揺らぎ ― The thaw ―



 亡霊、幽霊、お化け、様々な言葉を並べても、それとは比較にならない程圧倒的な事実。
 真実?いや、違う。
 鉄と油の臭いが染みついた現実。
 それは大きな存在感をもって姿を現し、厳かな仮面舞踏会を舞う。
 死を――もたらすために。

「Perfect」
 賛辞の言葉がかけられる。
 彼女の前には一人の男がいる。
 いや、男であった者が転がっている。
 冷たく無機質なモノに変わろうとしている。
 まだ生暖かい、オトコデアッタモノ。
「さすがだ…これでクロウディアにも面目が立つ」
 それは決して喜びでも安心でもない。
 ただ淡々と、自分の作業の続行を示すだけの言葉。
 その証拠に賛辞を与えた『だけ』の口元は歪み、嘲りを浮かべている。
 サイス=マスター。
 確か彼はそう自分のことを名乗った。
 自分の事を、Phantomと。
 さしずめ、彼は多くの亡霊を従える死神、のつもりなのだろう。
「マスター」
 彼女の言葉に、彼は――それは果たして、人間に与えるべき視線ではないが――笑みを浮かべて応える。
「ああ、今日から君はアインだ、おめでとう」
 そうして彼女は最初の殺人と共に、自らの名前を手に入れた。


 自分の記憶ほど、不確かなものはない。
 一年以上も昔は存在しない。
 鏡を見てみる。
 服を脱いでも、着ても、そしてどれだけ着飾っても、自分で自分を見つめる冷たい眼差し。
――アナタハ ダレ?
 疑問が口をついても言葉にならず、闇の中へと消えていく。
 言葉は、覚えた。
 どうやら自分の顔を――これは忘れていないらしい――していると気づき、それが鏡であると知っても。
 鏡の向こう側には、自分はいない。
 どうしても今冷たい瞳を輝かせているのが自分とは思えない。
 そうなのかも知れない。
 そうでないのかも知れない。
 もう細かい事を考えるのを――止めたくなる。

  ひっく ひっく

 それが自分の泣き声だと判るまで、自分が泣いている事に気づくまで少しの時間を要した。
 いつの間にか肌寒い部屋の中で、真っ裸で泣き疲れていた。
 真っ赤な鮮血の、鮮やかな薫り。
 自分が握りしめていた、黒い――クリスリーブの刃。
 物言わぬ屍。
 理性を越える本能の叫び。
 何故あんなにも簡単に人は死ぬのだろう。
 そう思いつつも、彼女の身体は刻みつけられた技術を完全にトレースする。
 今日の殺しもそんな簡単な一つの出来事。
――私は誰?
 そんな簡単な問いにも答えられない。
 ただ暗闇で声が響くのを、耳で受け取るのが精一杯。
 寂しくて悲しい、何もないこの空間に、彼女はもう一度眠ることにした。
 そうでなければ、又明日から生きる事はできない。

 Phantom of inferno。
 インフェルノのファントムと言えば腕っこきの暗殺者。
 地獄に住み着いた、死神の使い――亡霊。
「まさか…」
 次の瞬間、驚きの顔を浮かべたまま犠牲者は自分の血の海に沈んだ。
「任務完了」
 彼の死体が床に倒れる前に、彼女は既に扉をくぐっていた。
 子供にしか見えない、完璧な暗殺者。
 いつの間にか彼女の中では、現実が現実味を失っていた。
 アインと、ファントムと呼ばれる事が判らなくなっていた。
 ただあるのは――機械のように精密に、命令に従うこと。
 命令に従うだけの、機械。
 そこに理由も意志も必要なはずはない。
 主の命令はただ一つ。
 目標を捕捉消去すること。
 そのための技術はある。
 そのための武器もある。
 他に何が必要なのだ?
「私はPhantom」
 姿なき幻影。
 番号で呼ばれ、番号に従う忠実な下僕。
 醒めない悪夢に精神が疲弊し、すり切れないように凍結する。
 自分は亡霊だと。
 自分を動かすのは自分の意志ではなく、命令であると。

「――故に、常に最強でなければならない」


 その仕事が彼女に変化を与えるなどとは思っていなかった。
 いつものように単純に、ただ人の命を奪うだけ。
 それだけ、のはずだった。

「さあ、今度の素材は男だ」

 一度銃を向けた相手が自分の側にいる。
 今までにはなかったことだ。

 インフェルノは一人の暗殺者を手に入れた。

 0よりも、1は大きく違う。

 この働きによりインフェルノはさらに大きく発展することが約束されている。

 1よりも、2。

 その差はたったの1といっても、2と3、それ以降とは大きく意味が異なってくる。
 …一人ではないのだ。

「ツヴァイだ」
――私は何をしているのだろう
 彼女の前で眠る男を見下ろしたまま、彼女は違和感のある自分の意志に、少しだけ問うた。
 この少年は誰なのだろう、と。
 殺せなかったこの少年は、一体どうなるのだろう、と。
――決まっているわ、彼は私
 そう、一年前の私。
 やがて麻酔が切れて目覚め――彼女の意志とは関係なく事象は紡がれていく。


 願わくばそれが――



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