ると、着替えもせずにすぐにセリオを呼んだ。
 普段から『御嬢様』らしくない言動で文句を言われるが、この日もそうだった。
「――一度シャワーを浴びられては」
 制服姿のままソファに座る彼女を見咎めるように言う。
「そんなことはいいの。どうせ、すぐ出かけるんだから」
 綾香はそう言うと足を組んで、膝の上に自分の手を置く。
「早速聞かせて頂戴。どういう事情なの?」
「――分かりました」
 セリオは決して姿勢を変えることなくまるで呟くように言った。
「かいつまんで事情を説明します」
 長瀬主任から伝えられたこと、それは大体次のような物だった。
 先日隆山である連続殺人事件が終焉を迎えた事。
 犯人が、どうやらセリオ型メイドロボらしいということ。
「来栖川グループとしては、このような不祥事に対して前向きに検討したいと」
 綾香はため息をついて睨むような目をする。
 自分の爺さんについてだ。
――何が前向きによ。あたしまで駆りだしておいて
 どちらかというと好きになれない自分の祖父に悪態をついてみせる。
「それと主任の依頼と、どう関係有るの」
「――はい。首謀者と思われる最も有力な人間が、マルチをさらった形跡を残していたのです」
 綾香はますます難しい顔をする。
「どういうこと?」
「――犯人は、来栖川の元研究員だと言う事です」
 セリオの淡々とした、一定の間合いを持った喋り方が余韻を残す。
――…何のためかしら
「…」
「――主任のたっての『お願い』です。まだこのことは会長の耳には届いていません」
 ああ、そうか。
 綾香は今の一言で合点がいった。
 もう彼の中では相手の顔まで分かっているのだろう。
 だが、他人に確たる証拠を見せることができない。
――マルチに詳しい人間に調査させたい訳ね…
「分かったわ。それで?一体あたしは何をやればいいの?」
「――御説明します」
 ゆっくり照明が落ちると、部屋の一部がまるでスクリーンのようになる。
 最近綾香が新しく金をかけたシステムだ。普段は映画用に使っているのだが、セリオの回線を接続できる。
 直接コンピュータでコントロールできるシステムだけに、セリオでも外部から繋ぐことができるらしい。
 スクリーンに地図が映し出される。
 良く知っているこの街の地図だ。
「現在確認した情報では、表情のあるメイドロボが」
 ぴぴと赤い光点が幾つか灯る。
「御覧の店舗で確認されております」
「…じゃあ、これらの店にはマルチが行った可能性があるのね」
 セリオはこくんと頷く。
「私は、明日この店を回ります」
「そうね、聞き込みは任せる。…じゃ、あたしは人海戦術でいこうかな」
 セリオが何か言いたそうに綾香を見返す。
「――人海戦術、ですか」
 綾香は人懐っこい笑みを浮かべる。
「そ。あたしらだけで動いても限度って物があるでしょ?」
 人差し指を立てるとウインクして立ち上がる。
「取りあえず情報収集すればいいのよね」
「――正確な情報がなければ、動くことはできません」
「んじゃ、取りあえず動くわ。セリオ、万が一の事を考えて直通回線をお願い」
「――わかりました」
 綾香は立ち上がってセバスチャンを呼び出す。
――あのおじさんには借りはないけど、マルチが心配だしね
 音もなく巨漢の執事が現れると、すぐに彼女は身を翻した。
 

 病院の白。
 漂白したような白。
 全てを消し去った後のような白。
 その中に、彼はいた。
「雅史」
 扉が開き少年が顔を出した。続いて二人の少女が現れる。
「雅史ちゃん、大丈夫?」
「雅史?」
 一斉になだれ込んでくる友人を、少し困ったような表情で迎える。
 内心、非常に嬉しいのだろう。全く文句は言わない。
「うん、ありがとう」
 雅史は頭に包帯をぐるぐる巻き付けられてベッドに寝かされており、非常に痛々しい格好だった。

 雅史の状態は特に問題のない物らしい。精々、あっても骨折程度とのことだ。
 面会の手続きをしながら浩之は話を聞いた。
 聞いて初めて、自分達が心配していたことに気がついた。一斉に胸をなで下ろした時には顔を見合わせて笑ってしまった。
 そして教えられたとおりの病室まで、ほとんど無言で歩いた。
「…浩之ちゃん」
「あ、ああ」
 あかりから果物を受け取って、ずいっと雅史の方に突き出す。
「ほら雅史。入院しているうちにくえ」
 くえ。と言われても、そこに乗っている果物の量は半端じゃない。
「一人でこれだけ食えっていうの?相変わらず無茶な事を」
 と言いながら少し身体を起こしてそれを脇に置く。
「本当は起きても大丈夫なんだろうけどね、頭を殴られてるから安静にしろって」
 彼は再び大きな枕に身体を埋める。
「そうよ、雅史が怪我したって聞いて心配したんだから」
 身を乗り出すように、志保。
 志保がこれだけ言うのも珍しいな、と浩之は怪訝そうな顔をする。
「ま、何にせよ元気ならそれでいい。どれぐらい入院する事になるんだ?」
「…それが…」
 雅史は少し苦笑しながら言った。
「もう一日程度だよ。精密検査して何事もなければそれで帰れる」

  がた

「なぁにぃ?」
 浩之は巻き舌になりながら椅子を蹴って立ち上がる。
「ひ、浩之」
 余程怖い顔をしていたのだろう。雅史がベッドの上にも関わらず後ずさる。
「そんなもん入院のうちにはいるか!畜生!折角の果物が無駄になったじゃねーか」
 いや、無駄にはなってないと思うが…
「あ、雅史ちゃん、あとこれ、今日の授業のノート」
 浩之が噛みつきそうな顔をしているので、その間に入りながらあかりはノートを差し出す。
「ありがとう」
「あ、そうだ浩之、例の件、覚えてるんでしょうね」
 さらに志保がまくし立てる。志保の嬉しそうな表情からすると、余程の自信があるのだろう。
「…ああ、俺も確認したよ。お前の勝ちだ、っつーか、雅史に聞いた方が早いんじゃねえか?」

  ぱちくり

「そ、そういやそうね。たまには良いこというじゃないの」
 志保と浩之は一斉に雅史の方を向いた。
「で、どーなの?」
「…な、何が?」
 視線をふらふらさせている雅史を見てため息をつくように、浩之は言った。
「昨晩のお前の行動だよ。どうして入院してるのかって」
 ああ、と雅史は手を打った。
「そうだった。浩之、昨晩マルチちゃんに会ったよ」
「なぬ?お前も会ったのか?」
 雅史はにっこり笑って応える。
「会ったって言うよりも、僕が一方的に見つけただけだけど…」
 そう言うと彼は少し難しい表情をして視線を外す。
「…もしかして、マルチちゃんは、何かとんでもないことになってるのかもしれない」
 顔を上げて、浩之を見る。浩之も、隣にいる志保も真剣な表情をしている。
「僕が殴られたのはそのすぐ後なんだ」

 それからしばらくして、浩之達は病院を離れた。
 雅史が元気だったこともあり、特に何事もなかったように3人は帰途についた。
「しかしよかったね、浩之ちゃん」
「そーだな…でも、あかり。やっぱりあれ、マルチだったんだな」
 浩之は前を向いたまま言う。あかりは頷きながら浩之の方を見て、慌てて言う。
「そうだね。でも雅史ちゃんが襲われたし、何かあるんだよきっと」
 もしこの後、マルチに会うことがなければこれで話は終わるのだろう。
 だが、浩之はまだ何か引っかかっていた。
 それが虫の知らせだったのか、ただの思い過ごしだったのか、彼には分からなかった。
 あかりと別れ、浩之は大あくびをして家の扉を開けた。

  きぃいぃ

 耳慣れたブレーキ音がして、彼の真後ろに車が止まった。
 何事かと振り向くと、来栖川の御嬢様方のリムジンだった。
――どうしたんだろうこんな所に
 と思っているうちに手前の扉が開いて、綾香が出てきた。
「やっほー」
 出てくるなりウインクして挨拶する。
「おう。何だ、俺に何か用か?」
 綾香は寺女の生徒だが、松原葵を通じて二人は知り合いになった。
 といえ、まだそれ程親しいわけではないのだが。
「用何てもんじゃないわね。協力して欲しいの」
 綾香は初めのおちゃらけた雰囲気のまま、真面目に話し始めた。
 彼女にとってこれが常なのだろうが、聞いてる方は――慣れなければ――真面目なことが分からない。
 浩之は少し目を鋭くして怪訝な顔をする。
「協力?」
「そ。マルチ捜索のね」
「は?やっぱりマルチか?」
 綾香は間抜けな表情をして目を円くする。
 そして残念そうに眉根を寄せる。
「やっぱりって、どういうこと?」
 綾香がまず浩之の元に駆けつけた理由はさほど難しくない。
 最も反応が面白そうだったからだ。
「ああ、こないだマルチみたいな奴を見かけたんだ」
 浩之はこの間見かけた場所や時間を詳しく話した。
 綾香の表情がだんだん真剣な物に変わるのが浩之にも分かった。
「間違いないわね。浩之がマルチを見間違えるようじゃ、あの娘もおしまいだわ」
「おい、人聞きが悪いぜ」
 浩之の言葉に綾香は――綾香は背が高い方ではあるが――見下すような目つきで彼を見つめる。
「あら?悪い意味で言った覚えはなくてよ」
 むっとする浩之を見てから両手を顔の前で合わせてウインクする。
「ごめん。マルチの名前を出したらもう少し面白い反応をしてくれると思ったからさ」
 そして改めてまじめな顔をすると彼女は言った。
「幸先いいわ。ねえ浩之、少しいいかしら?食事ぐらい奢るわよ」
 綾香は親指で自分の後ろ――リムジンを指さしながら言う。
「…飯で吊る気か?」
 普段先輩が乗り降りする扉をくぐりながら、綾香に問う。
「別に。…あたし、嫌いな人間と食事はしないしね」
 

 もう既に真夜中を指した時計を見て、彼はベッドに転がった。
 綾香の話は突拍子もないものでもなかった。
――警察に任せた方がいいだろ?
 浩之の言葉を聞いて、彼女は少し眉を顰めた。
 マルチは『メイドロボ』である。だから、『誘拐』はあり得ない。
 マルチという名のメイドロボ強奪事件に過ぎない。
 問題は、その内容である。
 本来凍結されていたはずのマルチが、研究所の奥から盗まれたということだった。
「長瀬主任、どうやらかんかんらしいの」
――それはそうだろうけどね
 綾香の言葉を聞きながら浩之は彼女が何を言いたいのかを良く理解しようとしていた。
 浩之が、そんな簡単な意見に賛成するはずもなかった。
――いくら俺が、彼女を『人間』のように扱ったと言ってもね
 警察権力が介入する前に、という来栖川の建前もあるかも知れない。
 だからと言っても一般人である浩之には重荷に過ぎない。
 情報は提供しよう。
 浩之の答えに綾香は不満そうに眉を顰めた。
「面白いと思わないの?」
――面白いだけで人生は決められねーよ
 そう思いながらも、彼は何度も繰り返し考えていた。
 あの泣きそうなマルチの顔。
 何もないところでこけそうになるマルチ。
 頭をなでてやるとすごく嬉しそうにしたマルチ。
 浩之は目を閉じた。
 もう出会えないと思っていた彼女は、幸せそうな表情を浮かべてはいなかった。

 気がつくと浩之は、マルチが立っていた場所にいた。
 何となく彼女に会える気がしたからだろうか?
 だがそこにはマルチの代わりに群がる警官がいただけだった。
「こら、そこの!仕事の邪魔だあっちにいけ!」
 邪険に追い払われてむっとしたが、彼は離れてしばらくその場に立っていた。
「…何か用かね?」
 時折てきぱき指示する背広姿の男が、浩之に気づいてやってきた。
「ここで何かあったんですか?もしかして、自分の知り合いかも知れないんですけど」
 刑事は困ったように顔をしかめる。
「佐藤雅史っていうんですけど」
 すると刑事は表情を一変した。そして、手帳を開きながら言った。
「だったら少しでも構わない、情報を提供してくれないか?」
 言いながら気づいたようにぎこちない笑みを浮かべる。
「僕は鬼塚。一課担当の刑事だ」
 男は鋭い目を、申し訳程度に歪める。
 簡単な職務質問のような物を受けながら、彼は思った。
――どっちにしても…これじゃ、まさかマルチには会えないか
  でも又来よう。彼はそう思ったわけではなかったが、結果として足が向いていた。
 一人で下校している時にはもう警官はいなかった。現場検証していた跡すら残していなかった。
 

――……なんでこんな事をしてんだろ
 浩之のすぐ側には綾香と、例の巨漢の執事がいた。
「綾香御嬢様」
 セバスチャンは小声で彼女の名を呼んだ。鋭い眼光がある一点を凝視している。
 綾香もその視線の方向に目を向ける。
「いた」
 物陰に隠れながら、あるアパートを見張っていた。

――マルチだ…
 まだ迷いがある、こんな時に限って、とはよく言われる。
 彼は以前に見かけた場所で再び彼女を見かけた。
 違うことと言えば、以前よりも若干幸せそうな顔をしていることだろうか。
 あかりの顔がよぎるが、綾香との約束もある。
 彼は取りあえず近くの公衆電話に駆け込んで、綾香の携帯に電話することにした。
 綾香が彼の側に来てから、逃げる暇もなく今こうしているわけである。
「綾香、少し…いいか?」
 路地はそれ程狭い訳ではない。
 そのため、隠れるには都合がよく適当な物陰に入っているのだが、綾香と浩之の間は2m以上離れている。
「何よ」
 彼女は目を逸らさずに声だけで応える。
「マルチの奴、ああやって自由に出入りしているところ見ると、別段さらわれた訳じゃないんじゃないのか?」
 綾香はふと彼の方を向いて、再び視線を戻す。
「…正確には『強奪』だものね。人間と同じように考えちゃだめよ」
 メイドロボなので何か手伝っていないと落ち着かないのかも知れないし、もしかするとマスター登録をしているかも知れない。
 そうすれば、誘拐なんぞ簡単に行えてしまう。
 綾香は懐から携帯を出して、見もせずにダイヤルだけする。
「何やってんだ」
「セリオにポケベル。携帯の位置を逆探してGPS情報を取り込むの」
 浩之はほへーっと間の抜けた顔をすると、綾香が不意にこちらを向いた。
「何締まりのない顔をしてるの。取りあえず引き上げるわよ」
「そう言うわけにはいかんな」
 3人は一斉に振り向いた。
 浩之は言葉にならず、ただ腰を低く構えて綾香に並ぶ。
 すかさずセバスチャンが綾香を守るような位置に立ち、綾香は身構える。
 浩之は男から発せられる殺意のようなものに冷や汗が流れるのを止められなかった。
 初めて感じる、腹の底からの恐怖感。
 喧嘩とは違う獣の気配。それは最も適切な表現だと彼には感じられた。
――こいつ…
 見覚えがあるはずだった。
 やけに存在感のある刑事だと思っていたが。
「?ほぉ…」
 男は口元に趣味の悪い笑みを浮かべる。大抵の場合、このような笑みを浮かべる人間にまともな神経は期待できない。
「誰よ、あんた!」
「気の強い御嬢様だ。噂通り、と言う奴か」
 冬にはまだ早い季節。
 日の暮れるのが早いせいか、僅かに肌寒い。
 いや、つい先刻まで気にならなかったはずだ。
「来栖川…綾香だったか?エクストリームのチャンピオンとか言う」
 男が言葉を紡ぐ度に気温が下がる様な気がした。
 男の顔に陰が差し、勢い良く風が吹き付けた。
「御嬢様、お下がり下さい!」
 セバスチャンが一歩前に出るや、男が踏み込んできた。

  鈍い音

 浩之の目では、男の動きは分からなかった。
 滑るような滑らかな動きで間合いを詰めた男が振り下ろした脚を、セバスチャンは右腕一本で受け止めていた。
「…ほう」
 悠然と脚を引き、男も身構えた。
 セバスチャンは舌打ちした。今の一撃は受けるだけで精一杯だったのだ。
 本来なら回し蹴りや踵落としのような大技は流してしまえばこちらが有利なのだ。
 だが、今の一撃は百戦錬磨の彼が両足で踏ん張らないと受けられない程の物だった。
「前哨戦にしては、十分だろう」
 今度はセバスチャンが動く。
「セバス!」
 右腕が大きく伸び、男の顔に吸い込まれるように走る。

  ぱん

 だが、まるで練習用のポールにヒットしたような硬い感触だけが帰ってきた。
 彼の拳は寸前で掌に阻まれていた。
 だがそれもフェイントにすぎない。
――貰った
 ほんの一テンポ遅れて彼の右足が男の足首を狙う。

  ふわ

「狙いはよい」
 だが、まるで悪い冗談を見ているようだった。
 男の身体はそれを読んでいたように僅かに宙に浮く。そして、そのまま右足が大きく振り抜かれる。
――跳び後ろ回し蹴り。テコンドーの大技の中では最も逆転性の強い、
 どちらかというと――他の格闘技においては――博打じみた技だ。

  びし

 僅かに身体を沈め、直撃を免れる。
「セバス!」
「早くお逃げ下され!」
 間合いを作ろうと後ろに飛び退いたはずが既に間合いが潰されている。
「てこずらせるな」
 視界の外。

  大きく歪む視界

 男の裏拳の軌跡は綾香ですら見えなかった。
 その直撃を受けたセバスチャンは、ゆっくり横に倒れていく。
「さて、真打ちの登場と願おうか」
 男はセバスチャンの身体をまたいで綾香の前に立った。
 綾香は圧倒されていた。
 間違いなく、この男は強い。

 間合いだけなら十分にある。問題は、男がどう動くかだ。
――多分、下手に動くと…
 あのセバスチャンをのばす手並みだ。
 握りしめた拳がじんわりと汗ばむ。
「どうした?」

  ぐん

 男が口を開くと同時に踏み込む。
 男の目が鋭く綾香を追跡する。
――早い

 同時に、男の視界が揺れた。
「な」
 揺れた視界の先に、綾香の姿はなかった。
 腰に、人の感触。

  ふわ

 既に後ろに回り込んでいた綾香は、男の脚を大きく払い、右手で首を引く。
 丁度柔道でいう大外刈りの変形のような技だ。
 

 男が視線を外すのと、浩之が跳び蹴りを入れたのは最高のタイミングだった。
 ほんのわずかに早くても遅くても、恐らく男は反応しただろう。
 勢いのついた浩之の蹴りは男に隙を作るには、十分すぎた。
「…油断した」
 そのまま容赦なくアスファルトに後頭部を叩きつけられたにも関わらず、男は生きていた。
――逃がしたか?
 流石にただではすまなかった――数秒程意識がとんだ――が、彼らには十分な時間を与えてしまったようだ。
――ま、報告だけ上げておくとしようか
 ため息をつきながら薄笑いを浮かべ、彼はアパートの一室を見上げた。
 彼が知る限り、この界隈は人が住んでいないはずだった。今も、彼の意識は大した気配を捉えていない。
 『暗部』というものがある。
 それはどの街にも必ず存在し、どうやっても排除できないような仕組みになっている。
 たとえばそれは急な開発や無理な地上げ等、どこかで行った強引さの『つけ』として現れる。
 ここはいわばそう言う場所だった。
 いや。
――無理矢理…そう言う場所にしたんだろう
 男はそう思った。
 できる限り足音を消して金属製の階段を登る。男はこの階段の音が、何故かどうしても好きになれないのだ。
「博士、いいか?」
 彼は扉をノックしながら言う。
『入れ』
 くぐもった声が聞こえた。
 同時に鍵の外れる音がして、扉がゆっくり開く。
「あ、えーと、ユウさんですね。いらっしゃいませ」
 中から顔を出す少女。
 マルチ、とか言う名前のアンドロイドだった。たしか、来栖川の開発したメイドロボだ。
 それも、試作の。
「…なんだ、今日は」
 部屋の奥。
 暗い、すえた匂いのする部屋の隅にある人影が訝しげに顔を上げた。
「いつもの事だ。…但し、今日は取り逃がした」
 博士が反撃する暇を与えず、彼は続ける。
「来栖川の令嬢と、その執事、そして目つきの悪い少年が一人だ」
 嘲るような鼻息の後博士は片方の眉を吊り上げて言う。
「ほぉ、そんな女子供共にねぇ。…ユウ、お前にはいくら金をかけていると思っている」
「悪いが」
 彼はうんざりするような博士の言葉に割り込み、懐に手を入れる。
「警官の振りまでさせておいて、その理由すら教えてくれないようではこちらとしても信用できないんでな」
 おあいこだ、とでも言いたいのだろう。男は大きく両腕を広げ、そして見下ろすような笑みを浮かべる。
「元々俺の仕事は『荒事の請負』だ。警官なんぞ性に合わん」
「にしては、よく似合っていたがな、と、理由だったな」
 博士はぴっと一枚のカードを見せる。
 クレジットカードだ。
「端的に言おう。『金さえ払えば確実に仕事をこなす』お前らの様な存在の方が、信頼におけるからだ」
「…直接上司に掛け合わないのが気にかかるんだが」
 博士は自嘲気味に口元を歪めてみせる。
「…少なくとも、お前も私の仕事を利用しているんじゃなかったのか?…お互い様だろう」
 ふん、と男は鼻を鳴らした。
「それで、俺が名前を借りた刑事、どうなってるんだ?」
「ふふん、知りたいのか?」
 博士の勝ち誇ったような――自慢げな笑みを見て男は首を振った。
「良い。聞きたくなくなった」
 男はそう言うと軋む扉を開けて出ていった。
――それが利口だ。…だが、お前も消えることになるだろう
 博士と呼ばれた男はキーを叩き仕事を開始した。
 

「面目も御座いません」
 転がるようにリムジンに乗り込む二人に、セバスチャンはエンジンをかけながらわびる。
「いいのよ、そんなこと。セバスがいなけりゃ、今頃あたしたちもやばかったんだから」
 綾香は隣に座る浩之の方を向いてウインクする。
「先刻の蹴り、良かったわよ。結構筋あるかも」
 逃げられた安心感からか、浩之はにやっと笑みを浮かべて応える。
「まあな、これでも葵ちゃんとこで鍛えてるからな」
 既に車は発進している。男の姿が見えないと言うことは、もう安心だろう。
 綾香はすぐに携帯を出して素早くリダイヤルする。
「…ん、そう、すぐ繋いで…あたし、そう、…うん、それで…」
『ああ、もしかして武器でもほしいんじゃないですか?』
 電話の相手は長瀬だった。
 彼は研究室のコンピュータの前で携帯を片手に話をしていた。
「日本は法治国家ですから対したものは用意できませんけどね、一応セリオに渡しておいたので」
 長瀬は言いながらコンピュータを叩いていた。
 実はつい先刻、メールが届いたのだ。
 相手は『Admin』――すなわち、管理者だ。ほとんどのヘッダーも読めないように書き直されている。
――ふざけたメールを…
「…え?いえ、そろそろ必要なはずだと思いまして。いえいえ、恐らくお気に召すかと。はい、では」
 携帯を切って、彼はメールを開いた。
 その中身はおおよそ想像通りの内容だった。
『遅かったな。急いだ方がいいぞ、さもなければ間に合わないかもな』
――相手が悪すぎるかも知れないな…
「おーい、松浦君、例のディスク、どこにおいたかね?」
「…主任、主任の机の上です。つい先刻も聞いたじゃないですか?」
 呆れた調子の声が帰ってきて、長瀬は笑いながら机の上の物を取った。
 DVDディスク。
 彼はそれをコンピュータのドライブに挿入した。
 

「ちょっと、その辺で待っててくれる?セリオを呼び出すから」
 車を近くの駐車場へ止めさせて、綾香は再び電話を始める。
 その間、浩之は一度車外にでた。まだ日は傾いたばかりで、日が沈むまでには時間がかかる。
――全く、お人好しだよな…
 ジュースでも買おうとポケットに手を入れて、何の気なしに顔を向けた。
「あ」
「え」
 偶然、志保と目があった。
 どうやら、このすぐ近くの商店街に来ていたらしい。
 制服姿のところから察するに、その辺のブティックだろう。
「…ヒロ、その車、来栖川…」
 志保が続けようとするのに割り込むように、綾香が車の陰から現れる。
「浩之、しばらくかかりそうだから…」
 ばったり。
 顔を、合わせてしまう。
「あーっ、ヒロ、やっぱりあんた」
「半ば成り行きでな」
 否定せず、彼女を抑えるようにいう。
「昨日あれだけ言ってたのに、警察に任せるんじゃなかったの?」
 浩之は若干目の光を強める。
 そう、確かに彼はそう言った。だが、肝腎な刑事が今、つい先刻襲いかかってきたのだ。
 先刻までは確かに成り行きだったが、もしかすると必然だったのかも知れない。
「…警察が信用できないとしたら?たとえば刑事が、犯人とグルだったら?」
「え?」
 彼女は彼が言いたいことが良く理解できなかった。代わりに、綾香が後ろから声を掛ける。
「え?もしかしてあの男、刑事だったの?」
 綾香が割り込むようにして言う。
「ああ、刑事が俺達を襲ったんだ」
 志保は困った表情を浮かべてうーっと唸る。
「…あかりが心配してんじゃないの」
「志保、お前はすぐあかり、あかりって言うがな」
 すっと人差し指を彼女の鼻先に突きつけると、志保は驚いたように一歩退く。
「な、…何よ」
 一瞬の逡巡の後、彼は口を開いた。
「マルチを返して貰う」
 今はここでこいつを退かせるに十分な理由を突きつける必要があると思った。
 だから浩之は、今そう言うことを聞く時ではないと感じた。
「確かに、あかりも大切な奴だ。しかしマルチも大切な友人だ。あいつはロボット何かじゃない」
 ぎり、と歯を食いしばって睨むように志保を見る。
「たとえ捕まっているのがお前でも、助けられるところにいるのに放っておける訳ないだろう!」

  ぱんぱん

 綾香は拍手するように両手を打ちならしながら、リムジンのボンネットに身体を預ける。
「はいはい。捕まってるのがあたしだったら?それでも助けに来てくれる?」
 綾香がからかい半分に言いながら、二人を見比べるようにして言う。
「志保さん、だったかしら。非常に申し訳ないんだけど、もうしばらく彼を貸して貰えるかしら」
 そして、猫のように笑みを浮かべて両手を組む。
「確かに先刻、男に襲われたけどね、彼は的確に対処したわ。今ここで抜けられても困る。彼には手伝って欲しいの」
 しばらくの沈黙。
 やがて、志保が口を開いた。
「…分かった。…でも、一つ条件を聞いて」

  ぱぁん

 浩之の頬が鳴った。
 きっと浩之の顔を睨み付けて、志保は叫んだ。
「馬鹿!怪我して帰ってきたら承知しないから!」
 背中を見せて走り去っていく志保を唖然と見送りながら、浩之はため息をついた。
「なに?女の子二人も泣かせる気?」
 にやにやして綾香が見つめるのをふん、とかわす。
「るせえ」
「御嬢様、来たようですぞ」
 小さな軽が駐車場へ滑り込んでくる。勢い良く、しかし正確に駐車場に止めると、彼女は姿を現した。
 HMX-13セリオだ。
「――御嬢様、只今参りました」
 同時にトランクが開く。
 セリオはトランクの中に入ったスーツケースを開いてみせる。
 綾香は口笛を吹いて目を輝かせる。
 中に入っていたのは、軽易なアーマージャケット、ごっつい革手袋、そしてトンファーだった。
「結構気が利くじゃない、あの人」
 スーツケースは全部で4つ。
 中身はどれも同じだが、若干サイズが違うらしい。
「取りあえず、そっちに積み替えて。移動しながら車で着替えるわよ」
「…なんで4つもあるんだ?」
「――それは私のです」
 セリオが、何の感情もない声で言った。
 リムジンの後ろに綾香とセリオ、そして助手席に浩之が乗り込むと、再び発進した。
 

  かたた かた かたかた

 長瀬はネットワークの専門家ではないが、それなりに扱える人間である。
 これでもマルチの『心』のメインプログラマである。中枢は彼が手がけたのだ。
――…いた
 彼は『男』を探していた。
 マルチをさらい、セリオに殺人を行わせ、今敵対している『男』を。
 ネットワーク上に残った痕跡から、かろうじて彼は『男』を見つけた。
 そのデータを一度にダウンロードする。『男』のように、よけいな痕跡などは残さない。
 巨大なサーバ間で使用するような回線を使用してほんの数秒で端末に落とすと、素早く展開する。
「…!こ、こりゃあ」
 長瀬は思わず声を上げて、慌てて周囲を見回した。
 彼が奇声を上げるのは日常茶飯事なので、別段気にした者はいなかった。
 それを確認すると再び目をディスプレイに落とす。
 『Hephaestus』
 一度だけ聞いた名前がそこに写っていた。
――月島っ、まさかお前…

 ユウと呼ばれていた男は釈然としない物を感じていた。
 直接自分を指名してきたのがあの『博士』だ。
 時々そう言うことがあるのは、聞き及んでいた。
 それが『奴ら』のやり方だと。
 だから『休暇』をとって、博士に応じた。この仕事は彼の上司は知らない。
 博士の身分も、立場も彼には伝えられていなかった。直接の交渉であるにも関わらず、だ。
 彼はかぶりを振った。
 そんなもの、ターゲットには必要ない。いつもならそう割り切れるのだが、今回は違う。
 獣のように鋭い嗅覚が、きな臭さをびりびり感じているのだ。だから、いつもならクライアントなどに突っかかりはしないというのに。
――忘れろ。…仕事に私情は邪魔なだけだ
 彼は自分の身を守る術は心得ている。小さなガキの頃から嫌と言う程教え込まされたものだ。
 この、社会という枠組みに。
 彼はもう一度アパートを振り返った。
 月が昇ろうとしていた。
――多分、あいつらはもう一度来る
 鋭い目をさらに細くし、彼は歯ぎしりをした。
 仕事にはプライドがある。確実に仕事はこなす。たとえそれがどんなに嫌な仕事であろうと。
――風…
 頬を撫でる風に、細かな振動があることに気がついた。
 来る。
 それがエンジンの音であることに気がつくのに、時間はかからなかった。

  ききぃぃぃ

 軽いタイヤの軋みとゴムの焼ける匂い。
 荒事は嫌いではないが、この『闘い』が始まる瞬間は、男にとって最も『生きている』事を感じる瞬間だった。
 どちらかというと武闘派。それも、できる限り武器を使わない本当の『武闘派』。
――さあ、来い
 うっすらと男の目が赤く染まった。
 車の扉が開き、赤い風が彼の真正面に飛び出してくる。
 不意をつかれて慌てて飛び退く。
――!?
 間合いを切ったはずなのに、影はまるでその行動を読んでいたかのように間合いを詰めた。

  ぶわ

 風が男の耳を叩いた。
 微かな痛みが、耳が切れたことを知らせていた。
 その時、目と鼻の先にいる人物の表情が見えた。
 冷たい、何の感情も映さない仮面。
 まるで薄いビニールを貼ったような、むらのない顔。
――ロボットか!
 冷静で的確な攻撃に納得がいった。
 奴は人間以上の感覚を駆使してその行動を規制しているのだ。
 しかも分の悪い事に、人間と同じ気配はしない。
 ならば。
――全力を出すしかないんだな
 躊躇はできない。
 既に次の拳が彼に襲いかかっている。それを素早く流し、間接を決めながら地面に叩きつける。
 が、まるでそれが真綿のように衝撃が伝わってこない。どころか、逆に自分の身体が勢い良く跳ね上がった。
 宙に浮く瞬間、彼は快哉を叫んでいた。
 久々に、それは解放を望んだ。
 ほんの一瞬の躊躇は、やがて暗い歓喜にとってかわった。

  ずしゃ

 重い、重すぎる着地の音。めくれ上がるアスファルトの欠片が、構えるセリオの足に跳ね返った。
 男の身体が音を立てて膨らむ。
 先刻までの威圧感を、遙かに上回る殺気と存在感が辺り一面に放出された。

 結果間合いをとる事になったセリオは慌ててデータを検索していた。
 敵の運動能力を測りかねていた。
 車で移動中に長瀬からダウンロードを受けた各種格闘技のデータだけで対抗できるのか。
 戦闘が始まって既に1分が経過している。セリオの何の感情も表さない顔に、僅かに汗が浮かんでいた。
 アクチュエータの発熱はまだ許容量だが、このまま続けばあと2分で放熱限界に達する。
 主任からは最終ロックの解除が行われていたが、彼女はそれを使うことを『躊躇って』いた。
 既に、彼女のマスターは「綾香」であり、主任ではないからだ。
――身長2m、推定体重400kg…
 人間ではない。
 彼女はすぐに使用するデータを置き換え、新しいデータの要求をネットワークに流した。

「主任!セリオから…」
 長瀬が気づいたときには既にセリオからの『データ』が、巨大なバックアップデータが送信されてきていた。
 データベースがセリオの要求に対してデータを返送してしまっていた。
――まさか、あのデータだけで足りないのか?
 そんなはずはない。
 長瀬が確認しようとする間もなくデータ受信が開始された。
 リアルタイムに状態を確認する。
  ヘッダの形式がメールではない。データもアスキーではなくバイナリである。
「君、すまないがすぐに通信ポートを開いてくれないか」
 長瀬が声を掛けたのは、HMXシリーズの試作段階でフレーム等のシュミレータを作成し、
 完成時には各センサの状態からフレームの動きをモニタできるようにプログラムした人間だった。
 物としてはモーションキャプチャーに近いものだが、各間接の負荷やアクチュエータのデータから、
 どんな素材にすべきか、どんな衝撃を受けるのか等の研究用に細かなデータも出力できるようになっている。
 そのためのログデータにそっくりだったのだ。
「セリオが、ログを出してきている」
 勘だった。
 だが、自分の娘の考えることが分かるような気がした。死に臨んだ娘の気持ちが。
 やがて送られてくる膨大なデータがフレームモニタに送り込まれる。
 このアプリケーションはポリゴン状の人型フレームが、現実の状態をトレースするようになっている。
 ただの円柱の組み合わせたような不格好な人形が、ワイヤーフレームの空間に出現する。
「…動き出しました」
 やがて滑らかに、非常に人間くさい動きでそれは動き始めた。

 幾つもの警告。
――オプションの不足、電圧の低下、アクチュエータの放熱限界、蓄熱量の上限、過負荷警報…
 恐らく『自己保存』プログラムが強制停止を命じるのも時間の問題だろう。
 彼女は、そのプログラムが動かないように自らの今までの記憶から総てバックアップを取るようにした。
 さらに、現在の行動すべてのログを自分のデータベースに流すことにした。
 それら、彼女のこの思考まで含めて、長瀬の目の前で再現されていた。
 彼女が相対していた人間に対して『熊狩り』のデータを必要としたところも。
「何故だ」
 セリオの目を通したデータは、巨大な衛星回線を使うと言っても非圧縮では回線を圧迫するためか、まだ流れてこない。
 『解除』コードは既に流したのに、彼女はまだ『兵器』になっていない。
 自分のデータを守るための行動を起こしているのに、目の前の敵に自分の『死』を予感しているのに、
「何故全力を出して戦わない!」
 長瀬は机を叩いた。
 思い切り叩いた。
 HMX-13の開発には『あの男』月島も関わっている。だから、セリオには『兵器モード』が備わっていた。
 通常は必要ない、一種のオプションのような物の為に普段は眠っている。もちろん販売されたHM-13には搭載されていない。
 これは、開発当初に考えられていた兵器としてのロボットの利用の構想がまだ残っていたからだ。
 残す必要はなかったが、長瀬は敢えて取り外さなかった。厳重にロックし、自分でもその使用が制限されてしまうように。
 火器は現段階で一部実装する必要のない火器を除いて、一つだけ渡している。
――相手は一体何なんだ
 送られてくるデータからは想像もつかない相手である。
 初めはどうやら成人男性だったのだが、今――恐らく3分22秒前から――は熊のような生物と戦っている。
 フレームは休みなく動き続けている。
 嫌な予感がした。セリオを戦闘専用から汎用型に換装した段階で既にフレームや電源に戦闘状況への対応が比較的短期間に縮んだこと。
 既に最後のログに入り始めたこと。
「馬鹿なことを考えるんじゃないぞ」
 長瀬はここから自分の声が届かない事が非常に無念に思えた。
――必ず無事で帰ってこい…もう一度
 その時、人形は首を掴まれたように直立し、地面に叩きつけられる。
「セリオ!」
 と、同時に接続が切れた。

 初めから、綾香と浩之は直接マルチを狙っていた。
 セリオが彼を抑え、その間にアパートを強襲する。
 男の格闘技術を前提にした場合、それが最も有効な手段だとセリオが計算していた。
 綾香はいい顔をしなかったが、他の手段は選べないとセリオが――そう、何故か執拗に――主張したのだ。
――長瀬主任…貴方の差し金かしら?
 リムジンを離れる瞬間、セリオの拳が男をかすめるのが目に映った。大きく波打つ赤い髪が印象的だった。
「どうかしたのか?」
 浩之に声を掛けられて、綾香は今のが顔に出ていたことに気がついた。
「え、ううん。…セリオの事が少し心配になってね」
「綾香御嬢様、もう敵陣に御座いますぞ?ご自分の身のみをお考え下され」
 今はこの妙に古くさい言い回しが頼りに思える。
「…ん、わかった。分かってるよ」
 答えはしたが、どうしても彼女の心の隅にひっかかっていた。もう、セリオとは会えないような気がした。 
 男のいる場所からは、丁度反対側に当たるアパート。
 それが目標地点だ。
 先頭に綾香、次いで浩之、セバスチャンと言う感じで大体一直線に並んで走る。
 何故か他にボディガードのような人間はいなかった。アパートまでは完全にがら空きだった。
「気がついてる?」
 浩之は首を捻ったが、セバスチャンは大きく頷いた。
「妙ですな、この周辺はあまりにも人がいなさすぎる」
 もう夜中になろうというのに明かりのついた家が少ない。
 いや、この周辺に至っては一切ないではないか。
 綾香は嫌な予感が這い上がってくるのを止められなかった。

  かんかんかんかん

 金属製の錆びた階段を駆け昇り、マルチが出入りしていたドアに向かって走る。
 丁度綾香が扉の前へ出ようとした時。

  鈍い何かが潰れる音とガラスの割れる音

「っ」
 綾香の目と鼻の先を扉が弾けて吹っ飛んだ。
 とほぼ同時にアパートが大きく揺れた。
「うわっ」
「跳んでっっ」
 ぐらりと傾いたアパートの向かいの塀を足場に、地面に向かって跳ぶ。

  ずずずううううんん…

 コンクリが細かな煙となって舞い上がる。
「一体何が…」
 振り向くと、既にアパートはもうただの瓦礫の山になっていた。
「っ!浩之危ない」
 振り向くより早く、浩之は地面を蹴った。
 彼の耳にも恐ろしい速度で接近する何かが、強烈な『殺気』を帯びていたからだ。

  ぐるうぅぅぅぅううああああああああああああ

 それは叫び声を――否、咆吼をあげた。
 天を仰ぐようにして、その場にいるその声を聞く者総てをおののかせる獣の息吹を。
「なんだ?」
 浩之は顔を真っ青にさせて、その生物を見た。
 それは背中を向けていたが、その周囲だけまるで密度が濃くなっているかのように暗く、重い。
 明らかに人間を越えた姿であるが、その人型をした獣は、彼の頭の中である言葉になって浮かんだ。
「鬼だ」
 

 もう逃げ場のないはずの博士――月島光三はアパートの瓦礫の中にいた。
 砕け散った腕が、壁の残骸の下に埋まっている。
 自分の身体もべたべたに汚れながら転がっている。
「…な…」
 何が起こったのか、彼には分からなかった。
 確か、実験を続けていたはずだ。
 自分で用意した武器も、既に準備は終わっていたはずだ。
 あとは人質…マルチを連れて、逃げれば良かったはずだ。
 何故まだこの身体の中にいるんだ?
 実験に失敗したのか?
 いやそれ以前に、何故今痛みを感じないのだ。

  ずしゃ

 瓦礫を踏む音が聞こえた。
 男の目の前に、人影があった。小柄な、それ程大きくない姿。
 口元がゆっくり吊り上がるところまでは彼にも見えただろう。だが、それが彼の見た最後の光景だった。
「…もう、総て戴いた」

 アパートが倒壊する音に鬼の気がそれる。
 すぐさまリミッターの外れた脚が鬼の鳩尾にめり込む。
 と同時に、彼女は長瀬の用意した武器を背中側から引き抜いた。
 今までどこにそんな物を隠していたのかと思う程の、1m弱程の銃身を持つ銃。
 まるで生きているようにグリップから黒いコードが伸び、自らスライドさせた手首からセリオに接続される。
 同時に本来ならスコープが乗るべき場所にあるCCDカメラがフォーカスする。
 セリオの視界に鬼の横顔が写る。
 ほんの一瞬で照準した彼女は躊躇わず引き金を引いた。

  閃光

 一切の銃声は聞こえなかった。

  ぐぅぁあああああああああ

 そのかわり帯電した空気が立てる振動音のような音だけがしばらく続く。
 出力の低い紫外線のレーザーの直後に高出力の電流を発射するだけの銃だ。恐らくこれならば、直接調べられない限り証拠は残らないだろう。
 鬼の眉間に直撃したが、煙が出ている程度でさほどもダメージは通らなかったようだ。
 腕の間合いを的確に読み、そのぎりぎりの場所を定めて小刻みに動きながら立て続けに銃を乱射する。
 もしこんな『鬼』がいると分かっていればそれなりの銃を用意したのだろうが、ここは日本である。
 しかし鬼はひるみながらセリオに近づこうとしている。
――出力上昇、充電開始

  ばしゃ

 砲口が大きく開き、ばりばりと放電する音が聞こえる。
 彼女に接続されたデバイスが『MAX』を示すだけ電流を流し込む。
――綾香御嬢様
 CCDカメラからの映像に、彼女の姿が見えた。綾香達の姿が射程内であることは明白だった。
 慌ててスイッチを切り、銃を後ろへと投げる。
 このままでは高出力の兵器は使用できない。
 エネルギーの残量を確認して、そのうちの三分の一でできるだけの高速移動を行う。
 懐。
 ほんの一瞬それた鬼の視線の死角から鋭く右手を振る。
 直後に二発。
 鋭く回転するように蹴りを入れる。

 真っ赤な命の炎が見えた。
――ウシロカ
 その瞬間身体に数発の攻撃が彼を捉えた。
 だが、気がそれたのではなく、より良い獲物の方へ身体が動いていた為ほとんど気にもならなかった。
 男だ。小さな男だ。獲物としてはあまりに面白みのないものだ。

  ぶぅん

 大きく振るった腕が浩之を捉えようとする。
「噴」
 だがそれは、まるで鬼の肘を打ち抜くようなセバスチャンの拳により阻まれる。
「早くさがれ、小僧」
 セバスチャンの拳はぎりっと筋肉の締まる音を立てたが、まるでコンクリートを殴ったような感触が帰ってきた。
 彼の脳裏に嫌な物がよぎった。
「けっ」
 浩之はまるで今まで金縛りにあっていたように、素早く身を翻して後ろへ下がる。
「御嬢様!早く!」
 綾香は頷いてセバスチャンに背を向けた。
 肝腎の、マルチを助けなければ。あの瓦礫の中にいるはずなのだ。

 鬼は面白くない、と素早く男を反対側の腕で掴みあげ、まるで塵を捨てるような動作で壁に叩きつける。
「がっ」
 セバスチャンはまるで人形のように両手足を開き、壁に身体を預けた。
――マダダ
 にいいと口を吊り上げ、セバスチャンの方に身体を向けようとする。
 それが、隙になった。
 鬼は、先程打撃を与えた存在を――セリオのことをすっかり忘れていた。
 腕に何かが絡みつく感触が、直後激痛に変わり鬼は叫び声を上げた。

  めり めりめりめり

 セリオが身体を預けるようにして肘を反対側に決めていた。
 中国拳法に見かけるような、複雑で奇妙な立ち技だ。
「――それ以上は許しません」
 闘いが始まって初めて、彼女は口を開いた。

  がぁああ

 腕の筋肉がまるで風船のように膨らむ。
 慌ててロックを外して真後ろへと飛び退くと、今まで彼女の立っていた場所は大きく抉られる。
――ジャマダ
 鬼は先に最も邪魔な存在を潰すことに決めた。
 着地の直後の隙を狙いさらに一歩大きく踏み込む。
 人間ではない者の咆吼と共に、僅かに動きを止めたセリオの頭を鬼の右手が掴む。
 ほんの僅かな時間のロスが、彼女から勝利を奪った。
 鬼は彼女を軽々と頭より高く差し上げると、勢い良く地面に叩きつけた。
――自律射撃プログラム起動
 叩きつけられた時に、内部のセンサーの幾つかはREDのサインを出した。
 破損もしくは不良の警告だ。
 爛々と輝いた怒りの表情が、セリオを見つめていた。
――…通信エラー
 慌てて周囲の状況を探ろうとするが、どのセンサーも正確に規則正しいノイズを拾っている。
 それは明らかに何らかの人工物が発するノイズだった。
――EMP?
 ECM(電波妨害)が発生している。
 これでは相当強い出力でなければ送信できない。恐らくログももう中断されただろう。
 そして、彼女は最も状況的に良くない結論を導き出した。 

――ほぉ…
 電波通信の状態から、それが衛星通信である事はわかったものの、何のデータなのかはよく分からなかった。
 取りあえずカットさせるために数カ所に仕込んでおいたものを作動させた。
 言うまでもないが、周波数の逆探は既に終了している。
 最後に発信されたデータには非常に面白い物が含まれていた。思わず含み笑いを漏らしてしまう程の物だった。
 しかしこれは華奢な身体だ。
 簡単に砕けそうなぐらい柔い。
――…さて、どうするか…
「マルチーっ」
 声が聞こえた。

 浩之は大声でマルチの名を呼んで瓦礫を覗き込んでいた。
 綾香も同様だった。
 アパートの瓦礫は言う程も狭くはなく、幾つか人間一人では持ち上がらない様な巨大な物もあり、こうやって捜索するのも危険だ。
 いつ崩れるのか分からない。
「ま…」
 浩之は何度目かの叫びを上げようとして、絶句した。
 真っ赤な血が、彼の目に入った。
 胸が悪くなって慌てて目を背ける。
「どうしたの?」
「…いや、人が潰れて死んでるんだ」
 綾香も眉を顰めて辛そうな表情をした。
 もしかすると、彼女達が来たからこういうことになったのかも知れない。
 分かってはいたが、死体を見て急に罪悪感に駆られたのだ。
 綾香は浩之の横から死体を覗き込んだ。
「…これは酷いわね…」
 死体の下半身は瓦礫に巻き込まれていて、頭は何か小さな物に潰されたように完全に砕けて飛び散っている。

  がたん

 細かな物音に、二人は顔を上げた。
 月明かりの下緑色の髪を緩やかになびかせて、小さな影がそこに立っていた。
「マルチ」
 二人はほぼ同時に声を上げた。
 緑色の髪の毛を揺らして、ゆっくりと彼女は一歩進んだ。
 その時、二人の耳に嫌な音が聞こえた。水を含んだ何かが、砕け散るような潰れる音。
 鬼が拳をセリオの鳩尾に沈めていた。
 そして、鬼はゆっくり綾香達の方を向いた。
「…そろそろ始めてみようか」
――…!!
 セリオは唯一まともに動いている、外気を取り込むフィルタに備えられたセンサからの情報を受け取った。
 即座に発声器官を最大に使用して、彼女は叫んだ。
「御嬢様、早く逃げて下さい」
 先程からEMPを発している源が、空気中に散布されている物質による物だということに気づいたのだ。
「早く」
 綾香はその声を聞いて、慌ててマルチに手を伸ばそうとする。

  にたり

 しかし、その手は彼女に届くことはなかった。
 マルチの――いや、非常に邪悪な笑みを湛えたそれは、ゆっくり頭を巡らせて二人の様子を見つめる。
――…フム、散布速度も遅くはない…
 EMPの機能を付加しておいて良かった。これなら散布状況も把握できる。
「頃合いのはずだ」
「…あ…」
 声を出そうとしても、それすらままならない。
 目はひきつり、腕はまるで鉛か何かになってしまったように重い。
 浩之もマルチの方を向いたまま硬直していた。
 マルチは――いや、もうそれはマルチではなかった。
 笑い声をこぼしながら鈴を転がすような声で言う。
「…両腕をあげて」
 二人は一斉に腕を上げた。自分の意志とは別個の場所で、自分の身体が動いている。
――何故、何なんだ?何が起こっている?
 マルチの姿をしたものはくすくす笑い、そして子供のような顔を二人に向ける。
「簡単な物だね、人間なんて物は」
 彼女はそう言うと背中を見せる。
「ああ、安心して良いよ。もうすぐ身体の自由が戻るはずだよ。…くすくす、それまでに間に合うと良いけれど」
――先刻のプログラムを利用しようか…くすくす…そっちの方が効果的だよね
 彼女は身を翻して二人の視界から消える。
「あ……」
 声が出ない。
 マルチの小さな身体が目の前から遠ざかっていく。
――マルチ…

 何かが光ったような気がした。
 蒼い一条の光が、一瞬射し込んだ。
 ざ、とノイズの音が聞こえたと同時に、二人は身体の自由が戻るのが分かった。
「――危険です、綾香御嬢様、浩之様、早く――」
 セリオは『その危険』にいち早く気づいて叫んだ。
 通信状態が回復した彼女の脳裏に、カウントダウンが映っていた。
 

 そして辺りは巨大な光条に包まれた。

 
 報道管制がしかれているのか、一切の事情は分からなかった。
『S区、謎の蒸発?』
 新聞も、一部のゴシップ週刊誌も、果てはインターネット上でも一切それに関する情報はなかった。
「…そうなの」
 綾香は身体の半分に重度の火傷を負い、入院していた。かろうじて顔や目に見える部分はさほどでもないが。
「セリオが何とかしたらしい事以外、分からないんだ」
 セリオは半壊状態で発見されたが、メンテナンス用のDVD-RAMは熱により変成してしまいデータは消失していた。
 あの時に何が起こっていたのか、それを記録していたはずのログにも残されていなかった。
 ただ分かっているのは、当時あの近辺に巨大な『磁気嵐』が発生していたことだけだった。
 S区を通過中の車が急に動かなくなったり、ラジオが入らなくなったという。
 浩之は四方手を尽くして、マルチの生みの親である長瀬源五郎主任には会うことができた。
『すまない、今は何も話せない』
 ただそれだけの答えを残して。
 綾香は澄まし顔でじっと天井を見つめている。
 一度目を閉じると、浩之の方を向いた。
「…セリオは?」
 浩之は頭を振った。
 セリオの中枢は失われてしまっていた。長期保存記憶も、固定記憶も、チップセットも総て。
「何も」
 うなだれる彼を見つめて、綾香は再び天井に視線を移した。
「あの時の『鬼』も、どっか消えちまったよ。あのじじ…セバスチャンも気を失ってたのか覚えてないらしい」
 しばらくの沈黙。浩之は椅子に座り直すと思い出したように懐から手紙を出した。
「そうだ、これ、長瀬主任から」
 綾香は目だけで彼の様子を見つめて、目を閉じた。
「ごめん、読んでくれない?」
 訝しがる浩之は、それでも言われるまま封を切り、中身を出した。
 数枚の文章と、小さな袋に入った黒い塊――有り体に言えば、何かの電子部品のようなものだ――が入っていた。

『綾香御嬢様へ

  今回無理を言ってお願いした事について、まずお詫びします。
  私の想像通りになってしまい、こうして直接お詫びすらできないことになってしまって、お詫びも何もないと思いますが。
  今はまだ何も話せません。
  ただ一つだけ言えるとするならば。
  私は、ある研究をしていました。
  同じ研究室に、違う視点で同じ事を考えた人間がいました。
  そして、二人はその一点について接点を持ち、その一点に関してある企業に気に入られました。
  ですが、彼は根本が私とは考え方が違いました。
  彼は純粋に、もう一つ別個の生命体を作ろうとしていました。
  私はただ、機械はどれだけ人間に近づけるだろうと研究をしていたのです。
  当然、できあがる物は全く違う物になるでしょう。
  私は現HM研究室、『第7研』に配属され、彼は今は亡き『第8研』所属が決まりました。
  彼の思想が兵器開発に適していたのでしょう。
  ですが、私の作ったプログラムによりHMシリーズは全世界に知れ渡りました。
  来栖川と言えば世界で知らない者のいない大企業です。
  宣伝効果として、これは絶大だったようです。
  『科学の平和利用』。
  …結果はご存じの通り、来栖川は兵器開発からは手を引きました。
  最大の理由は日本では金にならない、売るにしても若干手間がかかるからではありますが…
  その際、第8研の解散が決定した際に、研究内容を総て持ち去って彼は来栖川から去りました。
  『長瀬に負けた』と一言だけ言い残して。
  セリオの当初の構想は『兵器』でした。
  正確に言うと、戦闘まで許容範囲に含めた完全な汎用ロボットを目指したわけです。
  メインに担当したのは、彼でした。
  マルチの担当が私であったように。
  第8研の解散と同時に、私が残っていた基礎設計を元に作り直したのが今のセリオになります。
  彼は私とは違う視点で物を考えられる男でした。
  残念ながら、結局相容れなかったようです。未だに彼は私を恨んでいました。

  長くなりましたが、私の私的な理由により迷惑をおかけしました。
  後ほど改めてお詫びに参ります。

  追伸
  同封のチップはセリオの予備記憶部分を封入したROMです。
  差し上げます。大事に持ってやって下さい。
                                         長瀬源五郎』
 

 浩之が読み上げるのをじっと聞いていた綾香は、やがて目を開けて浩之の方を向いた。
「勝手な言い分だわ。…そうは思わない?」
 彼女は魅力的な笑みを浮かべると彼女は白いシーツから両手を出して見せた。
 彼女の両手は真っ白い包帯に包まれていた。指先まで綺麗に包まれていた。
 それを見た浩之は絶句して声が出なくなった。浩之が無事なのは、彼女がかばったためである。
 先刻手紙を受け取ろうとしなかったのは、彼女の手が動かないためだったからだ。
「綾香」
 浩之の言葉を遮るように手を振ると、綾香は自分の身体の上にかけられたシーツを掴み寄せる。
「…彼女達には挨拶した?無事なところを見せてきた?」
 彼女が見せる表情は、下らない自己犠牲の結果だろうか?
 浩之は彼女の優しい表情に戸惑いと疎外感を感じて歯ぎしりする。
「そのためだけに…自分が犠牲になったとでもいうのかよ」
 睨み付けられた綾香は一度大きく目を丸くして、ぱちくりと瞬く。
 そしてさもおかしそうに笑うと、包帯だらけの指で浩之の鼻を弾く。
「これは私の責任。浩之を無理に誘ったんだもんね…ま、結果としてマルチは帰ってこなかったんだけど」
 身体を再びベッドに預け、天井を見上げる綾香。
「いいんじゃない?面白かったし」
 彼女は浩之に再びにっこりと笑みを見せた。
「気にしないで。大した怪我じゃない」
 浩之は痛々しい格好の綾香にそう言われても、釈然としない物がわだかまるのが分かった。
 それが自分の無力さからだと言うことに気がついて、拳を握りしめた。

 長瀬らがセリオを回収したときには一切のデータは残っていなかった。
 だが、彼のある勘が何かを教えていた。
「主任?」
 セリオ――この試作型が行う衛星通信は、必ずログを残すようにしている。これは試験機だったころの名残である。
「見て下さい、不自然なログがあります」
 長瀬はセリオを丁寧に解体しながら、顔を向けずに応える。
「あー、松浦君、『静止衛星』についてはもう『我々』の管轄ではないぞ」
 主任の言葉にはっとすると、松浦は機嫌の悪い顔をする。
「…主任がロックをはずしたんでしょうが。それよりも分かりましたよ。やっぱり『TRIDENT』ですね」
 HMX-13専用に作られた、非常に小型の静止衛星『TRIDENT』。
 大型の電磁カタパルトを使用したマスドライバーにより打ち上げられたこの衛星は、極秘裏に来栖川が打ち上げた『兵器』である。
 一度軌道に乗ってしまえば落とす方が難しく(小型のため発見しにくい)、放っておいた物だった。
 いつか使えるかも知れない、と考えていたのも事実だったが。
「それに瓦礫の熱変成の状況が急激すぎます。ただ、今も言ったようにログは不自然なんですよ」
 セリオが直接照準して射撃を行う『衛星レーザー砲』システムは、完全に独立した射撃モードを持っている。
 自律射撃という、『観測者』が射撃点で故障もしくは通信不能に陥るような場合に行うものである。
 数カ所のGPSデータを送り、あらかじめ定めた時刻に射撃を行うのだ。
「通信がとぎれてから、明らかにおかしな時間にプログラムが走らされています」
「セリオが通信できなくなってから、ということかね」
 松浦は頷いた。
「…証拠隠滅を図ったのか…」
 彼はセリオの中から、吸気のフィルタをつまみ上げた。
 月一のメンテが必要な唯一の交換部品。
 これに自己浄化装置を搭載した物が現在販売されているため、ほぼメンテナンスフリーを実現している。
 ほぼ、というのは、彼女達の記憶野を整理してやる『プログラム』的なものがあるからだ。
 それを丁寧に切りとってプレパラートに移していく。
――マルチ、必ず探し出してやるぞ…
 そのための手がかりが残されているはずだ。彼は確信していた。

 誰もいない暗い路地。
 男は座っていた。
 くたびれた格好で、地面に直接座り込んでいた。
 眼鏡をかけ直して、彼は身体を起こした。
「今度は私が雇い主になろう」
 それは非常に小さな依頼人だった。
 背丈など、彼から見れば腰の高さほどしかない。
「金さえ払うなら、俺にとって誰だって構いはしないさ」
 小さな――幼げな顔立ちを醜く歪めて、彼女は言った。
「ふん、あれだけの騒ぎの中で全く無傷だっていうのも、信じられないけれどね」
 男は目を細める。
「…名前は?」
 ポケットに入れた手をだして、彼は自分の眼鏡を押し上げた。
「…俺の名は、柳川だ」
 
 

 次回予告

  『柳川…』
  奇妙な夢を見る柳川。そして、自分に記憶のない行動。
    目が覚めると彼は指名手配になっていた。
  正体を追って一路、彼は東京へ。

  Cryptic Writings Chapter 3:Out ta get me 第1話『Doppelgager』

   取りあえず今日は身を隠せ、早く逃げろ

       ―――――――――――――――――――――――


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