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Cryptic Writings

   Chapter 1: COMA

      ―――――――――――――――――――――――
Chapter 1

主な登場人物
 柳川祐也
  26歳。県警所属の刑事。実は大学卒で警察学校を卒業の後巡査、巡査部長と
     異例の出世を果たした。何らかの手柄を立てたに違いないが…。
     若干ネクラ気味。

 長瀬刑事
  ?歳。柳川の上司なのだが、ひょうひょうとした態度で気のいい親父程度の認識である。
     かなり頭は切れるようであるが事実は定かではない。
     恐らくモデルは刑事コロンボ。

 柏木耕一
  20歳。大学2年生(と言うことは、一応勉強していると…いうことか)。
     責任感が強く、父親に対しては誤解が解けない限り弔おうとしなかったであろう。
     みんなも良く知っている鬼の男。
 柏木 梓
  18歳。気が強くて男勝りな(※注 御転婆ではない)乱暴女。
     若干喧嘩っ早い節があるが、結構おっちょこちょいで思いこみが激しいという面を持つ。
     時折可愛らしいところも見せるが、基本的に曲がったことが嫌いな侍タイプ?
     サムライってなんやねん。タスマニアタイガーとは違う。

       ―――――――――――――――――――――――

Chapter 0: ロイヤルコート401号室

  がちゃ

  玄関の方で、扉の開く音がした。

  がちゃん

  続けて閉まる音。
「…来たようです」
  楓は耕一に言った。

  がさがさ がさがさ すた すたすたすた…

 暗い部屋の扉が、大きく開け放たれた。

  ぐるるううううううううあああああああ

 獣の呻り声が響いた。
 昼下がりのマンション。誰も注目する事のない余りに日常的な風景。
 だが、その中で非常識的な事実が引き起こされていた。
 向かい合う二人の鬼。既に話し合う余地はない。

――鬼が引き起こしたこの事件、『鬼』が片づける

 扉を開いた時には、既に人間の姿を捨てた『鬼』が睨み合う格好になっていた。

――オマエモ オレノ ジャマヲ スルノカ

 二人は拮抗した緊張感の間に立って、普通の人間ならとうの昔に気を失って
  いる程の殺気を放つ。
 両腕を大きく振り上げる。

  みりみりみり

 コンクリートが悲鳴を上げる。いや、コンクリの上に張っているタイルだろうか?
 ともかく二人の体重はさらに増加を始める。

  しゃ

 まず、部屋の中へと飛び込むようにして鬼が動いた。部屋にいた鬼は軽く跳躍してすぐ窓際まで退く。
 がしゃん、と小さな音がした。鉄の雨戸が入れられた窓が揺れたらしい。

  ぐるるううるうううううううう

 鬼はかなり不機嫌な様子だ。耕一は巣に入った邪魔者に腹を立てているのだと思った。
 今の鈎爪でも、危うく身体を抉られるところだった。
 鬼はゆっくりと歩を進めてくる。耕一と鬼の間には何の障害もない。
 耕一が部屋に入ったときに、被害者達は既に部屋の端に移動させられていた。
 今度は耕一が動いた。できる限り小さな動きで一息に鬼の懐に踏み込む。
 隙の少ない鋭い爪が、鬼の脇腹を抉ろうとする。

  残像

 だが、爪は空を斬る。

  殺気

 音を立てた殺気が、頭を薙ぐ。
 身体を捻ってかわしたが、左肩に激痛が走る。完全にはかわしきれなかったようだ。

 耕一は足を滑らせるようにして左側に回り込む。
 鬼が両腕を振り上げてそれを阻止しようと構える。
 それを読んだ彼は、フェイントをかけて逆方向へと回り込む。計算された動きで、
 完全に空を斬った鬼の爪は行き場がなくなる。
 耕一の一撃が鬼を捉える。

  がき

 だが、かろうじて鬼は爪でそれを防いでいた。すぐに反撃せずに退いたのは今の一撃が効いたからだろうか?
 耕一はそれを判断する暇はない、ともう一歩さらに踏み込んで襲いかかる。
 だが、今度は鬼が正面から姿を消した。
――しまったっ
 焦って姿勢を低くして右へ跳躍する。
 偶然、鈍い感触が右肩に乗った。
 それは本当に偶然だった。大きく右へ滑るように移動した鬼は、耕一を右側で捉えていたのだ。
 もし回避が一瞬でも遅れていれば鬼の一撃を喰らっていただろう。
 耕一はそのまま壁際まで転がる。床に倒れた耕一を、今度こそとばかりに腕を振り上げて襲う鬼。
――ちっ
 両腕を使ってさらに低く跳躍する耕一。
 
 

 鈍い感触。
 腐った果物に触れたように水っぽいものが掌を伝う。
 果物の皮のようなものが指の間にぶら下がっている。

 鬼の動きが急に緩慢になる。
 耕一は自分を襲った爪が全く別のものを捉えて戸惑っているのを見た。
「待って」
 畳みかけようとした耕一を、後ろから制する声。
 楓は耕一の肩を掴んでいた。彼女はやはり部屋の隅に立って二人の闘いを見ていた。
 耕一に言われて、出入り口に一番近い場所で。
「楓ちゃん」
 鬼の姿のまま、耕一は戸惑いの混じる声をかける。だが楓は耕一から手を離そうとはしない。
「見て」
 鬼は自分の両手を見ながらがたがた震えていた。
 鬼が震えていた。
 それは奇妙な、不思議な光景だった。
 

 手の中には脳漿がまだ滴っていた。薄赤い液体が手首を伝い、肘に流れる。
 おそるおそる手の甲を返す。
 指の股に毛が見えた。
 黒い、皮のついた毛が見えた。
 ゆっくり顔をあげた。
 そこに座っているはずの、人物を見ようとした。
 今の感触を、嘘だと疑いたかった。
「…タカユキ」
 日本語を扱うには不十分な声帯が、かすれた声を上げた。
 そこには、無惨に座り込んだものがあった。
 下顎だけが、首から上に残された最後のかけらだった。
 
 

  がば

 男は吐き気に上半身を勢い良く起こした。時計はまだ5時を回っていない。 
 胸を押しつける嫌な気分に慌てて洗面所へと駆け込む。
 ひとしきり胃の中身を吐き出して男は洗面台に両手をついた。黄色い液体に、血が混じっていた。
 男は荒い息をしながら水道を捻り、全てが流れてしまうのを見つめている。
 口をすすぎ、顔を洗う。ここ1週間いつもこうだ。夢の中ではそれ以上は決して進まない。
 だが、男はそれ以後にあったことを覚えている。あの鬼同士の対決は、この隣――401号室で行われた物だ。
 確かに覚えてはいるのだが、どうしてもそこで目が覚めてしまう。
 罪悪感と失望感が同時に襲い、そして気分が悪くなる。
 男の名前は柳川祐也。今年で26になる、大卒のスピード出世を果たした刑事だった。
 いかんせん出世が早い者というのは周囲のベテランとの確執が多い。
 特に彼のように、地方の部署に配属になり、孤立化した場合は蔑みをもって妬まれる。
 奴は点取り虫だ、と。
 彼は今まで全く周囲を顧みなかった。顧みることができなかった。
 もちろん、これからもそうだ。
 振り返る気すらない。何故なら。
 狩猟者。
 その言葉にどれだけの意味があるのか。
 どれだけの理由があるのか。
 しかし、彼はまだ生きていた。狩猟者を中に住まわせながら。
――貴之…俺は…俺はまだ生きているんだ…
 それでも、手の中で握りつぶした貴之の頭の感触が残っている。
 耕一は彼を介抱した。
 柏木家の人間は、彼を介抱した。
 関係などない。俺は柳川だ。
 俺は柳川祐也だ。
 あんな奴らなど…俺は…

  じりりりりりりりり

 電話が鳴り響いた。
 
 

Chapter 1: COMA

 柳川はあの事件では警察関係者でありながら被害者として扱われていた。
 もちろん、本来は犯人なのだが。
 彼の中の鬼は完全に自我が崩壊したのか、それとも柳川の意識の方が勝ったのか、
 あれ以来血の衝動も発作もない。
 垂れ流しになっていた鬼の信号も抑制できたらしく耕一ともつながる事はない。
 恐らく意識すればつながるだろう…そのつもりは一切ないが。
「はい柳川です」
 電話を取る。
『朝早くからすまんな』
 言葉とは裏腹に無遠慮な物言いを聞いて、彼はすぐに相手の顔と名前を思いついた。
「…仕事ですか?長瀬さん」
 捜査一課では二人はかなり有名なコンビである。
 こんな片田舎では大した事件も起きないのだが、一度事が起きると彼らが動く。
 彼らの担当は殺人事件だからだ。
「場所は」
 無言の肯定が、彼に次の質問を促せた。上司の言葉が借り物の耳を通して響く。
 知っている。確か、駅前の古びたアパートだったはずだ。
『もう死体は引き上げた。あとは現場検証だけだが』
 躊躇した彼の声。この上司は意外にも――そう、本当に意外なことに――
 柳川の事を良く心配してくれる。ここ1週間の彼の様子に気を回してくれたのだろう。
「いえ、ありがとうございます」
 それをくみ取った彼は取りあえず礼を言い、一言二言事務的な会話を交わして電話を切った。
 すぐに背広を着て現場に向かう。まだ昇りかけた日が涼しい光を湛える中、
 幾つものパトカーが物々しく並んでいる。何人かが彼に敬礼する。
 まるで挨拶でもかわすように返すと、彼は金属製の階段を登る。

  かつん かつん

 嫌な響きだ。彼はこの安っぽいアパートの階段が非常に嫌だった。
 現場は一番奥の部屋らしい。開いたドアから見覚えのある人間がうろうろするのが見える。
 ふとこちらを見て、彼は顔をあげた。
「おお、来たか」
 彼は手招きして部屋の中を見せた。
 部屋は4畳半。小さなキッチンらしいものがあり、冷蔵庫と小さな戸棚がある。
 だがその二つは原型を留めていなかった。血飛沫にまみれ、ひしゃげている。
 畳にも血溜まりの痕があり、がさがさの黒い痕になっている。
「…酷いですね」
 白手袋をはめながら柳川は顔をしかめた。幾分見慣れた光景だが、それでも醜悪な光景に嫌な物を感じた。
「うむ。まだホシの手がかりすらないが、精神異常者の猟奇的犯行か、あるいは…
今騒ぎになっている麻薬中毒かだな」
 いつもののんびりした口調で淡々と述べる長瀬。柳川は彼の言葉に少し眉を顰めて聞き返した。
「麻薬?そんな話は聞いてませんよ」
 すると長瀬は少し渋い顔をして顎を撫でた。どうやら思わず口を滑らせたらしい。
 本当にそそっかしいのか、それとも演技なのかは分からない。
「…実はな…以前にお前があげた殺人事件、あっただろう?」
 阿部の事だ。柳川は頷いた。
 あの事件は、阿部貴之という大学生が飼っていたペットの肉食獣が逃走し、
 次々に人を襲ったことになっている。肉食獣は、最後に主人の手を噛んで逃走したのだ。
 無惨な姿で残された、阿部貴之と呼ばれる猟奇的な犯罪者の死体は、そう言う風に片づけられた。
 山狩りまで行って肉食獣の痕跡がないことを理由に捜査を打ち切らせた。
――どうせ、嘘なのだから。
 同時に、彼の部屋にあった大量の麻薬を発見、そこを出入りしていたやくざの消息を追ったが、
 これも行方不明、薬の出所すら分からなかった。
「あの時の薬が、最近になってこの辺のあちこちで見つかっているんだ」
 俗称をEden's Apples、日本名を『知恵の実』という。
  解析した結果、この薬はダウン系に特殊なアップ系を微調整して混合しており、
 調合した割合を変える事により特定の神経を興奮させる。
 柳川の知っているものは単純な思考力以外を奪う、ダウン系の量の多いものだった。
 同じ薬でも若干調合のバランスや量が違うだけで全く違う効果を上げる。
 そのため、服用次第では頭がすっきりしたり、集中力が上がると言われている。
 しかし、ベースにダウン系を使用しているせいで、過剰摂取により脈拍の低下、昏睡、
  脊髄反射停止等の症状を示し最悪の場合植物人間もしくは死に至る。
 柳川にとって、最も嫌な薬だった。
「…薬がらみの殺害、ですか」
 長瀬は一人前の刑事らしくない曖昧な表情を見せる。
「とは言ってないが。ま、その線も今考えているところだ。だからガイシャの身元を洗っている」
 聞きながら彼は部屋を見回した。汚らしい壁にも血の飛沫があり、
 どれだけ悲惨な状態になったのかが分かる。
 部屋の中心辺りに大きな血溜まりが残っている。ここで殺されたのだろうか?
 ふと、彼は気がついた。
「そう言えば、冷蔵庫のフレームががたがたですね」
 小さな冷蔵庫である。しかし、小さいとは言え冷蔵庫のフレームを素手で破壊できる人間などいない。
 それなのに、よく見れば明らかに叩き壊したと思える部分があるのだ。
「あれだけにするには…素手じゃ、無理だよな」
 長瀬は嬉しそうに柳川に笑みを向ける。
――この人は…
 明らかに意図的に話をさせようとしている。敢えて応えても良いのだが。
「そうですね。長瀬さん、私が来る前に死体は司法解剖へ移されたと言うことは、
もう調べる物も残ってませんね」
 そう言って話を打ち切った。長瀬は少し困った顔を見せたが、
 すぐに気を取りなおして頷いた。
 一言二言、部下に指示を出して二人は部屋を出た。
「柳川、車持ってきたか?」
 彼が頷くと、こののんびりした刑事はにっと笑った。
「取りあえず飯を食ってから出勤だ」
「…コンビニですか?」
 まだ朝早い。まさか朝の6時に開いている店などない。敢えて言えばコンビニぐらいだろう。
「最近できた丼屋、24時間営業らしいんだ」
 彼は有名なチェーン店の名前を出した。柳川は眉を顰めたが、別に逆らう必要はなかった。

 署は既に何人もの人間が立ち働いていた。
 彼らの部署は普段書類仕事か、他の課の仕事が主である。だが今回は違う。
 久々の――そう、『鬼』の事件以来の――仕事である。
 しかしドラマのような派手な物ではない。本来捜査という物は地道な、組織的なものであり、
 刑事というのはいわば役職であって仕事の名前ではない。彼ら自身が動くことは少ない。
 ドラマのような仕事をしていては命が幾つ合っても足りない。
「…以上です」
 報告書にまとめた事件の現状、捜査の進展の様子を署長に報告する。
 そして、これからの予定を提出して一息ついた時には、もう8時を回っていた。
「御苦労。…柳川」
 署長は報告書を見ながら眉を顰め、彼を引き留めた。
「はい」
「最近、隆山のあちこちで似たような事件が起こっているらしい。この辺りでは、今回が初めてだが」
 そう言いながら、柳川に書類を渡した。一瞥して事件の概要を書いた書類だと分かる。
「一応目を通しておけ。参考になればコピーしておけ」
「はい」
 柳川は書類を眺めながら自分の部署に帰ってきた。
 すると長瀬がコーヒーを片手に彼の帰りを待っていた。
「御苦労さん、どうだった?」
 どうだったと聞いたところで大した事などない。が、この男はこう聞いてくる。
 柳川は書類をひらひらさせて、彼の前に差し出した。
「どうやら幾つか同じような事件が起こっているらしいです。…同一の犯人かどうかは…ともかく」
 長瀬はコーヒーをすすりながらそれを受け取り、ぱらぱらとめくって中身を見る。
一通り目を通してから彼は顔をあげる。
「…どう思う?」
「え?」
 彼との会話は、どうも禅問答のような会話になってしまう。彼の意図を掴みがたい。
 わざとやっているのだろうか?
「確かによく似た事件ですね。時間も場所も全然食い違いますけど」
 長瀬は困ったような表情をして頭をぽりぽりかいて、首を傾げる。
「うーん、そう言う事じゃなくて、何か気がついた点がある?」
 長瀬は彼に資料を渡した。柳川はぱらぱらめくりながら注意深くそれを眺める。
 資料に張り付けられた写真はほとんどが現場を撮影した物だ。
「…快楽的な殺人ではないですか?かなり猟奇的な一面が見られますね」
 彼はそう分析した。衝動的に殺すのであれば死体がぐしゃぐしゃになるまでする事はない。
 恨みがあって殺すにしても、死体を八つ裂きにはしない。
 犯人は、ここまで酷い現場を残したくて行ったかのようだ。
 だが柳川の返答に長瀬はあまりいい顔をしない。
――違ったか?
「いい線だと思うが、どの事件にも共通して言えるだろ?
今回のように壊せそうにないものが壊されている」
 そう言って彼は資料のある部分を指さす。
『被害状況』。
 彼の言うとおり、酷い物では金庫が半壊して中身がぶちまけられているというものまである。
 通常どんなことをすればここまで破壊できるだろうか。
「…そうですね」
「快楽的殺人と言う線は正しいと思うがね。あ、そうだ言い忘れてた。今日昼前に会議があるそうだ」
 柳川は資料から目を離して彼を見返した。
 余程驚いた顔をしていたのか長瀬は片方の眉を吊り上げる。
「何のです?」
「例の薬の件だ。隆山中で問題になっているからな、うちが動かないといけないんだが…
 殺人なんてのもあまりないだろう?恐らくうちの管轄できまりだろう。そのための会議だ」
 薬。
 一瞬柳川は反応したが、長瀬はそれには気がつかなかったようだ。
「…分かりました」
 彼はそうとだけ答えた。
 上司が自分の席に戻ると、彼も自分のデスクに座って資料を読み始めた。
 殺人事件を扱うのは初めてではないが、前回とは訳が違う。
 自分が犯人なのではないからだが、状況を確認しているうちにある共通点に気がついた。
 似ているのだ。
 鬼の狩り場に。
  だが違う点が幾つかある。
 まず第一に、狩り場にしては余りに無駄が多すぎると言う点。
 第二に、被害者の中には年頃の女性が含まれていた点。
 第三に――これは鬼であった彼だから思うのかも知れないが――
    ある死体などは食い荒らされたとしか思えない痕があった。
 カニバリズムと呼ばれる行動は通常精神異常者か、
 所謂宗教的行為であってそれ以外にはまずあり得ない。
 鬼から見れば確かに人間は獲物であるが、食べる為に殺すわけではない。
 狩る本能から、命の炎を見るために殺すのだ。
 その命に主眼があり、死んだ肉体には興味はない。
――薬…か。
 彼はもうすぐ始まる会議の内容について思いを馳せるより他、なかった。

 彼は全てにおいて清算したつもりだった。
 目が覚めると柏木家で介抱されていた。側にいたのは確か、千鶴と楓、そして耕一だった。
 彼らと柏木家の――鬼の血について話し合った。
「自分は柏木家とは何の関係もありません」
 自分の父親である柏木耕平については、彼は父と認めていなかった。
 それが彼にその言葉を言わせるきっかけになったのかもしれない。
「これからどうするつもりだ」
 耕一が聞いた。相手は鬼に操られていたとは言え殺人犯であり、助けたのも彼だった。
 無遠慮で不躾な言葉だが、柳川には逆にありがたかった。今更、彼らの叔父などと言えるはずがない。
 彼は『父親』に恨みがあり、そして耕一も友人を痛めつけられた恨みがある。
「…聞いたことがあるか?」
 年下である――それもまだまだ未熟な――耕一に、睨み付けるような目で見て、逆に疑問型で言った。
「死という物は逃避に過ぎない。人間の生は罪を清算するためだけにある。
罪深い者が最も長生きするんだ」
 そして、最後にこう言った。
「人生というのは、生きる事は最も辛い神が与えた試練なんだ」

 会議はものの数分で終わった。
 会議など名ばかりで、新たに薬物取り締まりを強化するためにその対策本部を作る事の発表がメインだった。
 恐らくは希望者をポストに就けるのが最も有効なのであろうが、通常こういう組織体では、
 辞令と呼ばれる人事発令を待つか、上司が指名するのが普通である。
 そして、余程の事がなければそれに逆らうことができない。
 名簿の中には、柳川の名前もあった。
 長瀬警部は既にそれも承知だったようだ。それを言うと両手を合わせて彼の前で頭を下げた。
「すまん。言ってなかったんだった。あの後すぐ聞いたんだが、別に悪気があった訳じゃなくてだな…」
「いいえ、別に責めているつもりではないですけど。
それに、逆に踏ん切りがつきましたよ」
 彼の言葉はまるでそれを望んでいたかのようだ。長瀬は気がついて目を丸くする。
「…お前まさか」
 彼が何を言おうといているのか気がついて、小さく笑った。
――貴之の事か?まさか、あいつと薬は…関係ない
「いいえ、ただ薬が蔓延しているのなら早急に潰しておきたいんですよ。
殺人の方もありますけどね」
 長瀬はむにゃむにゃと口ごもって顎に手を当てた。
「そうか、それならいいんだが…それだけならな。
ただお前を良く思わない奴が聞いたらと思ってぞっとしたんだ」
「心配性ですね、意外と。ありがとうございます」
 その時思わず彼は礼を言っていた。言ってから自分に少しばかり驚いていた。
 まさかこうして礼を言うことができるとは思ってもいなかったからだ。
 
 

 東京近郊。
 何の変哲もない、町並み。平和と共存した危機があちこちに溢れる街。
 だが、普通は何も考える必要もなく平和を享受できる。
 大きなあくびをして目覚めた男も、ひとしきり平和な惰眠をむさぼっていた。
 男の名は柏木耕一。
  まだ日も高いうちから横になっていたのには、訳がある(言い訳だが)。
 実は昨日、急にコンビニのバイトの時間が真夜中に変更になり、
 朝方まで出ていたので眠くて仕方がなかったのだ。
 時計を見ると、午後三時。午前中たっぷり寝たようだ。
――飯…
 冷蔵庫を開けると、ビールかつまみしか入っていない。
 この男が普段どんな生活をしているのかありありと分かるだろう。
 困った顔をしてそのまま部屋に戻る。
――いいや、後でコンビニでも行こう
 布団の上にごろんと横になって、彼はテレビを見ることにした。
『ニュースの時間です』
 休日のこの時間なら、大した番組はやっていない。下らないワイドショーかニュースぐらいだ。
 気怠い眠気を紛らわせるには調度良いかも知れない。でも眠いものは眠い。

  うとうと……

 彼はこうしている時間が一番幸せだった。が。

  じりりっりりっりりっりりっり

 見事なまでにやかましい電話のせいで、それはかき消されてしまう。
――…なんだよ…

  『次は、今話題になっている…』

 不機嫌そうに頭をかきながら彼は電話口に立った。
『耕一!楓が、楓がっ』
 聞き覚えのある声が騒ぎ立てて、思わず彼は耳を受話器から放してしまう。  
 つい受話器を置いてしまいたくなる衝動に駆られたが、声の主を思い出して我慢する。
 いとこの…それもつい二日ほど前まで泊まっていた叔父の家に住む梓だ。
 気になる名前を連呼している。

  『隆山から中継でお送りします』

「どうした?もう少し落ち着いて話せよ」
 言いながらテレビの音量が大きいことに気がついてリモコンを探す。
『…うん』
 らしくない落ち込んだ声が聞こえてすぐ、リモコンが布団の枕元にあるのが見えた。
 ちょっと遠い。

  『…男は白昼堂々、人通りの多いこの…』

『実は楓が…楓、買い物の途中で』
 耕一は大きく目を見開いて、受話器を握る手に力を込める。
 テレビの画面に被害者の名前が並んでいた。

  『柏木 楓(17)』

 反応のない耕一にキレた梓が受話器に向かって怒鳴っている。
『どうした耕一!聞いてんのか!』
「…悪い…今…たった今それがテレビでに映ってる」
 間の悪い沈黙。
 先にそれを破ったのは梓の方だった。
『…今入院してる。…あ、あのさ…』
 梓は言いにくそうに口ごもって、そして言った。
『又こっちに来てくれないかな…あの…この間みたいなことがあったばかりだけど』

  どき

 何の話だろう?
 一瞬耕一は躊躇したが、どうやらそれが親父の話だと理解して少しばかり苦笑した。
「分かった。どうせまだ…俺の方は休みだから」
 向こうで僅かに安堵した雰囲気が窺える。
『ありがとう…本当に、助かるよ』
 彼女はそれからいくらか細かい事を聞いてきたから、もう遅いので明日出発する事にして彼は電話を切った。
 つい一月半前の事だ。
 柏木賢治――耕一の父親は、死んだ。泥酔して睡眠薬まで投与して車に乗り、
 がけから転がり落ちたためにもう見る影すらなかったという。
 そしてその四十九日の為に、彼は親父の実家へ行ったのだ。
 そこには4人の従姉妹が彼の到着を待っていた。
 初めはそれにすら嫌悪感を持っていた。
 悪いのは彼女達ではないと分かっていても、
 自分の父親は彼女達の元へと走った――自分と母を捨てて――のだと。
 それだけ彼と父との隔たりは大きい物だったと言えるだろう。
 しかし、それ以上に――おそらくは梓は知らないだろうが――
 彼は柏木家の『鬼』について知ることになった。自分の『鬼』を呼び起こすことになった。
 と同時に、彼女達を護る事に、父の代わりになることに対する責任のようなものが生まれていた。
 ほんの僅かな彼の成長だった。
 
 

  がたん  がたん  がたん

 次の日の昼過ぎ。彼は電車の中で揺られていた。僅かな荷物だけを持って、従姉妹の待つ隆山へ。
 隆山は有名な温泉街だが、観光地としての隆山は彼は知らなかった。
 子供の頃に親父に連れられて来た記憶しかなかったからかも知れないが。
 駅についてすぐ、見覚えのある女の子が声をかけてきた。
「耕一ぃ」
 梓だ。
 …ちょっと待て。今日は平日だぞ?
「おい、お前学校はどうした」
 小走りに駆け寄ってきた梓はその言葉に少しむっとする。
「何だよ、耕一が来るからわざわざ学校を休んでやったってのに」
「な、そこまでしなくてもいいだろ?」
 耕一が慌てて言うと、梓は面白そうににっと口元を歪めた。
「へっへーん、う・そ。ばーか、本気にしたのかよ。今日はあたしが病院に行く番なんだ」
 そうそう毎日休むわけに行かない千鶴姉の代わりだ、とか彼女は言いながらにまっと笑った。
「荷物、おいてく?」
 柏木の屋敷に、だ。耕一は首を振った。
「先に病院に行こう。…梓、後で鍵貸せ。自分で行くから」
 すると梓はいつになく神妙な顔つきになって首を振った。
「あんたにあたしの鍵は貸せないよ。あたしの部屋の鍵もついてるし。
慌てなくても一緒に病院にいればいいでしょ?」
 どうせ見舞いに来たのだ。
 そう言う意味だろうか?
「ふん、どうせ信用ないんだな」
 一応、ふてくされてみせる。
「ああ、すけべな耕一の事だ。あたしのいない間になにするか分かったもんじゃない。…」
 と、何か言いたそうにしたが、口をつぐんだ。耕一もそれ以上絡む気になれず、
 ため息だけついて彼女の後を追った。
 駅前でタクシーに乗り、すぐ病院へ向かった。
「…で、どうなんだ、楓ちゃんの様子は」
 無言で首を振った。
「良くない。…耕一が帰ってすぐだったよ、本当に」
 梓は一緒にいなかったせいで事情はよく分からないらしいが、
 買い物の途中で事件に巻き込まれたらしい。
 突発的な通り魔事件。
「駅前まで買い物に来てたんだよ。
そこへ、何かわめきながら次々に通行人をナイフで刺すって事件に…
それで、楓は真後ろから二回刺されて…」
 犯人は取り押さえられても暴れていたという。取り押さえた人間のうち3人は軽傷、
 逮捕に来た警察官も刺されたらしい。今を持って、犯人の動機や目的ははっきりしていない。
 梓はうつむいて両肩を震わせている。耕一は両肩を抱くようにして頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
「しっかりしろよ?元気だけが取り柄の癖に」

  ぼぐ

 息が詰まる。
「…一言多い」
 狭いタクシーの車内だ。彼女の肘が綺麗に脇腹に決まっていた。
 耕一は目を白黒させて彼女の肩から腕を放す。
「…そ、それだけ元気なら…」
 強がって何か言おうとするのだが、いかんせん急所に入っているので声にならない。
 梓はふん、とふてくされた顔で窓の外を見ている。
――か、可愛くねぇ…
 ぷちぷちと怒りが頭の先に来ていたが、痛みと息苦しさの方が先行して何もできなかった。

 病院にはほんの数分でついた。結構大きな病院だ。梓が黙って歩く後ろを、耕一はついていった。
 彼女の病室は個室だった。
  梓が落ち込んでいるのは手に取るように分かった。
 当然だろう。
 この短期間に次々に身内に不幸があれば、通常の精神の持ち主なら耐えられないはずだ。
 軋みすら立てずに扉は開いた。小さなベッドに彼女は横たわっていた。
「!」
 耕一は胸を締め付けるような痛みを覚えて歯を食いしばる。
 楓は眠っている。点滴が繋がれたままベッドに横になっている。
 白い肌がますます病的に白くなり、まるで作り物がそこに横たえられているかのようだ。
「楓…ちゃん」
 鬼の回復力があるんじゃなかったのか?なんでナイフで刺されたぐらいで…
 千鶴さんにやられた時だって…
「楓ちゃん!」
 だが、耕一の声に彼女は反応しない。本当に人形のように横たわっている。
 梓は今にもベッドに駆け寄りそうな耕一の肩をつかんで言う。
「無駄だよ、耕一。…ずーっとこうなんだ」
 入院したとだけしか聞かされていなかった彼は、事実を受け入れることに抵抗を覚えていた。
 まさか、昏睡状態だとは思っていなかった。
「何故?馬鹿な、そんな…意識不明だなんて…」
 梓は楓の隣にある椅子に腰掛けて、耕一にも差し出した。
「気管と肺の一部にまで傷が到達してたって、医者は言ってた。肺の中に出血して、
酸欠に陥ってたんだって」
 耕一は歯ぎしりした。いかに傷の治りが早いといっても脳をやられてしまえば同じ事。
 たとえ鬼といえども完全無欠ではない。
 千鶴の爪を受けた時は千鶴が僅かに爪をそらせた御陰で、内臓には達していなかったのだろう。
 だが、恐らくその傷すら癒える前に、背中からナイフを突き立てられたのだ。
 耕一は言葉をなくして力無く椅子に座った。
「…あたしは許さないから」
 耕一は梓を見つめた。
 彼女は何かを睨むような真剣な眼差しでそう呟いていた。
「犯人がなんて言っても、あたしは許さないから」
 耕一は自分の頭をかきながら呆れたように呟く。
「…どうするつもりだよ。もう刑務所の中にいるんだろ?」
 梓はあうあう、と困った顔をした後、黙り込んでしまう。
 気持ちは分かるが、流石に刑務所まで行って仇を取るなどという前時代的なことはできないだろう。
 だが、もし耕一の前にあの犯人がいたら。
 彼にも、自分を抑制する自信はなかった。
「でもさ」
 梓は先刻よりか幾分落ち着いた目で彼を見た。
「でも精神異常者なんて落ちが付いたら許せないでしょ?」
 耕一は頷いた。
 やり場のない悔しさと怒り。
 もし、その時その場に居合わせたならば。もう数日、帰るのを遅くすれば。
 でももう遅い。
「…警察に知り合い…そうだ、こっちの警察に若干知り合いがいる」
 慌てて言い直す耕一。柳川の件は彼女には伝えていないのだ。
「少し世話になったんで、奴に聞けば」
 梓はジト目で耕一を見る。
「何時そんな悪いことしたんだ?こっちにいる間に痴漢でも働いたのか?」
「馬鹿野郎」
 とはいえ説明するわけにも行かず、耕一は少ない脳味噌をフル回転させる。
「聞いてないか?千鶴さんを殺人の疑いをかけた刑事」
 ぽん、と手を叩いて頷く。
「ああ、あの馬面の?」
「いや、若い方」
 どうやら今度はピンとこないらしい。首を捻っている。
 …そんなに長瀬って、有名なのか?
「…でも、そんな程度で話を聞いてくれるかなぁ」
「可能性が零よりはましだ」
 と言いつつも、実際には聞いてくれると確信している。少なくとも柳川は。

 あまり会話のない空気の中、耕一は楓を見つめていた。
――…どうして俺達は一緒になれないんだ…又…
 そう言う運命なのだろうか。又、エディフェルの方が先に逝ってしまった。
 静かに目を閉じた彼女の顔は、穏やかで安らかだと思った。
――せめて…エルクゥの会話ができれば…
 彼女は意識不明だ。それすら不可能だろう。
 じっと楓を見つめる耕一を時折見ながら、梓は下唇を噛んだ。
「…梓」
 何の言葉もない時間が十分過ぎた頃。
「何」
 耕一は退屈そうな顔をあげた。時計は既に五時を回っている。
「お前、今日は帰るのか?」
「…うん。…夜中、今日は千鶴姉がくる事になっているから」
 耕一が何か答えようとしたとき、部屋の外を歩く足音が聞こえた。二人は入り口の方に顔を向ける。
「千鶴さん?」

  がちゃ

 扉が開き、ややあって灰色のスーツ姿の千鶴が姿を現した。
 耕一は思わず立ち上がって彼女の方を向いた。
「耕一さん。わざわざありがとうございます」
 彼女は先に耕一に挨拶すると、梓の方を向いて帰って食事を摂るよう言う。
「じゃ、耕一と帰るよ」
「梓、少しだけ待って貰えないか?千鶴さんと話がしたい」
 一瞬眉を顰めるが、彼女はすぐ頷く。
「じゃ、タクシー呼んどくよ」
 梓が病室から消えた。耕一は先刻まで座っていた椅子に戻り、千鶴は梓の椅子に座る。
「遠いところをわざわざ往復させたりして」
「まさか、それでなくても楓ちゃんが一大事だってのに」
 千鶴さんが言うのを慌てて遮り、耕一は続ける。
「どうしてこんな事に」
 千鶴は首を振った。
「医者は、奇跡的なぐらい傷の治りが早かったとは言ってました。
でも、間に合わなかったんです。…あの犯人は、事件当時ある薬を使っていたそうです」
 先刻ニュースで見ました、と付け加えながら続ける。
「何でこんな事になってしまったんでしょうか」
 その言葉は犯人への恨みよりも、自分の妹への哀しみの方が大きかった。
 
 病院から出ると、丁度タクシーが滑り込んでくるところだった。
「梓、俺警察に連絡入れてみる事にする」
 タクシーが後部座席のドアを開ける。耕一はそれをくぐりながら梓の方を見る。
 二人とも乗り込むと、自動的にドアが閉まって走り出した。すかさず耕一が、
「柏木家の屋敷…で分かりますか?」
 と言う。運転手は頷いた。
「…無茶はしないでよ。か、楓だって、嫌がるだろうから」
 自分はどうなんだよ。
 耕一は思わずからかいたくなったが、彼女の頭を軽く小突くだけにした。
「似合わねえって言ってんだろ?元気だせって」
 だが、梓は寂しそうな笑みを向けるだけだった。

 時間は少し遡る。
「柳川、事件だ」
 長瀬はいつものように声をかけたが、かけてから気がつく。
 柳川のデスクには誰も座っていない。
――…しまった、そう言えば今は別の部署か…
 照れたように頭をかきながら、今の声で反応した何人かに声をかけた。
「駅前で通り魔らしい。また派手にやってくれたみたいだ」
 長瀬が連絡を受けた時には、既に7人もの人間が重軽傷を負っていた。
 取り押さえられてもまだ騒いでいるらしい。
 長瀬らが現場に到着したときにはもう救急車も駆けつけていた。
「ああ、これは酷い」
 駅前からほんの数百mの距離だが、あちこちに血痕を残し、惨劇の様子を物語っていた。
「警部、こちらです」
 部下の一人が犯人を押さえている現場を見付けて、指さした。
 見ればまだ暴れているのが分かる。
 何人か素人が見えるところを見ると、どうやら抵抗を続けているようだ。
「…眠らせてやれ」
 長瀬はいつものように、何でもないことのように呟いた。
「報道関係者が急行しないうちにとっとと引き上げるぞ」
 現場は隆山の中心街であり、嫌でも人通りの多い場所だ。
 こんな所で無差別殺人と言うのも妙に符牒めいていて嫌らしい。
 思わず直前に起きた事件を思い出して苦笑する。
――一連の殺人事件との…関連なんかないはずだが
 それがとうとう表に向かって飛び出したと言うべきだろうか?
「しっかし、無茶しますよね」
 部下が正直に感想を述べる。
「そうだな。何か意味があったのか…」
「自分はヤク中じゃないかって」
 またか。
 …まてよ、となれば柳川も関われるんじゃないか?
 何故か、長瀬は彼が係わるのをわくわくしている節があった。
「調べればすぐ分かることだ」

 柳川は以前の事件の資料を集めていた。薬がらみと思われる事件の資料はできる限りの量を集めて、
 それなりに足しにしなければならない。
 結局は細かい作業になるが、この積み重ねがあって初めて捜査という物は進展する。
 何の根拠も証拠もなく足で稼ぐ捜査などあり得ない。
――…どうすべきか…
 実際のところ蔓延しているという程酷い状態ではない。
 資料はそれ程の数ではなかった。
 しかし、聞き込みや通称『ガサ入れ』を行う程の集団ではないと言うことなのだが。
 殺人。
 既に防犯的見地から放っておくわけにはいかないだろう。
「柳川警部補」
 一人部下が声をかけてきた。
 この部下は自分の評判を知ってか知らずかはともかく、非常に協力的な部下である。
 名前を矢環という。欠点は妙に真面目なところだろうか。
「何だ」
「これ、どうします?」
 そう言って差し上げたのは、例の事件のファイルだ。昨日の殺人事件に関してと、
 それに関連した事件が事細かく書かれている。
 勿論長瀬警部の差し金で、コピーを渡されたのだ。
「ん、…ああ、まだそいつははっきりしていないから待て。一番最近の資料だから他の課と調整がな」
 特に捜査T課とは。
 敢えて彼は声にしなかった。
「はい」
 矢環は簡単に返事を返す。だが、柳川はすぐに言葉を継いで彼を引き留める。
「そのかわり…若干調べて貰いたい人物がいる。前科があれば資料があるはずだ」
 その人物の名は吉川。
 貴之に薬を流していたバイヤーだ。
 そして、柳川が鬼になった直接の原因。
「ああ、分かりました」
 名前を聞いて彼は納得した。つい最近の事件だけに、彼も覚えているのだろう。

 あれから結局何の進展もなく夜を迎えた。
 その時丁度仕事をある程度片づけて一息ついたところだった。
 麻薬取締対策本部に思わぬ客人が現れた。
「柳川、仕事だぞ」
 嬉しそうな顔の長瀬だ。
 それも、よく分からない書類の束を持って。
「長瀬さん」
 彼はここでも一人だった。以前よりは周りと話す事もあるが、一度評判が悪くなればその回復は難しい。
「ほっ、嬉しそうだな」
 仕事が入ってきたので嫌な顔をしたはずなのだが。無意識に喜んでしまったのだろうか。
「それよりも仕事ってなんです?」
 長瀬はにやりとわらって書類の束を差し出した。
「おや?今の君の仕事は何かね」
 書類に目を通しながら柳川は困った表情を見せる。
「はぁ、麻薬取締対策本部の長ですけど」
 書類には幾つか気になることが書かれている。
 今日付けで殺人の疑いで逮捕された男と、その健康状態等の報告だ。
「…覚醒剤…」
 長瀬は部屋の隅のコーヒーメーカーからコーヒーをついで、ゆっくり傾けている。
「そ、昼頃起きた事件なんだがね?本人は薬は持っていなかったが、血中から反応が出た。
コピーしておいた書類だから、ま、参考程度にね」
 長瀬は気楽に言うが、柳川の表情は変化していた。
「この犯人は今?」
「ああ、留置所に入れている。今日の取り調べはすんだからな…
なんなら、明日の取り調べに参加するか?」
 言われるまでもなかった。
 少しでも手がかりがあれば、そこから麻薬の入手経路を割り出せる。
 そして今、そう言う生きた情報は少ないからだ――薬に関わった人間は、例外なく死んでいたからだ――。
 それは被害者にも言えることだったが。 
 今までに引き起こされた殺人事件の犯人も、既に行方不明の届けが出ていたり、
 犯行当日及び前日以前には既に姿を消している場合がほとんどだった。
 そして、例外なく原型を留めぬ程痛んだ死体となって発見された。
 一応中央の方に同じような事件がなかったかどうか確認を依頼した。
 だが、今現在を含んで、過去にこういった事例は一つとしてなかった。

 次の日、結局署からでたのは、夏だというのにもう十分に日が暮れた頃だった。
――月が綺麗な夜だ
 何の手がかりも得ることができなかった。
 何故か急に何もやる気が起きなくなったように思えた。
 取り調べには参加した。昨日聞いた話では凄まじく凶暴な犯人で、
 取り押さえられても暴れる、仕方なく(長瀬はさらりと言ってのけたそうだが)
 麻酔を打って眠らせた程の男だという話を聞いていたのだが、そんな感じを微塵にも見せなかった。
 唯一気になったことと言えば、犯人の男から鬼の匂いがしたことだ。
 無論大したものではない。それが原因だとは言い難い。

 吉川について、ある程度の情報があった。
 無職住所不定で借金をいくらか持っていたのだが、それが唐突に返済されているのである。
 それも一度に払うにはかなりの額を、である。 
 それが『行方不明』になる丁度半年前。不自然な事に、それ以来一円も借金が途絶えるのである。
 貴之に金まで貸している事を考えると、相当の金が手に入ったのだろう。
 しかもまだまだ『稼げる』金蔓があったとしか考えられない。
 彼はかぶりを振った。
――俺は何をやっているんだ…
 隆山の様な田舎では、こんな夜には人通りは少ない。彼の視界を横切るのは星明かりと家庭の灯だけだ。
――警官をやめるべきだろうか
 何度か考えた。
 確かに『自分』ではなかったかもしれない。
 貴之を殺したのは。
 何度も思い知らされた。死ぬことすら許されぬあの暗い空間で。
 ゆっくりと蝕んでいく自分ではない自分。
 それが再び『自分の手で』孤独を選んだ。
――貴之がいなくなって、俺に生きる理由はあるのだろうか 
 中に『狩猟者』を抱えたままで。

 彼は自分のマンションにつくと、地下の駐車場へ車を入れた。
「…ん?」
 妙にきな臭い気がして、彼は止めた車の周囲を少し調べてみた。
 常に携帯している小型のライトを点けて車の周りを照らす。
 違う。そうじゃない。彼の勘が何かを告げる。
 先刻からぴりぴりと『信号』を感じているのだ。
――狩猟者…か?
 にしては弱々しい信号だ。
  彼は素早く車に乗り、地下駐車場をでた。

 男の数は四人。
 十分な広さがあるとは言い難い路地の中。
「たったこれだけで…足りるとでも思ったのかい?」
 聞いた。
 四人が相対しているのは声からすると少女のようだ。
 薄暗くてよく分からないが、シルエットは確かに女性の物だ。
 男達の方は既に荒い息をしている。
 女性の方が不審に思った。不自然な『奴ら』の態度に、妙な『匂い』を感じたのだ。

  ゆらぁ

 隙のない動きで一人が間合いを詰めてくる。
――く
 慌てて少女は後ろへ飛んだ。相手の動きが非常に無駄のない動きだったから、だけではない。
 粘っこい殺気のような物を感じたのだ。
 と、同時に彼女の姿が月明かりの下にさらけ出される。
 梓だ。
 時刻は19:00を回ろうとしていた。

「…遅いなぁ」
 梓は帰ってきてからすぐ買い物に出かけた。
『いやぁ、つい耕一が来るのを忘れて…』
 耕一の分の夕食がないらしい。ともかく他にも買い足しておく物があるからと出かけたのだが。
「…30分もかからないと思うけど」
 初音は耕一に同意するように言う。
 少し買い物に時間がかかっているのかもしれないし、あれでも鬼だ。心配いらないだろう。
「…初音ちゃん、場所分かるかい?」
 だが、楓の事もある。耕一は立ち上がって梓の後を追った。

「何なんだお前ら」
 喩えるなら餌を求める獣。
 四人は既に普通の人間ではないようだった。
――鬼?
 動きは緩慢だが、言葉を交わしもしないのに的確に動いて梓に近づいてくる。
 一瞬だけ、ここが袋小路でないことを感謝した。
 もし袋小路なら恐怖感の方が恐らく大きくなっていただろうからだ。

 買い物を終えて帰ろうとした時、変な視線がまとわりついているのに気がついた。
――痴漢?じゃ、なさそうだけど
 気配は四人。十分やれる人数だ。
 そう思ったのが間違いだった。
 買い物袋を拾い、ゆっくり後ずさる。
――簡単に片が付くと思ったんだけどなぁ
 覚悟を決めるにも、相手が多すぎる。ここで鬼になる気にはなれなかった。
 逃げられそうにないのを確認してからでも遅くはないだろう。
 下がりながらそう思った。
「ふぅううううううう」
 男のうち一人が唸るような声をあげた。
「うううううぅぐるううぁぁぁぁぁあああああ」
 呼応するようにまた。
 目つきが変わり、瞳に朱がさす。
――来るっ
 梓が身構えた。

 柳川は無理矢理細い路地へと車を入れると、慎重に車から降りた。
――近い
 すぐ近くにいる。
 相手は相当興奮しているようだ。
 獲物を捉えた獣の、『餓え』と『渇き』が途切れ途切れに伝わってくる。
 その時、より強い信号にそれらがかき消された。
――危険が身に迫った時の、戦慄。
 同時に柳川は地面を蹴っていた。
 焦り。
 確かにそんな物を感じていたような気がする。
 もしかして恐怖かも知れない。
 毎晩毎晩繰り返された鬼との闘いに破れた悔しさかも知れない。
 鬼を畏れ、鬼を止める事。
 それが彼を突き動かしていた。
 路地を抜けるとそこには四人の男と、一人の少女がいた。
 先程の強い信号は奥の少女のものだ。柳川は直感的に思った。

  ぐっるぅううううああああ

 大きく呻り声を上げて男達が一斉に振り向く。
 同時に彼は怒りを覚えた。
――ちっ、出来損ないが
 こいつらは鬼ではない。
 『鬼の血』が薄まって、鬼になることすらできない『出来損ない』だ。
 それが何の作用か、通常表にでないはずの『鬼』が表面化しているのだ。

  ぱき

 喩えようのない感覚――乾いた空気が割れたような音が聞こえたような感覚が襲う。
 柳川を中心にして冷気が放たれているようだった。
「俺は警官だ」
 冷ややかな殺気を孕んだ風に混じって、彼の声が響いた。
「暴行、傷害未遂の現行犯だな」

  ぐるるるる…

 勿論返事など期待しない。
 新たな獲物に怯んだのか、低く唸りながら様子を見ている間に柳川は一歩踏み込む。
「刑事さん、早く逃げて」
 向こう側にいる少女は、助けられたにも関わらずとんちんかんな事を言っている。
 見覚えがある様な気がした。
――…確か、柏木の…
 次女か。
 年齢的にはそれ程いっていないようだし。
――余程、こいつらと縁があるのか
「早く!そいつら普通じゃないんだ!」

  ぶうん

 気を取られ過ぎた。
 のっそり動いていた男達が思わぬ速度で間合いを詰めて来た。
 大振りの拳が一瞬眼前に迫る。

  鋭い痛み

 まるで剃刀で切り裂いた痕のような傷が彼の頬に残る。
 滑るような歩調で間合いを開く。

 梓には襲いかかる男の動きに隠れて、柳川がどう動いたのか分からなかった。
 だが、男がまるで首から上だけがまるで別の物のように弾けた。
  あらぬ方向にまで曲がった首が元に戻ると、男は崩れるように膝から倒れる。
  次は、分かった。
  だが見えなかった。
  柳川の顔が向いた方向に、腕が消えて男が首を仰け反らせる。
――危ない
 丁度真後ろに当たる男が飛びかかるように襲いかかる。
 だが、それも身体を沈めて振り向きざまに肘が入る。
 そして、最後の一人にはその体勢のまま、後ろ蹴りを入れた。
 ここまで、まるでスローモーションの映像を見ているように、梓は感じた。

「ふう、危なかったね。大丈夫かい?」
 先程まで修羅の如く闘った男が、今は柔和な笑みを湛えている。
 何より、あの冷たい殺気は。
 蒼いスーツを着た若い男――耕一より年上だろう――は一応胸元から警察手帳を出した。
 月の光の下では、男はまるで周囲の蒼い闇に溶け込むような雰囲気を持っていた。
「あ、ありがとうございます」
 一応礼を言っておくべきだろう。
 かなり危険な匂いを感じていたが、梓は頭をぺこりと下げた。
「君は早く帰りなさい。こいつらは引き受けよう」
 目の前の少女は目を丸くしたりしながら礼を言っていたが、明らかに信用していない目つきで柳川を見つめている。
 が、やがて彼女は背を向けてこの場から離れた。

 梓は、今の刑事の放っていた殺気は『人間ではない』事に気づいていた。
 ただ、見たことのない男だっただけに首を捻っていた。

  たったったった

 足音が大急ぎで駆け寄ってくる。 
「あ、梓無事か」
 ぜいぜい言いながら彼女の前で肩を揺らしながら耕一が言った。
 一瞬驚いたような顔つきをしたが、すぐに腰に手を当ててむっとする。
「遅い。でも、刑事さんに助けられたからね」
 彼は少し眉を寄せてオウム返しに『刑事さん?』と問うた。
「そうだけど」

  ごぅっ

 音もなく風が駆け抜けたように、肌を粟立たせる気配が、戦慄が二人に叩きつけられる。
――これはっ
 耕一は思わず殺気の走った方向へ向かう。梓も何も言わず彼の後について走った。
 先刻まで、自分が囲まれていた場所だ。
「柳川!」
 耕一が路地に飛び出したとき、柳川は3人の男に囲まれていた。
 

 ため息をついて振り返る。
 一人は自分の足下で泡をくって倒れている。

  どん

 視界が大きく揺れて、路地の壁際まで身体が転がる。
 したたかに背中を打ち付けたせいで息が詰まる。
 慌てて腕で体勢を立て直して身構えた。
 油断した。
 柳川は明らかに自分の失策を悔やんでいた。

  ぶぅん

 膝を折る
 暗い場所へ

  ひゅ

 柳川の呼吸音が、甲高く鳴った。
 体勢を立て直したところへ、再び大振りの一撃が襲いかかった。
 それを身体を沈めてかわすと、息吹と共に相手の顎に反撃を加えた。
 大きく仰け反って倒れる男の後ろには、まだ二人の男が立っていた。
 所詮チンピラと鷹をくくっていたのが間違いだった。
 口の中が切れ、歯が折れていた。
「!」
 その時、自分の視界の外側から黒い塊が疾走して来た。
 そして、自分から遠い男が気がつくよりも早く襲いかかった。
 まるで風に飛ばされたように倒れ込んだ。
「柳川、力貸すぜ」
 風は悠然と柳川に顔を向けた。
 風は、男だった。柏木家の、かつて柳川を助けた男。
 彼の目はうっすらと血の色を湛えている。
「…殺すなよ」
 柳川の言葉に、耕一は口を歪めた。
 

  す

 間合いを切ろうとして、柳川の前の男が一歩下がる。
 口元を、大きく歪めた。
 力をぎりぎりまで開放した右手が、まるで空を斬るように柳川と男の間の空間を走る。
 と、まるで鋭い刃物で切り裂いたかのように、男の胸元から鮮血が上がった。
 真空の刃が男を切り裂いたのだ。
 その隙に柳川はさらに踏み込み、男の頭を掴んで後頭部を叩くようにして地面に押さえ込んだ。
 耕一はもう一人を壁に押しつけて締め落としていた。
 以外にも呆気なく闘いは終わった。
「こいつら…鬼か?」
 柳川は首を振った。確かに血の匂いはするが、自分達と同等ではない。
「…」
 一人の懐を探ってみる。
 あった。
 溶解性のある大きめのカプセルが幾つか包装されたまま入っている。
「…こいつのせいだな」
 柳川がそれをつまみ上げると、耕一の顔が硬直した。
『Hysteria heaven』
 ラベルにはそう印刷されていた。

 携帯で近場の警察署に連絡を入れる。柳川がここでしょっ引いても良いのだが、少し時間が欲しい。
「柳川、昨日の通り魔の事件、知ってるか?」
 耕一はついでとばかりに質問する。
「ああ、うちの管轄だからな」
 何故そんなことを聞く。柳川がそう言葉を継ごうとした時、
 耕一の後ろから梓が覗いているのが見えた。
 耕一が柳川に言葉を継ごうとした瞬間。
「耕一」
 梓が無理矢理ぐいっと耕一を後ろに引いて、耳元に口を持っていく。
「後で聞きたいことがいっぱいあるからね」
 言うだけ言うと彼を放して、自分は背を向けた。
「先に帰ってるから」
 怒ったような口調の梓。
 困った顔で柳川に向き直った時、柳川は薄ら笑いを浮かべていた。
「尻に敷かれそうだな」 
「…うるせえ」
 柳川は親指で路地の奥を指さした。
「詳しい話を聞きたいだろう?」
 耕一が頷くのを見て、柳川は言った。
「俺も、二、三頼みがある」
 路地の先には柳川の車が停めてあった。

 車中、短いドライブの間、二人とも何も話さなかった。
 特に話す内容があった訳でもなく、淡々としたドライブを終えて車は小さな喫茶店で止まった。

  きぃいい

 わざと軋むように作りつけた扉が音を立て、薄暗い店内に入る。
 適当に注文して、二人は向かい合って座った。
「ここなら静かで、あまり人もいない」
 そう言えば客が少ない。
「訳ありの話は、全部ここでする事に決めている」
 刑事がこういうとあまりしゃれにならない気もするが、耕一は敢えて言わない事にした。
「なら、まず俺から聞いても良いか」 
 耕一の表情が追いつめられたような真摯な表情である事に、柳川は気がついた。
 彼はその表情を知っている。
「いいだろう」
「…昨日の通り魔事件、あの犯人はどうなるんだ?薬をやってたんだろ?」
「殺人未遂は確かだが、それ以上の容疑はまだだ」
 柳川は耕一の表情の変化を見ながら続ける。
「…ドラッグと覚醒剤の違いは分かるか?…その顔じゃ、分からないようだな」
 精製前の大麻等をドラッグ、覚醒剤は調合され製薬されたもの。
 精製前の薬は、漢方なども含めて使用が制限されている。
 市販される漢方薬がエキスだったりその濃度を制限されるのと同じである。
「習慣性やらは同等でも、それによって若干の罪の差がある、だが重くなることは間違いない」
「死刑には、ならないんだろ」
「日本ではな」
 一時期話題になった死刑廃止の動きもさることながら、
 日本での罪人の扱いがだんだん難しくなりつつあるのだ。
 法的に個人を拘束する事すら難しいのに、簡単に殺せるわけがない。
「感情的になっても無駄だぞ」
 柳川は両手を組んで耕一の顔を見つめた。以前自分を『人殺し』と呼んだ顔が、
 複雑な感情の中で揺れ動いている。
「…分かってる…」
 言葉でそう言ったところで、柳川には手に取るように分かる。
 以前、同じような目にあったからだ。
「折角だからその気持ちを、貸して貰えないか」
 耕一は怪訝そうに柳川を見返した。
「今度は自分の番だ。お前にしかできないことだ。…頼む」
 耕一は目を円くしていたが、やがて頷いた。

 耕一が帰りついたのは八時を回ろうかという時刻だった。
「ただいまー」
 すると、床を踏みならして――いや、駆け足で廊下を走ってくる足音がした。
 彼の帰りを待ちかまえて――いや、待ちわびていた彼女だ。
 梓は形のいい眉を吊り上げて、ただでさえ険のある顔に刺々しい表情を浮かべている。
「遅かったな耕一」
 彼女のその態度を見て、彼は柳川の言葉を思い出した。
『尻に敷かれそうだな』
――全くだ…
 梓は腰に手を当てて耕一を見下ろすように見つめている。
 梓は結構背の高い方だ、と言っても耕一程高くはない。
「飯できてるぞ。さめないうちに食べろよ」
 相変わらず乱暴に言うと、彼女はふんと鼻で笑って耕一に背を向けた。
 居間には食事が用意されていた。
 三人分。
 梓が食べていなかったのはともかく、初音ちゃんも食べていなかったのか?
「どうしたんだよ」
 梓が耕一の真正面に座ると、顎で耕一の席を指した。すわれ、と言いたいのだろう。
 相当頭に来ているのだろうか?
 俺が何をやったんだよぉ。
「いや、初音ちゃんも食べてなかったのか?」
 梓は僅かに怪訝そうな表情をするとまた鼻で笑う。
「そーだよ、耕一が来るのを待ってたんだよ」
「私はお兄ちゃんが折角来てくれたから、一緒に御飯を食べたくて」
 にっこり笑いながら初音ちゃんが言ってくれる。梓とはえらい違いだ。
 食事中、梓が睨んでいるので味わう余裕がなかった。
 何か言いたいんだったら言えばいいじゃねえか。
 耕一の思いもむなしく、食事中あのつり目で睨み続けていた。
「ごちそうさまでした」
 重苦しい食事が終わり、耕一は二人がいそいそと食器を片づけるの見ていた。
――別に…悪いことしてる訳じゃないから、睨まなくてもいいだろうに…
 ある程度片づくと、初音は耕一にお茶を持ってきた。
 耕一がそれを受け取ると、梓が台所から顔を出して言う。
「初音、大事な話があるから…ちょっと席外してくれない?」
 初音はそれに気がついていたのかもう部屋の入り口に立っている。
「うん、いいよ梓お姉ちゃん。私部屋に帰ってるから」
 にっこり笑って消える、最後の望み。
 …って、何も悪いことしてないじゃん!
 梓は片づけを終えると居間に戻ってきた。
 耕一の前に卓を挟んで座ると彼女は不満そうな顔のまま言った。
「…さて、それじゃ教えて貰おうか」

「柳川警部補、まだ完全ではないですけど、昨日頼まれた薬の解析結果です。偶然ですが…」
 矢環だ。
 彼は言いながら書類を柳川に提出する。
 柳川はたった一枚のレポートを見ながらフム、と顎を撫でた。
「以前から追っているEden's Applesに良く似ているんですよ」
 柳川はレポートから顔をあげて矢環の顔を見る。
「似てる?…構造か?」
 彼は首を振って否定する。
「それもですけど、こいつ効果がそっくりなんですよ」
 どうやって仕入れてきたのか分からないが、
 Hysteria Heavenの効果はどうやらEden's Applesと変わらないらしい。
 それも、ベースに使用するものがLSD系の幻覚剤であり、
 過剰服用による意識の低下がない事が特徴だという。
「…お前、試した訳じゃないだろうな」
「まま、まさかっ、何言ってるんですか警部補!」
 思わずかっとなる部下に、柳川はくっくっくと含み笑いをする。
「冗談だ。…だがお手柄だな、つまりは同じ場所から流れている可能性が高いな」
 以前の薬に改良を加えたという可能性である。
 通常レシピは作った人間にしか分からない。だから、それを改良した物も、同一犯の可能性が高い。
「はい。恐らく同じブローカーが同じルートで流してます」
 柳川は目を細めた。
――貴之…
 あの日以来、彼の中の鬼は表に出ようとしない。意志である程度自由は利くが、
 事件のショックだろうか、完全に鬼化する事はまだままならない。
 そのせいで昨夜は少し後れをとった。
 たかが、あんな出来損ないに。
「しかし妙なんです。両方の薬ともあんまり有名な薬じゃないんですよね」
 薬に有名も何もないと思うかも知れないが、たとえば『スピード』と呼ばれる薬は、
 恐らくドラッグパーティでは最も有名だろう。これもカクテルの一種である。
 また重曹にコークを混ぜた安価な『クラック』と呼ばれる薬なんかは
 アメリカでは小学生でも買えるという事で問題になった。
 ちなみに日本で売られているスピードはクラックである可能性が高い。本来スピードは蒸気吸入では使用しない。
 だが、薬の種類というのは何千とある。カクテルまで含めればそれこそ星の数あるのだ。
「オリジナルの調合…じゃないのか?」
「基本的にその線で捜査を進めてますけどね。今までに日本に『持ち込まれた』事はあっても、
 『作られた』事ってありませんでしたよね」
「あ、ああ。俺も輸入したものと思っていたんだが」
 部下は頭を振る。
「それがどうやら国内製品のようなんです。柳川警部補が昨日手に入れたあれが最大の証拠、ですね」
 印刷されたラベルに書かれている文字は全て英語だったが、紙とインクである程度判別したらしい。
「海外ではあまり使われていないものですね」
 通常製造工程でパックする際にラベルを貼る。
 わざわざ輸入してきたノンラベルの包装紙に、日本でラベル貼りをするだろうか?
 それも、わざわざ英語で印刷など。
「…そうだな」
 気のせいか、柳川の目が薄く赤く染まったように見えた。
「矢環、地図を持ってこい。馬鹿、隆山の全図だ」
「はい」

 耕一が頼まれたのは『おとり捜査』だった。警官ではなく、普通の人間よりは安全な男。
 柳川の言った理由は、だがそれだけではない。
「…じゃ、柳川っていう刑事の話はいい」
 柳川については結局詳しいことを言及しなかった。ただ、『鬼の血』を引く事だけは伝えた。
「いつ『鬼』に目覚めたんだ」
 その時の梓の表情が印象的だった。
――まさか、あいつがね…
 柳川が耕一に頼んだもう一つの理由。
『鬼の血を引いた人間が、関わっている可能性がある』
 まだ柳川の勘でしかないが、薬と鬼が大きく関わっている可能性が非常に高い。
 だから、それが分かる人間でなければならない。
 耕一には『薬』も『鬼』にもあまり興味は沸かなかった。
 人助けという義憤だけでは、彼は動く気にはなれない。
 だが、違う。
――楓ちゃんのため
 今更彼女を刺した犯人を責めても、彼女は帰ってこない。
 そんなことは百も承知だ。
 原因になった薬をつきとめても、彼女は帰ってこない。
 分かっていても、動かざるを得なかった。
 祖先である次郎衛門が、エディフェルの愛に応えたように。
 現場には鬼の匂いが残っているのだろうか?耕一にはまだよく分からない。
 確かに普通の人間の中にはいくらか鬼の血を持つ者がいる。何故か、分かる。
「…ふう」
 耕一は自動販売機のジュースを飲みながら大きく息を吐いた。
 昨晩、あれから色々と『尋問』された。
 結局柳川についてはあまり語るつもりになれなかったので、鬼への目覚めについては適当に濁した。
 今の梓には、どちらにせよあまり良い話題ではないだろう。
「…そうか。じゃ、何にも心配いらないんだね」
 梓はそれまで険のある表情を浮かべていたのに、急に安心した表情を見せた。
 時々こいつは勝手な思いこみをする事があるので、敢然とそれを否定してやらねばならないのだが。
 このときばかりはそうも言えなかった。
「よかっ…」

  ぽろ

 両目に涙が溢れる。
 片手で額を押さえるようにして涙を堪えるが、
 らしくないことにそのまましばらく泣き続けるものだから、どうして良いか分からなかった。
 何かこっちが悪い気がして、ものすごくばつが悪く感じたが実際には違った。
「耕一は、いなくなったりしない」
 たしか、涙声でそんなことを言っていたようだ。
 今まで溜まっていたように卓に突っ伏して泣き始めたせいで、
 いまいち何を言っているのか分からなかったが。
 それを聞いて納得した。
 と、同時に、卓を挟んでいて良かったとも思った。
 考えれば自分達の両親、俺の父親を『鬼』の血のせいで失っているんだから
 ――知らなかったとは言え――俺が鬼の血に目覚めるのが心配になるだろう。
 特にこいつとはつき合いが長い。
「泣くなよ。な?何かお前を虐めてるみたいじゃねーかよ」
 いや、その時は多分考えなかったんだろう。
 梓が泣くなんて事態に遭遇したことに動揺していたんだろう。
 何とか泣きやませようとして側に行ってしまったのだ。
「ごーいちーぃ」
 背をさすろうとすると思い切り抱きつかれたものだからたまったものじゃない。
――いや、あれは本当に死ぬかと思った
 梓に『依頼』の事を話した時には流石に難色を示したが、楓の名前を出すと黙り込んでしまった。
 あいつらしくない…いや、梓にも女の子らしいところがあるらしい。
 苦笑しながら缶をゴミ箱に捨てる。乾いた金属の音を立てて、ゴミ箱の中を転がった。

 
  ぴぴ ぴぴ ぴぴ

 携帯の着信音。
 柳川は背広のポケットに入れた携帯を出してアンテナを伸ばす。
「はい柳川です」
『柳川?耕一だ』
 この時間、通常柳川は自分のマンションにいる。今回の部署が楽だという意味ではない。
「…ああ、何だ」
『今日は収穫なしだ…柳川』
 耕一は一息ついて、少し躊躇うように言葉を継ぐ。
『俺は…』
 ふっと電話口で笑う。
 そう言えば、何故『通信』できるのに、使おうとしないのか。
「耕一。何もできない事が当たり前だろう?別にそれは恥じゃない」
――使う訳ないだろう?どっちの心も筒抜けになってしまう
 沈黙。どうやらこちらの言葉を待っているようだ。
「…すまなかったな。明日は楓の病院にいかねばならないんだろう」
『いや、いい。…夜過ぎにでる』
「わかった。気をつけろよ」
 無言。
 ぷつという音と共に電波は途切れた。

 そんな感じで数日間特に対した進展もなく捜査は続いた。
 柳川は完全な薬の成分の解析が終わったのを確認し、隆山中の薬の出所を、地図と足で探していた。
 耕一は二日おきに柳川に言われた付近を回り、何もなかったことだけを報告していた。
 実際にやばそうな店なども回ってみたが、見た目だけだったり、ちょっと従姉妹に話せない店だったりした。
 夏とは言え、もうとっぷりと日が暮れている。今彼は『元殺人犯』が死体になって上がった現場にいた。
 これで三つ目の現場だった。だが、今までは何も残っていなかった。
 しかし、現場を離れようとした時、視線を感じた。
――つけてきている?
 妙な気配がうろつき始めたのだ。

  どくん

 僅かに、意識的に鬼を開放する。もし相手が鬼であれば必ず気がつくはずである。
 気配がはっきり感じ取れるようになる。相手は…
――一人?いや…
 曖昧だ。今までに一度も感じたことのない気配。
 感触。
 もしかすると気配を隠蔽する術、隠形ができるのかもしれない。
 彼は気取られないように路地の方へと歩き始める。
 現場は住宅地から数十分の距離にあり、十分に物静かな場所だ。
 あとは目に付かない場所を選べばよいだけだが。
――もしかすると俺の方が追いつめられているのかも知れないな
 冷たいものが胸を這い上がる。
 何故か、出発前に見た梓の顔を思い出した。
 気配の動きが止まる。
 気づかれたか?
  耕一は慎重に気配を探る。迷っている風ではないが。
 もう少し先にいけば路地の壁を利用して視界を遮ることができる。
 そうすれば、不意をついて闘る事ができる。
 何喰わぬ顔で彼はその角を曲がった。
 距離は200m。
 通常なら、尾行には気づかれないはずの距離だ。相手がプロであろうと。
 耕一は足を止めて相手の出方を窺う。角から顔を出すへまなどしない。
 相手は足音をさせずに近づいてくる。

  ばき めきめき

 耕一は鬼の力を開放した。
 ズボンとシャツが内側から膨れ上がる筋肉により僅かに膨れる。
 再び気配が動くのをやめた。
――まさか?勘づかれた?
 できる限り気配を殺し、壁に身を潜めているのだ。
 その気になれば姿を完全に隠してしまう『擬態』の能力も忘れてはならない狩りの能力だ。
 鬼の力を開放しているとは言え、相手に気配を悟られているはずはない。
  だがやがて気配は離れていった。
 

  ぴぴ ぴぴ ぴぴ

「悪い」
 柳川はまだ署内にいた。
 残業である。
 地図とのにらめっこだけでは余りに調べる規模が大きすぎるために、少しでも仕事をせねばならないのだ。
「いいですよ」
 矢環も当然のように残っていた。
 廊下にでて、彼は携帯の通話ボタンを押した。
「はい」
『柳川、尻尾を出したぞ』
 耕一からだ。
「何?」
『今俺を尾行していた奴をつけている』
 抑揚から、僅かに興奮しているのが分かる。
――『鬼』の力を使っているのか
「今どの辺だ」
『…暗すぎて方向が分からない。が…奴は中心部に向かってる』
「分かった。しばらくしたら又連絡してくれ」
『ああ』

 それから数分後。
 耕一の電話は、轟音と同時にかかってきた。
 慌てて携帯電話を取った柳川の耳に、ほとんど同時にその音が聞こえた。
『柳川、だめだ、警察署に…』

  ずどん

  じりりりりりりりりりりりりりりりりりりりり

 状況を理解するより早く、柳川は音のした方に向かう。
 どうせそこには耕一がいるはずだ。

 署には留置所が併設されている。そこには通常酔っぱらいや取調中の犯罪者がいる。
 もしこれが脱走劇なら派手なものだ。
 どうせ中に拘置されているのは軽犯罪者、長くとも一年もない者ばかりだ。
 逆に酷い年数になって彼らの身に降りかかるだろう。
――何が狙いだ?
 柳川の周囲は先程の警報でもう騒ぎ始めている。
 本当なら彼らの指揮を執るのが仕事なのかも知れない。

  ごぉおおお

 血が音を立てて流れる音が、自分の耳に聞こえる。
 心音が、まるで耳で脈打つように熱くなる。
 『内』から声は聞こえない。
 久々に『血の衝動』を覚えたのに、『人間』である自分の意識が高揚している。
――どうやら、完全に鬼を支配しているようだった。
 影のように署を飛び出して、柳川は音の正体を知った。
 留置所の扉が叩き壊されている。フレームがぐしゃぐしゃになっている。
 それを乗り越えて彼は中に侵入する。砕けたガラスが足下で甲高い音を立てる。
 中は薄暗く、蛍光灯で照らされた廊下が人気のない雰囲気をさらに酷くしている。
――…どういうことだ
 耳が痛くなるほど静かだ。
 応戦する警官がいないのか?
 彼は慎重に奥に歩を進めた。

  こつこつこつ

 いや。
 いる。
 彼はニューナンブを抜くと角からゆっくり顔を出した。
 その通りはまだ犯罪者のいない区画だ。
 昔の牢屋のように常に誰か入っている程、ここは犯罪者に溢れていない。
 後ろ姿が見えた。
「…耕一」
 胸をなで下ろして柳川は身体をさらした。
――クルナ
 右手が電気に痺れたように緊張した。
 耕一の『信号』は、警戒と『敵の気配』を柳川に伝えた。

  どくん

 耕一はゆっくり歩を進める。両手を下げてごく普通に歩いている。
 彼の周囲には、20を下らない数の扉と、奥の扉がある。柳川は銃をゆっくり正面に構える。
 余程うまく隠しているのか、どこに気配があるのかわからない。
 鬼相手に気配を消すなど、尋常ではない。

  きし

 耕一の目が、
 柳川の銃口が、音にした方向を向いた。
――奥の扉。

「うわあああああああ」

  液体が飛び散るような音

「しまったっ」
 二人が駆け出すと同時に、留置所が揺れる。鈍い音が数回響いて、コンクリの砕ける音。
「柳川、もしかして」
 柳川は頷いて耕一の目を一瞬見る。
「ああ、その先には…」
 耕一が肩から扉を破り、柳川は横に滑るように銃を構えたまま奥に入る。
 留置所の壁が壊れている。
 月の光が、差し込んでいる。
 ほっそりとした人影がそこに佇んで、両腕を肩の高さに上げている。
 足下には警官が転がっている。
「まて、やめろ!その先には…」

  ひゅぅぉおおお

 妙な風切り音がした。
 断末魔の叫びが聞こえた。
 だが、それも水が叩きつけられるような音にかき消される。
 耕一が地面を蹴る。
 柳川は滑るように人影に接近する。
 ゆっくり頭を向ける人影。
――…!
 急接近する二人より、さらに速い速度で破れた壁へと移動する。
「何」
 そして、見る間もなく赤い一陣の風になって消える。
「待てっ」
 耕一は続いて地面を蹴って影を追った。
――今のは…
 シルエットは確かに女性の物だった。
 だが、頭に妙な突起が生えていた。
 来栖川重工製のメイドロボだ。
 むっとする臭気に柳川は赤い目を向けた。そこには、もうただの肉塊になったものがあった。
 ついこの間、通り魔殺人を行った男だった。
 耕一は赤い髪のメイドロボ――HM-13セリオ型を捉えていた。
――畜生
 失敗だった。
 もし警察署に行くことが分かっていたなら連絡をしたというのに。
 もう彼の姿は半分鬼の姿をしていた。空高く跳躍し、普通の人間ならば捉えられない速さで疾駆する。
 それでも相手との距離は縮まる気配はない。
 
  ひゅぅぉおおお

 妙な風切り音と同時に、黒い塊が自分に向けて飛んできているのを確認する。
 すぐに低く跳躍する。
 見る間に地面が遠くなると同時に、彼が今までいた場所に金属製の物が弧を描いて突き立った。
――!
 彼が地面に足をつけたとほぼ同時、セリオはこちらに向き直って両腕を差し上げていた。
 彼が認識した瞬間、さらに同じ物が次々に飛んでくるのが分かった。
「があああ」
 半ば咆吼のような叫び声と共に、彼は今度は大きく跳躍する。
 距離は10mない。

  ひゅぅぉおおおお

 背中側から襲いかかってくる殺気。
 彼は無理矢理両腕を振って身体を回した。
 彼の視界を幾つもの黒い刃が被っている。それをできる限り腕で叩き落とす。

  ぞぶ

 それでも幾つかは身体をかすめ、肩と右腕に命中する。

  ざん

 着地と同時に振り向き、セリオに肩から抜いた金属片を投げつける。
 と、同時にもう一度跳躍した。今度は低く、完全に獲物をしとめる高さで。
 一気に伸ばした右手から爪が音もなく伸びる。

  ぎし

 だが、彼の右手の爪は、掌で受け止められてしまう。
 華奢な女性の腕で。
――馬鹿な!
 今の耕一の跳躍には、乗用車並の重さがあったはずだ。
 すぐに間合いを広げ、彼は身構える。停止した視界に人影がはっきり映る。
 彼の突撃を受け止めた彼女の掌は傷一つついていない。
――いや、いくらメイドロボでも…車ではねられて平気なはずないだろ?
 だがそれを片手で、しかも平気な顔をして受け止めたのだ。
「…排除します」
 差し上げた右手の袖が開き、その下にある白い偽物の肌が縦に裂ける。
 いや、割けた。まるで花が開くように。
 そして、その下から凶悪な刃が幾つもせり出してくる。
――先刻の攻撃はこれか…

  ざざざあああああ

 照準を始めたセリオから逃れるため、彼は素早く回り込むように地面を滑る。
 が、まるで何も考えていないように白刃を発射する。
 HM-13には巨大な耳カバーがつけられている。
 HM-12と比較すると、体積ではおよそ倍、長さだけでも約1.5倍近くある代物だ。
 これは衛星からの電波を受ける都合上、面積を広く取らなければならないからである。
 彼女の目は『衛星』を介する事で莫大な情報量を瞬時に得る事ができる。

  ひゅぅぉおおお

 『刃』は必要な情報のみを処理し与えることで、風を切り最小半径1mで旋回するミサイルなのである。
 耕一が聞いた風切音は圧搾空気がフラップに吹き付けられる音である。
  
 的確に自分に向かって綺麗な円弧を描く刃。
 笛が鳴るような音と共に、今度は全て耕一の右脇腹を抉った。
 勢い余って壁に叩きつけられ、大きな血の塊を吐く。
 セリオの背が見える。特徴的なアンテナと、亜麻色の髪が見える。
――ちくしょ…う
 人間の姿ではこれが限界だ。

  ぎりぎりぎり

 彼は脇腹の刃をぐずぐずの脇腹から抜き取りながら、馬鹿にされているような気持ちになって歯ぎしりをする。
 奴は背を向けているのだ。
 無防備に背を向けているのだ!
 奴は俺に背を向けているのだ!
「がああああああああ」
 今度は防げまい。
 振るえば届く距離。それを無理矢理踏み込んで捉える。
 恐らく、当たればそれで片が付いただろう。先程のように受け止めることすらできないはずだ。
 受け止められなければフレームが持つまい。
 そう、当たれば。

  ばし

 今度は強烈な衝撃に全身が硬直する。
 見れば、胸元に何かくっついている。射出型スタンガンだ。
「姑息なぁっ」
 スタンガンを引きちぎってセリオの側頭部を狙って拳を振るう。
 が、今の一瞬の麻痺した時間が命取りだった。
 ほんのわずかに拳がかすっただけで、セリオは耕一に向き直って間合いを離した。
 耕一の拳がコンクリの壁にめり込む。
 セリオが両腕を差し上げる。
――まだのこってるのか?
 耕一は覚悟を決めた。
 このまま殺られる位なら。

  ざわざわ

 髪の毛がまるで生き物のように蠢動し、筋肉が内側から圧力を受けてさらに膨れ上がる。
 目が赤くなり、威圧的な殺気が放射される。見る間に傷が塞がっていく。
 だが。
 セリオは腕を下げた。
「最優先プログラム確認」
 言うなり地面を蹴って走り出した。
 再生を始めたとは言えかなりの深手だ。無理して追う事はできない。
――…くく、収穫があったのか、なかったのか…
 人が近づく前に退散しよう。
 彼は鬼の気を引っこめて、そのまま路地から柏木家に向かうことにした。
 

  ぴぴ ぴぴ ぴぴ

 携帯のベルが鳴った。
「はい柳川です」
『柳川?…耕一だ』
 電波を介しても、彼が衰弱していることが分かる。かすれた声で息をつぐように彼は声を出していた。
『大丈夫か?今どこだ』
 柳川の慌てた声。思わず耕一は笑い声を漏らしていた。
――何慌ててるんだ…
「柏木の屋敷…家だよ家。…なに…若干手こずって…収穫と言えるかどうか分からないがな」
『そうか』
 しばらく沈黙する。
「セリオに…やられた。メイドロボだっけ?来栖川重工の」
『メイドロボ?…やはり、そうか』
「重武装に改造された奴だ。どうやら…関わりはありそうだな」
 耕一は電話口で梓に支えられている。
 右脇腹から幾つか左にまで抜けた刃を含めて7発の刃によって、彼の腹部はぐしゃぐしゃになっていた。
 驚異的な再生力でかろうじて息があるが、失血した分は簡単には補えないようだ。
『ああ。…御苦労さん。本当に大丈夫なんだな』
――馬鹿野郎、気に済んじゃねえよ
 耕一は目眩を起こしそうな頭を振り、必死に元気そうな声を出した。

 留置所はしばらく穴が開いたまま使用することになった。
 書類関係の手続きは相当あるのだが、それは柳川の仕事ではない。
 警察官の負傷者は2名。うち一名はぼろ雑巾のような原型を留めぬ死体になっていた。
「災難だったな」
 偶然残業中だった柳川達がその始末をした。
 まだ書類上の手続きが必要な物もあり、数日はその事務で追われる事になるだろう。
「はい。しかし、もしこれが妨害工作であるならば非常に有効ですね」
 長瀬はむうと唸った。
「…そうだな…うん、確かに」
 署内のビデオカメラは――恐らく妨害電波により――初めからほとんど映っていなかった。
 コンピュータによる解析で、侵入者を特定することができた。が。
「犯人の意図は分かっても、相手を特定するのは難しいな」
「若干、『メイドロボを改造できる』だけの施設を必要としますけど」
「今のご時世、個人でも不可能ではないからな」
 しかも、ご丁寧に最後の手がかりを奴は殺していった。
 今までに起きた殺人事件の犯人はほぼ間違いなくあのメイドロボだろう。
「…暴走の線で固めた方が良くないか?」
 長瀬は眉根を寄せると煙草をくわえる。
「メイドロボにあれだけの腕力を必要とし、武装をすることが考えられますか?」
 長瀬はそれには答えずに煙草の煙を燻らせる。
 柳川も、今の問いに明確に答えて欲しいわけではない。
 犯人の意図が明らかな捜査妨害であり、彼らはある程度の施設を持っている麻薬組織…
 それも、国内で製造販売を行っているのだ。
「そうだな。今回の件も含め、しばらく『捜査中』と言うことにしておこう」
 ようするに、マスコミに流す情報の度合いを言っているのだ。
「早い目に検挙を頼むよ、柳川」
 長瀬が困ったような表情ですがるふりをするのを、柳川は苦笑して応えた。
「できる限りは」

 それから柳川は薬の工場の位置を割り出そうとして、隆山の全図を持ち出していた。
 少なくとも違法な薬品製造であるからにはそれなりの場所を選ぶだろう。
 それに、薬品の合成そのものは実験室規模でできるても、貯蔵や梱包はそうはいかない。
 『純国産』の可能性というだけであるが。
――ふむ
 Eden's ApplesにしてもHysteria Heavenにしても、隆山以外ではまだ検挙されていない。
 とすれば、ここに工場があってもおかしくはない。
 どちらにせよ犯人がメイドロボを改造できるだけの敷地を有していることだけははっきりしている。
 だが、今調べている限りではまだまだ場所が特定できそうにない。
 そうこうしているうちに矢環が一枚地図を持ってきた。
「警部補、見て下さい」
 隆山全図に×印が入っている。入れたのは柳川本人だ。
 さらに、その×に一部青い○を入れている。
「このうち、この○の書いている部分は今使われていないそうです。
使われて、というよりも使えない位設備はいかれているらしいですね」
 そう言うと彼は透明なビニールをさらにその上にかけてみせる。
 ビニールには何カ所かに印を打っている。
「…この地図は」
「ええ、以前に殺人事件が起こりましたよね。薬物がらみと思われるものが」
 報告書の提出後手に入れたデータのことだ。
 あれは事件の概要が似ているだけで、薬がらみだとははっきりしていないので使用を凍結していたのだが。
 矢環は独断であのデータを調べたのだろう。
「その時のデータを、実は昨日徹夜で地図に起こしたんです」
 ガイシャの行動、普段の行動半径等が事細かに記入されている。
 それも、事件当日前後ばかりのデータである。
「…!成る程」
 全部ではないが、事件のほとんどがある程度共通する場所を持っていた。
 面白いことに、分かっている限りの犯人の行動にも共通していた。
 隆山のはずれ、2キロ四方程度の広さ。しかも、そこに一つ赤い×印がある。
「でかした。よし、ここの下調べだ。情報を集めろ!俺は現場付近を見てくる」
「はいっ」
 柳川はジャケットを取って署を飛び出した。
 場所は分かっている。これでも隆山の地理には詳しい方だ。
 それに今回は周辺を見て回るだけだ。車を飛ばしてほんの小一時間で終わる。
 車はだんだん人気のない場所へと進んでいく。
 地図の示していた場所はあまり人気はない。
 昔は簡単な農薬工場だったとされているが、既に内部施設は解体され、
 倉庫として借用されている事になっている。
 借り受けた人物は須藤光政という会社員らしい。
 個人的に借りている事になっている。
――…少し探ってみるか?
 令状もなく、いかに警察官と言え踏み込んだりできない。
 周囲の人間に簡単な質問をするのが関の山である。
 工場の敷地周辺は畑が並ぶ平和な、しかしあまり人がいない場所に建てられている。
 柳川は直接車で踏み込むのをやめ、側の山道に停めることにした。
 少し雲行きが怪しくなってきた。
 急速に重くなる気配に、雨の匂いが混ざり始めた。
――ふむ
 廃工場、というよりもただの倉庫にしか見えない。
 柵もなく、ただ広い土がむき出しになった駐車場があるぐらいだ。
 シャッターは全て閉まっている。
 昼間では、あの壁におまけ程度に張り付いた窓は暗いだけで、何も見えない。
――側までいってみるか
 大きさはおよそ3階建ての屋内プール施設程度。
 背の低いアパートが3つ入らない位の敷地に、周囲の畑。
 彼が歩いている道も轍に石がごろごろしていて、雑草が生えたい放題の道だ。
 普段はトラクターが走っているんじゃないか?と思うほどだ。
 あまり近づいても利益はない。が、道を探すふりをして少し歩いてみる。
 雨が、降り始めた。

  がたん

 妙な音が聞こえた。
 慌てて彼は気配を探ってみる。
 周囲には誰もいない。
――落ち着け
 一度目を閉じ、大きく息を吸う。
 鬼の血が全身を鋭敏に変える。鳩尾から放射状に膨らむ感触と同時に、一気に意識がクリアになる。
 今まで見ていた世界。
 それが、急にストップモーションになりきめ細かいものへと変わる。
 雨粒ですら、まるで止まって見える。
「…や…ぁ」
 今度は人の声だ。
 そして彼は心の底から震えた。
――この感触はっ
 かつて感じた嫌な記憶。
 ぱっと一度大きく赤く燃え上がる焔、そして消える様はまさに華。
 今、誰かがここで殺された。

 倉庫の入り口は以外に簡単に見つかった。裏側の見えない場所の扉が開いてた。
 柳川は懐の銃を確認しながら走る。
 入り口から気配を覗くが、先刻の物音以来、何の音も聞こえない。
 銃を構えゆっくり彼は中に入った。
 倉庫の中は水銀灯の明かりで照らされている。金属むき出しの骨組みや何の飾りもない、まるで…
――何かの劇の舞台のようだ
 閉められたシャッターのせいでできあがった閉鎖空間。
 一階には何も見あたらない。
 隔壁すらない素通りの空間に、申し訳程度に作った小さな事務室と屋根、つまり二階があるだけだ。

  じじじじ

 何か、古い蛍光灯が立てる音のようなものが聞こえる。
 他、物音はしない。
 ゆっくり階段に足を踏み入れる。できる限り足音を忍ばせながら、意識を上の階に向ける。
 頭を巡らせながら階段を上がる。昼間だというのに、窓からはぼんやりした明かりだけが漏れている。
 冷や汗が滲む。初めて事件の現場に踏み込んだ時の事を――巡査時代に関わった事件の事を思い出した。
 今思えば、あの時助かったのは、あの時の手柄は鬼の力の御陰だったのかも知れない。
 鋭敏な聴覚と嗅覚と、そして触覚。自覚した今では空気の流れすら見分ける事だってできる。

  ざっ…

 二階の入り口に立った。扉はない。

  ぎし

 彼は銃を音のした方へ向ける。
 そこは壁だ。
 ゆっくり壁に身体を当て、壁の向こうを探るように身体を動かす。
 壁の切れ目から、ゆっくり顔を横にして向こう側を窺う。
 机。ディスプレイ。コンピュータ。デスク。
 …そして、血。
 意を決して躍り込んだ。
「う」
 今まで気がつかなかったのが不思議なぐらい、血に溢れていた。
 そこは事務室のような作りで、4つの事務机を向かい合わせにしてコンピュータを並べている。
 こちら側から見えなかったが、机の下や向こう側のディスプレイやらには大量の血痕が残っているだろう。
 奥に一つ、右手に二つの死体が転がっている。
――…?
 いや、手前の死体は死体ではない。一瞬見間違ったが、人間ではなくメイドロボのようだ。
 メイドロボの内部を潤滑しているオイルが赤いせいだろう。
 あまりに精巧にできているせいだろう。こうして無表情に横たわっていると人間の死体にしか見えない。
 念のために銃を構えたまま、彼は奥の死体を見ようと左手の方を回る。
――酷いな
 もう判別がつかない位に引き裂かれていた。頭は砕け、胸が大きく抉られている。
――…人間業じゃないな
 彼はメイドロボの方を向いた。

  赤

 咄嗟に身体を翻す。

  ずどむ

 嫌な音を立てて壁がへこんだのが分かった。
 両足に力を込め、右手の壁に向かって自分の身体を蹴る。

  フレームから肌がそげ落ち、配線と人工筋肉が金属質に輝く肉体

 宙に浮いた柳川は、凄まじい光景を見ていた。

  血にまみれた腕に、美少女の欠片も残さない顔――だった部分

 ほんの僅かな時間だったが、時間感覚は間延びして感じられた。
 血飛沫の跡が痛々しいオフィスに立つ死神、いや、ゾンビさながらにHM-13は両腕を差し上げる。

  がしゃん

 金属同士がかみ合い、叩きつける音。
 彼女の姿は大きく変わっていた。
 パルスモータがまるで引きつけを起こすように何度も何度もロッドを前後させる。

  じゃぁああああ

 白煙が上がる。
 柳川は壁に両足がついた。
 HM-13が急に、がたがたのフレームを酷使して動き始めた。
 その動きはもう人間のように滑らかな物ではなく、まるで獲物を探す昆虫のようにぎこちない。
 柳川は壁を蹴って再び跳躍する。
 机を挟んで大きく間合いを離した彼は、ゆっくり身構えて奴の動きを見守る。
 むき出しのフレームを軋ませて、確実に近づいてくる。
 獲物を捉えようとするその動きももうがたついているが、目は柳川を捉えている。
――往生しろ
 次の瞬間、柳川の目が赤く染まった。
 CCDカメラから柳川の姿が消える。
 一息で懐に入った柳川に気がついたのは、大きくノイズが走って停止する瞬間だった。
「噴っ」
 HM-13の胸に当たる部分に拳を突き込んだ。

  がしゃん

 呆気のない、ガラスが砕けるような音がした。
 と同時に、もう一度白煙が上がり、床に白い霜が降りる。

  ぱきぱきぱき

 柳川が腕を抜くと、乾いた塗料が剥がれるようにして配線やワイヤが解れて落ちた。
 フレームは人間が膝から崩れ落ちるように、ゆっくりその場に倒れた。
 ざあっというノイズのような雨音が聞こえる。
――これは…本格的に降り始めたな

 殺人事件はある程度片が付いた。
 柳川は直接関わっていた訳ではないので内部事情やらはよく分からなかったが、
 一連の猟奇的な殺人事件はメイドロボの『違法改造』による暴走、という形で締めくくられた。
 工場にはメイドロボを改造できるだけの施設が用意されていたからだ。
 だが、その目的に関しては『捜査上の理由』により伏せられることになった。
 押収された証拠品の中には『Hysteria Heaven』に関する書類があった。
 あの工場は販売前の――そして、それ以後の処置を行うために用意された物だったようだ。
 そして、――そう、非常に不思議なことに――須藤容疑者の死体は、獣が食い荒らしたような痕が残っていた。
 まだ幾つもの疑問点が残っている。
――まだ事件は解決していない
 Hysteria Heavenの製造元を探さなければ解決はない。
 だが恐らく、隆山で地道な捜査を続けなければならないだろう。
 所詮公務員、県警に所属する限りそれは定められたものだ。
――…貴之…俺はどうするべきなんだ…

 次回予告
  平和だったはずの日常をうち崩す凶悪な事件。
  「あ…あれ?マルチ?」
  機能停止したはずのマルチを街で見かける。
  そして、事件はゆっくりその姿を現す。

  Cryptic Writings Chapter 2:Perfect crime

   結局君に頼るしかないのだ。…心してくれ


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